8月14日の説教要旨 「弟子の覚悟」 牧師 平賀真理子

サムエル記上3410 ルカ95762

 はじめに

今日の新約聖書箇所の直前の段落の中の51節に、イエス様の十字架への道が、いよいよ始まったことが書かれており、その段落では、主はサマリアの村で歓迎されず、別の村に行ったと記されています。今日の箇所は、その道中で「主に従う」という本当の意味を学ぶことができます。

 「苦難の僕」への道に従う覚悟

一人目の人は、イエス様の行かれる所ならどこへでも行くと言って、弟子になることを自ら願い出ました。この言葉は、弟子としては当然の内容だと思います。ところが、イエス様は、この申し出に対し、大変辛い将来を示す御言葉をおっしゃいました。58節の「人の子」とは、救い主としてのイエス様のことです。前の段落でサマリア人に歓迎されなかったイエス様の「苦難の僕」としての救い主の道は、「巣を持つ動物にさえ劣る待遇を受けますよ、だから、弟子としてわたしに従うなら、同じ運命を引き受けねばなりませんよ、 その覚悟がありますか」と問われているわけです。主と弟子達は、宣教の旅から旅で、家でくつろぐ余裕もない、それどころか、人々に排除される定めであり、 「十字架」はその最たるものです。この世にいる人間のほとんどは、救い主と認めて歓迎することはほとんどないとイエス様はよくご存じです。弟子になるなら、その厳しい道を受け入れる覚悟が必要とされるのです。

 死んでいるこの世への未練を捨て、神の国のために働く覚悟

二番目の人は、イエス様の方から「従いなさい」と呼びかけてくださる恵みを受けています。しかし、その人は、その恵みを理解せず、条件を付けました。「従うつもりだけど、まず、『父を葬る』役目を終えてからにしてほしい」と許可を願っています。「父を葬る」ことは十戒を奉じる民にとって重大な役割です。なぜなら、その中の一つ「あなたの父母を敬いなさい」(出エジプト20:12)に従った儀式だからです。この世の常識での自分の役割を全うした後、「主に従う」道を歩きたいと考えたようです。ところが、イエス様は、神の国のことだけを考えておられます。肉体的には生きていても「救い」に与っていない人々を「死んでいる者たち」とおっしゃいました。「死者は死者に任せて、救い主のわたしが救おうと呼びかけている、あなたはわたしに従い、神の国を言い広める働きをしなさい」と呼びかけられました。人を見抜く御方であるイエス様は、この人が福音伝道において優れた賜物のある人だと見抜いて、呼びかけてくださったのでしょう。

 神の国だけを真っ直ぐ見続けて働く覚悟

三番目の人も、二番目の人と似ていますが、家族に別れを告げてから従いたいと願いました。この内容は、ユダヤ人もサマリア人もよく知っている話を思い起こさせるものです。旧約聖書の中にあります(列王記上19:19-21)。預言者エリヤが後継者となるエリシャに呼びかけた時に、エリシャは父母に別れを告げることを許してほしいと願い、この時は許されたのです。この話を踏まえて、三番目の人は、自分も同じことを願ってもいいと思ったのではないでしょうか。しかし、主は御自分がこの世にいる時の終わりが近づいているとご存じでした。この世での絆を断ち切れない人は、「鋤に手をかけてから後ろを振り向く者(62節)」と例え、神の国にはふさわしくないとおっしゃいました。神の国の民には、この世への未練を断ち切り、神の国のために、顔をまっすぐに向けて働こうとする覚悟がいるのです。私達も我が身を振り返ってみると、いつもいつもまっすぐに、神の国を見続けているとは言えないのではないでしょうか。しかし、「この世」から「神の国」へと人間を救うために、イエス様が「十字架への道」をたどられたことを、私達信仰者は再び思い起こしたいものです。

 召命の時=神様が定められた時にすぐに従う覚悟

今日の3人には、忘れてはならないことがもう一つあります。それは、彼らは、それぞれの人生の「時」にあって、主に出会い、「主に従う」ということについて、主の御言葉をいただく恵みを得たことです。

「主が救いたいと思う人に出会う時」をお決めになるのは、主御自身です。

受け手の私達人間ではありません。「主が私に働きかけてくださる時」は、主が造ってくださるのです。「『時』も被造物である」とアウグスティヌスという学者が言いました。「時」も神様の支配下にあり、人間は神様の定めた時に従う運命です。今日の旧約聖書で示された「サムエル」に倣って、主の召命を待ち、その「時」には すぐに聞き従う覚悟を日々強められるように祈り続けましょう。

8月7日の説教要旨 「平和の主の道」 牧師 平賀真理子

イザヤ書1115 ルカ95156

 はじめに

今日の新約聖書箇所として「サマリア人から歓迎されない」という小見出しがついた段落が与えられました。しかし、その中の最初の節の51節は、ここから19章半ばの主のエルサレム入城までの旅路が始まることを示しています。ルカ福音書は全部で24章ですが、その半分弱の約10章分を使い、イエス様の十字架への道の途中の出来事をたくさん記しています。苦難の道の途中にあっても、イエス様は、従う人々を愛し、導くことをおろそかになさらなかったことが証しされています。

 「天に上げられる時期が近づく」(51節)

イエス様は神の御子として、天の父なる神様から、救いの必要な人間ばかりのこの世に降りてこられました。そして「救い主」としての使命=イエス様だけに託されていた使命が、人間の罪を贖うために命の犠牲(神の御子の死)=十字架上での死です。人間的に見れば、これは敗北と受け取られるでしょう。しかし、神様から見れば、全く逆、勝利です!

壮絶な死を遂げなくてはならなくても、父なる神様の御心に従順だったイエス様には、その後、「復活」という誰も賜ることのなかった栄誉が与えられました。神様から与えられた「復活の体」で弟子達と過ごし、その後は天に昇り、今や父なる神様と同じ「神様の位」に就かれています。

 「エルサレムに向かう決意を固められた」(51節)

ルカによる福音書によれば、主の十字架と復活は、神の民ユダヤ人の都「エルサレム」で起こりました。イエス様がエルサレムに向かうとは、その先に栄光の復活があるとはいえ、まずは十字架にかかるということです。人間の肉体を与えられて、この世を歩んでいた主にとって、それは、激しい苦痛と屈辱を受けることを意味していると主はご存じのはずです。だから、主と言えども、決意を固める必要があったのでしょう。

 「サマリア人も救いの中に」

「栄光の救い主」ではなく、まずは「苦難の僕」としてエルサレムへ向かうイエス様が、ユダヤ人達が嫌うサマリア人の村を最初に通ろうとしたことには、意味があると思われます。サマリア地方はユダヤ地方の北側に位置し、ガリラヤ地方で宣教されていたイエス様がエルサレムに行くには、サマリア地方を通るのが近道です。けれども、当時、ユダヤ人はサマリア人の村を避けてヨルダン川の東から遠回りしてエルサレムに入りました。サマリア人は、元々は「神の民」イスラエルの民だったのですが、侵略してきた異民族に荒らされて、宗教的にも人種的にも純粋でなくなったということで、ユダヤ人がサマリア人を軽蔑し、それでサマリア人達もユダヤ人を嫌ったからです。この状況は、イエス様も当然御存じのはずです。なのに、決意を固めた後に「救い主」として初めて通る道として、主はサマリア人の村を選ばれたのです。約束を必ず果たされる神様が、人間の事情に左右されず、最初の約束を守ってくださり、サマリア人を「神の民の救い」の中に含んでくださったと考えられるでしょう。

 「サマリア人は歓迎しなかった」

神様の大いなる愛を受けているにも関わらず、その村のサマリア人達はイエス様を歓迎しなかったことが記されています。サマリア人から見れば、仲たがいしているユダヤ人の救いのためにイエス様が自分達の村を通るのですから、面白くなかったでしょう。しかし、もっと普遍的なことが暗示されていると思われます。人間は人間的な理由で、イエス様を「救い主」として、歓迎できないということです。(エルサレムでも一時的に歓迎されたものの、最終的には歓迎されませんでしたし、福音宣教する時も、まずは歓迎されないことが多いものです。)

 「弟子2人の発言」と「平和の主の道」

主を歓迎しないサマリア人に対して、弟子のヤコブとヨハネが、村を焼き滅ぼすことを提案しました。反対者に対して、彼らは全滅させる方法を取ろうとしました。しかし、イエス様は、歓迎しない人々の罪をも背負うために、我が身を滅ぼすという十字架にかかった御方です。これが神様の方法です。従わない人間のために神様御自身が犠牲になるのです。弟子2人とは全く逆です。父なる神様の御心に従って、イエス様は「自分を犠牲にする道」を従順にたどられました。これこそが、「神の霊」を受けた本当の平和の主の道です。私達は、「平和の主の道」を正しく理解し、それに倣いたいものです。「山上の説教」の御言葉を思い起こします。「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)私達は主と同じ「神の子」と呼ばれる幸いを賜わるのです!

7月31日の説教要旨 「神の国に生きる」 野村 信 先生(東北学院大学教授)

ヨエル書3:15 ルカ172024

 はじめに

私は、近頃、忙しい日々を過ごしていますが、幸いを感じて働いています。御言葉を説き明かす人間として喜んで働いています。以前には、なかった感覚ですが、最近は「神の国」が見える感覚があります。「神の国」が感じられるとも言えます。それで、「神の国」について、聖書の御言葉から説き明かしていきたいと思います。

 「神の国は見える形では来ない」

今日の新約聖書箇所(ルカ17:20-24)には、ファリサイ派の人々が常に議論していたことが書かれています。「神の国はいつ来るのか」そして、「神の国の人々はどんな生活をするのか」と。それについて、イエス様ははっきりおっしゃいました、「神の国は見える形では来ない」と。ここの「見える」という言葉の元々の意味は「観察する」です。指し示せるものではありません。イエス様は続けて言われました。「神の国はあなたがたの間にある」と。ここから4つのことを学びたいと思います。

 ①信仰を持って神の国を見る

「神の国」は肉眼では見えません。イラストで描いたりできません。ただ、イエス様は「神の国」について、多くの例え話をなさいました。この例え話から「神の国」を類推するように、私達信仰者は求められています。「信仰を持って神の国を見る」ことが求められています。「神に対する信仰・希望・愛と持ちながら、また、聖霊の力によって、霊的まなざしによって『神の国』は見える」と言えます。

 ②「神の国はあなたがたの間にある。」

この「ある」という動詞はギリシア語の現在形で書かれています。「神の国は、今、あなたがたの間にある!」とおっしゃっています。さて、マルコによる福音書の初めには「時は満ち、神の国は近づいた」という御言葉があります(1:15)。この「近づいた」という動詞はギリシア語の完了形です。すでに来た!すでに神の国は広がっているとキリストはおっしゃっています。信仰者は「神の国」、すでに来ている「神の国」を見ている、または、見ることができるというのです。

 ③「神の国は、人間と人間の間にある」

信仰者は、神と私との関係、私は救われているかという問題を大事に考えますが、主の御言葉によると、「神の国」は「人と人の間」、つまり、共同体的であり、複数的に広がっていると言えます。マタイによる福音書18:20には「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」という御言葉があります。イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と教えられたと同時に「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:37-39)とおっしゃっています。ですから、共同体の救いを重んじられていることがわかります。共同体とは、教会の中にあります。教会において「神の国」が広がっているのです。

 ④未来に完成された「神の国」が来る

今、「神の国」が来ていると話しましたが、完全な形の「神の国」は、未来にやって来ることも私達は知らされています。信仰者は、死んだ後に神の許に生きると保証されています。その完成された「神の国」は、地上に広がっている「神の国(教会)」を通しておぼろげに見ており、未来には、完全な「神の国」を、顔と顔を合わせて見る(Ⅰコリ13・12)ように、はっきりと見ることができると使徒パウロは伝えています。

 「神の国が見える」とは?

イエス様はヨハネによる福音書で、神の国が見えること、または、神の国に入ることについて、こうおっしゃっています。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない(3:3)。」続いてこうあります。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。(3:5)」このことは、逆に言えば、このように言い変えることができます。「人は新たに生まれれば、水と霊とによって生まれれば、神の国に入れる。」と。「神の国が見える」とか「神の国に入る」ことは、端的に言って難しいことではありません。信仰を持って神と共に生きている時、信仰者は「神の国」を見ていると言えます。

 信仰はどんなふうに神の国を感じるのか。

「信仰者はどんなふうに神の国に生きていると感じるのか」という問いに対しては、まことの命の賦与者である神を愛し、人を愛することを通して、神の国を感じていると言えます。つまり、信仰を持って「神の国」を見ているのです。歴史上、そのような信仰者は無数にいます。教会の歴史を振り返れば、たくさんいます。キリストの弟子もそうですし、パウロ、アウグスティヌス、ルター、パスカルなどの証しが多数あります。東北学院大学も「神の国」を見た人々により造られたと言えます。特に、3校祖の押川方義師、ホーイ師、シュネーダー師はそのような方達です。彼らの働きを見てもわかるように、「神の国」を見た人々が行うことは、「神の国の建設に参与し、その道具となること」です。「神の国」は今あり、そして、未来に向かって生きているものであり、神が先に立って導いておられるとも言えます。信仰者は信仰を持って見つめるのです。「神の国」は今もう始まっており、信仰者は、未来の完成された「神の国」を心に刻み、努力していくものです。

 「霊的働き」

先ほど「水と霊とによって生まれれば、神の国に入れる」という説明をしました。「水」とは「洗礼」を指しています。では、「霊」は何か?それは「神様の働き」です。これを霊的まなざしをもって見続けることが求められます。そのような霊的働きをどうしたら受けられるのでしょうか。それは、神様を深く心に留め、その恵みと一人一人への働きかけを感謝して受け止め、自分の原点とすることです。特に、イエス様の十字架と復活を神様に感謝し、祈り、礼拝し、それだけでなく、人々のために祈ることに取り組みたいものです。

 霊的働きを最も受けること=聖書を読むこと

最も霊的な働きを受けるためには、聖書をしっかり読むことが大事です。聖書は神の教えに満ちています。聖書をしっかり読む点について、プロテスタント教会がしっかりすべきです。西方のカトリック教会では、聖像や聖遺物に対して神の恵みを感じとろうとする傾向があります。東方のロシア正教会は「イコン」という聖人の絵をお守りのように身に着け、霊的働きを感じようとします。が、これは十戒の第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」に反しています。私達プロテスタント教会は、霊的働きを感じることは聖書でできると主張します。聖書を読むことを怠ると霊的な取り組みのための営みが足りなくなるということです。

 聖書の読み方

プロテスタント教会では、聖書を教理的(知的、理性的)に読もうとします。霊的な聖書は霊的に読むことが、大切だと思います。大事だと思えるところだけピックアップして読むだけのものではありません。カルヴァンは「聖書のイコン読み」(野村先生の命名)をしました。毎朝行う説教で与えられた聖書箇所の一字一句を逐一読んで、その奥にある世界、つまり、イエス様や神様の働きを思い起こし、しみじみ味わい、現代に広がっていることを語りました。(これによって、カルヴァン自身は、霊的な力を得たのだそうです。そして、この説教を集めたものが、理知的な書物でもある「キリスト教綱要」です。)ですから、聖書全体を深く読むことをしないで、パラパラめくって読むのは、間違った方法です。聖書は本来巻物ですから、全体やその流れを聞き、その世界を追体験するものです。プロテスタント教会で主張される「聖書のみ」とは、聖書をイコン(聖画像)のように大切に読み、しかも、皆で感動し、聖書を語り合い、神様の恵みの中へ喜んで押し出されていくということをも指しているのです。

 「聖書の分かち合い」

今日の旧約聖書ヨエル書3章では、「すべての人にわが霊を注ぐ(1節)」とあります。すべての人々が霊的に満たされるのです。そして、「息子、娘」といった未熟な者達でさえ聖書を説き明かすことができ、老人が夢を持って生き生きとし、若者は将来に希望を持ってビジョンを描き、奴隷としてひどい目に遭っている人が霊的に満たされて立ち上がることが預言されています。これは、聖書を分かち合うという霊的恵みの予告の箇所です。そして、「主の日」という終わりの日には、完成された「神の国」が来ることを予告しているのです。

 「神の国」

「神の国」は、ルカによる福音書17章では、「今、私達の間にある」とイエス様が言われたことを知らされました。また、それだけではなく、「神の国」の完成形は遠くにあって(未来)、私達は、今すでにある「神の国」から、希望をもって未来へと歩んで行けることを知らされました。私達は喜びと感謝をもって、「神の国」を見、人々に尽くしていくということを続けていきましょう。

以上

7月24日の説教要旨 「救い主の御名」 牧師 平賀真理子

箴言212431 ルカ9:4650

 はじめに

今日の新約聖書は、イエス様の2度目の受難予告の後に続いて書かれた箇所です。救い主としてのイエス様は、御自分が人々から苦しみを受けて殺されるという受難予告の内容を、弟子達がすぐには理解できない様子をご覧になり、念を押すために数を重ねて語られたのでしょう。それでも弟子達は理解するどころか、他の集団と全くで、「順位争い」に心を奪われています。そんな弟子達の心の内をイエス様が見抜かれました(47節)。

 当時の「子供」に対する考え

そこで、イエス様が弟子達を教えるために、例えとして弟子達に見せたのが「一人の子供」です。現代の日本の私達は、「子供」は将来の希望の象徴であり、大事な存在だと知らされています。しかし、当時は、残念ながら、「子供」とは取るに足りない存在、大事ではないと思われている存在でした。このように、価値がないと思われていた「子供」を示し、イエス様は「御自分の名のために」受け入れる覚悟があるかを弟子達に問われたのです。

 「わたしの名のために子供を受け入れる」

「イエス様の名のために」とは、イエス様を信じて、喜んで従っていく生き方をするためにという意味です。「イエス様の名を信じる」とは、イエス様の呼び名である「神からのメシア(救い主)」が、イエス様の本質であるとわかり、イエス様が「神からの救い主」と呼ばれるに値すると確信し、その呼び名が示す事柄を必ず成し遂げることがおできになると信じることです。イエス様をこの世に送った「神」は、他の宗教で言われる「神々」とは正反対の性格をお持ちです。「神々」は「大きい者、強い者」を重要視しますが、聖書で語られる「神」は、「小さい者・弱い者」等、この世の基準では価値が無いと見なされる者を愛してやまない御方です。その「神」から送られたイエス様も、「小さい者・弱い者」等、この世では価値が無いとされる者を愛してくださる御方ですし、そのイエス様を「救い主」と信じる弟子達なら、同じように「小さい者・弱い者」等、価値が無いと思われる者の代表である「子供」を歓迎できるはずだと教えておられます。

 「子供」の比喩

実は、価値の無い「子供」という言葉は、もうすぐ「十字架」刑で死ぬイエス様御自身の比喩であると読み取れます。「栄光の救い主」ではなく、全く価値のない「苦難の僕」として死ぬイエス様は、この世の基準では価値の全く無い者です。「順位争い」というこの世の基準に浸っている弟子達に、「苦難の僕」の定めの御自分を理解して信じて従ってほしいと願われ、更に、弟子達が父なる神様の御心に適う者になるようにとの願いが込められているのだと思われます。

 「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。(48節)

この聖句には補足が必要でしょう。「あなたがた弟子達皆の中で、この世の基準で最も価値がないと思われる者こそ、神の国の基準では、最も偉大な者である。」自分のことを最優先するこの世で最も価値がないとは、自分のことを最優先しないということでしょう。そういう者こそ、神の国では偉大な者として神様に祝福されるのです。その期待をよそに、競争をやめない弟子達はこの世的です。

 「ただ、神の国を求めなさい(ルカ1231

そんな弟子達にイエス様がまず伝えたかったのは、「ただ、神の国を求めなさい」という教えであり、それが神の国の民の使命だということだと思います。イエス様が常にそうなさっていました。弟子達の順位争いの議論から始まった、今回の件では、イエス様の御言葉は、最後には「イエス様や父なる神様を受け入れる」ことを重要視した答えになっています。一見、的外れな答えのようです。しかし、神様の御心を最優先し、神の国の基準に従って生きるという御自分の生き方を、イエス様は弟子達も倣うように常に願っておられたのだと思います。

 「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。(50節)

続いて、ヨハネという弟子が、イエス様の御名によって悪霊を追い出す者を見つけ、やめさせようとしたと報告します。しかし、イエス様は放っておくように言われました。ヨハネは、イエス様の恵みをいただくには、自分達のように全てを捨てて従う犠牲を払うべきだという考えで壁を作っています。一方、イエス様は弟子達の福音伝道の将来を見据え、味方が必要だと思われ、壁を作るのをやめさせました。自分の基準を第一とし、合わない人を排斥することこそ、主を十字架にかける「人間の罪」の一つです。私達は、周りの「逆らわない人々=味方」に自ら壁を作らず、彼らが主の真の弟子となるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

7月17日の説教要旨 「弟子たちの教育」 牧師 平賀真理子

イザヤ書53610 ルカ9:3745

 はじめに

イエス様は人々の噂をよそに、弟子達がイエス様をどういう御方かを本当に理解しているかということに心を配られました。それには、一番弟子のペトロが期待に応え、「神からのメシア(救い主)」(9:20)という信仰告白をしました。そこで初めて、イエス様は御自分の定めを、弟子達に信頼して打ち明けられました。

 「救い主」とは?

当時のユダヤ人達は、自分達の所に来る「救い主」とは、ローマ人(異邦人)の支配という苦境から自分達を解放し、ユダヤ人の国を打ち立ててくれる強い王様のような御方だと思い込んでいました。ただ一人、イエス様だけが本当の「救い主」とは、旧約聖書に預言された「苦難の僕」の定め(イザヤ52:13-53:12)の道を歩まねばならないと御存知でした。また、そのことで、多くの人々がイエス様を救い主として受け入れることにつまずくこともわかっておられました。初めて御自分の厳しい定めを弟子達に伝えた後、彼らを見ても、理解していないことは明らかでした。

彼らの理解が進むように祈られた結果、天上での出来事のような「山上の変容」(ルカ9:28-36)が3弟子の前で起こったのでしょう。天の父なる神様の声がして、3弟子達は神様が「救い主」と保証するイエス様に従うことをより一層強く決意することができたのだと推測できます。

 悪霊に取り憑かれた子の父親の報告

イエス様が神様から遣わされたことを証しする出来事「山上の変容」に呼応して、翌日、悪霊に取り憑かれた子とその父親が、山を下りたイエス様の所に助けを求めて来ました。そして、少し前に、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力を授けた(9:1)弟子達が、この子の悪霊には打ち勝てなかったことを、その子の父親から知らされました。

 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」(9:41)

弟子達に授けた御自分の力と権能がわずかな間に衰えたのか、悪霊の力が弟子達では手に負えない程だったのかわかりませんが、強力な悪霊が、まだ、人を苦しめていることをイエス様は嘆かれたのではないでしょうか。

 「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければナならないのか。」(9:41)

この「あなたがた」は弟子達を含む、その場にいた人々みんなに向けられた言葉です。イエス様は、御自分の力と権能を授けた弟子達が悪霊に打ち勝てない現実を前に、やっぱりイエス様じゃなきゃだめだという人々の思いを突き付けられています。けれども、イエス様には、この世での御自分の時がわずかだとわかっています。そして弟子達に教えても理解は進んでいない、そして人々はイエス様がずっといてくださると思って頼り切って来る、そんな期待と重圧の渦の中にイエス様はおられました。

 「神の愛」を源にした、主の御力と権能による癒し

このように、イエス様は大変な状況の中におられましたが、御自分の苦しみは脇に置いて、苦しんで御自分を頼って来る人を見ると助けずにはいられない「神の愛」に突き動かされ、悪霊を追い出して子供を癒し、心配する父親にお返しになりました。この強力な悪霊に、ただ一人打ち勝てたイエス様の力と権能は、やはり神様からのものだと人々は確信を深め、神様の偉大さに感動していました。

 2度目の受難告知

人々の感動の中、イエス様は突き付けられた課題にすぐに取り組まれました。「弟子たちの教育」です。もう一度、弟子達に御自分の定めをお告げになったのです。それは最初の受難告知より短いものです。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。(9:44後半)「人の子」とは、イエス様が救い主である御自分を指すときに用いられる言葉です。「人々の手に引き渡されようとしている」とは、後に実際に行われる「主の十字架」を預言しています。最初の受難予告の中の受難の部分だけ特に強調されています。

 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。」(44節)

神様のご計画により、弟子達は、主の御言葉を当時は理解できないように隠され、主に質問もできず、後に聖霊の助けによってわかるようになります。ただ、御言葉を「よく耳に入れておきなさい。」と教えられました。真理は人間にはすぐに理解されなくても、後に理解が深まるよう導かれます。私達も弟子として、福音の理解が徐々に深まることを祈りつつ、御言葉を覚えることに励みましょう。