「恵みによって召し出す神」  牧師 佐藤 義子

/nエレミヤ書1:4-8 /nガラテヤ書1:11-24 /n今、読んでいただいたエレミヤ書には、若き日にエレミヤに臨んだ神様の言葉が記されています。それは「私はあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生れる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」というものでした。この時エレミヤは、「わたしは若者にすぎません」と、神様からの召命を拒みますが、神様は「若者にすぎないと言ってはならない。誰のところへ遣わそうとも、行って私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。」と語りました。 /n「母の胎内にある時から選び分け」 そして、今日のガラテヤ書でも、パウロがこのように言っています。 「しかし、私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(2:15)と。 パウロは、イスラエル民族として純粋な血筋の中で生れ、律法を守る点では熱心なユダヤ教徒であり、ガマリエルというユダヤ教の大指導者のもとで訓練を受けてきました。彼はその熱心さのゆえにキリスト教徒を迫害しました。その彼が、迫害を目的にダマスコの町に向かっていた時、突然、天からの声を聞いたのです。それはイエス様の「なぜ、私を迫害するのか」との言葉でした(使徒言行録9章)。彼はこの出来事を通して180度変えられ、後に、今読んだように、「私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出して下さった神」と、神様を崇めているのです。 /nユダヤ教とキリスト教  ユダヤ教で最も大切にされるのは「律法」です。律法を守ることこそ救いの道であり、天国に行く道でした。ユダヤ人の「シェマー」と呼ばれる基本的信仰告白は、「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5)であり、神を愛することは、十戒を中心とした律法を守ることでした。 ところがキリスト教は、十字架で殺されたイエスこそ神から遣わされた神の子・救い主であり、神はこのイエスを死から復活させ、神の右に挙げられ、約束の聖霊を送って下さった。だから悔い改めて、イエスを「救い主」と信じる者は救われる。信仰こそ救いの道と宣べ伝えました。 律法を行うことで人は救われると教えてきたユダヤ教に対し、「イエスをキリスト(救い主)と信じることこそ神の国の民とされる道である」ことが宣べ伝えられたのです。 パウロは、(神を冒涜した罪によって殺された)イエスを、神の子と信じて、自分の全存在を支配する「主」として仰ぎ、従うように教えるキリスト教は、ユダヤ教の敵であり、撲滅すべき相手と考えて迫害したのです。その彼が、今や、「自分は母の胎内にある時から選び分け、キリスト教伝道者として外国人に遣わされている」と告白しています。 /n恵みによって召し出す神 神様を良く知らない時は、何でも自分の意志や考えでやっていけると思います。しかし信仰が与えられ、神様のご計画があることを知らされた時、私達はエレミヤのように、そしてパウロのように従わなければなりません。又、神様の御計画を知りたいと願い、祈るように導かれます。例えば、全てのことには神の定められた時がありますが、(コヘレトの言葉3章)、私達は「今がその時だろうか」と祈ります。自分の願いでなく、神様の御心を第一に考えられるようになります。パウロを恵みによって召し出した神は、私達をも恵みによって召し出されるお方です。

「万事を益とされる神」  牧師 佐藤義子

/n詩編118:5-9 /nロマ書8:28-32 /nはじめに   今日のロマ書8章28節は「神を愛する者達」との言葉から始まっています。聖書は、神様の愛について沢山書かれており、毎週私達は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである</span>。」との言葉を「赦しの言葉」として聞くことが出来ます。神様の愛がどれほど大きいものか、聖書を読めば読む程、私達は神様から愛されていることを知るようになります。 しかし今日の聖書は、「私達人間の、神様への愛」を与えられた人達が主語です。神様を信じて、又、御子イエス様を信じてバプテスマを受けたクリスチャンは、神様から愛が降り注がれていることを知った者として、その応答として神様を愛するようになります。 「神様を愛する者」とは、神様が共にいて下さることを忘れず神様を求め、神様に信頼し、神様に従い(御言葉に従い)、神様を礼拝することです。 /n神さまの御計画   聖書はさらに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神を愛する者たち</span>」のことを「<span class="deco" style="font-weight:bold;">御計画に従って召された者たち</span>」と言い換えています。この教会に導かれて今、ここにおられる方の中には、「自分で決めて」ここにいると考える方もいらっしゃるでしょう。確かに、そのようにも言えます。しかし聖書は、あなたが神を愛する者となったのは、「神様の御計画の中にあった」と言うのです。そして、そのように神様が導いて下さったと言っています。 /n万事が益となるように働く   聖書はさらに、神様の御計画の中で導かれて、神様を愛する者とされた者たちには、その身に起こるすべてのことが益となるように共に働くといっています。多くの宗教は、信じれば良いことが起こる(ご利益がある)と勧誘します。聖書では、神様を信じれば、つらいことは何もなくなり良いことしか起こらないなどとは言いません。クリスチャンになっても、いろいろなことが起こります。(使徒パウロの人生のように・・)。苦しいこと,つらいこと、人にはわかってもらえないこと、生活の苦しみ、人間関係の苦しみ、家族の重荷、孤独や不安、さまざまな障害・・などが起こり得ます。しかし人生の中でどのようなことが起こったとしても、私達を導かれる神様は、それらすべてのことを用いて、私達にとって真の益である「救い」と「真実の命」をもたらしてくださる・・。 そのことを、信仰を与えられたクリスチャンは知っているというのです。  困難や艱難は、それ自体喜ばしいものではありません。しかしそれらが、私達を、神様の目的に導くように用いられるというのです。ですからクリスチャンは、どのような事柄に遭遇しても、驚いたり、あわてたりすることなく、それらが自分自身の救いへの祝福へと変えられることを確信して歩み続けることが出来るのです。 /n御子の姿に似た者 29節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は前もって知っておられた者達を、御子の姿に似た者にしようとあらかじえ定められました。</span>」とあります。神様は私達の命の根源であり、神様の永遠の思いの中に、私達を受け入れる場所があり、私達は神様から前もって知られていた存在であると記されています。その私達を、神様は「御子キリストに似た者とする」ことをあらかじめ定められたと言うのです。神様は、イエス様の生き方を私達の生き方の原型となさり、そのように生きるように私達の使命を定められました。 /n神は私達の味方 31節に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神が私達の味方であるならば、誰が私達に敵対出来ますか。」</span>とあります。私達は罪のため神様との断絶関係にありましたが、イエス様が十字架で死なれたゆえに、私達は赦されて神様との和解が与えられました。イエス様を下さったこの神様の愛を受け入れた者は、神様の子とされ、神様との交わりが与えられ、神様は「私達の神」となって下さったゆえに「私達の味方」です。神様が私達の味方であるなら、誰もこの交わりを破れません。私達は全ての敵に対して「勝利者」です。神様に愛され神様を愛する者の道を、確信をもって共に進んでいきましょう。

「命の光を持つ」    牧師 佐藤義子

/n詩編98:1-9 /nヨハネ福音書8:12-20 /nはじめに 今日の聖書で、イエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。</span>」(12節)と言われました。世とは、この世です。私達が生きているこの世界全体のことです。私達が生きているこの世は、明るいニュースより暗いニュースを聞くことが多く、新聞の社会欄に目を通せば、悲惨な出来事、罪深い出来事が毎日のように報道されています。いじめから自殺に至るケース、児童虐待、殺人や強盗、ストーカー事件、DVの問題、過労死の問題、原発事故による人体への影響の恐怖、家も仕事も失い生きる希望を失っている方達、又、ネット社会が生み出しているさまざまな問題、さらに世界に目を向ければ、テロの恐怖や、今、尚、死傷者が絶えないシリアでの内戦、そこから逃げる難民の問題など、私達の住むこの世は、暗く病んでいると言わざるをえません。  さらに、一見幸せそうに見える家庭の中にも、家族の思いの行き違いや、夫婦・親子・嫁・しゅうとめの関係などで悩んでいる家族が大勢おります。 /nヨハネ福音書1章1節- 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった</span>。」 ここで「言」と訳されているのは、イエス・キリストのことです。イエス様は神様の御子であられ、神様と共におられましたが、神様から遣わされて、この世にこられました。ヨハネ福音書ではイエス様のことを「光」と呼び、この世のことを「暗闇」と呼んでいます。  今日の聖書は、暗闇の、この世で生きている私達のもとに、イエス様は「光」として来て下さった。だから私達がイエス様を信じて従うならば、私達はもう暗闇の中を歩かなくてもよいばかりでなく、私達の内にも光を持つようになるというイエス様の素晴らしい約束です。 暗闇の恐ろしさ、不安を知る者にとって、光が約束され、光と共に歩くことが出来て、しかも私達自身がその光をもつことが出来るというイエス様の約束は、何と素晴らしい約束でしょう! /n信じない敵対者  ところがイエス様を信じないイエス様の敵対者達は、自分で自分のことをいっても、それは信用ならないと反論しました。そこでイエス様は、語っていることが真実である証拠として、三つのことをいわれました。一つは、御自身がどこから来てどこに行くのか知っていること(あなた達は知らない)。二つ目に、御自身は裁かないこと(あなた達は、肉に従って裁いている)。三つ目に、イエス様は上(=天)に属していること(あなた達は下(=この世)に属している)を挙げられました。 /n光のみなもと イエス様が暗闇の中に光として来られた時、その光をどこから得たのか、その源をご存知であるから、イエス様は私達を導くことがお出来になるのです。生まれながらの人間は、自分がどこから来てどこにいくのか知らないまま生きているので、闇の中を手さぐりで歩くように、どのように生きるべきか道を見つけられずに悩み、不安と恐れの中で、さ迷うのです。特に「死が恐怖である」のは、自分がどこへいくのかわからないから恐れるのです。しかし、イエス様という光を信じて従っている者は、イエス様がどこから来られてどこに帰られたかを知り、イエス様のおられるところに信じる者も招かれていることを確信しています。 /nイエス様の証人  イエス様はご自分の証言に対して、ご自分をこの世に遣わされた父なる神様も共に証言されるので、御自分の言葉は真実であると説明されました。イエス様は何をするにも語るにも、常に神様から聞き神様が望まれることを行なわれました。この光であるイエス様に従う者は、命の光をもって歩む者とされ、その結果、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制が生まれて、光の子として生きるようになるのです。

「救いの実現を見る」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書 52:10-15 /nルカによる福音書 2:22-38     /nはじめに   本日は、クリスマス礼拝です。イエス様のご降誕をお祝いする日です。 イスラエル民族に、救い主が誕生することが旧約聖書の預言書に書かれており、イエス様こそがその御方=何百年も待ち望まれた救い主であった事が、新約聖書に証しされています。 「罪に陥り苦しんでいる人間を、救う」と神様が約束してくださったこと、その約束を、表面上の言葉で終らせるのではなく、神の御子でありながら、人間の肉体をとって人間の罪を肩代わりする救い主を、この世に送って下さったこと、それが「救いの実現」ということです。 その始まりが、イエス様のご降誕です。本日は、イエス様誕生後の、両親と二人の証人についての御言葉をたどっていきたいと存じます。 /n低いところで   聖霊が、マリアやエリサベト(洗礼者ヨハネの母)に降り、救い主イエス様のご降誕が、神様のご計画に従って進められたことを前回学びました。へりくだった心を持ち、何よりも神様の事を第一に思う女性達の信仰が、聖霊の働いて下さる基盤になったことを知らされました。神様の栄光を受けられる神の御子の誕生ならば、地位の高い家庭とか贅沢な場所での出生を想像しがちです。ところが実際は旅路の途中、しかも家畜達と同じ場所での誕生です。しかしこれこそが聖書でしばしば語られる「弱い低い所」に来られる神様の本当の性質を示していると言えます。そして誕生を初めて知る恵みに与ったのは、社会から蔑まされていた貧しい羊飼い達でした。 権力者の横暴と一般民衆の苦しみと忍耐という、この世の罪ある状況の中に、神様は御子イエス様を誕生させたのです。 /n二人の証人  今日の聖書は、一般民衆であったヨセフとマリアが、貧しいながらも律法に忠実に従い、生まれたイエス様を聖別し、規定の献げもの(本来は小羊。ヨセフは二羽の山鳩か家鳩)の為に、エルサレム神殿に行った時の出来事です。両親はそこでイエス様について「証し」をする二人の人に出会います。(イスラエル社会では、証人が二人以上いて、初めて公に承認される)。 最初の証人・シメオンは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">正しい人で信仰が篤く、聖霊が彼にとどまって</span>」いました。「聖霊」によってシメオンは、「イスラエルの民の救いを待ち望み、主が遣わすメシアに会うまでは死なない」とのお告げを受けており、神殿に連れて来られたイエス様を見て、メシアとしてイエス様を腕に抱き、神様を讃美します。讃美の内容は、主が約束通り救い主に会わせて下さったので安心してこの世を去ること。もう一つは、救いを待望したイスラエルの預言者としての役目から解放されることでした。そしてこの救いは、イスラエル民族を始めとして、全ての民の救いに広がっていくものであると告げています。 二人目の証人は、女預言者アンナです。やもめであり、高齢でしたが、神殿から離れず、神様の事を第一に過ごしていました。このアンナが、幼子イエス様に近づいて来て、神様を賛美して、「救い主」に出会えた恵みをエルサレムで救いを待ち望んでいる人々に伝えました。 /n救いの完成 イエス様のご降誕という救いの実現を、後の時代の私達も、神様の御計画と信じることが出来るように、そして、救いの完成は、主の再臨の時と言われますが、その時迄に、主の御前に義しい信仰を積み重ねていきたいと望みます。弱く、この世のさまざまなものに心を奪われがちな私達ですが、クリスマスのこの時期、神様の深い愛によって赦されて救いに与っていることを覚え、一層の感謝と信仰を献げたいと願います。 イエス様のご降誕という救いの実現を、(シメオンやアンナは肉眼で見ることができたのですが、その時代に生まれていない、後の時代の私たちは、肉眼で見ることはできなくても、知らされて理解することはできます。このできごとを、)ただ聞かされて知っているのという段階ではなくて、神様のご計画と信じ、神様の啓示が明らかにされているのだとして、心の目で正しく見ることができるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

「日々、新たにされる人生」  牧師 佐藤義子

/n詩編116:1-14 /nコロサイ書3:1-11     /nはじめに 今、教会のこよみでは復活節です。イエス様は、私達の罪が赦される為に十字架にかかって下さった、その受難を覚える受難節から、今や、死に勝利してイエス様が復活された、その喜びの中に私達は置かれています。寒くきびしい冬を過ごした私達は、今、庭の草木も芽吹き、花々が咲き始めた春を迎えています。  イエス様の有名な言葉の一つに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。</span>」があります。 一粒の麦が地中に埋もれて古い命を失うならば、やがてその殻を破って、新しい命が生れ出るように、この言葉は、イエス様御自身を一粒の麦に譬えて、イエス様が、人間を罪から救い出して永遠の命を与える為には、イエス様はどうしても死ななければならないことを意味した言葉です。そして予告通り、イエス様は十字架の死を受け入れられ、神様によって復活の命が与えられました /n死と新しい命にあずかる  聖書が繰り返し私達に教えているのは、イエス・キリストを信じた者は、イエス様の十字架の死にあずかり、それと同時に、イエス様が復活されたその復活の命にあずかっているということです。与る(あずかる)という言葉は、一般的には「分け前にあずかる」というように使われます。信仰の世界では、神様の恵みが雨のように降り注ぐ中で、その恵みを、私達も戴いているという意味で「恵みにあずかる」と使います。同じように、私達は、イエス様の死にあずかり、復活の新しい命にあずかっているのです。 /n私達生きている者が「死ぬ」ということ  今日のコロサイ書に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから</span>、」とあります。キリストを知る前の私達(すなわち「種」の時)は、本能に従って生きており、この世の価値観に影響され、そのもとで、不自由な生活をしていました。しかし、私達がイエス様のことを信じた時、「種」であった私達は土の中に入れられて、種としては死んだのです。 それは、私達がそれ迄生きていた地上の世界のことがらに対して死んだということであり、地上のことがらに一喜一憂しなくなったということです。そして種の殻を破り、新しい命として生まれました。それは、地上にではなく「上にあるものを求めて」(1節)いく生き方に変えられたのです。「上」とは、「キリストが神の右の座についておられる」場所です。だから、「上にあるものに心をとめ、地上のものに心を引かれないように」生きていくのです。なぜなら、キリストと共に復活したということは、古い自分は、すでにキリストと共に死んでいるからなのです。 /n古い人を脱ぐ 同じことが9節でも言われます。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着けなさい</span>」。古い人を捨てるとは、「種」の時代に身に着けていたものを捨てることであり、今度は、造り主(神様・イエス様)の姿に見倣う、その教えに従って生きるように命じています。捨てるべきものとは怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、嘘・偽りです。罪の力は大きく、すきあらば私達を神様から引き離そうと誘惑します。ですから私達のすべきことは、それ迄の行いと一緒に古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身につけるのです。 /n日々、新たにされる人生 「新しい人」を身につけると、これ迄見えなかったものが見えるようになります。自分の中にある、神様から喜ばれないものが見え、逆に、喜んで受け入れていただけるものが見えるようになります。自分の中にある役にたつものと捨てるべきものが見えてきます。しかし「造り主の姿に倣う新しい人」は、一夜にしてなれるわけではなく、私達は「日々、新たにされて」・・・いわゆる更新し続けていくのです。 罪と堕落によって、私達人間をダメにしたものが、イエス様を信じる信仰によって取り去られて、私達は、イエス様の死と復活によって提供された、「新しい人」を身につけて、日々成長していくのです。

「委ねる信仰」    牧師 佐藤義子

/n詩編57:2-12 /nマタイ福音書10:16-23 /nはじめに  日本基督教団では、8月の最初の日曜日を「平和聖日」と定めて、平和について考える時としています。個人的なことで恐縮ですが、私は終戦の前年に満州で生まれ、母は病の中、姉と私を連れて引き揚げてきました。後に多くの中国残留孤児をテレビなどで見聞きし、自分もその一人になる可能性があったことを思い、戦争が一人一人の人生に大きな影響を与えていることを実感しました。今なお世界各地で起こっている戦争が、人々に分裂、憎しみ、愛する家族との死別・離別を引き起こしながら、それでも話し合いによる解決が困難になっている現実を思い知らされています。戦争は、神から与えられた人間の自由意志によって起こされます。国と国、民族と民族、思想・宗教などの衝突から生まれ、その背景に、それぞれの自己主張、自己正当化、自己絶対化があります。戦争のある世界は平和から程遠いものですが、それでは日本は68年間、戦争はないので、「日本人はみな平和に生きている」といえるでしょうか。 /n平和  旧約聖書で「平和」とは、あらゆる領域(精神的・肉体的・社会的)で、具体的にすべて満たされている状態のことです。しかしそのような平和は神様が持っておられるものであり、神様が下さるものです。この平和は、人間が神様の意志に基づいて正しく生き、神様との関係を正しく保つことの中で神様から与えられるものです。さらに、この平和は正義と深い関係に置かれ、正義のないところには、この平和はあり得ません。 新約聖書においても、平和は、人間の生きるすべての領域にわたって、神様の意志に基づいた本当の望ましい状態のことです。特に新約では、イエス様が、神様から遣わされたことによって与えられる「神様の愛と救いの現実」そのものが平和です。(人間は、イエス様がくるまでは、神様と敵対関係に置かれていましたが、その原因となっていた人間の罪をイエス様の十字架によって赦していただいたことにより、人間は神様との間にも人間相互間にも平和が打ち建てられました)。平和聖日を迎えるにあたり、私達は見せかけの平和ではなく、神様が下さる本当の平和を祈り求めて、神様の御心にかなうように、正義を愛し、誠実に歩んでいきたいと願っています。 /n何をどう言おうかと心配してはならない  今朝の聖書は、イエス様が12弟子をユダヤ人社会に送り出す時の言葉です。イエス様は、ユダヤ人社会の人々を狼、弟子達を羊に譬えて、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇のように賢く、鳩のように素直になれ</span>」と言われました。「イエス様こそ救い主」との福音は、ユダヤ人達の考える「救い主」と違っていたので、弟子達への憎しみが予測されました。それに対して弟子達は、憎しみ返さず、いつどのような時でも落着いて、人々と正しく向き合う賢さを持ちながら、同時に、敵から訴えられるようなことを決してしない純真さ、自分を汚すことなく、の奉仕のわざを傷つけない素直さを持つよう求められました。さらに、ユダヤ人社会に於いて弟子達の言葉が受け入れられない時、弟子達は訴えられて、宗教法廷に引き出され、権威ある人々の前で弁明しなければならなくことを預言されました。そのような時、心配することはないと言われます。なぜならイエス様を神の子と信じる者は、イエス様と同じように「神様を父と呼ぶ」ことが許されており、神様の霊が信じる者の中にあって、神様の言葉を語る神の子として、裁判官の前に立つからです。神様の霊が導いて、語るべき言葉を与えて下さるからです。さらにイエス様は、弟子達がユダヤ教の異端者として、すべての人々から憎まれる時、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">最後まで耐え忍ぶ者は救われる</span>」と約束されました。異教社会の日本に於いて伝道する私達にも、イエス様は同じように、心配せず信じて委ねるように求めておられます。 先週(8月25日)の説教要旨 詩編104:24-35・マタイ福音書13:44-52 「天の国について(2)」  牧師 佐藤義子 *はじめに 本日も前回に続いて、天の国についてイエス様の教えを学びたいと思います。天の国と言う時、社会一般で使っている「天国」とは区別しなければなりません。聖書を通してイエス・キリストが私達に教えておられる 天の国(神の国)は、神様が支配されておられる場所であり、神様がすべてのルールを決められており、人間が自由勝手に入ることは出来ません。イエス様は、どんなに門をたたいても開けてもらえなかった人々について、たとえで語られています。ですから私達は、礼拝を通して天の国について正しく学び、天の国に招かれている「神の民」の一員として、日々どのように歩んでいくかを示されていることに感謝するものです。先週は、天の国について三つのたとえ(毒麦・からし種・パン種)を通して学びました。 *「宝」と「真珠」のたとえ 今日の聖書には、さらに天の国について三つのたとえが語られています。最初は「宝」です。ある人が畑を耕していたら、くわの先に何かがぶつかり掘って見ると「宝」でした。背景として当時パレスチナでは、財宝を壺に入れて土の中に埋めることがよくされていたそうです。住んでいる所が戦場となり略奪から財産を守る為に、あるいは父親が埋めていたのを息子が知らぬまま相続してその土地を売り、新しい所有者が畑を小作人に任せていたというようなことが考えられます。この宝の発見者は、この宝を手に入れる為、自分の全財産を処分してこの畑を買うのです。二番目の譬えは、真珠の商人が良い真珠を探しており、ついに本物の高価な真珠を見つけました。彼はやはり全財産を処分して、この見つけた真珠を買うのです。 *「持ち物をすっかり売り払い」 最初の人は努力せずに宝を見つけました。それに対して真珠の商人は、 商売のためにあちこち探しあるいて努力して見つけました。共通しているのは、どちらも自分の持ち物を売り払い、それと引き換えに発見物を手に 入れたことです。自分の持っている物すべてを処分することは大変なこと です。それまで苦労して築きあげてきたものを手放すことは、勇気が いります。ところがこの譬えでは、どちらの人にも迷いはありません。 むしろ喜んでいます。それほど発見物は価値があるのです。  *譬えの意味 「宝」と「高価な真珠」にたとえられているものは何でしょうか。 これは、天の国のたとえですから、宝や真珠にたとえられているのは、神様の支配の中に入ること、神様の支配のもとで生きることです。 もっと具体的にいうならば、天の国への道しるべであるイエス・キリストに出会い、イエス・キリストと共に生きるということ、そして永遠の命をいただき、神の国に入ることです。そしてこのことは大きな喜びを伴う出来事なのです。ただし、この大きな喜びのためには「それまで持っていたものを手放す」という行為(犠牲)が伴います。なぜなら神の国に入ることは、自分を神様の支配のもとに置き、神様のルールに従って歩み出すことですから、いままでの、自分を主人公とする生き方を 捨てなければならないからです。  このことを恐れることはありません。自分をみればわかるように私達は頼りない者です。何が起こるかわからない世にあって、明日の自分のことを知ることは出来ません。大震災がそのことを教えています。 それに対して神様は全知全能であり、私の生と死を支配される方、 わたしのすべてを知っておられますから、神様の支配のもとで生きる ことが出来るならば、私達には、何も恐れるものはありません。  *魚の網のたとえ 最後のたとえは、網にかかった魚のたとえです。捕えられた良い魚は器に入れられ、使い物にならない魚は捨てられます。つまり、同じ網から、神の国に入る者と、そうでない者に分けられることを教えています。 以上、私達は2回にわたり、天の国について学びました。ここにおられ るすべての方々が、学んだものとしてふさわしく行動し、これからも イエス様の教えに学び、神の国に招き入れられる道を、共に、確実に 歩んでいきたいと心から祈り願うものです。

 「救いの約束」     牧師 佐藤義子

/n出エジプト記6:2-13 /nヘブライ11:23-29           /nはじめに  モーセが生まれた時代、イスラエルの民はエジプトの国で厳しい重労働のもとに置かれながらも、人口が増え続けたため、エジプト王は脅威を感じて、生まれて来る男の子をみな殺すように助産婦に命じました。しかし神を畏れていた助産婦は男の子でも殺さず、モーセの両親は赤ん坊を3カ月間、隠して育てました。隠しきれなくなったので、籠の中に生まれた男の子を入れ、ナイル河の葦の茂みの間に置きました。子供を見つけたエジプトの王女はふびんに思い、モーセと名付け、息子として育てました。 /n「信仰によって」  今朝読んだヘブル書11章は、信仰によって神様に認められた旧約聖書に登場する人々について語られています。その中の一人が「モーセ」です。モーセについて聖書は五つの出来事を取り上げて、信仰がどのように働いたのかを伝えます。 第一に、モーセの両親は「信仰によって」、王の命令を恐れずにモーセの命を守ったこと。 第二に、成人したモーセが、自分がイスラエル人であることを知った時、「信仰によって」エジプト王女の息子として生きる道を捨て、神の民であるイスラエルの民として生きる道を選んだこと。 第三に、モーセが神様から与えられた使命「イスラエルの民のエジプト脱出」を果たす為に、「信仰によって」エジプト王との交渉のすべてを成し遂げたことです。国の最高権威をもつ王を怒らせたら自分の命はないことを承知で、王を恐れなかったことです。それが出来たのは、信仰によって「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいた」からだと聖書は伝えています。 第四に、エジプト脱出直前に神様が起こされた災いの最後に、最初に生まれた子供が死ぬという災いがありましたが、イスラエルの民は、その災いから逃れるために、神様から教えられた通り、小羊の血を鴨居にぬることによって免れることが出来ました。これも信仰による行為です。 第五に、モーセに導かれたイスラエルの民が、陸地を通るように紅海をわたった奇跡も、「信仰によって」なされました。 /n神の民と共に虐待される道を選ぶ 今朝は特に、二番目の、モーセが「信仰によって」王女の息子として生きるのではなく、ヘブライ人として生きる道を選んだことに焦点をあてて学びたいと思います。モーセは、富、権力、名声というこの世で価値あるものとされていたものを捨て、自分の同胞と共に生きる道=「唯一の神を信じる神の民」として生きる道=虐待される道を選びました。その理由を聖書は、「キリストのゆえに受けるあざけりを、エジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです」(26節-)と伝えます。なぜなら、この世の価値観で生きることは、何も残らず、何の報いもないことを知ったからです。この世の幸せは過ぎゆくものであり、自分を楽しませる罪ある生き方は、最後は死で終ります。モーセが選んだ道は苦難の多い道でしたが、しかしその道の向こうには、神様が下さる報いが約束されていました。神様から与えられる報いは、この世のものとは違い、目に見えない世界に属するものです。それは、神様が直接支配される神の国に入ることを意味します。伝道者パウロは、ロマ書の中で、「現在の苦しみは、将来私達に現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと思う」と言っています。 /n救いの約束のもとで生きる 信仰とは神様への絶対信頼、絶対服従です。そこに、神様から命を与えられた人間の、本当の平安があります。目に見えない神様は、御子イエス様をこの地上に送って下さり、目に見える形で神様を現して下さいました。神様を絶対信頼する時に、私達もモーセのように神様以外に恐れるものはなくなり勇気が与えられ、この世の価値観から離れて何が本当に価値あるものかを知らされます。信仰によって、私達は、見える世界だけでなく見えない世界に目を向け、神様が与えておられる「救いの約束」のもとで、神の国の民の一員として歩むことが出来るのです!

「救い主の死(1)」牧師 平賀真理子

/n詩編22:1-24 /nマルコ福音書15:33-38     /nはじめに  今年の受難節(レント)は3月5日の水曜日から始まりました。初日の水曜日は特別な日で、「灰の水曜日」”Ash Wednesday”と呼ばれています。聖書で「灰」は、懺悔や深い悲しみ・嘆きを表わします。「灰をかぶる」とは、心からの深い悔い改めの思いを抱いていることを表します。そして、灰をかぶって祈ることは、罪を自覚して(告白して)嘆き、悔い改めの祈りを献げることです。私達も同じように受難節の期間、主の十字架の苦難と死を思い起こし、主が命をかけて贖って下さった自分の罪を深く見つめ、悔い改めと祈りの時をいつもより多く持って過ごしたいと願っています。 /n全地は暗くなり(33節)  イエス様が十字架につけられたのが午前9時(15:25)で、今日の聖書には、その3時間後の正午、真昼間に真っ暗になるという天変地異が起こったことが記されています。これは天の父なる神様の御心が悲しみで暗くなったことを象徴的に表しているように私には思えます。命に溢れるはずの神様の世界が、人間の罪という暗闇を愛するサタン側の攻撃に襲われ、そこから人間を救い出すための「御子の苦しみ」を見ておられる父なる神様の悲しみです。 /nなぜわたしをお見捨てになったのですか 十字架上では、最期にイエス様の大きな叫びがありました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか</span>」。 主がなぜこの言葉を言われたのか、本当の御心を知り尽くすことはできませんが、二つのことが推測されます。一つは、この御言葉が詩編22編の冒頭の言葉であることです。22編は、ダビデが敵に囲まれた苦しい状況を神様に訴えて助けを求める祈りで始まり、最後は、神様は絶対助けて下さるお方であり、自分のみならず世界中に、後々まで恵みの御業を広めて下さる、との賛美で終ります。イスラエル男子は幼い頃から詩編150編を全て暗記するように教育されていたとのことで、おそらく22編の冒頭を聞けば22編全体が想起されたことでしょう。イエス様はこの時、ご自分の思いを詩編22編に載せつつ、父なる神様への揺るぎない信頼と従順を表明されたと考えられます。もう一つ考えられることは、父なる神様が、御子イエス様を見捨てることを、涙をのんで実行されたということです。罪を犯されなかったイエス様が、罪を背負い罪多き罪人と同じになられました。罪とは神様に背くこと、神様から遠く離れること、神様に従わないことです。神様のいない世界に行くことを望むことです。それは神様の豊かな恵みを拒否して、神様から見捨てられることです。イエス様は、罪人の受けるべき十字架で身体的には瀕死の状態となり、精神的にも人々からの嘲りなどの屈辱の中で徹底的に痛めつけられて、神様から見捨てられた状況(人間として最も悲惨な状況)に置かれたのです。それでもイエス様は死に至るまで従順でした。 /n神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた この垂れ幕は、神様の臨在を象徴する「契約の箱」が置かれている「至聖所」と祭司達が奉仕する「聖所」の間を仕切るものです。年に1度だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることを許され、動物のいけにえを捧げて、イスラエルの人々の罪の贖いをしていました。イエス様の十字架の死によって、この垂れ幕が真っ二つに裂けたということは、ヘブライ書にあるように「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私達の為に開いて下さったのです</span>。」(10:20)。それまでの動物の犠牲による「あがない」が終り、イエス様の犠牲こそが、神様と人間を再び結びつける役割をするという神様の新たな救いの御業の始まりと見ることができます。  救い主イエス様の死という究極の悲しみは、神様から見捨てられるという絶望に陥ったように見えながら、実は、三日後の復活で、全く逆の、死への勝利となることを告げ知らされています。そして、主を信じる者なら誰でも救われて、神の国の民として招かれています。 受難節の期間、かつての罪を繰り返して再び闇の世界に戻ることがないように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

説教者別礼拝説教要旨一覧

/n特別礼拝説教要旨(説教者名五十音順) -有馬 味付子 牧師(東京・練馬キリスト教会) –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20080615:title=2008/06/15 「人生が変わる時」] -飯島 信 先生(池袋台湾教会) –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20070819:title=2007/08/19 「主の言葉は永遠に残る」] -川上麻里先生(岩沼教会伝道師) –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20080217:title=2008/02/17 「福音のはじめ」] -倉松 功 先生(前東北学院院長) –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20070527:title=2007/05/27 「聖霊とわたしたち」] –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20080420:title=2008/04/20 「福音の力」] –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20080817:title=2008/08/17 「信仰によって知る」] -佐々木 哲夫 先生(東北学院大学) –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20070708:title=2007/07/08 「レプトン銅貨二枚」] –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20071111:title=2007/11/11 「ユダの裏切り」] –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20080511:title=2008/05/11 「賜物としての聖霊」] -佐藤 順子 先生(東洋英和女学院) –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20070909:title=2007/09/09 「神の言葉には力がある」] -鈴木 淳一 牧師(石巻山城町教会) –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20080113:title=2008/01/13 「新しい朝に」] -鈴木 裵善姫 牧師(石巻山城町教会) –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20070429:title=2007/04/29 「山から下る道」] -西谷 幸介 先生(東北学院大学) –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20070617:title=2007/06/17 「裁くのは主です」] -原口 尚彰 先生(東北学院大学) –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20071028:title=2007/10/28 「キリストによる和解」] –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20080323:title=2008/03/23 「復活の主に出会う」] -Rev.Cally Roger Witte –[http://d.hatena.ne.jp/sendai_minami/20071202:title=2007/12/02 「もはや戦争を学ばない」]

説教要旨 「盲目の指導者」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 16章1-12節 1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。 2 イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、 3 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。 4 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。 5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。 6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。 7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。 8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。 9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。 10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。 11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」 12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。 /nはじめに  マタイ福音書の15章14節にはこのようなイエス様の言葉があります。「彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」 本日の聖書には、イエス様に天からのしるしを迫った当時の宗教的指導者ファリサイ派とサドカイ派の人達が登場します。イエス様は彼らのパン種(教え)に注意するよう警告しました。誰を道案内人に選ぶかは、現代に生きる私達にも大変重要な問題です。 /nファリサイ派とサドカイ派  この二つの党派はユダヤ教内で対立していた大きな勢力でした。しかしイエス様に対しては、一緒になって「天からのしるし」を求めました。イエス様がこの世の権威にのっとっていない指導者であり、当時の宗教指導者の教えから全く自由に行動されていたことにいらだちを覚えながらも無視出来ず、彼らはイエス様が本当に神のもとから来た人間であるのか、自分達の納得する方法でその証拠(しるし)を要求し、見極めようとしたのです。 /n「しるし」(証拠)を求めること  「しるし」を信じるとは、「しるし」という目に見えるものを通して信じることで、直接イエス・キリストを信じることではありません。しるしを見て信じるなら信仰を必要としません。彼らは夕焼けや朝焼けで天候を見分けることを知っていながら、イエス様を時代のしるし(イエス様こそ預言されていたメシアである)として見ることが出来ませんでした。しるしを要求する彼らに対して、イエス様はヨナのしるし以外は与えられないと宣言されました。(ヨナが三日三晩大魚のお腹の中にいて再び陸に戻された出来事を、 イエス様の十字架と復活の出来事に重ね合わせて見る)。信じることを回避し、しるしを求める人々は,そこから前には一歩も進めず取り残されるという状況を、4節の言葉 (イエスは彼らを後に残して立ち去られた。)が暗示しているようです。 /n「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」  向こう岸に行かれたイエス様は、弟子達にファリサイ派とサドカイ派のパン種(教え)に注意するよう警告されました。パン種の発酵力は強く、この強さが良い意味で用いられると、神の国の発展する力や、社会を改善する力に譬えられますが、ここでは間違った彼らの教えの強い影響力をさしています。   /n注意すべきパン種  イエス様が注意を促したのは、彼らの偽善です。ファリサイ派の人達は、外側を清く保つことを第一にしました。それは旧約聖書の教えからきています。「あなた方は自分自身を聖別して、聖なる者となれ。私が聖なる者だからである。」(レビ記11:45)。彼らは清くないものからの分離を大切にして、外面的・形式的・儀式的に整えることを最優先にしました。内面的な部分は後回しになり 隠れている部分を大切に考えませんでした。そのような生き方は当然、偽善を生みます。又、サドカイ派の人達は目に見える神殿、目に見える祭司職に権威をもたせ、それらの権威の力によりかかっていました。貴族階級の特権意識を持ち、世俗的で、物質的で、迎合的でした。両者に欠けていたものは、へりくだって真理に耳を傾ける姿勢、求道の精神でした。自分達は既に真理の教師であるとの自負心・自信が、彼らの聞く耳、見る目を失わせていました。 /n私達の警戒すべきパン種  私達も外側にこだわり中身をおざなりにする偽善を警戒しなければなりません。それと同時に、幼い時から見聞きしてきた仏教・神道・伝統・言い伝え・迷信・おまじないのたぐいの中にひそむパン種に注意しなjければなりません。たとえば、仏教の中に、死者を守り神とする信仰があります。私の知っている90代のクリスチャンのご婦人は、神様と亡くなった息子さんが自分を守ってくれていると信じておられます。もう一人の80代のご婦人は、息子さんの位牌と聖書の言葉を書いた紙を並べて飾っています。又、最近出席したあるキリスト教会の葬儀で読まれた教会員の弔辞の中に「千の風にのって」が引用されました。アメリカ人の歌詞の作者は、「私の墓の前で泣くな。私はそこにはいない」とは、復活の主を告げる言葉として書いたそうですが、訳した日本人は、聖霊を死者の霊に置き換えてしまったようです。にもかかわらず、キリスト者がそれを受け入れてしまっている現実があります。神様の位置に死んだ人間を置いてしまうのは、偶像崇拝にほかなりません。日本人キリスト者の中には信仰は信仰として、方角や、仏滅などの日を相変わらず気にしたり、迷信(・・をするとたたりがある)とかおまじない(・・すれば・・なる)、あるいは運勢などからきっぱり自由になれない方達もおられます。それこそイエス様が弟子達に注意を促したパン種の発酵力の強さでありましょう。私達が本当に畏れなければならない方は、天地万物を創られ,私達に命を与え、生かしてくださっている父なる神様であり、御子イエス・キリストです。イエス・キリストを神の子と信じる信仰こそすべてに打ち勝つものです。今週もイエス様から目を離さず、しっかり歩みたいと思います。 「日々、聖霊に満たされて」(A・W・トウザー著)より /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">悪を憎み、善を愛せよ また、町の門で正義を貫け。」</span>アモス書5:15 /n私たちは不正を憎まないで、正直を愛することはできない。不純物を憎まないで、純潔を愛することはできない。うそをつくことと、欺瞞を憎まないで、真理を愛することはできない。 /nもし私たちがイエス・キリストに所属するならば、主と同じように、あらゆる形態の悪を憎まなければなら ない。 /n私たち人間は、イエス・キリストのように神に敵対する者を憎み、神で満ちているものを愛することが不完全なので、完全な形で聖霊を受けることが出来ない。 /n 正しいことを愛するために注ぎ出された偉大な愛と、悪に対する純粋で聖なる憎悪という面で、イエス・キリストに従う気がなければ、神は私たちに聖霊を注がれない。