5月14日の説教要旨 「主は道、真理、命」 牧師 平賀真理子

詩編9819 ヨハネ福音書14111

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、イエス様が反対派によって逮捕されて十字架に付けられるという出来事の直前に、弟子達にお語りになった「告別説教」の一部です。言わば、イエス様の遺言であり、とても重要なことを語られました。今日の箇所の内容を考える前に理解しておくべきことが2つあります。1つは、イエス様御自身が、御自分の近い将来の死(この世から去って、天に帰るということ)をおわかりなっていて、弟子達に予告しておられるということです。2つ目は、イエス様の御言葉を受け、弟子達が大きな不安に陥っているということです。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」

だから、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(1節)とおっしゃったのです。そして、これが、この箇所で、イエス様が弟子達に一番伝えたかったメッセージです。この後の2節から11節までは、このメッセージの理由を述べているのです。

 「弟子達を決してみなしごにはしない」(14:18)

イエス様は、弟子達を父なる神様の御許に迎える用意をするために、天に帰る必要があり、その用意ができたら、戻って来て、弟子達を迎えると約束されました。それを「わたしのいるところにあなたがたもいることになる」と表現されました。イエス様は死んで弟子達には見えなくなるけれども、それは一時的で、永遠の別れでもないし、弟子達を主は決してみなしごのように一人きりにしないことを約束してくださり、そのような絶対的な信頼を寄せてよいと保証してくださいました。

 「十字架」という道を通って、「天に帰る」イエス様

イエス様は御自分がどこに行くのか、また、その道をも弟子達は知っているとおっしゃいました(4節)。御自分が天から来て、今や天に帰ること、そして、それは、人々の罪の贖いのために、最もへりくだった死(十字架)という道を通ることを、弟子達は教えられていたにもかかわらず、実際は、理解できていなかったことが、5節の弟子トマスの言葉でわかります。「主がどこへ行かれるかも、その道もわかりません。」弟子達のこのような無理解に対し、イエス様は更に御言葉を重ねて教えてくださいました!

 「わたし(イエス様)は道であり、真理であり、命である。」(6節)

①「わたしは道である」この直後に「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節b)と説明されています。救い主イエス様の重要な役割は、父なる神様の御心を行うことです。では、「父なる神様の御心」とは何でしょうか。ヨハネ福音書6章40節にあります。「わたしの父の御心は、子(イエス様御自身)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」だとイエス様が語っておられます。「子を見て信じる」とは「何を信じるのか。」というと、イエス様を救い主だと信じることです。救い主として最も大きな役割は人間の罪の「贖い」=「身代わりに償うこと」です。神の御子ならば、人間のように「罪がある」わけではないのですが、イエス様は、人間の罪の贖いのために「神の御子の死」という尊い犠牲を引き受ける必要がありました。その結果、神様と人間を隔てていた罪が埋め合わされ、人間が神様に至る「道」ができました。だから、人間にとって、イエス様の十字架は自分の罪の贖いだと信じることが、神様に繋がる「道」となるのです。

②「わたしは真理である」ここでの「真理」とは、神様に関わる文脈で使われていて、科学や哲学で使われる「真理」とは次元が違います。この「真理」とは、元々のギリシア語では「アレテイア」という言葉で、「隠されていたものが明らかになる」という意味があります。「隠されたもの」とは神様のことです。8節の弟子フィリポのお願い「父なる神様を見せてください」に対する、イエス様の御言葉「わたしを見た者は、父を見たのだ」にも答えが暗示されています。ここでの「真理」とは、人間の目には見えない、隠された父なる神様が、この世で、人間として明らかになったのが、イエス様御自身のことだというわけです。

③「わたしは命である」イエス様は、自分達も死ぬかもしれないという弟子達の不安を取り除きたいと思われたのでしょう。御自分を救い主として信じて従うことは、父なる神様に繋がることができる、即ち、「永遠の命」をいただける、大いなる希望の道であると伝えたかったので、御自分を救い主と信じる者達は、心を騒がせるなとおっしゃったのです。私達も時空を超えて「弟子達」の一人一人と言えます。ですから、偉大な救い主イエス様への信仰を貫きましょう!

4月23日の説教要旨 「主の復活の証し」 牧師 平賀真理子

詩編16311 使徒言行録132631

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、ルカによる福音書の続編と言われる「使徒言行録」から与えられました。この書の1章3節からは、主が復活されて40日間も弟子達に現れたと書かれ、続いて、主の昇天が記されています。そして、2章では、ペンテコステ、つまり、主が約束なさった「聖霊降臨」が本当に起こったと証しされ、直後に、イエス様の一番弟子のペトロが説教したとあります。イエス様が救い主としてこの世に来られ、十字架と復活の御業によって、人々の罪を肩代わりしてくださったこと、このことを信じる者達が救いの御業の恵みをいただけるようになり、神様と繋がることができるようになったとペトロは説教しました。

 もう一人の重要な弟子パウロ

使徒言行録では、8章までは、だいたい、ペトロを中心とした使徒達が福音を告げ知らせて、主の恵みを拡げていったことが証されています。そして、9章になって初めて、サウロ(後のパウロ)と呼ばれる人と、復活の主との出会いが書かれています。パウロは、イエス様の教えは間違っていると思い、弟子達を逮捕する任務の途中で、主からの呼びかけを受けて180度の方向転換=回心し、今度はイエス様こそ約束の救い主であり、福音の素晴らしさを人々に伝える使命を果たしていくようになります。しかし、それまでのパウロの考えや動きを知っていたユダヤ人達は、信じられずに、パウロの命を狙うようになり、宣教活動を控えなければならなくなりました。再び、パウロの活動が記されるようになったのが13章からです。しかも、アンティオキア教会の指導者の中に名前が挙げられています。彼らが礼拝し、断食していると「バルナバとサウロを選んで派遣する」という聖霊のお告げがありました。

 ビシディア州の町アンティオキアのユダヤ教の会堂で

パウロの第1回目の宣教旅行が始まりました。今日の聖書の箇所は、ビシディア州のアンティオキアという町のユダヤ教の会堂で、パウロが話したことの一部です。恐らく、会衆のほとんどがユダヤ人だったことでしょう。パウロは、ユダヤ人の歴史を述べて、神様に選ばれた民としての誇りを会衆に思い起こさせようとしているのではないでしょうか。

 「救いの言葉」=「十字架にかかり、復活なさったイエス様」

26節の「この救いの言葉」とは、「十字架と復活」という救いの御業を成し遂げたイエス様のことを指しています。イエス様が、ユダヤ人達の歴史の中で預言として語られてきた「救い主」であることをパウロは懸命に証ししようとしていると感じられます。「救い主」と言えば、ローマ帝国の支配を終わらせ、自分達の国を作ってくれるような政治的リーダーをユダヤ人達は求めていたのですが、預言は、実は、そのように語ってはいなかったのです。預言では、「救い主」は「栄光の主」というよりも「苦難の僕」の姿を取る御方であり、それが、まさに「十字架にかかったイエス様」であったとパウロは述べています。

 「復活したイエス様が自分に現れてくださった!」

人間の知恵の範囲ではつまずきでしかない「十字架にかかる救い主」が、実は、敗北でなく、神様のご計画であり、その御計画を実現させたイエス様に対して、「復活」という栄誉を父なる神様が与えてくださったとパウロは語っています。この当時、復活のイエス様に出会った人々が数多く生き残っていました。Ⅰコリント書15章では、そういう人が使徒以外にも500人以上いたと証しされています。キリスト教を広める役割をした人々の多くは、恐らく、死んだイエス様が復活して「自分に現れてくださった!」と大感激したのでしょう。「この世の常識ではありえない、凄いことが我が身に起こった!もう否定できない!イエス様が約束してくださったこと、預言されていたことが我が身に起こった!」彼らの喜びは本当に大きいものでした。彼らのように、自分の理解を越えたことが我が身にも起こると受け入れる人々に信仰は与えられるのでしょう。キリスト教では、別の言い方もします。その人々に「聖霊が降った」のです。

 私達一人一人の人生に現れてくださる「復活の主」

神様が私達一人一人に聖霊を送ってくださるのですが、私達がしなければならないことは、神様から送られた「この救いの言葉」=「イエス様」を、私の「救い主」として信じたいという願いを持ち、そのように神様に祈ることです。実は、復活したイエス様は、私達一人一人の人生に現れてくださる御方です。

3月12日の説教要旨 「死と復活の予告①(信仰告白を受けて)」 平賀真理子牧師

詩編861117 マタイ福音書161321

 はじめに

イエス様はガリラヤ湖畔の町カファルナウムを中心に「神の国の福音」を宣べ伝えておられました。ただ、最終的には聖なる都エルサレムに行って十字架に付けられることで、人々の罪を贖う使命を果たさねばなりませんでした。それだけでなく、死の世界に赴いた後に、死の世界に打ち勝って復活なさることが重要な使命でした。イエス様は、その使命を、いよいよ果たすときが近づいたことをお感じになったのでしょう。「十字架と復活」の行われる場所「エルサレム」に向かう前に確認しておくべきことがありました。それは、「イエス様が救い主である」ことを本当に理解し、受け入れている人間がいるかどうかということです。そのため、イエス様はエルサレムとは反対方向の北にある町、フィリポ・カイサリアに一度は退かれて、弟子達に確認する必要があったのだと思われます。

 救い主イエス様に向かって、初めて信仰告白したペトロ

イエス様は、最初に「人々は、『人の子』(イエス様が救い主としての御自分を客観的に指す言葉)のことを何者だと言っているか」と質問なさいました。弟子達は人々の答えを告げました。人々が知っている中で、一番凄いと思われる預言者達の名が挙がりました。でも、イエス様が本当に聞きたかったのは「弟子達が御自分のことを何者だと言うのか。」ということです。

そして、一番弟子と呼ばれたシモン・ペトロが、イエス様の求めていた答えを公けに言いました。「あなたはメシア(救い主という意味)、生ける神の子です。」御自分は十字架にかかってもうすぐこの世を去ると知っているイエス様は、御自分を救い主だと告白する人間の言葉が必要でした。この世に神の国を造るための基盤となるからです。ペトロの告白は、人類初の信仰告白であり、これにより、この世での神の国建設が引き継がれていくことを天地に渡って宣言したことになりました。

しかし、イエス様は、ペトロの信仰告白も、実は父なる神様が準備してくださったのだと語られました(17節)。父なる神様は、この世にイエス様を救い主として送るだけでなく、その受け手としての弟子の信仰告白をも準備してくださったのです。父なる神様の大いなる愛をイエス様は理解し、感謝しておられます。私達もイエス様のように、神様が自分にくださった恵みを理解し、感謝を献げているのか、問われているのではないでしょうか。

 ペトロ(「岩」という意味)と言う名前

それまでは「シモン・バルヨナ」と呼ばれた弟子は、初の信仰告白という働き故に、イエス様から祝福を受け、「岩」という意味の「ペトロ」という名前をいただきました。「岩」という言葉は最高の褒め言葉の一つです。「岩」が持つ、揺るぎないという意味が、確固たる神様の存在をユダヤ人達に連想させるからです。ペトロの、揺るぎない信仰告白の言葉の上に、イエス様を救い主として信じる者達「教会」ができることこそ、父なる神様と御子イエス様との共通の御旨です!

 ペトロの信仰告白を基盤にして、イエス様の御力と権威を託された「教会」

イエス様の救いの御業は、信仰告白を基盤として、教会に引き継がれます。十字架の後に死の世界(陰府)に降ったものの、そこを打ち破って復活した御力と権威を、イエス様は惜しみなく教会に与えるとおっしゃっています。「復活の主」イエス様の恵みをいただいているが故に、教会には、陰府の力も対抗できません(18節)。そして、ペトロの信仰告白を受け継ぐ「教会」は、それだけでなく、「罪の赦し」をこの世で宣言できる権威=「天の国の鍵」をもいただけるのです。もちろん、「罪の赦し」の最終的な権威はイエス様だけがお持ちです。けれども、地上においては、「ペトロの信仰告白を受け継ぐ教会」が「罪の赦し」を宣言することを許されるのです。

 「十字架と復活」は信頼された弟子達によって伝えられていく

イエス様は、御自分の救い主としての歩みが、普通の人々が連想するような「力強い王様のような救い主」の歩みでないことを御存知でした。だから、イエス様を救い主として心から信じて従ってきた弟子達、しかも、信仰を公けに言い表すことのできる弟子達にだけ、御自分が予知している歩みを告げたのです。「惨めな十字架刑の死の後に、復活する」と。それは、信頼できる弟子達にだからこそ打ち明けられたのです。主の死は、私達の罪を贖うためだということは、この弟子達から伝わっています。同時に、私達は、十字架の先に復活という希望があると知らされています。「十字架と復活」という大いなる恵みを神様が私達にくださろうとしています。その恵みを覚えて、更に、主に感謝しましょう。

3月5日の説教要旨 「誘惑に勝たれた主」 平賀真理子牧師

詩編1091b-5 マタイ福音書4:1-11

 はじめに

「荒れ野の誘惑」と呼ばれ、教会では有名なお話に入る前に覚えておきたいことが、直前の段落の後半にあります。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエス様に対し、天の父なる神様が天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とおっしゃったことです。

 「悪魔」が「神の子」を誘惑する?

「荒れ野の誘惑」は、「悪魔」から誘惑を受けるために、”霊”がイエス様を荒れ野に導いたことから始まります。”霊”とは「神の霊」だと思われます(聖書の「凡例」参照)。「神の霊」がなぜ、「悪魔の誘惑」にイエス様を引き渡すことを許したのでしょう。おそらく、天の神様から「神の子」として祝福されたイエス様は、今度は、この世を支配していた「悪魔」からも認められる必要があったのだと考えられます。

元々、神様は「この世」を人間に治めさせようと計画なさいましたが、「悪魔」は人間を誘惑して神様に背かせ、人間と神様を分断しました。人間は神様が用意した楽園を追放され、「悪魔」がこの世を支配するようになりました(創世記3章)。また、今日の箇所の「悪魔」という単語は、特に、「中傷する者」とか「悪しき告発者」という意味を含んでいます。「悪魔」は、イエス様について「神の子」としてふさわしくない点を見つけて告発するつもりで、誘惑を仕掛けたのでしょう。神様は、イエス様を信頼なさっていましたが、後々、悪魔に訴えられないよう、この世での歩みの最初に、誘惑を受けることをお許しになったのでしょう。

 第一の誘惑

40日もの断食を終えられて大変空腹だったイエス様に向かい、悪魔が「あなたが神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ。」と誘いました。「神の言葉は実現する」と信じられていましたから、「神の子」のイエス様の御言葉が実現し、石をパンに実際に変え、自分の空腹を満たすように誘ったのです。しかし、イエス様は「悪魔の説」に従うはずはありません。御自分の食欲のために、神様が定めた「この世の自然の法則」を勝手に変えようとは全く思われません。神の子としての力や権限を、御自分のために利用しようとしないのが、神様の性質を受け継いでいる「神の子」です。むしろ、神様に結びついた、本来の人間の在り方をイエス様は示されました。それは申命記8:3にあるように、本来の人間にとって、何よりも大事なのは、「神の言葉である」と宣言なさったのです。

 第二の誘惑

悪魔は、イエス様をエルサレム神殿の屋根の端に立たせ、「そこから飛び降りたらどうだ。神の子なら、聖書の言葉(詩編91:11-12)にあるように、神様が天使に命じて、あなたを守るはずだから、試してみなさい。」と誘いました。悪魔は聖書の言葉を使いましたが、これは、自分の悪意を正当化するために、御言葉を誤用しています。神の御言葉に自分を従わせるべきなのに、悪魔は、逆に、自分の意図のために御言葉を利用しようとしています。悪魔が行った「御言葉の誤った引用」に対して、イエス様は、別の御言葉を正しく示して、悪魔の誘惑を退けました。それは、申命記6:16「あなたたちの神、主を試してはならない」という御言葉でした。主への服従が先に行われ、その結果、主から恵みをいただくという順番が重要です。でも、罪深い者は、恵みを先に欲しがり、服従を後回しにしたり、服従できないままにしたりします。その誤った姿勢を悔い改めることこそ、神様の御心なのではないでしょうか。

 第三の誘惑⇒3つの誘惑に勝たれた主

第三の誘惑でいよいよ、悪魔は心の底に隠していた願望を露わ(あらわ)にしました。イエス様に対して、聖書で証しされている本当の神「主」ではなく、「私(悪魔)にひれ伏して、私(悪魔)を拝ませる」という最終目的です。この世の栄えを見せつけ、そのすべてをイエス様に与えると悪魔は言いましたが、実は、悪魔には、その権限は全くありません。「神の子・救い主」イエス様がこの世に来られてからは、悪魔のこの世の支配はもう終わりに向かっています。それに、「この世の栄え」が欲しいのは悪魔であって、イエス様は「神様の栄光」が現わされることを何よりも願っておられるのです。イエス様は、申命記6:13の御言葉「あなたの神、主にのみ仕えなさい」という御言葉で、悪魔の誘惑を完全に退けられました。私達が「神の子・救い主」と信じるイエス様は、このように「悪魔の誘惑」に完全に勝利された御方です!その御方に倣って、信仰を貫きたいものです。

2月19日の説教要 「外側だけを清める人々」 平賀真理子牧師

詩編5813 ルカ福音書113744

詩編5813 ルカ福音書113744

 はじめに

私達は、イエス様を救い主と信じ、「主」と呼んで礼拝を献げています。主の御心を知り、それに従って歩みたいと願っています。では、「主の御心」とは何でしょう。それはあまりにも大きく、人間の限られた能力で表現するには充分でない場合もあります。逆に、「何が、主の御心ではないのかを知ること」を、一つの方法として取り入れることも可能ではないでしょうか。「主の御心に適わない生き方をしないこと」も、信仰者として心がけるべきことだと思います。今日の新約聖書の箇所はイエス様御自身が、何が御心に適わないのかを教えてくださっており、そのように生きている人々をどのように教え導いたかが書かれています。

 「ファリサイ派の人々」

主の御心に適わない生き方をしている人々として「ファリサイ派の人々」に対する御言葉が記されています。聖書の後ろにある「用語解説」にもありますが、彼らは律法を守ることや宗教的清めを大事にしました。それだけでなく、イエス様を「救い主」と認めずに無実の罪を着せて「十字架」に追いやった、中心的グループなので、悪者だと思っている方も多いでしょう。しかし、ファリサイ派は、神様からいただく恵みを、サドカイ派という宗教上の特権階級の独占から解放し、その恵みを「民衆」に広げようとして興ったグループであり、ファリサイ派の尽力で、各地に「会堂」ができ、そこで人々は神様を礼拝したり、律法を学ぶ学校が運営されたりしました。

 「ファリサイ派の最初の精神」と「プロテスタント教会の最初の精神」

ここで思い浮かぶのは、500年前の宗教改革の精神です。当時のカトリック教会の指導者達が独占していた特権を、民衆に広めようとしたのが、「宗教改革の精神」であり、ここから「プロテスタント教会」(私達が属するグループ)が興りました。キリスト教における特権とは「何が主の御心であるか」を知ることができるということであり、具体的に言うと、神の言葉として「聖書」を読むことができるということです。宗教改革者の「ルター」は、それまでは専門教育を受けた者しか読めなかったラテン語聖書を自分達の母国語のドイツ語に訳して、神の御心を読み解くための聖書を民衆に解放したのです。このように、「ファリサイ派」と「プロテスタント教会」は、基本の精神が同じなのです。「ファリサイ派」の人々の「何が主の御心に適わないのか」を知ることは、私達「プロテスタント教会」への戒めとなるはずです。

 「神様は、外側だけでなく、内側もお造りになった!」

イエス様を食事に招待したファリサイ派の人が不審に思ったのは、ファリサイ派が決めた「身を清める」行為をイエス様がしなかったからでした。具体的には、細かい手順が定められた「手洗い」をなさらなかったということのようです。イエス様は人の心を見抜く御方ですから、彼の思いに気付いたはずです。しかし、イエス様は、「外側だけを清めることに留意し、細かい規則を作って、その規則で人々を縛る『当時のファリサイ派の精神』は、神様の御心に適っていない。」と指摘されました。強欲や悪意で満ちている内側(心)を清める必要があると教えたのです。彼らは人目につく外側だけに気が向いていますが、イエス様は、人間を外側も内側も造られた創造主である神様の御心を知っておられ、神様の御心を第一に思い、内側から清める重要性を教えてくださいました(40節)。

 あらゆる場面で外側(人目につくこと)だけ清めたがった「ファリサイ派」

外側だけを清めようとするファリサイ派の人々は、心だけでなく、宗教上の制度でも、表面だけに明らかになることだけに留意していました。「十分の一税」は守ろうと必死になっても、神様の御心に適うはずの「正義の実行と神への愛」という本当の信仰(内側)を忘れていることをイエス様は指摘されました。また、社会的な体裁でも、自分達が尊敬されていることが、外側(人目にわかる形)に現れることを好みました(会堂で上席に着くこと、広場で敬意を表す挨拶をされること)。

 外側だけ清めて内側が汚れていると、「清め」ではなく、「汚れ」を広める

イエス様はファリサイ派の人々を「人目につかない墓」(44節)と例えました。内側の汚れが表に現れないために、「汚れ」を広めていると伝えようとされました。

 信仰が形式的になっていないか吟味し続ける

ファリサイ派は、内側をも造られた神様を第一としなくても、外側だけ宗教的に振舞っていれば尊敬され続けると誤解しました。それは、主の御心に適わないとイエス様は言われたのです。私達は、「礼拝や聖書朗読」が形式的になっていないか吟味し続け、内側から神様に相対するにふさわしく清められたいものです。

2月5日の説教要旨 「ともし火」 平賀真理子牧師

詩編119105112 ルカ福音書113336

 はじめに

2017年の年明けから、ルカ福音書11章14節以降の「ベルゼブル論争」から読み進めてきました。今日の箇所で、一連の流れのお話は終わりになります。ルカ福音書の筆者は、「体のともし火は目」といった、今までの流れとは、一見関係ないような話を、この箇所に置いています。

 直前の段落「人々はしるしを欲しがる」から導き出されること

しかし、この箇所が直前の段落を受けて書かれていることがわかれば、今日の箇所が、私達に対する主の勧告だと理解できます。直前の段落で大事な「しるし」として語られているのは、イエス様の十字架と復活の御業による救いのことです。「救い主としてのその救いの恵みは全人類の救いのしるしとなる、つまり、主の十字架と復活の恵みは全人類に惜しみなく与えられていると語られています。

 「ともし火」=「主の十字架と復活の恵み」の例え

だから、今日の箇所では、「ともし火」とは「イエス様の十字架と復活の恵み」の例えと言えるでしょう。主の救いの御業の恵みはとても大きいので、隠せるようなものではなく、むしろ、その光を求めてやってくる人にはよく見えるようにふさわしい場所に置かれるべきものであると33節で語られているのです。

 人間の体の中で「ともし火」となるべきところは「目」

次の34節では、人間の体の中で「ともし火」となるべき個所は「目」であると語られています。医学的に言えば、「目」が光を受けて「光」を認識する器官であるということでしょう。その作りが完全で、完全に機能していれば、光を受けて体にも光が満ち溢れることになるし、そうでなければ、体がに光のない状態=闇に満たされることになると語られています。

 「目」=「心の目」

「目」とは「心の目」の例えです。「目が澄んでいれば」とは、元々の言葉で「目が単純であれば」という意味を含んでいます。それは何を言っているのかというと「心の目が単純であること」、つまり、「神様に二心を持たないこと」を指すそうです。唯一の神様だけを第一に敬う心の目が機能しているかどうかということです。ユダヤ人達の中で、「澄んだ目」とは「唯一の神様を信じる心」を例えたもので、「澄んだ目」を持った人だけが「唯一の神様を見ることができる」という考えがあったそうです。

 「目が濁っている」=「唯一の神様を信じない」

34節では、逆に、「目が濁っている」という表現がありますが、それは「唯一の神様を信じない」とか「複数の神々を信じている」とか「この世の価値観を第一に生きている」といった意味になるわけです。

 33節-34節のまとめ

イエス様の十字架と復活の恵みは誰にでも与えられる大いなる恵みなので、それを尊重して輝かせられるよう、ふさわしい「心の場所」に置かれるべきであり、そうすることで、自分も他者も、その恵みをいただくことができ、神様の御前に健全な存在となれます。そのような豊かな恵みをくださる「唯一の神様」を信じる「澄んだ心の目」でいられるように、イエス様が勧めておられるのです。

 「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」(35)

「澄んだ目」であれば、主の十字架と復活の恵みの素晴らしさがわかるはずです。でも、人間は一度わかっても恵みを忘れることがあることも、主はよくご存じだったのだと思います。だから35節で、その恵みを受けた光が消えていないかを注意するように教えておられます。

 「主の救いの完全な光に照らされ続けるならば」

そして、イエス様の救いの恵みの完全な光に照らされ続けるならば、私達人間は、神様から離れた闇の部分などなく、本当の恵みの光が、その人の全存在を輝かせるはずだと36節で語られています。

 2つの課題

今日の箇所から私は2つの課題を読み取りました。1つは「ともし火」が唯一の神様の御子イエス様の救いからくるものだと知ることです。ユダヤ人の多くは神の民として選ばれて愛されながら、イエス様を救い主と理解できませんでした。しかし、新約時代の私達は、聖霊の助けにより、そのことをわからせていただいていることに感謝しましょう。そして、2つ目の課題として、本当の光をふさわしい場所に高く掲げ続ける必要を痛感します。この世に対する証しとして、教会がその役目を第一のこととして負う責任を果たしているかを吟味し続けるべきです。そして、教会に連なる私達一人一人が、主の救いの恵みの光を高く掲げて、キリスト者としての生き方を貫くことも、主の恵みをふさわしい場所で輝かすことなのです。2つの課題に励めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

1月22日の説教要旨 「真の幸い」 平賀真理子牧師

詩編11918 ルカ福音書112728

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、2つ前の段落の「ベルゼブル論争」、その次の「汚れた霊がやって来る」の話の流れの中で、イエス様が2つのことと戦っておられたことがわかります。一つは、悪霊の頭ベルゼブルとその手下という、霊の次元の戦いです。もう一つは、イエス様を信じないことに懸命な人々です。積極的に反対する人は「イエス様の御力は悪霊の頭ベルゼブルからのもの」(11:15)と言っていました。別の人々は、既に悪霊払いのしるしを見たのに、更に、自分達の前でしるしを見せてほしいと要求する人々でした(11:16)。

この2つの段落を通して、2つのことが明らかにされました。1つは、救い主としてイエス様がこの世に来られた故に、神様の霊が悪霊に勝利することが起こっているということです。つまり、「神の国」がイエス様と共に居る人々の所に既に来ている(11:20)ということです。もう一つは、「霊の宿る場所」に今まで悪霊がいた人は、イエス様との出会いによって悪霊を払っていただいた後には、聖霊が住んでいただけるように、留意していかねばならないということです。

 イエス様への賛美の声を上げた女性

まさに、このように語られている時、ある女性がイエス様の素晴らしさに感動して、彼女なりの賛美の声を挙げました。それは女性ならではの感性からくる発言でした。「こんなに素晴らしい話をし、偉大な力を持つ方の母親は、どんなに神様から祝福を受けているのでしょう!」という意味でしょう。同じ女性として、母マリアへの賛美と受け取ることもできますが、最終的にはイエス様への賛美と受け取れるでしょう。ただ、この女性は、イエス様の価値(偉大さ)はよくわかっていたのですが、イエス様の価値観はわかっていなかったのです。イエス様が人々に伝えたいことを理解していなかったのです。3つの点で、イエス様が人々に求めていることと、この女性の言葉はずれていることがわかります。1つは、この女性は、マリアがイエス様を宿し、育てた体をほめたたえていますが、イエス様は「体は神様の霊が宿り、神の栄光を表すためのものだから大事」と伝えようとされていました。2つめは、彼女はイエス様が育たれた過去に目が向いていますが、救いの恵みに気づいて信仰生活をするのは、イエス様に出会っている現在と、そして信じ続ける未来です。過去に拘泥する必要はありません。3つめに、これが一番重要ですが、どのような役割にしろ、イエス様に出会って教えを受け、それを守る思いを与えられた人を、神様はどんな人をも祝福してくださるということです。役割の軽重は関係ありません。救い主の母という役割を与えられたマリアに対しても、イエス様への賛美の声を上げた女性に対しても、信仰者としての未来に期待されているのです。

 「幸い」=「マカリオス(ギリシャ語)」=「アシュレー(ヘブライ語)

聖書は、神様からの祝福を受けることで、人は「真の幸い」をいただくことができると教えています。あえて、新約聖書の原語であるギリシャ語でいうと「マカリオス」という言葉です。有名な山上の説教も、この言葉で始まります。

「幸いなるかな」=神様からの祝福を受けた、本当の幸いという意味です。人間は神様からの祝福を受けて初めて幸いに生きられる、これが聖書全体を通しての基本的な考えです。新約聖書だけでなく、旧約聖書もそうです。旧約聖書の原語はヘブライ語ですが、ヘブライ語で「幸いだ」は「アシュレー」という言葉です。神様からの幸いをいただきたいという思いを謳った「詩編」の第1編も「アシュレー」から始まります。また、詩編119編も「アシュレー」を目指して神様に憐れみを乞う詩になっています。その1-8節(今日の旧約聖書箇所)では、「主の律法」「主の定め」「主の命令」「主の掟」を守ることが「アシュレー」への道だとあります。今日の新約聖書箇所のイエス様の御言葉(11:28)と同じです。

 「神の言葉を聞き、それを守る」恵み

ここで、思い起こすべきことがあります。それは、私達が「神の言葉を聞く(11:28)」機会を与えられているということです。2000年前にイエス様に直接出会った人々は勿論ですが、私達も聖書を通して、「神の言葉を聞く」機会を与えられている、神様が私達をそのように選んでくださっている、その恵みを再び思い起こして、感謝したいものです。「神様はどのような御方か、何を喜ばれるのか、人間はどのようにしたら救われるのか、救われた後、そのように生きるべきか」ということを知らされている、このことも神様が私達を、幸いへの道に導いておられることの証しです。福音に出会う前は、この世の価値観や他人からの評価に苦しめられた人が多いでしょう。しかし、主の救いをいただいた今は、神の御言葉を聞き、それを守ろうという思いが聖霊によって与えられました。神様からの恵みと役割に応えるように歩む、これこそが「真の幸い」への道です。

4月24日の説教要旨 「主の御力②」 牧師 平賀真理子

詩編36213・ルカ福音書82639

 はじめに

イエス様は大きな御力で「救い主」としての様々な御業をなさいました。今日の箇所では、悪霊を追い出す御力について語られています。福音宣教の本拠地のガリラヤ湖東岸から、イエス様一行は船に乗って、反対側の岸の近くにある町、異邦人であるゲラサ人の住む地方に着き、一人の男に取りついていた悪霊どもを追い出し、イエス様はこの男を救われました。

 「悪霊に取りつかれている」?

「悪霊に取りつかれている」というと、大昔の合理的でない人々の感覚で、現代人の自分達とは関係ないと思う人もいるかもしれません。しかし、現代でも、悪い考え方に取り憑かれたようになり、抜け出せずに、身の破滅に突き進む人を見聞きします。最も顕著な例が麻薬やギャンブルに溺れる人の話です。わずかな興味や自己過信から、悪いと言われる物を一度だけ試してみる…。ところが、その魔力に溺れ、自分の地位や社会的信用を失う…。それまでの努力は水の泡となり、破滅する…。悪の力は、自分一人だけの力では決して抗えない、強い力です。「普通の市民」である私達でも、悪に引きずられる面があります。善いことをすべきとわかっていても、その通りにできない…。使徒と呼ばれたパウロでさえも、自分のことをこう嘆きました。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっている。(ロマ書7:19)」

 神様でないものに入られる人間

聖書の最初の「創世記」には、天地すべて、もちろん、人間も神様が造られたとあります。殊に、人間は形作られた最後に、神様から「命の息」を吹き入れられて、「生きる者となった」とあります。人は、神様から命の息を吹き入れられるはずなのに、本当の神様でないものに入られる危険性があります。

 男に取りついていた多くの悪霊ども

この男に取りついていた悪霊は複数いて、ローマ帝国軍隊の単位「レギオン」くらい(約6000人)だったことが示されています。この多数の悪霊どもが、男を操り、イエス様に会いにきましたが、彼らは、イエス様の御力について、4つのことを既に知っていて、その御力の偉大さを恐れていました。1つ目は、イエス様を「いと高き神の子(29節)」と呼びかけ、イエス様の本当の御姿を証ししています。2番目に、「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでくれ。」と言っています。イエス様の御力が自分達よりも上回っていることを、悪霊どもは知っていたのです。3番目に、「底なしの淵へ行けと言わないでくれ。」と懇願しています。「底なしの淵」とは、世の終わりの時、悪霊どもが神様から裁きを受けて永遠に繋がれる牢屋のことです。十字架と復活によって、悪霊どもやその頭サタンをも永遠に閉じ込める権威を、イエス様は父なる神様から与えられるようになります。そのような御業を、悪霊どもが先に察知し、牢獄に永遠に繋がれることを恐れたのです。また、同時に、イエス様の御言葉が必ず実現するという「神様の御言葉」であることも証しています。そして、最後の4番目に、徹底的に滅ぼされる前に、悪霊どもはイエス様に延命願いをしました。「豚に入ることを許してほしい(32節)」と。イエス様がそれを許す権威をお持ちのことも悪霊どもは知っていたのです。動物愛護の精神に満ちた方は、不思議に思うかもしれません。しかし、イエス様は、悪霊どもに取りつかれて本当に助けを待ち望んでいた、この男を憐れみ、一人の人間の救いを最優先されたのでしょう。

 この地方の人々からの拒絶

この出来事について、様々な意見があったなか、悪霊に乗り移られた豚が溺れ死んで大損害を受けた「豚飼いたち」をはじめ、この地方の人々は、総意として、イエス様に出て行くように求めました。御力の大きさを恐れた上に、そんな大きな御力を持つ主と共に生きる恵みを願うよりも、「自分達の今の生活」、つまり、自分達が享受している利益を最優先したかったのでしょう。

 神様の救いの御業の恵みを宣べ伝える者として用いられる

この町の中でただ一人、悪霊を追い出していただいた男だけが、イエス様と共に歩みたいと願いました。彼は心から救いを求めていたので、イエス様の救いの恵みがよくわかったからです。しかし、イエス様は、同行することよりも、更なる恵みへと彼を導かれました。以前の悪い状態を知る家族や地域の人々に、神様の救いの御業の偉大さを伝える証し人として生きるように命じられ、彼は御命令に従いました。私達も主の救いの御業の恵みを我が身に受けたことをよく知っています。家族や周りの人々に証しできるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

4月17日の説教要旨 「主の御力①」 牧師 平賀真理子

詩編46:2-12・ルカ福音書8:22-25

 はじめに

今日の話は、マタイ福音書にもマルコ福音書にも記されている、有名な話の一つです。内容をまとめると以下のようになります。「イエス様と弟子達一行が湖を船で渡ることになったが、イエス様は船で眠り込んでしまわれた。そこへ突風が吹き、船が沈みそうになって弟子達がイエス様を起こした。イエス様が風と荒波を叱ると静まって、凪になり、弟子達は、イエス様の御力の素晴らしさと御業の偉大さに驚いた。」

 ガリラヤ湖と突風

ここで言われている「湖」とは「ガリラヤ湖」です。ガリラヤ湖は海面より200mほど下にあるという特徴があります。夏には湖の水面が太陽の光で熱せられて水蒸気が上昇します。その熱せられた水蒸気の塊は、横に移動できずに、真上に上がり、上空の冷気の塊と衝突し、その温度差によって、激しい風が湖面に吹き下ろす現象が、ガリラヤ湖ではよく起こるそうです。

 ガリラヤ湖の突風を良く知っていた弟子達

弟子達の中にはガリラヤ湖の漁師出身の者が複数いました。12弟子のうち、4人はガリラヤ湖の出身だったと福音書から読み取れます。彼らは、ガリラヤ湖特有の突風について良く知っていたでしょう。自分達の知識と経験からその恐ろしさに脅えてしまったのではないでしょうか。突風が起こった時に船の上に居たら、波に襲いかかられて自分達は溺れて破滅すること間違い無しと恐ろしくなったことでしょう。

 イエス様に助けを求めた弟子達

弟子達は、危機に瀕して、やっとイエス様の存在を思い出し、助けを求めました。恐ろしさに右往左往するだけの弟子達とは異なり、イエス様は、起き掛けにもかかわらず、危機の原因を見極め、突風とそれにつられた荒波を叱り、御言葉と御力により、この危機を収めてくださいました。

 「天地」を従わせることができる御力

弟子達はそれまで、イエス様が病気の人々を癒す現場に共に居て、その素晴らしい御力を「癒し」の面で数多く見てきました。その上、人間以外の自然、つまり、神様が創られた「天地」にまで命令を出して従わせることがおできになるイエス様の御力を、弟子達は再び経験することになったわけです。

一番弟子のシモン・ペトロは、イエス様から弟子として召し出された時に同じような経験をしました。自分達の知識と経験を基に漁を夜通し行っていても魚が全く捕れなかったのに、イエス様の「漁をしなさい。」という命令に従ったところ、魚が大量に取れた出来事がありました(ルカ5:4-7)。この時、ペトロは、イエス様の命令を実行する前には、「先生」と呼びかけました(今回のルカ8:24と同じ言葉)が、命令を実行してイエス様の御力を知った後は、「主よ」という呼びかけに変わりました。海の中の魚を大量に集めてくださったイエス様の御力を知り、「主よ」と信仰告白し、「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)のです。

 危機に瀕して初めて「主の臨在」を思い起こす弟子達

弟子達は、イエス様から教えを受けましたし、癒しの場に立ち会ったりしたのですが、その御力をまだ切実に感じていなかったのかもしれません。自分達に関わる出来事、しかも自分が危機的状況になって初めて、主が共に居てくださること(主の臨在)を思い出し、主に助けを求めました。そのような経過を通して、イエス様を「先生」と言うよりも「『主』と呼ばれる本当の神様である」と仰ぎ見るようになる姿、弟子達のこの姿に、自分の姿を重ねる方も多いのではないでしょうか。

 「神はわれらの避け所また力である」(詩編462「口語訳」)

「このままで生きていては溺れそうだ」という危機的状況に陥り、神様の助けを求めて、教会に来られる方がおられます。そして、御言葉との出会いや聖霊が働いてくださったと思われる出来事を通して、イエス様を「救い主」とする信仰に導かれます。しかし、信仰者として歩むうちに、「神様が共に居てくださる」恵みが平常のことになり、それがいかに素晴らしいかを忘れてしまっていないか、また、主の存在を思い出さずに、自分の知識と経験を基に生きるという、信仰生活以前に戻ってしまっていないか、自分の歩みを吟味する必要があります。特に、「平常時」は要注意です。「平常時」こそ、主の臨在の恵みを数え、感謝する訓練を重ねましょう。そうして初めて、危機的な「非常時」に、本当の助け主をいち早く想起し、その御力に全幅の信頼を寄せることができます。苦難の時に神様を避け所として、また、乗り越えさせてくださる力の源として全面的に信頼を寄せるのが、詩編46編に謳われた「神様への信仰」であり、私達が継承している信仰です。

4月10日の説教要旨 「実を結ぶ枝となる」 牧師 佐藤 義子

詩編 139:1-10・ヨハネ福音書 15:1-11

 はじめに

今日の、ヨハネによる福音書15章は、イエス様の告別説教と呼ばれている中の一部です。告別の説教は14章から始まり16章まで続きます。

イエス様は、この告別説教のあと、大祭司の祈り(17章)とも呼ばれる長い祈りを捧げられて、受難(捕縛・裁判・十字架)の時を迎えます。 今日の聖書箇所を、イエス様が弟子達に語った遺言として聞き、ご一緒に学びたいと思います。

 ぶどうの木

ぶどうの木は、英語の聖書では「vine」という言葉が使われています。「vine」は、辞書で調べると、最初に「つる性の植物」とあり、そのあとに、「ぶどうの木」という意味も載っています。ぶどうの木は、木からつるが伸びていき、やがて若枝となり、又、その枝からつるが伸びて、その先端に花の穂を付けるそうです。ぶどうを作る人は、冬の間に木の形を維持するため枝を切り詰めて、棚(他に、垣根や支柱)などを作り、そこにつるが伸びていくように誘導しておくそうです。その一方で、古い枝や、生長を妨げる枝などは、不要な枝として切りますが、残した枝もそのままにしておかず、木の栄養分が枝や葉の方に回らないように枝の先端を切り詰めて、果実の品質を良くするということです。

 「わたしはぶどうの木、父は農夫、あなたがたはその枝」

今日の聖書では、イエス様はご自分をぶどうの木、ご自分の父(神)を「ブドウ園の主人(農夫)」と、たとえています。ぶどうの木は、ブドウ園主のために木からつるを出し、その実を実らせるためにそこに植えられます。木から伸びていく「つる」は、若枝となり、その枝は、イエス様の弟子達のことを指します。そして若枝がつける実りとは、弟子達がこれから伝道して、それによって神様のもとに導かれていく人達であり、その人達からなる教会の群れと考えることができるでしょう。イエス様は、ご自分から出たたつるが、実りをつける枝となるための方法を教えられました。

 「わたしにつながっていなさい。」

枝は、木から命の樹液を受け取ります。木につながっていない枝は自分では実をむすぶことが出来ません。たとえ、イエス様から訓練された弟子であったとしても、彼らは自立して一人で、人々を神様のもとに導くことは出来ません。なぜなら人間は、自分の中に真理を持っていないからです。真理は木であるイエス様が持っておられます。枝である弟子達は、木から命の樹液、真理を受け取るのであり、自分の考え、自分の力、イエス様に根差していないすべてのものは、実をつける働きを弱めるだけです。

つるが枝となり実りをつける場合も、ブドウ園主(農夫)の手入れが入ります。もっと豊かに実を結ばせるために、時に厳しいはさみの剪定(せんてい)を受けなければなりません。

 実を結び、弟子となる

7節では、もし弟子達がイエス様と密接につながり、イエス様の言葉が弟子達の心の中にいつもあるならば、その言葉は弟子達を支配し、何が必要かを見抜くことが出来、弟子達の祈りは聞き届けられることが約束されています。そして弟子達が、人々を神様のもとに招き、その人々の心の中にイエス様の光と命が入っていくならば、弟子達はぶどうの木を植えたブドウ園の主人である「神様の」栄光を現していくのです。

わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまる

イエス様が弟子達に求めておられる奉仕(人々を神様のもとに導く奉仕)の本質は、イエス様ご自身が弟子達に注がれている愛です。この愛がなかったなら、つるは実を結ぶことが出来ません。この愛は神様からきている愛です。弟子達がイエス様の愛から離れずその中にとどまるということは、神様から湧き出た愛がイエス様を通って弟子達に注がれている、その愛の中に入ることです。イエス様が父である神様に服従することを通して神様の愛にとどまっているように、弟子達も又、イエス様が教えられた「掟」を守る(服従する)ことによって、イエス様の愛にとどまり続けることが出来ます。

 イエス様の掟

イエス様が、「これにまさる掟はほかにない」、と言われた二つの戒めが、あります。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。

第一の掟は、神様を愛することです。目に見えない神様を愛するとは、具体的には、(十戒にあるように)、天地創造主である神様だけを神様として、偶像礼拝をしないこと、みだりに神様の名前を唱えないこと(みだりに=空しく)、安息日(私達にとっては日曜日)を、他のウィークデーと区別して、聖なる日とする(礼拝を守る)ことです。

第二の掟は、「隣人を自分のように愛する」です。ルカによる福音書10章には、「隣人とは誰か」と質問した律法の専門家に対する答えとして、イエス様が、「良きサマリヤ人」のたとえ話を語られています。

 隣人になる

たとえ話は、「旅をしていた一人のユダヤ人が、途中強盗に襲われ、半死の状態で倒れているのを、三人の人達が通りすがりに気付きます。が、最初の人も二番目の人も、道の向こう側を通って行ってしまいます。しかし、三番目に通りかかった人は、ユダヤ人とは仲の悪いサマリヤ人でしたが、彼は倒れている人を憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱し、翌日になると宿屋の主人にお金を渡して、介抱してくれるように頼み、不足分が出たら、帰りがけに払うと言いました。」

イエス様は、このたとえ話をされた後、質問者に「誰が、この旅人の隣人になったと思うか」と問い返しました。質問者は「その人を助けた人です」と答えますと、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。このたとえ話に関連して書かれた書物の中に、イエス様の中では、すべての人が隣人であって、人を助けた人だけが、その人との「隣人である」という関係から「隣人になる」関係へと変えられたと記されておりました。

 イエス様につながり、イエス様の愛にとどまる

今から30年以上も前に、アメリカで出会った二人の女性のことを思い出します。二人は、家族連れで留学や研究に来ている外国人達の、家族のサポートをするボランティアグループのリーダー達でした。

ある日、私は、アメリカ人の夫を持つ二人の幼い子供がいる日本人の、若い母親の世話を、リーダーから依頼されました。母親は精神的に不安定になっており助けが必要でした。一か月位の期間を決めて引き受けましたが、その間、二人のリーダーは、彼女の為に日本語がわかる精神科医を捜し、通院の送り迎えなどで助けました。その結果、母親は次第に落ち着いてきました。やがて滞在期間が終る前日の夜、いつものように祈り、「頑張ってね」との私の言葉に、彼女も「頑張る」と約束したので、安心して翌日、自宅に見送りました。ところがその夜、彼女が薬を飲み、救急車で運ばれて入院したとの知らせを受けました。私は裏切られたように思い、約一か月の日々が、すべて空しく思えて気持が沈み、お見舞いに行く気になりませんでした。それに対して二人のリーダー達は以前と少しも変わらず、入院した彼女の為に、幼い子供達を祖父母のところに預け、病院には着替えなど毎日のようにお世話をし、「私達はただ必要なことをしているだけ」と言い、退院後も彼女を助け続け、離婚の話が出た時は弁護士を探してあげて、離婚後は、自立のために運転免許をとるために手伝い、その後、就職先を見つけて紹介し、自立させたことを、帰国後、日本人の友人から聞きました。

二人のリーダー達は、なぜこれほど外国人を愛することができたのでしょうか。そして私はなぜ、ほんの一時期だけしか「隣人になる」ことが出来なかったのでしょうか。その答えが、今日の聖書にあります。

私は、イエス様というぶどうの木にしっかりつながっておらず、木から送られる命の樹液を十分吸収しないまま、イエス様の愛の中ではなく、自己中心的な愛の中にとどまっていたからです。しかしリーダー達は、「イエス様につながり」、イエス様も「リーダー達につながって下さった」ので、豊かな実を実らせていく歩みを続けることができたのです。