2017・4月9日の礼拝説教要旨 「十字架のキリスト」 佐藤 義子

ゼカリヤ 9910・Ⅰコリント11825

はじめに

本日は「しゅろの日曜日」(パームサンデー)です。2千年以上も前の今日、イエス様がエルサレムの町に子ロバに乗って入られた時、イエス様の名声を聴いていた多くの群衆達が こぞってしゅろの葉を振り、又、枝を道に敷いて大歓迎しました。その5日後にイエス様は十字架で殺されました。

誰が殺したのか

今を生きる私達はイエス様の「死」に直接かかわっていません。しかし、当時の宗教指導者達の、自分の地位や評価を脅かす人達・自分を批判する者(目の上のこぶ・邪魔者)は いなくなれば良いとの感情や自分より優れている者への嫉妬の感情、総督ピラトが「この男に何の罪も見いだせない」と言いながらも大群衆の「十字架につけろ」の叫び声に屈して正義を貫けなかった姿や「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」との脅しに負けて自分の地位を守る姿、又、ペトロの、自分が不利な立場に追い込まれないようにイエス様の弟子であることを否定する姿、あるいは裏切りながら表面では親しそうにイエス様に接吻するユダの姿・・など、彼らの姿の中に、私達は、すべての人間(勿論例外なく自分も含む)の罪・・「自己中心、自己正当化、自己絶対化、自己保身の罪」を見るのです。

十字架のもう一つの意味

今日読んだ聖書には、「十字架の言葉」(18節)という文言が出てきました。目に見える十字架へのプロセスとは別に、もう一つ十字架に隠された深い意味を表している言葉です。十字架の言葉とは、十字架にかけられたキリストの姿から放たれている神様のメッセージです。人間の知恵や知識では到底知ることが出来ない神様の救いの御計画です。

十字架による神様との和解

それまで私達は、神様と敵対する「罪」の奴隷、「罪の支配するこの世の鎖」につながれていました。その行き着く先は滅びと死です。しかし、十字架は、私達を罪の鎖から解放しました。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによるあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者の為に罪を償う供え物となさいました。それは神の義をお示しになるためです」(ロマ書3:23-)。 あがなうとは、代価を払って買い取ることです。キリストの十字架で流された血潮(代価)によって、私達は罪の奴隷から神様に買い戻されて、神様との交わりが回復したのです。このことを信じて受け入れた者は、神様の支配される国の民の一員とされるのです。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもの

滅んでいく者として例に挙げられたのが、ユダヤ人とギリシャ人です。ユダヤ人とは、「しるし」=「目に見える」を求める人達のことです。神様の力を手でとらえ、目で見ることを要求し、自分が承認出来る奇跡・裏付けを求める人達です。一方、ギリシャ人とは、思想、哲学、観念を重んじる人達です。議論を好み、説明がつかないことは拒否します。自分達の考えに矛盾するものは受け付けようとしない人達です。

十字架の言葉は、救われる者には神の力。

21節に「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした」とあるように、人間は、どんな知識、知恵、哲学をもってしても神を発見する(知る)ことは出来ませんでした。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(同)。

宣教を通して語られる「十字架の言葉」を受け取り、信じるキリスト者は、神の力と神の知恵であるキリスト(24節)と共に歩む道が開かれました(そして今も恵みの時として開かれ続けています!)。私達には、日々私達を取り囲むさまざまな苦悩や矛盾や戦いがあります。しかし信仰をもって神の力と神の知恵であるキリストに結ばれている時、私達はそれらに必ず打ち勝つことができます。又、この会堂の土地が与えられたように、人知を超えた神様の知恵と業を見ることが出来ます。受難週を迎えるにあたり、十字架のキリストから放たれているメッセージを、感謝しつつ聞き従うものとして歩みたいと願っています。

4月2日の説教要旨 「十字架の勝利」 牧師 平賀真理子

イザヤ書531112 マタイ福音書202028

 はじめに

イエス様は御自分の「死と復活の予告」を3回なさいました。今日の新約聖書の箇所は、3回目の予告の直後=「そのとき」に起こりました。

 「受難」と「死」についての具体的な予告

3回目の「死と復活の予告」では、前の2回とは異なり、「苦しみを受けること」と「殺されること」が具体的に語られました。つまり、「死刑を宣告され」、「侮辱され」、「鞭打たれ」、「十字架で殺される」ということです。エルサレムを直前にして、イエス様はいよいよ御自分に何が起こるか、信頼篤い12弟子達に伝えようとされたのでしょう。

 ゼベダイの息子たちとその母親

今日の箇所の「ゼベダイの息子たち」とは、見出しにもあるように、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ(マタイ4:21)です。12弟子の中でも、主の信頼が更に篤く、ペトロを加えた「3弟子」として重用されていることは福音書に度々記されています(例:マタイ17:1「山上の変容」)。この兄弟に加えて、その母親も、イエス様に従っていた信仰者だったと伝えられています。「救い主」イエス様がエルサレムに行き、もうすぐ「神の国」ができると彼女は期待し、自分の息子達を、主の1番と2番の家臣にするという約束の御言葉を主からいただこうとしました。

 栄光の前に「杯を飲む覚悟」を問われる

自分の子供の繁栄を願うことには、母親として同情したいところですが、自分の息子達だけへの愛に傾いているようです。でも、イエス様はそれを責めずに、自分の従者としての栄光を求める前に、「杯」を経験しなければならず、その「杯を飲む」覚悟があるのかをヤコブとヨハネに問われました。「杯を飲む」とは、神様が与えた過酷な定めを受け入れるということです。イエス様が飲もうとしていた杯とは「十字架上での死」です。この兄弟達にも、弟子ならば、同じように「信仰ゆえの迫害や死」を受け入れる覚悟の後に、栄光が与えられることを示されています。

 「できます。」と答えたのは?

杯を飲めるかと聞かれてこの兄弟達が「できます。」と答えたのですが、それは、イエス様の父なる神様が、彼らに働きかけてくださったからだと思われます。ペトロの信仰告白と同様に「神様の働きかけ」で(マタイ16:16-17)、御子イエス様への信仰基盤が人間の中にできていることが天地に表明されることになりました。だから、イエス様は「できます。」という言葉がやがて実現すると保証されたのでしょう(23節)。「神の言葉はとこしえに立つ(イザヤ40:8)」からです。

 弟子達の順位は、父なる神様の権限

しかし、イエス様は、弟子達の誰が1番や2番の家臣になるかをお決めになるのは、父なる神様の権限であり、御自分にはどうすることもできないと暗示し、2人の兄弟の母親と約束なさいませんでした。なぜなら、イエス様は、父なる神様を完全に信頼し、その御命令や権限に完全に服従なさるからです。

 弟子達の分裂の原因

主要な12弟子の内、ヤコブとヨハネを除いた10人の弟子達は、彼らに腹を立てました。彼らも似たような願望を持っていたと推測できます。弟子達という「信仰者の群れ」の中で、「1番になりたい」という願望が原因で、分裂が起こりました。イエス様は、この弟子達に向かって、御自分を信じる群れの中で、1番になることの意味や目的を教えてくださいました。それは、異邦人やこの世での意味や目的とはまるで正反対であると言われています。

 「異邦人の国(この世の国)」と正反対である「神の国」

異邦人をはじめとする、この世の方法では、権力者は、最大の権威を持ったら、自分の願望を実現することを第一の目的とします。自分のために周りの人々が苦しんでも配慮せず、多くの人々が虐げられたままです。ところが、イエス様の教えておられる「神の国」は、神の愛が実現するところ、つまり、自分が第一ではなく、相手の幸いを第一とする目的をもって、他の人に奉仕することが重要とされる国で、一番大きな権力は一番多くの奉仕をするために与えられるのです。

 「十字架の勝利」

イエス様の飲まれた杯=十字架上の死こそが、他の人間の救いのためにへりくだって自己を犠牲にする「神の愛」を人間に明示した、尊い犠牲です。その後の長い歴史の中で、このことを受け入れた多くの人々が救われてきました。「主の十字架」のみが、周りを犠牲にする「人間の罪」に完全に勝利するのです!

3月26日の説教要旨 「死と復活の予告②」 平賀真理子牧師

イザヤ書53610 マタイ福音書162128

 はじめに

前回、マタイ福音書16章13-21節までを「死と復活の予告①」と題し、お話しをしました。「あなたはメシア、生ける神の子です。(16節)」という、ペトロの信仰告白をイエス様は祝福なさいました。それは、この世での信仰の基盤ができたということを意味します。そして、その揺るぎない信頼関係ができて初めて、イエス様は、人間がすぐには受け入れがたい「救い主の死と復活」について語り始めました。

 「救い主の死と復活」を初めて聞く人間の反応

イエス様が待ちに待った信仰告白をしたにもかかわらず、ペトロは、イエス様御自身が打ち明けてくださった「受難、死、復活」のことを信じられませんでした。というよりも、きっぱりと否定しました。しかも、救い主であるイエス様を「わきへお連れして、いさめ始めた(22節)」のです。これは、何もペトロに限ったことだとは言えないでしょう。他の弟子達にとっても、更に言えば、その後々の人々、ひいては、現代の私達に至るまで、このことを初めて聞く人間にとっては、受け入れ難いことです。「全能の『神の御子・救い主』が反対派の人間から苦しみを受けて殺されるなどありえない!反対派の人々をやっつけて、即座に御自分の支配を始める力と知恵があってこそ、『神の御子・救い主』だ!」と多くの人間が思うでしょう。人間が思い込んでいる「神の御子・救い主」は「栄光の主」、一方、イエス様の考えでは、「屈辱を受ける僕の立場」を味わわねばなりません。

 「神のことを思わず、人間のことを思っている」

イエス様が、直近には祝福したペトロに向かい、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしを邪魔する者。」と呼ばれたのは、大変衝撃的です。その理由をイエス様は続けて語っておられます。「神のことを思わず、人間のことを思っている(23節)」。ペトロは神様から送られた救い主と信じるイエス様の御言葉を、第一に尊重するべき立場にいました。でも、自分の持つ「栄光の主」の像にイエス様を当てはめたいと思い、自分の思いの実現を第一に考え、イエス様の預言を押しいただくことができませんでした。

 「わたしの後ろに来たいと志すのか」

イエス様がペトロに向かっておっしゃった「サタン、引き下がれ」は元々の言葉に忠実に訳すと「サタン、わたしの後ろに退け」です。「わたしの後ろに」が重要な言葉です。それは、24節の御言葉の最初にもあります。「わたしについて来たい者は」というところが、元々の言葉では「わたしの後ろに来たいと志す者は」と書かれています。これが弟子達におっしゃりたいことです。「あなたはわたしの後ろに来たいと志すのかどうか」という問いです。もっとはっきり言うと、「あなたはわたしを前にする(第一とする)のか」ということです。

 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

「わたしの後ろに来たいと志す者」に向かって、イエス様が教えてくださったことが続いて記されています。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(24節)」。「自分を捨て」とは、自分の思いや要求を第一に実現しようとする生き方を止めることです。この世では、多くの人間がそういう生き方をするのに、です。そして、「自分の十字架を背負って」と要求されます。「自分の十字架」とは、突き詰めて考えれば、神様の前に断罪されねばならない「自分の罪」のことを指すのだと思われます。ペトロのように、神様の御言葉や御心を知らされても、自分の思いや判断を優先してしまうこと、それが「自分(人間)の罪」であり、神様から離れてしまう「自分の十字架」です。しかし、それを捨て去ってしまうまでは、ついて来てはならないと、イエス様はおっしゃったのではありません!それを背負ったまま、「わたしの後ろに来なさい。」と招いてくださっているのです。そして、その先に、「わたしと共に十字架にかかって、罪を処断してしまいなさい。しかし、それは神様の御心であり、その後には、私が復活の主として永遠の命を与える栄誉を用意しています。」と教えておられるのです。

 復活なさり、従いたいと志す者に「永遠の命」をくださるイエス様

25節以降でイエス様が語っておられる「命を得る」とは、「神様の御前で生きている状態」、つまり、神様に繋がって神様に従って生きるという、「永遠の命を得ている状態」を指しています。肉体的に生きていても、罪の中にいるために神様に繋がっていない状態では、イエス様の目から見て「命を失っている」のです。イエス様は十字架の後、復活の栄光を父なる神様からいただき、その恵みを従う者に喜んでくださる御方です。その大いなる恵みを感謝して歩みましょう。

今日の*花クラブ*

カタクリ(K兄のガーデンより)

カタクリの花はなかなか、一般家庭の庭では見られませんが、伝道所でご一緒するK兄のガーデンでは毎年綺麗なカタクリの花が見られるそうです。

今年はお邪魔して、写真に収める事が出来ましたので、皆さまと喜びを共に出来ればと思います。

科・属名: ユリ科カタクリ属
学名: Erythronium japonicum
和名: 片栗(カタクリ)
別名: 堅香子(カタカゴ)、カタコ
英名: Katakuri, Dogtooth violet
原産地: 日本

花言葉) 初恋・寂しさに耐える

 

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今日のみことば(コリントの信徒への手紙1:30〜31)

《神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖を贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。》

2017・3月19日の礼拝説教要旨 「交わりの回復」 佐藤 義子

創世記 127フィリピ2311

はじめに

今朝の聖書・創世記には「神はご自分にかたどって人を創造された」とあります。文語訳では「其の像(かたち)の如くに我ら人を造り」となっています。それで人間は「神の似姿」として造られたと言われます。キリスト教主義学校の聖書の教科書には「人間を見れば神を思わずにいられないような神との深い関係に創られている。つまり人は、機械のような神のロボットや物ではなく、神に『応答するもの』すなわち人格的な存在として造られている」と説明しています。神学者ニーバーは「計画し、創造する魂と、自由に選択する意志」を挙げています。創世記2章7節では、「主なる神は、土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。「」と「」は同じ原語であることから、人間には「霊性」が与えられていることは良く語られるところです。そして「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)と記されています。

「罪」が世界を変える

しかし、この世界に罪が入り込んだ時、神様が創られた世界と人間の、「極めて良かった」状況は失われていきます。神の「似姿」として創られた人間は、与えられた自由意志で、神様に従う道ではなく従わない道、つまり、神様の御命令よりも自分の欲望を優先させる道を選んでしまったことが、3章のエデンの園の出来事として記されています。それは、人間と神様との境界線(創造主と被造物の関係)を踏み越えてしまったということです。この神様への不従順は、神様を知らなかった時の 私達自身の生き方(自分が良いと思えば良い、という自己中心的な考え方)でもあります。今も多くの人々は神様を忘れ、無視し、人間中心主義の罪が 世界を覆っています。この罪ゆえに私達人間と神様との関係は、長いこと絶たれてしまいました。

修復への道

聖であり義であり愛である神様と、罪ある人間との断絶関係に終止符を打って下さったのは神様でした。本来なら、断絶の原因となった人間から願い出て、人間社会で行われているように「罪の償い」をして、罪の赦しを願い出るべきであったでしょう。しかし私達の罪(創造主の御意志より自分を優先させて生きる、神様をないがしろにしてきた罪)は、測り知れず、罪に見合った罰・・は、死罪のほかにあるでしょうか。神様は私達を愛するがゆえに、神様と私達との「交わりの回復」の道を用意して下さいました。しかし、「義」である神様の「赦し」の前提には、「罪の償(つぐな)い(贖(あがな)い)」がなければなりません。それがお出来になるのは罪のない方(他者の負債を負えるのは、負債のない者)だけなのです。

御子キリスト

ロマ書にあるように、人間には、「正しい者はいない。一人もいない。」のです(3:10)。罪のないお方は御子キリストしかおりません。神様の救いの御計画に対して、今日のフィリピ書では「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6-11節)と伝えています。

教会の一致

パウロは今日のフィリピ書で、私達の教会が一つとなるためにイエス様の生き方を手本とするように勧めます。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たして下さい。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(同2-4節)。 元神学校の学長は、「畏れをもって捧げられる礼拝こそが、初めに神が人間を創られた時の、神と人間との応答関係の基本的姿なのです」と言いました。私達はこれからも礼拝を第一とする信仰生活を続けていき、キリストを頭(かしら)とした キリストの体である教会の一員として、御言葉に養われつつ、キリストに倣って歩みたいと願っています。