8月13日の説教要旨 「『神の国』の喜び」 牧師 平賀真理子

イザヤ書45:20-25 ルカ福音書13:10-21

*はじめに
今日の新約聖書箇所は3つの段落から成っていますが、特に、一つ目の段落の内容は、単なる奇跡物語だけではないことをお伝えしたいと思います。一つの癒しの出来事を通して、イエス様が示してくださる「神の国」と、「人間」の造る世界の違いが浮き彫りになっています。後者の「人間」とは、イエス様の「反対者」(17節)であり、イエス様が「偽善者たち」(15節)と呼んだ人々で、神様を知っていると言いながら、実は、自分の罪深さにより、神様に背いている者達です。
*安息日とは?
「安息日」とは、ユダヤ教を信じる人々が、安息するように教えられていた、一週間の内の七日目のことです。「安息する」とは、単にだらだらと休むことが目的でなく、神様を賛美することを第一とするために、他に気を取られることを避けるということです。ユダヤ教の中で大事にされる律法の根幹をなすものとして「十戒」という教えがあります。
旧約聖書の中で、2箇所=出エジプト記20章・申命記5章にその教えは書かれています。そこからわかるのですが、週の7日目に安息するのには2つの理由があります。一つは神様の天地創造の御業を賛美するためです。もう一つの理由は、神様が人間を罪から救うためにまず選んだイスラエル民族が大変な苦しみに遭っている時に、神様が様々な働きかけをしてくださって、この民族を苦境から救い出してくださった歴史を思い起こして、神様の救いの御業を賛美するためです。
従って、週の七日目の土曜日にユダヤ教徒は礼拝を献げるのですが、この日には仕事をしてはならないという解釈を指導者側が勝手に作り、「癒し」は、医療行為という「仕事」の一つなのだから、イエス様が安息日に癒しをなさったことに対して、ユダヤ教の指導者達は自分達が大事にしている教えに背いたとして目くじらを立てたのです。
*病の霊に取り憑かれた婦人をすぐに癒された主
18年間も病の霊に取り憑かれていたのに、ユダヤ教指導者達からは存在しないかのように待遇されていた女性に対し、イエス様は出会ってすぐに癒しの手を差し伸べ、「アブラハムの娘」と呼んでくださいました。「アブラハム」とはユダヤ教徒にとって、唯一の神様を信仰し始めた「信仰の祖」として敬愛されている人物です。イエス様はその子孫でもある、この女性=神が選んだ民族の一員である人間が病の霊に取り憑かれていたことに大きな憐れみを禁じえなかったのでしょう。なぜなら、イエス様はこの世に「神の国」を実現するために来られたのですから。イスラエルの民が病の霊に取り憑かれるとは、この世で悪の霊が力を振るう状況を許すことであり、イエス様は神の御子・救い主として、悪の支配を打破する必要がありました。救いを求める人間に目を留め、すぐに働きかけてくださることができる、これが聖書で言われる「神様」の性質の一つです。
*人々を不自由へと束縛する指導者達と、人々を悪から解放して自由にする主
ユダヤ教指導者達は、安息日には仕事を禁じるなら、家畜に水を飲ませる仕事も禁止すべきでした。でも、実際は許されていました。なのに、人々には「安息日」だから、癒しを受けたい場合は別の日にすべきだという指導は、人間を愛して「救いたい」と切望されている神様の御心とは全くかけ離れたもので、人々を不自由にし、悪霊の頭サタンの方へ縛って行っているのです。一方、イエス様がこの婦人に行った癒しは、神の力によって、病の霊から女性を解放し、神様を賛美する方へ導きました。結局、イエス様のお話と御業によって、反対派は皆恥じ入ることとなり、群衆は神様のすばらしい行いを喜ぶこととなったのです。
*「神の国」の喜び
神様の偉大さを益々喜ぶ群衆に対し、イエス様は喜びが大きくなり、「神の国」について、群衆にもっと教えたくなられたようです。神様と人間の本来の関係、互いの交流によって喜びなどの良いもので益々満たされる様子が読み取れます。
そして、「神の国」が広がる様子が2つ目と3つ目の段落の2つの例えに示されています。一つ目は「からし」についてで、とても小さい種が2~3メートル程に成長し、その枝に様々な鳥が巣を作る様子は、福音が世界中に広がり、多くの人々がそこに宿るようになるとの預言であって、実際、2000年の時をかけて、その預言は実現しています。もう一つ、パン種がパン全体に膨らむ例えは、人の心の中に植えられた福音が、その人の心を満たすようになることの例えです。「神の国」は人間を自由にし、神の民は内外で豊かに成長・発展できるのです。

8月6日の説教要旨 「悔い改めを待たれる主」 牧師 平賀真理子

詩編32:1-7 ルカ福音書13:1-9

*はじめに
イエス様が群衆に語っておられる時に、何人かの人々が来て報告したというところから、今日の箇所は始まります。

*「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という報告の意味
ピラトは、ローマ帝国からイスラエルに派遣された総督であり、その支配により、イスラエル人々は苦しめられました。圧政が行われ、その支配に反対する人々は否応なく殺されてしまうこともありました。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ことについて、
ここで理解すべきことは、このガリラヤ人達がピラトによって殺されたことです。ローマ皇帝の権力を笠に着て、ガリラヤ人達を不当に殺した、しかも、その場所がユダヤ教を信奉する彼らが大事にする神殿の庭だったと推測できます。ユダヤ教が異邦人(ローマ人)から冒瀆されたわけです。

*「罪深い人間がひどい目に遭う」と考える者
報告者達は、殺されたガリラヤ人達が特に罪深い人々だったから、その罪の重さのために殺されたと思い込んでいるようでした。これは、ユダヤ教の中でも、特にファリサイ派の人々に特徴的な考えでした。彼らは、神様の御心に適うことを願い、それ故に、神様からいただいた「律法」と呼ばれた掟を守ることを何よりも大事にしました。だから、それを守れない人々を罪深いと見なして裁き、除け者にすることに熱心になりました。これは本末転倒、つまり、人間を救いたいと愛してくださる神様の御心から離れているとイエス様は教えてくださっています。

*神様の目から見れば、どの人間も同じように罪深い
イエス様にとって一番大事なことは、人々が互いに罪深いとなじり合うような、それこそ「罪深い状態」から救い出されることです。神様の目から見れば、どの人間も同じように罪深いので、人間同士で罪の軽重を争っても意味がありません。自分が神様の御心からどれ程離れているかを自覚し、神の御前で正しくなれるように祈り求めなければなりません。

*「あなたがたも、悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(3節・5節)
一つの出来事を見て、当事者が悪いからだ!私は律法を守っているから、そんな目に遭うはずがない!ひどい目に遭った人が悪いのだ!同情する余地はない!と考えることは、神の国の民として適切ではなくて、自分にも同じように罪深くないのか、神様の御心に適った生き方をしているのかを悔い改めなければならないとイエス様はおっしゃっているのです。

*「悔い改める」とは?
「悔い改める」とは、自己中心の生き方を止めて、神様(の御心)中心の生き方に方向転換することです。「悔い改め」で気をつけることは、自分の悪い所やダメな所をただ反省するだけで終わってはならないということです。神様が現状の自分をどのように見ておられるかに思いを馳せ、御心どおりにできない自分をすべて、救い主の救いに委ね、その後は、(イエス様の救いを信じているならば)神様の御心に従えるはずだと確信しつつ、行動していくこと・生きていくことを祈り求めたいものです。ただただ、「私はダメな人間です~。」だけで終わるのは、信仰者として中途半端であることを肝に銘じたいと思います。

*「恐ろしさ」さえも用いて、人間の悔い改めを待たれる主
今日の箇所よりも前の12章の後半から、イエス様は弟子に向かっても、群衆に向かっても「恐ろしさ」を盾に人間に迫っているように感じます。これは、イエス様が「神の裁き」について大変な緊張感をもっておられたことを示しています。厳しい「神の裁き」に耐え得るため、信仰幼き人々に「悔い改め」が必要だと伝えようとなさったのです。一人でも多くの人間が、御自分の救いの御業の恵みの素晴らしさを理解できることを切実に願っておられたのでしょう。

*「実のならないいちじくの木」の例え(6節-9節)に示される主の御心
「ある人」とは「父なる神様」の例え、「園丁」とは「イエス様」の例え、「いちじくの木」は「イスラエル民族」の例えです。信仰の実を付けないイスラエル民族を滅そうとなさる「父なる神様」に対し、イエス様は、彼らが信仰の実を結ぶために様々な方法を試そうと時間をいただいたのです。(しかし、最後には「神様の裁き」が必ずあることを忘れてはなりません(9節)。)この猶予期間の内に、イスラエル民族ではなく、異邦人である私達が救いの恵みを受けました。全人類に対する、新たな救いを神様は考えて実現してくださったのです!人類を愛し、その救いのために働いてくださる父なる神様と御子イエス様に深く感謝しましょう!

 

7月30日の説教要旨 「時を見分け、救いを受ける」 牧師 平賀真理子

ヨナ2111 ルカ福音書125459

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様が群衆に向けた教えとして、ルカ福音書は記しています。12章1節から53節まで、イエス様の教えは、主(おも)に弟子達へ向けられています。イエス様は、御自分の救い主としての使命=「十字架と復活」だけでなく、この世を去った後に、再びこの世に来ること=「再臨」も前もってわかっておられました。だから、御自分を救い主として受け入れ、すべてを捨てて従っている弟子達に「目を覚ましている僕」の例え話をなさったのです。御自分の死後、弟子達が意気消沈せず、緊張感をもって主の再臨の希望を持ちつつ、この世での福音伝道という大事な使命を果たすようになるためです。イエス様の弟子として、それは、本来喜ばしいことです。しかし、この世の現実を鑑みるならば、イエス様を受け入れる者と受け入れない者とは、決定的な分裂が起こるとわかっておられ、それに備えて、彼らの心の準備をさせようとなさり、「分裂をもたらす」例え話をなさいました。

*群衆に対して

さて、群衆はどうでしょうか。彼らもイエス様の噂を聞き、そのお話を聞いてみたい!とか、癒しを受けたい!と思って集まったのでしょう。そして、イエス様が近くに来られたので、一時の間、近寄ったと言えるでしょう。一時的に、イエス様が救い主かもしれない、そのように信じてみたいと思っていたでしょう。信仰上、先に歩む弟子達のように、全てを捨てて従うかは、この後の問題です。群衆とは、言わば、弟子候補の人々です。彼らに向かい、イエス様は教えを授けてくださいました。

*群衆の「自然現象を通し、近い将来を予測できる能力」を信じて

群衆一人一人が、自然現象を見て、近い将来に起こる出来事を予測し、生活に生かしている現実を引き合いに出して、そのような能力があるなら、神様にとって一番大事な「人間の救い」について、今(イエス様がこの世に生きておられた2000年程前)、素晴らしいことが起こっていると理解する能力もあるはずだと教えたのです。当時、そこに生きていたイスラエルの人々は、ずっと昔から預言されて待っていた「救い主」がこの世に来て、我々の所を回っている!「救い主」との出会いがたくさんある!ということが理解できるはずだとイエス様はおっしゃっていたのです。(56節の「今の時」とは、救い主がこの世に到来したという、素晴らしい時という意味です。)イエス様のお話や癒しの御業が、神様の御力を示していて、それが本当に素晴らしいと群衆が賛美したことは、福音書に数多く書かれています。「神様の御力をいただけるのは、罪ある人間にはできない(参照:ヨハネ9:31、ヤコブ5:16b)」と群衆はわかっていました。それは「神の御子・救い主」にしかできないというのが人々の認識でした。つまり、イエス様のお話や御業により、イエス様こそ救い主だとわかる能力を、群衆が一人一人が確かに持っていることを、イエス様は指摘なさったのです。彼らが、この世で救い主との出会いがある「今の時」の素晴らしさを理解し、御自分を救い主として受け入れてほしいと切実に願われたのです。そして、その大いなる恵みを、ほんの一時なものにとどまらせず、弟子達のように、人生の中で少しでも多く受けて欲しいと願われたのでしょう。

*「何が正しいかを自分で判断しなさい」

今日の箇所の2つ目の段落で、まず、57節で、イエス様は、何が正しいかを自分で判断することを群衆に勧めておられます。2000年も前の人間一人一人の判断力をイエス様は信頼しておられたのです!また、この後、群衆は自分の判断を捨て、当時の権威者達であるファリサイ派の人々や律法学者達の扇動に従ってしまい、イエス様を十字架につける働きに加担するようになることを、主は見抜いておられたのでしょう。そうなっては、神様の方から授けられた「救い」を受けずに愚かにも捨て去ることになるのです。だから、そうならないように、根本的な解決法、つまり、人々が「神様からの救い」を自分で理解し、イエス様を救い主と信じると自分で判断して行動することを指導してくださったのです。

*神様が授ける「救い」を受けてほしいという主の憐れみ

今日の箇所の58節―59節の話は、神様からの救いの御業を受け入れることを拒む人間の例えです。神様の求める「完全なる正義と愛」に従って生きられる人間は一人もいません。人間は罪深いのです。その罪が、主の十字架で贖われたと信じる者だけが、自分の罪を埋め合わせていただき、神様と和解できます。神様の裁きを受けて人間が滅びないように、主は憐れんでくださっていたのです。

7月23日の説教要旨 「この世からの分離」 牧師 平賀真理子

ミカ書717 ルカ福音書124953

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、12章1節から始まる、弟子達への一連の教えの結びとなります。(次の段落からは群衆に語り掛けられています。)弟子達は、イエス様亡き後、主の再臨の希望を持ちつつ、福音伝道の務めを果たす使命が与えられることをイエス様はご存知でした。それは、長い目で見れば、もちろん、希望に満ちたものです。しかし、人間的な短い期間で見るならば、希望だけでなく、試練も多い道となることも主は見通されていたことでしょう。

*受けねばならない洗礼=「主の十字架」

弟子達の苦難の道は、先だって歩む主イエス御自身の道と同じように厳しい道でした。「受けねばならない洗礼」(50節)とは「主の十字架」のことです。「十字架の苦難と死」は人々が本来個別に受けるべき「神様の裁き」を、救い主であるイエス様が肩代わりしてくださったものでした。

*「神様の裁き」によって滅びを免れる者と滅びてしまう者

「神様の裁き」は大変激しいもので、ここでは「火を投ずる」と例えられています。「主の十字架」を自分の罪の贖いと受け入れた者が、神様の御心に適う人です。この人々は神様の裁きが来ても、滅ぼされることを免れます。一方、それを受け入れない者は、神様の御心に適っていないので、神様の裁きによって、完全に滅ぼされてしまうのです。

*「平和ではなく、分裂をもたらす」という御言葉の裏にあるもの

罪深い人間に対する「神様の裁き」を逃れさせるべく、イエス様は、十字架にかかる定めを、苦渋の末に受け入れました。それはフィリピ書2章8節にあるような「死に至るまで従順」な姿を父なる神様に示すことでした。それは、救い主として、神様に対する絶対的信頼を天地すべてに示すことでした。であれば、救い主として、本当の平和を人々に与えていると言えるはずです。つまり、十字架による「罪の贖い」のゆえに、罪深い人間が罪赦されて神様に繋がることができて、互いに良いもので満たされ、良い関係性を築けるようになるはずです。けれども、51節以降でイエス様は、御自分がこの世に来たのは、平和ではなく、分裂をもたらすためだとおっしゃって、その状態を説明なさいました。これは、弟子達をはじめとした、人間の「物の見方」に合わせた御言葉だと思われます。「人間の物の見方」は表面的で、一時的なものです。イエス様の十字架が、自分の罪の贖いだと受け入れることは、人間の物の見方だけでは大変難しく、そこに神の霊の助けが必要でしょう。そして、このことを受け入れられる人々と受け入れられない人々との間では、最初のうちは特に激しく分裂が起こるのは必然だと思われます。

*なぜ、「主の平和」が最初から受け入れられないのか

なぜ、「救い主の平和」が最初からこの世に受け入れられないのかという疑問が生まれます。それは、「この世の人々」が、神様を仰ぎ見て生きることをしないようになってしまっているからです。それが、今日の旧約聖書の箇所ミカ書7章1節から7節までにも描かれています。主の慈しみに生きようとする、正しい者が絶えてしまい、そうすると、神様と人間の関係だけでなく、人間と人間の関係も正しくなくなり、最も親しい家族内でも信頼できないような状態になると記されています。人間が神様を仰ぎ見なくなると、ただただ自己中心に走り、その自己中心の者同士が自分のためだけに生きるようになり、本来は神様がそばに置いてくださった家族さえも「他人」、つまり、利害が衝突する者としてしか映らなくなるのでしょう。

*主は、信仰者を「この世から分離」して、「神の国」に招き入れる

そのような「この世の人間の生き方」に対して、それでは最終的に、または、根本的に自分は立ち行かないと危機感を覚えた人が、神様から与えられる「信仰」を真剣に受け止められるのだと考えられます。「信仰者の生き方」は一般的な「この世の人間の生き方」とは全く違ったものになります。信仰者は神様が「自己犠牲の愛」(十字架で示された愛)を示してくださるほどに自分を愛してくださっていることを知っています。同じように、神様がそばに置いてくださった人々に対しても、神様が同じように大いなる愛でその人々を愛していることがわかります。そのように受け止めることで「主がくださる平和」はますます豊かになり、続いていくのです。一方、すべてにおいて、この世は表面的で一時的にしか人間を満足させられません。主は、私達信仰者を偽りのものであふれたこの世から「分離」し、神の国に招き入れようとしてくださっているのです。

7月9日の説教要旨 「目を覚ましている僕」 牧師 平賀真理子

民数記152731 ルカ福音書123548

 はじめに

今日の新約聖書の箇所では、「主人と僕」の例え話が2つ出てきます。ほぼ同じ内容を記しているマタイによる福音書により、この話が、世の終わり=「終末」の時のことを例えているのは明らかです(24:36-51)。

 「終末」について

「終末」と聞いて、私達は遠い将来に起こることと何となく思ってしまっているのではないでしょうか。確かに、「終末」は、世の終わりであることは間違いないけれども、しかし、それは、遠い将来ではなく、もう既に始まっていることを想起していただきたいのです。イエス様がこの世に来てくださって、救い主としての御業を成し遂げてくださったという時点で、この世の終わりが始まっているのです。この場合、終末とは、短い時を指すのではなく、ある長い期間を指すことになります。イエス様の出来事から約2000年経っていても、その期間ずっと終末であるということです。ですから、現代に生きる私達に対して、神様は、終末に生きる者として、救い主イエス様の御心に適った生き方をするように期待してくださっているのです。今、イエス様が私達の方から見えなくても、イエス様の方からは見えている、このことについて、自覚していれば、自分の欲望に任せた好き勝手はできない!のです。

「終末」については、もう一つ、将来に起こるはずの「世の終わりの終わり」が必ずあると聖書は告げています。私達はその時を知りたいのですが、それはイエス様の父なる神様だけが御存じです(マタイ24:36)。人間にとっては、突然「終わりの終わり」がやって来ます!マタイ福音書には「終わりの終わり」の恐ろしい現象が記されていますが、私達信仰者が覚えておくべきことは、「終わりの終わり」には、イエス様が再びこの世に来てくださる=「再臨」を約束してくださったという希望です。

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」(35節)

いつ帰宅するかわからない「主人」とは、再臨の時が人間に知らされていない「イエス様」を例えていますし、また、「僕」とは、イエス様の再臨の時を知らされていない「信仰者」達のことを例えています。だから、主を信じる者達は、いつも「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と教えられているのです。「腰に帯を締める」とは、きちんとした服装で居ることです。主人の前にいつ出てもいいように準備が整っている状態です。また、「ともし火をともしている」状態も、主人の帰還の時が暗い時間でも支障ないように、ランプの油や燈心のチェックを終えて万全に準備できている状態の例えです。どのような状況でも、できるだけ早く帰ってきてほしいという、敬意と愛情を基にした準備です。私達は、日々の生活において、そのような思いで、また、そのような状態で、再臨の主を待ち望んでいるのかどうか、つまり、「目を覚ましているのかどうか」を自分自身で吟味するよう、求められています。

 ペトロの質問(41)に対しての2つ目の例え話

ルカによる福音書では、2つ目の例え話に入るに当たり、ペトロの質問を独自に記しています。「一つ目の例え話」が自分達のような直弟子に対してなのか、この時たまたま話を聞きに来た群衆に対してなのかが、ペトロは気になったのでした。その質問について、イエス様は、言葉の上で直接返答なさらず、2つ目の例え話をすることによって、返答となさったのでした。

2つ目の例え話の「僕」とは、召使達の長、ここの表現では「管理人」と置き換えられています。また、この「管理人」は「主人の言われたとおりにしているか」「自分の欲望に従った管理をしているか」で、主人からの賞罰がはっきり分かれることが記されています。このことから、2つ目の「僕」=「管理人」とは、主を信じる人々を管理する立場に置かれた者のことを指します。ペトロの質問にはっきり答えるならば、イエス様の語られる例え話を理解して従うことについて、直弟子達が一番責任が重いと教えておられます。現代の教会で言えば、牧師や役員の責任が重いと言われており、その当事者として私は慄然とします。

 まず、私達の「僕」として、私達を救ってくださった救い主イエス様!

ただ、会員の方々も、恵みに先に与った者として、人を導くことになり、より重い責任を問われる時が来て、「管理人」と同じ立場になります!責任の重さは、神様からの期待の重さとして感謝できるようになりたいものです。私達は、自分より先に、私達の罪を贖うという「僕」の役割(十字架)を負ってくださった、イエス様の大いなる恵みを知らされており、その御方に応えたいと願うからです。

7月2日の説教要旨 「ただ、神の国を求めなさい」 牧師 平賀真理子

詩編34:9-15 ルカ福音書122234

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、山上の説教の中にもあり(マタイ6:25-34)、キリスト教会では有名な箇所の一つです。

 衣食住(この世での生活の必需品)に悩む人間

ルカによる福音書によれば、今日のお話はイエス様が弟子達に向かい、語られています。つまり、弟子達が食べ物や着る物に悩んでいたということになります。後の時代の信仰者である私達から見れば、約2000年前にイエス様の弟子達はなんと大きな恵みをいただいていたのだろうと思います。そんな彼らでも、「この世での生活」のための必需品について悩んでいて、イエス様が弟子達の心の中を見抜かれたのでしょう。直前の段落にある「愚かな金持ち」にあるように、人間の愚かさは、弟子達こそ、留意しなければならない問題であると、イエス様は示されているのではないでしょうか。

 命も、命に必要な物もくださる神様

ルカ福音書12章4節-21節を読むと、神様がすべての命を支配しておられるとイエス様は教えてくださっています。更には、命だけでなく、すべての命に必要な食べ物や着る物などについても、神様がそれぞれにふさわしいように配慮してくださることを今日の箇所でイエス様は証しなさっているのです。人間が価値が無いと見ていた烏(24節)や雀(6節)にさえ、神様はその命のために食べ物をくださるのだから、ましてや、鳥よりも神様に愛されている人間に対し、神様が必要な食べ物をくださらないことは決してないとおっしゃっています。着飾る物についても、人間界で最高の権力者だったソロモン王の豪華な衣服よりも、神様が養ってくださる草花の方が華やかで美しいのだから、人間はどんな権力者(所詮は人間)よりも、神様のご配慮に頼っていいと教えておられます。神様を全面的に信頼できているかが、弟子達には問われているのです。

 神様を全面的に信頼しようとしない人間

しかし、人間は、罪深さ故に、神様を全面的に信頼できないことが前段落「愚かな金持ち」に示されています。神様からの恵みである収穫に対する神様への感謝を忘れ、自分の知恵と力で生きていけると過信し、神様を無視するようになるのです。元々、神様の用意してくださった「命」という土台で生かされていることを、人間はすぐに忘れます。更に、この「愚かな金持ち」は、欲望に支配されて一人で楽しむ道を選んでいます(19節)。が、彼は、人間の本来の生き方に戻るべきでした。まず、恵みを神様に感謝し、次に、周りの人々と分け合う、そうして、神様とその人間との良い関係が深まり、神様の恵みが人々にも広まります。神様との縦の関係を強め、神様の栄光をこの世に広めることで横へ展開する、それが本来の人間の生き方だと思います。

主の十字架による人間の罪の贖い

とはいうものの、弟子達もそうであったように、私達も神様へ心を向けることよりも、この世での必需品を得ることに気をもんで悩むことがあります。

自分自身やこの世への思いが最優先となる罪からは簡単に抜け出すことはできないことを自覚せざるを得ません。そのような私達の罪のためにイエス様が十字架にかかって、贖ってくださった、その大いなる恵みに感謝です!

 「思い悩むな」(22節、29節)

そのイエス様が弟子達に向かって「この世のこと、衣食住のことで、思い悩むな」とおっしゃいました。「思い悩む」とは「心を労する」という意味です。私達信仰者が、疲れ切ってはいけない、更には、この世の悩みに支配されてはいけないと心配してくださっています。そのような思い悩みは、「本当の神様」を知らない異邦人の悩みだとイエス様は語られました。イエス様が証しし続けた「父なる神様」=「本当の神様」は、全知全能で憐れみに富んだ御方です。

そして、その神様の御子がイエス様です。私達はそのイエス様に繋がる「本当の弟子」であるならば、決して、本当の神様の愛から外れることはないのです。

「ただ、神の国を求めなさい」(31節)

ルカ福音書では、イエス様は弟子達に「ただ、神の国を求めなさい」と教えておられます。「神の国」とは、神様が王として治める、神様のご支配のことです。王様とか、支配とか言っても、暴君が行う好き勝手な統治ではなく、神様の愛や知恵や御力が溢れて行き渡る世界です。私達は「神の国の民」として、神様にまず心を向け、その恵みを感謝し、この世に広めることに専念しましょう。

6月25日の説教要旨 「人間の視点」 牧師 平賀真理子

詩編491421 ルカ福音書121321

 はじめに

イエス様の周りには、いつも多くの群衆が押し寄せました。イエス様のお話を聞くことで、多くの人々が希望を持ったことの証しでしょう。ルカによる福音書12章1節によれば、そのような中、イエス様はまず、弟子達に教えを語っておられます。ファリサイ派を中心とした反対派の偽善に注意すること、しかし、このような権力者達は人間に過ぎないので恐れる必要はなく、弟子達には本当の権威を持つ、父なる神様がついてくださっていると励ましてくださいました。また、この世で人間として歩まれたイエス様は、人間の弱さも重々ご承知の上で、御自分が悪く言われても、人々を救う救い主として、父なる神様に執り成して聖霊を送ってくださることも保証してくださいました。

 問題を根本的に解決をなさろうとするイエス様

そこへ、群衆の中から、個人的な願いを持ちかける者が現れました。この人の訴えに対し、イエス様は、表面に現れた、相続問題だけを解決しても根本的解決にならないことがわかっておられました。本人も認識できていない、深い部分に問題の根本があり、そこから彼を救う必要があるとイエス様は見抜かれました。相続問題の調停をするかしないかを言葉の上で明確に御答えにならず、そのような裁きをするために御自分がいるのではないと宣言なさいました。一見、愛がないように見えるかもしれません。しかし、イエス様の実践なさる「愛」と私達が実践する「愛」とは、内容が違うのです。前者は、人間の悩みや苦しみを根本的に解決したいと熱望して実際に働いてくださるものです。その範囲は無限、力も無限です。一方、後者は、相手の依頼を解決しようと試みますが、その視点は目の前のごく近い所・浅い所に絞られており、私達は、ごく小さな範囲しか気づき得ない、有限なものです。

 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」(12:15)

「貪欲」とは「もっと!もっと!」と欲しがる心です。この相続問題を抱えた人は、単なる法律の不正から相談に来ているのではなく、心の底に、この世の物、殊に財産(=お金)を欲する心(=欲望)に支配されていることを、イエス様は見抜かれたのでしょう。それはこの人だけの問題でなく、群衆一同、更には人類に共通する問題です。人間の普遍的な罪を根本的から救う、それが、本当の意味での救い主の役割であることをイエス様は自覚され、そのために働かれる姿勢を示してくださっていることがわかります。

聖書では、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)とされて戒められています。人間は、神様から「命の息」を吹き入れられて初めて「生きる者となった」とされています(創世記2:7)。神様によって「命の息」が入る部分を、神様由来でない物で埋めようとしても満たされません。無限のものが入るべき所を有限な物で埋めることはできません。しかし、神様を忘れたり、背いたりする者は、この「不可能」に無謀にも挑戦しているのです。決して神様から祝福されません。

 「人の命は財産によってどうすることもできない」(12:15)

「人の命」の「命」という所に使われている単語は、元々の言葉では「永遠の命」という時に使う単語と同じです。イエス様は、「人間が神様に繋がって永遠の命を得る」ことが本当の幸いであり、人間にそのことを教え、本当の幸いをくださろうとなさっています。その「永遠の命」のためには、人間が作った物やこの世の物(お金を含む)、つまり、有限な物は何の働きかけもできません。

 この世での「命」を「主は与え、主は奪う」(ヨブ記1:21)

イエス様は、この時の群衆に合わせて、例え話をなさいました。16節から20節までの「愚かな金持ちの話」です。この金持ちは、まず、豊かな恵みをくださったのが神様であることを忘れ、神様への感謝を献げていません。更に言えば、「愚かさ」の一番の原因は、この世での歓びや楽しみの土台には「命」(原語では、15節の「人の命」の「命」とは異なる単語)があり、それを人間に与えたり、奪ったりするのは、神様であることを忘れていたことです。この金持ちは、神様から与えられた命のもと、収穫の恵みをいただき、自分で考えたことを実行することが、わずかの間、許されていただけだったのです。

 「人間の視点」、それに対して、イエス様の「神の前に」という視点

この例え話の結論の21節にあるように、罪の中にある人間の視点は「自分のために」です。一方、主は「神の前に」という視点を教えてくださいました。私達も主から学び、「神の前に」豊かになることを願って生きていきたいものです。

6月18日の説教要旨 「赦してくださる御方」 牧師 平賀真理子

イザヤ書54410 ルカ福音書12812

 はじめに

今日の新約聖書箇所の直前の段落で、イエス様は、人間の目より、悠に重要な「神様の目」を第一に考えるべきだと教えてくださっています。御自身も、父なる神様の御心を成し遂げること(人間に対する救いの御業)を第一として歩まれました。そして、権力はあっても人間に過ぎないファリサイ派などの思惑に左右されることはありませんでした。しかし、同時に、福音がこの世に広まることが神様の御旨であればあるほど、この世の長として人間を利用するサタンの反撃は大変激しくなると予見なさいました。御自分と同じように、弟子達も反対派の反撃を仕掛けられることが、主はお分かりになっていました。権力者や世間が反対する中、神の御子・救い主イエス様の弟子として、自分の立場を公けに発言しなければならない弟子達を、主は事前に励ましておられるのです。

 イエス様の弟子であると公けに信仰告白すること

人々の前でイエス様の弟子であると言う場が与えられて、そのように言えるならば、人の子=イエス様も、その弟子を「神の天使たちの前で」自分の仲間であるとおっしゃいました。そして、逆も真なり、人々の前でイエス様を知らないと言う者は、神の天使たちの前で言われるとおっしゃいました。本当の弟子であるならば、つまり、揺るがぬ信仰を与えられた者は、人の目や人の評価を気にせず、イエス様の弟子であると公けに宣言できるでしょう。そうできれば、人目、つまり、この世を恐れず、本当の救いをくださる神様を第一に生きていることを天地に宣言することになり、神様を喜ばすことができると示されています。

実は、私達はイエス様の弟子であることを、一度は公けに、既に宣言しています。洗礼を受けた時です!まだあります。毎週1回は宣言しています。礼拝で「使徒信条」を高らかに信仰告白しているわけです!しかし、キリスト教の歴史の初めの頃、つまり、直弟子達やそれに続く信仰者達は、命を掛けるような厳しい状況に置かれることを、イエス様はわかっておいでだったと思われます。そのような信仰者達に対して、イエス様御自身や父なる神様、神の天使たちまでが、見守っているから、信仰を告白できるように!と主は励ましておられると思います。

 主を知らないという者は、主に知らないと言われるのか、赦されるのか

それでも、人の子=イエス様を知らないという信仰者もいることを主は御存じでした。そのような者は、神様の御前で知らないと言われるとおっしゃった9節の直後の10節で「人の子の悪口を言う者は皆赦される」と言われました(「悪口を言う」とは、原語ではその関係を否定するという意味があります)。9節と10節では、イエス様への信仰を公けに告白できない者に対し、主が全く逆の対応をなさるとのことです。この流れの中で、何が起こったか、2つ考えられます。

一つは、同じ内容を記したマタイによる福音書と比べてわかることです。今日の段落は、その見出しにあるように、マタイ福音書の10章を中心に3箇所に分かれて書かれています。福音書は、イエス様の直弟子やその次の世代が、主の歩みや御言葉について、後代のために、聖霊に導かれて記録したものです。主の御言葉を弟子達はよく記憶していたとしても、その時の状況については少しずつ記憶が違っていたのかもしれません。ルカによる福音書では、厳しい状況の中、イエス様の弟子であると公言する重要性と、それを乗り超えるためには、聖霊の助けがあるという神様の恵みに焦点をあてて、伝えられていると思われます。

もう一つは、この時に弟子達(特にペトロ)が視界に入り、彼らが御自身との関係を公けに言えないという出来事を、もう既にイエス様はおわかりになっていたのではないかということです。事実、この後、イエス様の裁判の時、ペトロはイエス様の弟子ではないかと人々に問われたのに、その関係を全く否定したことが福音書にあります。信頼に値しないペトロに対し、イエス様は復活された後、彼を赦し、御自身の方から会いに来られ、神様の霊=聖霊を送ってくださいました(使徒言行録2章)。聖霊を受けたペトロは、別人のように変えられ、「人間が十字架で殺したイエス様を、神様が救い主となさった」と証しし、主の復活の証人であると公言して、厳しい状況の中、福音伝道のために、力強く、喜んで働きました。聖霊を受けた者は全く変えられ、神様の御用のために豊かに用いられます。この世に来てくださり、人の心を見抜く御方であるイエス様だからこそ、御自身への信仰告白を望んでおられても、告白できない人間の弱さを知っておられ、赦してくださり、父なる神様に執り成して聖霊をくださる御方なのです!

6月11日の説教要旨 「畏れるべき御方」 牧師 平賀真理子

イザヤ書51714 ルカ福音書1217

 はじめに

教会暦では、聖霊降臨節に入りました。3月1日からの受難節に入る前に読み進めていたルカによる福音書を再び学んでいきたいと存じます。

 ファリサイ派や律法の専門家達の偽善を指摘なさったイエス様

今日は12章からですが、その前の11章では、ファリサイ派や律法の専門家達の間違った生き方をイエス様が明確に指摘なさったと記されていました。彼らは外側だけ清いように見せかけることに熱心でしたが、内側、つまり、心の中では、神様の御心に適ったように生きてはいないと指摘なさいました。内側の心には「強欲と悪意」(39節)が満ちているのに、外見だけ装い、内側が「正義の実行と神への愛」(42節)で満たされているように振舞っていたのです。真の意味で、彼らは、心を神様に明け渡していなかったので、神の御子イエス様を認めることができず、最終的には、救い主を十字架にかける罪を犯すことになりました。

 ファリサイ派と私達プロテスタントの共通点

ファリサイ派は、元々宗教的権威者だったサドカイ派から、神様への信仰を「民衆」が主体的に実践できるようにしようと起こったグループです。その精神は私達プロテスタント教会も同じです。それまでの権威ローマ・カトリック教会が独占した御言葉や礼拝を、プロテスタントの人々は「民衆」が主体的にできるように改革しようとしました。ファリサイ派とプロテスタント教会、共に最初は少数派ですが、やがて認められて、多数派へ発展します。そうなると「腐敗」が始まり、主流派に対抗していた緊張感を失い、内側は怠惰になっていきます。一方、人々からは、最初の精神を求められます。彼らは、外見だけ、宗教的に立派だと見せかけることに熱心になり、「偽善」に染まります。ファリサイ派の偽善は、私達プロテスタント教会の者も、気を付けねばなりません。

 ファリサイ派のパン種=彼らの「偽善」

ファリサイ派への厳しい指摘の直後、イエス様は、まず、弟子達に、彼らのパン種、即ち「偽善」に注意しなさいと教えてくださいました。パン種とは、パンが発酵して豊かに膨らむもとになるものです。良いパン種であれば、食べ物がたくさん増え、「発酵」します。一方、同じような過程を取りながら、逆の結果を生み出すのが「腐敗」です。悪いパン種が食べ物の中に入り込み、食べ物の方が傷み、悪いパン種の方が増えます。イエス様の弟子達は、福音書を読む限り、知識も少なく、純朴な者達が多いようです。注意していなければ、弟子達は、狡猾なファリサイ派の「偽善」を本物の「善」と誤解し、被害に遭うかもしれないとイエス様は配慮されているのだと思います。

 神様を軽視し、人間からの見方にばかり気を取られる罪

もう一つ注意したいことは、ファリサイ派に限らず、人間の逃れ難い罪からくるものです。神様を軽視して、人間からの見方にばかりを気にしてしまうという罪です。罪の長サタンは狡猾に、人間に罪を気付かせないまま、闇に引きずり込むのです。警戒せずに、罪の罠にかかれば、弟子達でさえ、ファリサイ派のように「強欲と悪意」に満ち、かつ、外側だけは「義と愛」に満ちているように偽善的に生きてしまうかもしれない、そんな生き方に染まらないよう、主は、事前に弟子達に教えておられるように思います。

 この世を越えた、すべてを支配する権威をお持ちの「畏れるべき御方」

人間は、なぜ神様の目でなく、人間の目を気にするのでしょうか。それは、人間がわかる範囲=「この世」に在っては、人間の目(権力者の目や世間体)にどう映るかによって、社会的評価が決まり、いい思いをするか、または、ひどい目に遭うかが決まってしまうからでしょう。後者の極致が、罪がないのに有罪とされて殺されてしまうことです(主の十字架がそうです!)。それでも、イエス様は、人間の体を殺せる権威を持つ権力者も、所詮は体を殺す権威しかない人間に過ぎないと勇気づけてくださいます。体を殺されるのは人間には恐いことですが、しかし、私達の主イエス様の御生涯を見れば、この世の人間の支配とは次元の違う御方がこの世を越えた所ですべてを支配しておられることは明らかです。この世で殺されたイエス様が、最高の権威を持つ「父なる神様」によって生き返らされて「復活」なさったのです!父なる神様は偽善者を「地獄に投げ込む権威」(5節)がありますが、一方、御心に従った者には、深い憐れみにより「天の国に迎える」権威をお持ちの御方です。だから、私達は、この御方をただ恐がるのでなく、畏敬の念を持つという意味で「畏れるべき御方」として慕うことが許されています。

5月28日の説教要旨 「主の昇天」 牧師 平賀真理子

ホセア書6:1-3 ルカ福音書24:44-53

 はじめに

先週の木曜日5月25日は、教会暦において特別な日=「主の昇天を覚える日」でした。事前にお知らせできずに申し訳ありませんでした。来週の日曜日がペンテコステ(聖霊降臨)なので、今回はその前に「主の昇天」のことを深く学んでおきたいと存じます。

 復活の主の御姿

ルカによる福音書の最終章24章には、イエス様は十字架の死の後、復活なさり、その事実を弟子達が次第に理解していく様子が記されています。「弟子たちに現れる」という見出しの段落では、「復活の主」との出会いを体験した弟子達が話し合っていると、そこへ復活したイエス様が現れたことが証しされています。ここで改めて思わされたのは、復活の主は肉も骨もあり、食事もできたことです。主の御言葉から、復活の御姿は、私達の知識を越えた存在であることが推測できます。

 「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」(46節)

理解の範囲を越えた「復活の主」と出会い、「うろたえ、心に疑いを持ったりした弟子達」に、イエス様は御自分のことを証しなさいました。即ち、十字架に至る御受難と、この時点で起こっている復活について、それは聖書に預言された「神様のご計画」どおりであることをもう一度伝えているわけです。この告知を、十字架の前に、イエス様は3度も弟子達になさっていました。でも、聞いた当初、弟子達は、あまり理解できなかったと思われます。でも、そのとおりのこと=「十字架と復活」が起こった直後ならわかるだろうとイエス様は思われて、弟子達に、忍耐強く、更に教えようとなさっていると感じられます。主の十字架と復活は、私達の信仰の要です。だから、説教の中でも、強調されてきたことです。ただ、それを聞くことに慣れてしまってはならないと思います。罪のない主が、私の為に大変な痛みと苦しみを代わりに担われたことを痛感し、心静めて掘り下げる必要があります。

 罪の赦しを得させる悔い改めを、全世界に宣べ伝える役割の弟子達

更に、復活の主は、この時新たな内容を告げられました。それは47節の前半の御言葉=「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。「イエス様の十字架(贖いの御業)と復活(神様から賜った栄誉)を『自分が罪赦されて救われる為に行われた』と信じること」が、ここで言われている「悔い改め」です。それによって、神様から「罪の赦し」をいただける、そして、そのような「主の御名による救い」が全世界に広がる、そして、その役目を弟子達が任せられるようになる、そこまでが「神様のご計画」に入っていると、復活の主は新たな真実を知らせてくださったのです。そのような弟子達に対し、「あなたがたは(救いの御業の)証人となる」(48節)とおっしゃいました。「証人」とは裁判用語ですが、ここでは第三者として語るだけではなく、「当事者」、しかも、神様の救いのご計画の一部を担う者としての「当事者」であることを意味しています。

「弟子達を祝福されたイエス様」と「主を初めて伏し拝んだ弟子達」

50節からは、「主の昇天」が証しされています。イエス様は手を上げて弟子達を祝福されました。そして、弟子達は、この時初めて「イエス様を伏し拝んだ」のです。復活だけでなく、昇天の御姿をお見せになることにより、弟子達はイエス様の偉大さを更に思い知ったのでしょう。弟子達は、この後、大喜びで神様をほめたたえる生活をすることになりました。そうしながら、主の御命令のとおり、「父が約束されたもの聖霊(神の霊)」を待っていたのです。

昇天後のイエス様と弟子達

昇天後のイエス様については、私達が礼拝で信仰告白している使徒信条に「天に昇り、全能の父なる神の右の座し」ておられるとあります。神様と同じ存在になったのです。しかし、イエス様はそこに安穏と座っておられる御方ではなく、信じる者が助けを祈るなら、この世に必ず働きかけてくださいます。イエス様は「聖霊」を送って、この世の人や出来事を動かせる力をお持ちです。

一方、弟子達は、集まって祈る日々を過ごし、今後の福音伝道の準備を行った(12人目の使徒の選定)と使徒言行録1章にあります。2章では、五旬節(ペンテコステ)に初めて「聖霊」が降った出来事が記され、福音伝道が開始されました。信仰者は心が祈り等によって神様の御心と一致した時、神様のご計画に用いられます。私達も主の御心に自分の心を合わせられるよう、祈りましょう。