今週のみことば

★歴代誌上

月曜日  1: 1~ 9:44  イスラエルの初期の歴史

火曜日 10: 1~29:30 ダビデの治世

★歴代誌下

木曜日  1: 1~ 9:31 ソロモンの統治

金曜日 10: 1~36:23 ユダの歴史

【歴代誌について】

歴代誌は、ヘブライ語聖書では、諸書と呼ばれる部分の最後に置かれ、「日記、年代記」という書名になっています。

申命記史家によって書かれた申命記史書(ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記)に対して、歴代誌史家によって書かれた歴代誌史書がこの歴代誌とエズラ記、ネヘミヤ記と考えられています。  

歴代誌はサムエル記と列王記の物語と並行し、王国時代の歴史が書かれています。(マタイ・マルコ・ルカの福音書がそれぞれの視点から同じ物語を書き記しているのと似ています。)歴代誌史書は、申命記史書より後の時代に編集されたと考えられ(前300-前200年頃)、申命記史書にはない記事も記されています。

旧約学者であるM.ノートは、歴代誌史家が特に伝えたかったことは、ダビデの王権と、主を礼拝する祭儀の場所としてのエルサレム神殿の正当性を証明することであると考えました。また、捕囚後にエルサレム神殿を再建し(エズラ記)、そこで礼拝する者達が、「イスラエル」の正統的な後継者であることを証明しようとしているのではないかと考えています(ノート, 353頁)。

(M.ノート『旧約聖書の歴史文学』山我哲雄訳、1988、第2部参照。)

今週のみことば

  • 列王記上

月曜日  1: 1~11:43  ソロモンの統治

火曜日 12: 1~16:34  王国の分裂

水曜日 17: 1~22:53  エリヤの預言の時代

★列王記下

木曜日  1: 1~13:25 エリシャの預言活動

金曜日 14: 1~17:41 エリシャの死からイスラエルの捕囚まで

土曜日 18: 1~25:30 イスラエルの捕囚からユダの捕囚まで

(マクグラス、180-182頁。)

【列王記について】

イスラエルの王国の歴史は、サムエル記上下・列王記上下に記され、七十人訳聖書(LXX)では、王国1,2,3,4と呼ばれています。ダビデとソロモンの時代に、一つの王国として栄えた「イスラエル」でしたが、ソロモンの死後(列王記上12章以降)、「イスラエル」は、「北王国(イスラエル)」と「南王国(ユダ)」に分裂します(BC931-922頃)。そして「北王国(イスラエル)」は、BC722年、「南王国(ユダ)」はBC587に滅亡します。その後、イスラエル(ユダ)の人々は、捕囚民としての生活を強いられますが、帰還が許されたあとに、エルサレム神殿を再建します(BC516-515頃)。しかし、それは「イスラエル」の国の再建ではなく、ペルシア帝国、ローマ帝国の支配下に置かれた「ユダヤ州(属州)」の中で生きる人々の歩みであり、再び「イスラエル」の国が再建されたのは、1948年になってからでした。

列王記は、なぜ「イスラエル」は分裂し、約束の地を失わなければならなかったのか、という問いに答えるようにイスラエルの歴史を語っています。しかし同時に、主は人々を憐れみ続け、預言者を遣わし、神様の言葉を示し、民が主に立ち返り歩む道を備え続けて下さっていることを伝える、希望の書物とも言うことができるのではないでしょうか。

今週のみことば

 ★ サムエル記下
月曜日         サムエル記上(予備日・復習日)
火曜日  1: 1~ 6:23 ダビデ,イスラエルの王として油を注がれる
水曜日  7: 1~12:31 ダビデの治世
木曜日 13: 1~19: 8 アブサロムの反逆
金曜日 19: 9~24:25 ダビデの治世の最後の時代
【サムエル記について】
サムエル記上・下は、七十人訳聖書(LXX・ギリシア語訳)では、「王国1・2」と呼ばれています。また列王記上・下が「王国3・4」となり、この4書に「イスラエル(イスラエルとユダ)」王国の歴史が記されます。
士師記までの時代には、イスラエルに王様はなく、主ご自身が王として、イスラエルの民を導きました。また士師や祭司、預言者を通して語ってくださいました。しかし人々は、周りの国々と同じような王制を求め、主はサムエルに、ベニヤミン族のサウルに王として油を注ぐことを許します(油を注がれた者=メシア=キリスト・民の贖いの為に神に任命された者という意味を持つようになります)。サウルがイスラエルの最初の王様として統治します(年代に関しては諸説ありますが、キリスト教学校教育同盟編『旧約聖書の教え』創元社2015ではBC1020~1000です)。しかし、サムエルが献げるべき犠牲をサウル自身が献げてしまったことにより、主はサウルを王位から退けて、サムエルは、ダビデに油を注ぐことになります。主は、ダビデとダビデの子孫を祝福することを約束し、イスラエルには、ダビデ以上の王様は現れなかったと言っても過言ではありませ。しかしそのダビデの人生でさえも、失敗と悔い改めが繰り返され、主の憐れみを受け続けた人生でした。ダビデの歌とされる詩編の中には、絶望の中においても、主の真実に希望を見いだす信仰があります。
またサムエル記には、ハンナの祈り、少年サムエル、ダビデとゴリヤテ、ダビデとヨナタンなど教会学校では良く読まれる物語が記されています。
(マクグラス、158-178頁参照。)


【イスラエルとユダについて】
イスラエルは時代によって、様々な意味を持っています。たとえば、①ヤコブの別名が〔イスラエル〕創32:29であり、②ヤコブの子孫が「イスラエル」の12部族であり、「イスラエル」の共同体とされてきました。「イスラエル」の12部族は、神様の約束の土地であるカナンの地に入ると、③約束の地全土を『イスラエル』と呼んでいました。
しかし、北の土地に住む部族(サウルの支持者)と南の土地に住む部族(ダビデの支持者)の間に戦いが起こった為、④北の土地と北部の部族を{イスラエル}⑤南の土地と南部の部族を{ユダ}と呼ぶようになります。
しかしダビデとソロモンの時代は、⑥{④イスラエル}も{⑤ユダ}も、「②イスラエル」/『③イスラエル』という一つの国(統一王国)でした。
その後「イスラエル」王国は分裂して、⑦《北王国イスラエル》と⑧《南王国ユダ》となります。
またイスラエル人とは現在のイスラエルの人々のことを指すと同時に、聖書の時代では、アブラハム・イサク・ヤコブの子孫、つまり「イスラエル」の人々を指します。またユダヤ人とはユダ部族だけを指す言葉ではなく、北王国イスラエルの滅亡後に南王国ユダだけが残ったために、やはり「イスラエル」の人々を指す言葉として用いられます。ヘブライ人/ヘブル人とは「向こう側から来た者」という意味で、異国民としての「イスラエル」を指し示すために、イスラエル人=ユダヤ人=ヘブライ人/ヘブル人であり、文脈の中で何を強調しているかによって使い分けていると考えると分かりやすいかもしれません。

【サムエル下7章から】
「主なる神よ、取るに足りない私と、私の家を、ここまで導きくださるのは、なぜでしょうか。主なる神よ、あなたの目には、これさえも小さなことにすぎません・・・それゆえ、僕はこの祈りをあなたに献げる勇気を得ました。」

今週のみことば

★ ルツ記
月曜日  1: 1~ 4:22 ナオミ・ルツ・ボアズ、ダビデの系図

★ サムエル記上
火曜日  1: 1~ 7:17 サムエルの誕生と若い時代
水曜日  8: 1~15:35 王政の設立とサウル王の終わり
木曜日 16: 1~24:22 ダビデ王の始まり
金曜日 25: 1~31:13 ダビデの歩みとサムエル・サウル達の死

【ルツ記について】
ルツ記は、ヘブライ語聖書においては「諸書」に分類され、5つのメギロート(ユダヤの祝祭に朗読された祭りの巻物:雅歌、ルツ記、哀歌、コヘレトの言葉、エステル記)の一つとされています。
ルツ記の物語の舞台は、士師の時代です。飢饉のために、主の約束の地を離れて異国の地へと移動した一家の苦難の歩みと、主の約束の地へと戻り、再び主の祝福を受けるまでの物語が記されています。

【ルツ記の登場人物と人生の選択】
1章
エリメレク(ナオミの夫):主の地離れて、外国の地モアブに住む
マフロン・キルヨン(ナオミの息子達):モアブの地の女性との結婚
ナオミ:ユダへの帰郷、嫁達を手放す、ルツの決断を受け入れる
オルパ(キルヨンの妻):ナオミの言葉に従い、自分の故郷へ帰郷
ルツ(マフロンの妻):ナオミの言葉に従わず、ナオミと共にユダの地へ
2章
ルツ:見知らぬ土地でナオミと二人の生活を支えるために働く
ボアズ:ルツに主の報いがあるように、厚意をかける

3章
ナオミ:ルツをボアズのもとへと遣わす
ルツ:ナオミの命じたことに従う
ボアズ:主の導きに委ね、正しい手続きを行うために待つ
4章
親戚の人:エリメレクに関する権利を放棄し、ボアズに譲る
ボアズ:エリメレクの土地・ルツを「贖う者」となる

【ルツ記から】
ルツの言葉1:16-17「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」
ナオミの言葉1:20-21 ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」
ボアズの言葉2:11-12 ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」
ナオミの言葉2:20 ナオミは嫁に言った。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」ナオミは更に続けた。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」

【主のご計画】

ボアズは、責任を果たす者、もともとの言葉では、「贖う者」「買い戻す者」となりました。 ボアズはルツと結婚し、主はルツを身ごもらせ、「オベド、奉仕する者」という意味の名を持つ男の子が与えられました。このオベドからエッサイが生まれ、エッサイからイスラエルの王となるダビデが生まれ、その約1000年後に、イエス・キリストが誕生します。マタイによる福音書1章のイエス・キリストの系図には、しっかりとこのボアズだけでなく、ルツの名前も刻まれています。また外国人であったルツの贖い主とされたボアズの家系から、全ての人間の贖い主であられる主イエスが誕生するという、主の美しいご計画はここにも示されているのではないでしょうか。

今週のみことば 

 ★   士師記
月曜日  1: 1~ 3: 6 不十分な土地征服と不服従・反抗
火曜日  3: 7~ 5:31 オトニエルからバラク(第1期~第3期)
水曜日  6: 1~12:15 ギデオンからアブドン(第4期~第5期)
木曜日 13: 1~16:31 サムソン(第6期)
金曜日 17: 1~21:25 イスラエルの道徳と霊的堕落
(The complete Jewish Study Bible参照)

【士師記について】
「士師」という言葉は、「裁きを下す人(Judge)」のような意味合いで理解できますが、士師記においては危険からの救出者、罪と反抗に陥っているイスラエルを助け出す存在として描きだされています。
士師記は、イスラエルの人々の土地取得からイスラエルに王様がたてられ、国家を形成するまでの歴史(約400年)が記されている書物です。
またヨシュア記が、神の民であるイスラエルを「選ばれた一つの民」としての視点で歴史を描いているとするならば、士師記は「イスラエルの諸部族」としての視点からその歴史を描いていると言えます。

【大士師・小士師】
大士師と呼ばれている人物は、オトニエル、エフド、デボラ(バラク)、ギデオン(アビメレク)、エフタ、サムソンです。一方、小士師と呼ばれているのは、シャムガル、トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドンです。大士師は、英雄的人物、「救済者」であり、その物語は「英雄物語」とも呼ばれています。「大」「小」の分類の仕方は、その人物についての情報の量や、伝承の性格の違いが根拠となっていると考えられますが、小士師の役割は裁判的な特徴をより持っているとまとめることもできます。
(マクグラス,143-144頁/ H.W.ヘルツベルク『士師記(ATD)参照。)

今週のみことば

今週のみことば 
★ ヨシュア記:
月曜日   1: 1~ 5:15   土地取得の準備
火曜日   6: 1~12:24 土地取得
水曜日 13: 1~19:51  土地の分配
木曜日 20: 1~21:45  逃れの町とレビ人の町
金曜日 22: 1~24:33  ヨシュアの最期・告別とシケム契約

【ヨシュア記について】
ヨシュアは、「主は救い」という意味を持つヘブライ語の男性名です。(ギリシア語はイエス-ス。イエス様のヘブライ語名もヨシュアです。)
ヨシュア記では、40年の荒野の旅を終えて約束の地に入り、その地における最初の征服の物語と12部族への土地の分配が記されます。また主の約束がすべて実現したのち、ヨルダン川東岸の諸部族は自分の所有地に帰ります。ヨシュアの告別、シケムでの契約更新があり、ヨシュアの死、エジプトから携えてきたヨセフの骨の埋葬、アロンの息子のエルアザルの死の記述をもって、ヨシュア記は閉じられます。
ヨシュア記の冒頭には、神様からヨシュアへの言葉があります。「…私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。強く雄々しくあれ…(1:5-6)。」神様はいつも「恐れるな」と励まし続けてくださいました。
そして「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている(13:1)。」と年齢に関わらず、神様が与えて下さった使命を全うすることを望まれました。
ヨシュアもイスラエルの人々に向かって「あなたたちは、いつまでためらっているのだ。あなたたちの先祖の神、主がすでに与えられた土地を取りにいくだけなのだ(18:3)。」と信仰の言葉をもって励ましました。
ヨシュア記は、主の戒めに忠実であることによって祝福がもたらされること、不従順に対しては主の怒りがあることなど、申命記で語られてきた主の祝福と呪いの両面が繰り返し語られている書物でもあります。
(参考文献:Hendrickson Bibles, The complete Jewish Study Bible, Hendrickson Pub./ Messianic Jewish Pub., 2016)

【ヨシュア記24章より】
「…『あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。』民は応えた。『主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。』…」

今週のみことば

★ 申命記:説教・律法・祝福と呪い
月曜日  1: 1~ 4:43 シナイ山から約束の地までの旅の要約
火曜日  4:44~18:22 律法(十戒・礼拝・祝祭日など)
水曜日 19: 1~28:68 律法(逃れの町・規定・命令など)
木曜日 28:69~30:20 契約の更新
金曜日 31: 1~34:12 ヨシュアの任命・モーセの最期
              
【申命記について】
申命記(Deuteronomy)という書名は、「律法の書を書き写し(申17:18)」の部分が、七十人訳聖書(LXX)において「第2の律法」と訳されたことによると言われています。また、ヘブライ語聖書の申命記の書名は、( デバリイム/言葉たち)です。
申命記はモーセ5書の最後の書物にあたり、特に出エジプト記とレビ記に記録されている律法を繰り返し語ります。モーセの人生の最後の数ヶ月にイスラエルに語った事柄として記され、シナイから約束の地までのイスラエルの民の旅の要約や後継者の任命、モーセの死が記されています。
また申命記は文学的には前の4書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記)より、次に続く歴史書(ヨシュア・士師・サムエル記・列王記)に位置づけられるとも考えられています。またヨシュア記から列王記(ヘブライ語聖書では前の予言者の部分)を合わせて、「申命記史書/申命記史家による歴史著作/申命記主義的歴史書」と呼ぶこともあります。(マクグラス,121頁・フォン・ラート『申命記(ATD)』、序論参照。)

【シェマーとは】
申命記6章4-5節の言葉「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」はシェマー(聞け)/シェマーの祈りと呼ばれ、ユダヤ教の朝夕の祈りの中心です。主イエスも最も重要な戒めとしました(マタ22:34-40、マコ12:28‐34、ルカ10:25-28)。

 【愛の言語】
人は、それぞれの持っている愛の言語が違うと考えられています。愛を伝えたつもりでも、相手に愛していることが伝わらないのは、お互いに「愛されている」と感じる仕方が違うからかもしれません。
ゲーリー・チャップマン『愛を伝える5つの方法』いのちのことば社、2017年。によれば、愛には5つの言語があるとしています。
1. 肯定的な言葉(感謝・称賛・励まし・優しい言葉など)
2. クオリティ・タイム(相手の為だけに使う共に過ごす時間)
3. 贈り物(目に見える形や物)
4. サービス行為(相手がしてもらいたい事をやってあげる事)
5. 身体的タッチ(相手が必要としているスキンシップの形)
「愛する」とは、自分が愛したいように愛することではなく、相手がどのように愛されたいのかを理解し、相手に伝わる方法で愛することなのかもしれません。
主イエスが私たちに期待されることは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神を愛し、隣人を愛することです。

今週のみことば

★ 民数記:シナイからカナンの地の入り口までの荒野の旅
月曜日  1: 1~ 4:49 第1回人口調査と氏族の詳細
火曜日  5: 1~10:10 規定の指示と幕屋
水曜日 10:11~20:13 シナイ出発と荒野での出来事
木曜日 20:14~26:65 迂回の歩みと第2回人口調査
金曜日 27: 1~36:13 後継者と主の命令・法

【モーセ5書/律法(Torah)全体の区分の一例】
1.創 1章-11章  「世界と諸民族の起源」
2.創12章-50章  「父祖とイスラエルの歴史のはじめ」
3.出 1章-18章 「エジプト滞在と脱出によるその結末」
4.出19章-民10:10 「イスラエルのシナイ滞在」           5.民10:11-申34章                          「シナイから約束された地の入り口までのイスラエルの行進」      (エドモン・ジャコブ『旧約聖書』白水社、2006年、41-42頁。)

【民数記について】
民数記は、ヘブライ語聖書の「荒れ野にて」という名の通り、約40年の荒野の旅の出来事を中心に、5書の特徴でもある様々な規定や暦、土地取得に関する話が記されています。約束の地を目前にしながら大きく迂回して、ようやくヨルダン川を渡る手前に辿り着くまでの話が記されています。またイスラエルの民族の数が多く記されているため、七十人訳聖書(LXX)ではἈριθμοί (アリソマイ=数・Numbers)とされ、日本語の聖書も民数記となっています。

【27章における2つの継承物語】
① 娘たちの土地継承
ツェロフハドには息子がなく娘たちだけでしたが(民26:33・1歴代7:15)、娘たちが指導者と共同体全体の前に進み出て、名の継承を申し出たことによって、一族の嗣業の土地(神様との契約の証し、祝福の証しでもある土地)の授与が約束されます(民27:1-11)。
このことは民数記36章において、「相続人が女性である場合の規定」として確立され、家族に息子がいない場合でも、主から与えられた嗣業の土地を氏族ごとに固く守ることが出来るようになりました。  
そして、ヨシュア記17:3-4において、確かにツェロフハドの娘たちが嗣業の土地を受け継いでいることが確認できます。
② モーセの死の宣告と後継者ヨシュアの任命・メリバの水
モーセの最期の物語とヨシュアの任命は、申命記31章からも詳しく記されていますが、死の宣告をされたモーセが、ここで真っ先に願ったことは、残される共同体の為に、次の導き手となる後継者が与えられることでした。主はこの祈りに応え、ヨシュアを任命しました。
モーセが約束の地に入れない理由として「メリバの水(民20:1-13)」の出来事が語られていますが、同じ理由でアロンも約束の地に入る前に亡くなっています(民20:22-29)。「メリバの水」とは、モーセとアロンの姉妹であるミリアムが死に、再び飲み水がなくなった民が、モーセとアロンに反抗した際の場面を指します。主はモーセに「・・・杖を取り・・・岩に向かって、水を出せと命じなさい・・・」と指示しますが、モーセは主の言葉に従わず、杖で岩を2度打って水を出しました。
主が最初にメリバで水を与えて下さった時は(出17:1-7)、「ナイル川を打った杖(出7章)を持って行き、岩を打てば水が出る」と指示され、モーセは杖に与えられた力を再び経験します。しかしこの経験の過信が、神の言葉を軽視する誘惑の一つになったのかもしれません。

今週のみことば


 ★ レビ記:幕屋・礼拝についての律法、規則
月曜日  1: 1~ 7:38 犠牲の制度
火曜日  8: 1~10:20 祭司の聖別
水曜日 11: 1~15:33 清いものと穢れたもの
木曜日 16: 1~16:34 贖罪日
金曜日 17: 1~27:34 イスラエルの民の生活についての規定

【レビ記について】
◎レビ記とは、幕屋での礼拝についての律法や規則について書かれ、レビ族(アロンとその子孫に与えられた幕屋の礼拝を執り行う任務やイスラエルの民の間で聖性を維持する責任が与えられた部族)に由来する。またレビ族に関しては、出エジプト記6:14-26、民数記26:57-62に記されている。

◎レビ記の中心的主題は「聖性」であり、神が聖であるように、神の民は聖でなければならない。レビ記は神の民の側の聖性がどれほど重要であるかを伝え、神との関係を損なう人間の罪の深さ、その罪の贖いが必要であることを教える。

◎レビ記の重要な主題である「犠牲」は、新約聖書において、イエス・キリストが人間の罪をあがなう完全な犠牲になったことへとつながっている。(cf.ヘブライ人への手紙、8章、10章など)

(A.E.マクグラス『旧約新約聖書ガイド』本多峰子訳、教文館、
2018年、96-97頁より引用・要約。)

【レビ記10章説教 関連聖書箇所】
① ロマ書14章「・・・主の為に重んじ・・・主の為に食べ・・・主の為に 食べない・・・主の為に生き・・・主の為に死ぬ・・・私たちは主のもの」

② 2テモテ4:2
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい・・・。」

③ 詩編119:105
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」

④ ヨハネ1:1,17 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた・・・」

⑤ ヨハネ14:6,26-27 「イエスは言われた。『わたしは道であり、  真理であり、命である。』わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」・・・『父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和を あなたがたに残し、わたしの平和を与える。』

⑥ ヨハネ20:31 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、 イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

⑦ ヘブ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

今週のみことば

★ 出エジプト記:モーセの召命、出エジプト、シナイ契約・幕屋
月曜日  1: 1~ 7: 7 イスラエル苦しみとモーセの最初の80年
火曜日  7: 8~13:16 10の災いと過越祭、エジプトからの脱出
水曜日 13:17~18:27 葦の海の奇跡と荒れ野の旅のはじまり
木曜日 19: 1~24:18 シナイ契約
金曜日 25: 1~40:38 幕屋建設にむけての歩み

【出エジプト記について】
◎ 1章において創世記の時代からの移り変わりが示され、2章にはイスラエル人でありながらエジプト王家の一員として歩まなければならなかったモーセの最初の40年と逃亡先の異国の地でミディアン家の一員として歩んだ次の40年について記されています。そして7章8節からは、イスラエルの人々を約束の地へと導く為の出エジプトの出来事と荒れ野の旅を任されたモーセの最後の40年が始まります。

◎ 主の過(すぎ)越(こし)について12章から記されています。過越の祭りは、 ペサハ(過ぎる・過越)と呼ばれ、ユダヤ暦(現在は5779年)ではニサンの月(現代の3月~4月)に出エジプトの出来事を忘れないために毎年守られています(2019年は4月20日から27日)。
マタイ26:17-30(他マコ14、ルカ22、ヨハネ13)には、過越の食事の中で、主の晩餐がなされたことが記されています。またその中で主イエスは、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である(ルカ22:20)。」と語られました。

◎ 19章から24章を中心に、シナイ契約(シナイの山での結ばれた契約)と言われています。「十戒」については20章に記され(申命記4-5章にもあります)、24章において契約の祭儀と契約の食事がなされて、シナイ契約の締結となっています。

【契約についての一考察】
W.ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典‐響きあう信仰』小友聡/ 左近豊訳、日本基督教団出版局、2015年より抜粋。
「…(出19-24章にあるようにシナイ山で制定された)この双務的献身を約す契約は、聖書が根本的に(孤高の神ではなく)関係性の神について語っているものであることを確証している。この関係性は、旧約聖書の内に、興味深く、生成力を持つものを生じさせるとともに、信仰に関する困難をも生じさせる。YHWHによってアブラハムとの間(創15:7-21)、ノアとの間(創9:8-17)、そしダビデとの間(サム下7:1-16)に結ばれた片務契約は、この契約を補完するものである。…(ブルッゲマン、181頁)」

【出エジプト記24章より】
「モーセは血の半分を取って小鉢に入れ、血のもう半分は祭壇にうちかけた。そして契約の書を取り、民に読み聞かせた。すると彼らは、『主が語られたことをすべて行い、聞き従います』と言った。そこで、モーセは血を取り、民の上に振りかけていった。『これは、主がすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である』。
さて、モーセは、アロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老と共に上って行って、イスラエルの神を仰ぎ見た。…神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけなかったので、彼らは神を見つめて、食べ、また飲むことができた。」