8月2日の説教要旨 「安息日の主」 牧師 平賀真理子

サムエル記上21:3-7・ルカ福音書6:1-5

 はじめに

イエス様はガリラヤ地方やユダヤ地方やその周辺を巡って、福音を広める旅を続けておられました。神様のお話や神様の御力をいただいた癒しの御業によって、神様の支配がこの世に始まったことの素晴らしさを人々に知らせてくださっていました。

 ある「安息日」の出来事

福音宣教の旅のある日、弟子達が通りすがりに麦の穂を摘み、食べました。これを、イエス様一行を偵察していたファリサイ派の人々が責めました。現代の私達なら「盗み」という罪状だろうと想像する方が多いでしょう。しかし、そうではありません。通りすがりに、手で麦の穂を摘んで食べるくらいは許されていました(申命記23:26)。問題は、この出来事が「安息日」に起こったことです。ファリサイ派などユダヤ教の指導者達は「安息日」の決まりとして、労働を禁じていて、弟子達の麦摘みは、収穫という労働をしたので律法違反を犯したというわけです。

 当時の「安息日」の決まり

ユダヤ教指導者達は、神様からいただいた「十戒」を守ることが大事と人々に教えていました。特に「安息日を守る」ことについて、人々の生活に合わせた具体的な細かい決まりを作り、形式的に守らせることに留意しました。安息日に、仕事をすることはもちろん禁じられましたが、それ以外に、火を起こして料理したり、長い距離歩いたりすること等も労働として禁じられました。そのような規定が200以上あったそうです。

 「安息日」の本当の目的

旧約聖書に「十戒」は2か所に書かれています。出エジプト記20章と申命記5章です。その中の一つ、「安息日を守る」ことについては、この2か所それぞれで違う目的が書かれています。「出エジプト記20章」では、11節に、神様が六日間で「天地創造の御業」を終えられた後の7日目に休まれたと明記されています。このことを覚えるために、人間も同じように、仕事を六日間した後の七日目に休むことが必要とされたのです。一方、「申命記5章」では、エジプトで奴隷だった人々の苦しい叫びを神様が聞いて、歴史に働きかけて救い出してくださったことを想起するために安息日を守る必要があるとしています。「安息日」は、人間を造って愛してくださる神様、罪に陥った人間を救うために実際に働きかけてくださる神様に感謝を献げるためにあります。そして、神様の御心に従って初めて、人間は心から安息できるのです。

 「安息日規定」より優先されるもの

「安息日」の本来の目的から外れた所で、「安息日」の外面的な細かい規則を守らせることに躍起になっていたファリサイ派の人々に対して、イエス様はお答えになりました。イエス様がお生まれになった時代より更に1000年程前に、ユダヤ人達が一番栄えた時のイスラエル王国のダビデ王の行動(サムエル記上21:3-7)を思い起こさせるものでした。「ダビデ王」はユダヤ教指導者達が尊敬する人物の一人でしたから、ダビデ王とその一行が祭司しか食べてはならないと律法で定められたパンを食べるという違反を犯したという出来事を示すことは有効でした。ダビデ王は、非常時において律法違反をしていたけれども、神様の栄光のために働き続けて神の祝福を受けた人物として記憶されていました。イエス様は決して律法を軽んじられたのではありませんが、非常事態には、律法よりも優先されるものがあると言われたのです。それは神様の御心に適った働きをすることです。「救い主」であるイエス様がこの世で「救いの御業」をなさることこそ、神の御心に適った働きです。そのイエス様の弟子達が、福音伝道の旅の途中で、たまたま安息日に空腹になって、収穫という労働をしました。それは「安息日規定」では違反ですが、それだけで弟子達を非難するというファリサイ派の人々の考えは、神様の御心を優先していない点で、律法の本来の目的から外れています。律法の外面的な決まりよりも、律法の核心にある「神様の御心」に適う御業のために働く弟子達が優先されるとイエス様は教えておられるのです。

 「安息日の主」

イエス様は「人の子は安息日の主である」とも言われました。「人の子」とは「救い主」である御自分のことを暗示するときにイエス様が使われた言葉です。当時の指導者達がすべてに優先するとした「安息日規定」の権威よりも、「救い主」の権威が上であることを宣言されています。イエス様は、最高の権威を持って、私達一人一人の「救い」と本当の「安息」を保証してくださる御方です。

7月26日の説教要旨 「新しいもの」 牧師 平賀真理子

エレミヤ書31:31-34・ルカ福音書5:33-39

 はじめに

イエス様は「レビ」という「徴税人」を弟子になさいました。当時のユダヤ人達は、「徴税人」を大変嫌っていました。仲間から税金を取りたて、異邦人達に渡すという罪深いことをしていると考えたからです。ユダヤ教指導者達(ファリサイ派と律法学者達)も、「徴税人」を救おうとは考えず、彼らの汚れが自分にも移ることを避けるため、彼らと同席しませんでした。ですから、神の御力をいただいていると噂になっている「ナザレ人イエス」が、罪深い「徴税人」の「レビ」を弟子にしたのは、ユダヤ教指導者達には受け入れがたいことでした。まず、彼らは、「罪人」(「徴税人」を含む)と同席することを裁こうとしました。一方、イエス様は「救い主としてこの世に来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるため」と答えられました。恐らく、この答えを聞き、彼らは、「罪人を裁くのではなく、悔い改めに導く」ということが、自分達の姿勢に足りないと気づかされたのではないでしょうか。主の御言葉は、人間の本来のあるべき姿を問うものです。ユダヤ教指導者達は反論の余地が全くなかったのです。

 「悔い改め」32節)という御言葉を受けて

当時のユダヤ人達は、「悔い改め」という言葉から、ある人物を思い出しました。「洗礼者ヨハネ」です。イエス様の宣教活動開始の前に、人々に「悔い改め」を激しく迫った人物です。洗礼者ヨハネとその弟子達は、当時の人々が宗教的だと考えていた「断食」や「祈り」に熱心でした。一方、イエス様とその弟子達は、人々の前では、「罪人」達と「飲んだり食べたり」している姿が印象づけられていました。しかし、イエス様は、「断食」や「祈り」を決して軽んじられたわけではありません。宣教活動の前に、40日間の断食をされました(4:2)。また、人里離れた所で祈られた(5:16)等、いつも熱心に祈られていたことは福音書に度々書かれています。

 「花婿」=「救い主」

ユダヤ教指導者達の「イエス様一行が断食せず、飲み食いしている」という非難に、イエス様は例えで答えられました(34-35節)。「花婿」とはユダヤ人が待ちに待っていた「救い主」のこと、つまり、イエス様のことです。救い主がとうとうこの世に来てくださり、人々が喜んで集うことが「婚礼」であり、「婚礼の客」とは「救い主を喜んで受け入れて信じる人々」です。喜びの宴会では、人々は喜んで飲食します。愛する民と共に居ることを喜ぶイエス様=「インマヌエルの神」(マタイ1:23)とその一行(弟子達)も共に飲み悔いするのは当たり前だと言われたのです。主は「救い主がこの世に来て、人間として共に生きておられる」、それが本当に大変な恵みの時であることを知らせようとされています。同時にまた、救い主がこの世から奪い取られる時が来ることも告げられました(35節)。これは、「十字架」による死の予告であり、主の死後、人間が悔い改めの断食の時を過ごすようになることを知らせてくださったものです。

 新しいものは新しいものに!

イエス様を「救い主」として受け入れて信じることで救われるのが、エレミヤ書31:31にある「新しい契約」と言えるでしょう。そして、律法を守るということで救われるというのが「古い契約」であり、ユダヤ教指導者達が教えていたものです。イエス様がもたらした福音を信じる「新しい救い」は、律法を死守するというユダヤ教の「古い救い」に引き継がれるのは、むずかしいことだろうとおっしゃっています。(後の時代の私達は、まさしく、そのようになっていることを知っています。)

 主によって「新しい救い」に招かれた私達

「布切れ」や「葡萄酒」と「革袋」の例えも、古いものが、その古さ故に新しいものを受けとめ切れないということ、つまり、新しいものを受け入れられるのは新しいものだということを教えておられるのです。そして、イエス様一行を非難してきたユダヤ教指導者達に対して、御自分の「新しい救い」を彼らが受け入れるのはむずかしいだろうと予告されました。それが39節です。それまでになじんできた「古いもの」(古い「救い」)の方がよいとして、「新しいもの」の良さを認めず、「古いもの」に留まる心地よさを捨てられないという人間の頑なさを、主は知り抜いておられるのです。イエス様は、弟子達を、漁師や徴税人といった「古い救い」の中では軽んじられた人々から新しく選ばれました。そして、同じく軽んじられた「異邦人」の中に、私達もいました。憐み深い主の御心によって、私達は、「新しい救い」を受け入れる者として招かれているのです。

7月19日の説教要旨 「主は近くにおられる」 牧師 佐藤 義子

詩編97:7-12

フィリピ書4:2-7

 はじめに

パウロがフィリピの町での伝道を始めるにあたり、2節に登場するエボディアとシンティケの二人の婦人は、他の協力者達と共にパウロをよく助け、支えました。今、パウロは、信頼しているこの二人に向けて、「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めます。教会は同じ信仰告白をする者の群れです。生まれも育ちも置かれている環境も、そして考え方や感じ方も違う者達が、信仰によって一つとされた群れです(エフェソ4:4「主は一人、信仰は一つ」)。パウロがこの勧めの言葉を語る背景に、二人の間あるいは、二人と教会の人達との間で、何らかの考えの違いが出てきたと思われます。しかし、教会の中で不協和音があっては、教会としてはなりたたなくなるのです。教会の一致への道は、「主において同じ思いを抱く」ことです。

 主において

「主において」とは、「主」を共通の基盤とする、「主」を根拠にすることです。クリスチャンは「主」に属する者であり、主に属する者は「主によって規定される」ことです。教会の最高責任者はイエス・キリストです。教会は、イエス・キリストが「かしら(頭)」であり、牧師をはじめとする信仰者は、頭であるイエス・キリストの体です。それぞれ神様から与えられている賜物に応じて教会の働きを担っています。教会活動の根本ルールは、何事も「主において」することです。イエス・キリストを見上げ、イエス・キリストに徹底的に服従する信仰に立つ、今与えられている恵みの中に立つ、教えられてきた福音の中に立つ、ことです。

 「主において常に喜びなさい」

4節でも「主において」常に喜ぶように命じます。「常に」とは、とても喜べないような状況の中でも喜びなさいということです。この喜びは、一回限りの喜びではなく、継続的に喜びの状態に「とどまり続ける喜び」です。それは、主イエス・キリストを根拠とした喜び、主イエス・キリストから湧き出てくる喜びであり、この世の喜びとは違う喜びです。このフィリピの教会に宛てた手紙は、パウロが投獄されて自由が奪われている中で書かれました。それでもパウロには喜びがあり希望がありました。パウロは、「主において常に喜こんで日々を生きていたのです。

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」

「広い心」とは、あることに執着し、こだわり、しがみついたりせず、自由に行動できる心です。ファリサイ派や律法学者達のようにではなく、ご自分の権利を捨てて(神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執せず、かえって自分を無にして人間と同じ者になられたイエス様の生き方が示している「広い心」です。その土台となっているのは愛です。愛から出る行動は、あらゆる執着から私達を解き放ち、柔軟で寛容な考え方を生み出します。クリスチャンは、そのようなイエス様の似姿に近い者とされていく歩みへと招かれています。これはクリスチャンの特権です。

 「主はすぐ近くにおられます」

パウロは、この手紙の前半で、獄中で自分が世を去る可能性があることを考えており、後半では、終末と再臨の時への思いを強くしています。 今、世界を見る時、イエス様が預言された終末のしるし・・「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」が現れているのを見ます。私達が地上を去る時、又、終末に思いを巡らす時、「主が近くにおられる」という信仰は、私達からこの世の一切の思い煩いを遠ざけ、私達をまことの祈りへと導きます。その祈りは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明ける」祈りとなります。私達の人生には苦難がいつも伴います。しかし、神様は、神様を信じて従っていく者に、いつも目を注いで下さいます。どのような状況になろうとも、最善の道を備えて下さり、その恵みの体験を重ねるごとに、私達は感謝を込めて祈りと願いを捧げ続けることが出来るのです。すべての良きことは神様から来るのであり、神様の内に一切の希望と富があります。それゆえ私達は、何を計画し、何をしようとも、神様の御心にお委ねするのです。その時、「人知を超える神の平和が、私達の心と考えとをキリスト・イエスによって守る」のです。

7月12日の説教要旨 「罪人を招く主」 牧師 平賀真理子

詩編25:6-14

ルカ福音書5:27-32

 はじめに

みもとにやって来た「中風の人」と運んできた仲間の信仰をご覧になったイエス様は、「罪の赦し」と「病いの癒し」をなさいました。そこでは、神様への賛美が起こりました。しかし、イエス様は御業を誇ることなく、福音を広める旅を続けるため、すぐ出発されました。

 徴税人「レビ」の召命=イエス様の方からの呼びかけ

イエス様は道中、心の中で救いを求めていたであろう人を見つけ、ご自分の方から「わたしに従いなさい」と声をかけられました。「レビ」という徴税人です。当時、税金を取り立てる「徴税人」は人々から嫌われ、軽蔑されていました。自分達と同じユダヤ人でありながら、自分達を支配しているローマ帝国やヘロデ王家(異邦人)のために大事なお金を税金として取り上げる仕事を「徴税人」がしていたからです。また、彼らの多くは、本来の税金よりも多くのお金を人々から徴収して、私腹を肥やしていました。異邦人と交際している「徴税人」は、神様に背いて生きていると軽蔑されていた「罪人(つみびと)」とされていました。しかし、「徴税人」にならざるを得なかった事情が彼らにあったかもしれません。また、そんな仕事を続けていくことは精神的・社会的に辛いことだったでしょう。絶望的な思いを抱いて、「レビ」は仕事場に座っていたのでしょう。イエス様は人間の心の中を見抜かれ、「救い」を求める人を決して見過さない御方です。憐れみをもって、レビを「本当の救い」に招いてくださいました。「中風の人」の場合と違い、今回は「救い」を求める人に、主の方から来てくださり、「本当の救い」に招いてくださったのです。

 主の招きにすぐに応えた「レビ」

イエス様の招きに応じて、28節に「彼(レビ)は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。すべてを捨てて主に従う姿は、主の弟子シモン・ペトロ達と全く同じです(5:11)。主の招きを受けた者は、すぐに従うべきだと伝えていると読み取れます。

 主のための宴会に同席した者と同席できなかった者

本当の救いという恵みをいただいた「レビ」は、盛大な宴会を催しました。イエス様に対する感謝を表すためだったと思われます。自分のために貯めていた財産を主のために使うと言う、180度の方向転換です。この恵みの席に同席したのは、「徴税人」や「罪人」です。一方、宗教的聖さを重んじるファリサイ派や律法学者達は、彼らと同席できませんでした。しかし、とても気になって、様子を外から遠巻きに見ていたのでしょう。そして、恐らく、弟子達が外に出てきた時にでも、自分達の疑問を投げかけたのではないでしょうか。「宗教的に汚れた人々と食事を共にするなんて、どういうつもりだ?」そんなことをすれば、聖い自分達も汚れて、神様の御前では「罪人」とされると彼らは考えたのです。

 罪人を招くために来た主

その質問にイエス様自らがお答えになりました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である。」これは、次の32節の例えです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」救い主としてのイエス様がこの世に来られた目的を、御自身で明らかになさいました。質問した反対派が自分達を「正しい」と考えているので、その考えに合わせて答えられました。「正しい、つまり宗教的に聖いと自負するあなた達には、救い主は必要ないですね。あなた達が汚れているとみている罪人こそ、救い主は必要ですね」と言われたのです。「罪人」と呼ばれた人々と共にいて、彼らに神の国を知らせることこそ「救い主」である御自分の使命だとおっしゃったのです。

 「罪人」とは?

「罪人」とは誰かを考え直す必要があります。社会の中で苦しんでいる人々を「ダメな人達だ」と裁くだけで助けようとしない反対派こそ、「罪人」の最たるものでしょう。ここで、「罪人」は2種類あると考えられます。神様の律法を守れない人と、律法を守らない人の事情を配慮せずに裁くだけで助けようとしない人です。新約時代の私達は、福音によって神様の御心を知らされています。自分自身を振り返ってみて、常に神様の御心に従っていると言えるでしょうか。神様の御心に従っていない人を見て裁くだけになっていないでしょうか。それでは「罪人」に逆戻りです。しかし、そんな「罪人」である私のためにイエス様は「悔い改めて神の国の民として生き直す」ように招いてくださっているのです。

7月5日の説教要旨 「『人の子』の権威」 牧師 平賀真理子

ダニエル書7:13-14

ルカ福音書5:17-26

 はじめに

イエス様がなさった「神様についてのお話」と「病いの癒しの業」によって、その評判はガリラヤ・ユダヤ地方一帯に広まり、エルサレムにも届きました。前者は、今までのユダヤ教の先生方の話とはずいぶん違うことで評判になりましたし、後者は、病いが目の当たりに治るのですから、人々は大変感動し、その素晴らしさは瞬く間に広まったでしょう。

 ファリサイ派の人々や律法学者達の批判的な思いの中で

噂を聞きつけて、当時のユダヤ教の指導者達がやってきました。ファリサイ派と呼ばれる人々と律法学者達です(参照:聖書の「用語解説」)。彼らは噂の「ナザレのイエス」の言動を偵察に来たのです。彼らの批判的な眼差しの中でも、イエス様は「主の力」によって癒しの御業を続けられました(17節)。「主の力」は人間の思惑や行動で左右されません。ファリサイ派の人々や律法学者達は、自分達の眼の前で確かに行われている「主の癒しの御業」について、何も言えなかったに違いありません。

 「中風の人」への御言葉「あなたの罪は赦された」

しかし、「中風の人」に対してイエス様が言われた御言葉に対して、ファリサイ派の人々と律法学者達は、敏感に反応しました。イエス様の所に押し掛ける人々が非常に多くて、通路がないために天井を壊して床ごとつり降ろしてでもイエス様の御力を信じて癒して欲しいと必死だった「中風の人」と運び込んだ人々の「信仰」をご覧になったイエス様が、「あなたの罪は赦された」と言われた御言葉に対して、反感を持ちました。ファリサイ派の人々や律法学者達は、この御言葉は神様しかおっしゃることはできないし、「罪を赦すこと」が実際におできになる御方は神様しかいないと知っていました。彼らは、イエス様に対して、「人間であるのに、神様を冒瀆している」と考えたのでしょう。

 「人の子」が罪を赦す権威

そんな反対派(ファリサイ派の人々と律法学者達)の考えをよく知り抜いたイエス様が、不思議な問いかけをされています(23節)。「罪を赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいかという質問です。多くの方がどちらだろう?と疑問を持つでしょう。しかし、これは、単なる質問ではありません。次に続いている御言葉に繋がっています。「『人の子』が地上で罪を赦す権威があることを知らせよう。」このことが重要です。「人の子」とは、やがてこの世に来ると預言されていた「メシア」のことです。この世を創られた父なる神様から、権威・威光・王権をすべて譲り受けて、この世を治めてくださるようになる御方が「人の子」です(ダニエル7:13-14)。「人間の姿をしたメシア」をこの世に送ってくださるとの神様の約束が預言書ダニエル書に書かれていて、ユダヤ教はそれを伝えてきました。イエス様はご自分のことを話される時に、この「人の子」という言葉をよく使われました。ご自分が、聖書で預言されてきた「メシア」であることを暗示しておられたわけです。イエス様は、神の御子として、父なる神様が人間を罪から救いたいと何よりも願っておられるという御心をよくご存じでした。そして、その使命のために生き、また、そのために死なねばならないこと(十字架)もわかっておられました。神様の御心と御言葉は必ず実現します。だから、イエス様が「ご自分には罪を赦す権威がある」とおっしゃって、実際に「中風の人」は罪が赦された結果、この世での目に見える形として、病いの癒しが行われて、起きて歩けるようにされたのです。

 「神を賛美する者」へ変えられる

ルカによる福音書では、この「中風の人」はイエス様の御言葉によって、「立ち上がり、(中略)…神を賛美しながら家に帰って行った」とあります。イエス様の憐れみによって、実際に癒され、更に、「神を賛美する者」に変えられました。この人だけではなく、この素晴らしい出来事を目撃した人々も、メシアによる救い(罪の赦し)の証し人とされ、すべて一斉に、神を賛美し始めました。そして、「今日、驚くべきことを見た」と賛美せずにはいられなくなったのです。恐らく、反対派の人々も含まれていたでしょう。神の恵みはそれほど豊かです。また、「今日」という言葉は、約二千年前の当時だけを指すのではありません。現代の私達の「今日」をも指しています。イエス様の十字架と復活を信じる者は、「聖霊(神の霊)」によって、現代でも「罪の赦し」を実際にいただくことができるし、また、「罪の赦し」の出来事の証し人として用いられます。永遠なる父なる神様からすべての権威を神の御子イエス様だけが譲り受けておられるからです。

KC3Z0057

7月12日 礼拝後墓地清掃

6月28日の説教要旨 「主よ、御心ならば」 牧師 平賀真理子

レビ記14:1-9、19-20

ルカ福音書5:12-16

 はじめに

イエス様は、神の国の福音を宣べ伝えるために、ユダヤ中の諸会堂を巡っておられました。そのお話は、他の人の話とはずいぶん違ったようで、多くの人々が福音を聞きにやってきました。更に、イエス様の御業の一つである「病いの癒し」は、神の御力を目に見える形で知らせることができたので、多くの人々がイエス様の所に癒しを求めて、押しかけました。

 「重い皮膚病」

今日の聖書でも、宣教の旅の途中で、全身「重い皮膚病」にかかった人がイエス様の所へ来て、癒しを求めました。この「重い皮膚病」については、古い年代に出版された聖書では、「らい病」となっています。しかし、この病名は差別的な意味を含んでいるので現在は使用されません。この病いの病原体を発見した人の名前が付けられて「ハンセン氏病」と呼ばれています。旧約聖書のレビ記13章には「重い皮膚病」の細かな症状が書かれています。医学や歴史の研究の結果、この「重い皮膚病」と「ハンセン氏病」が、ぴったり一致するわけではないことが、現在はわかっています。聖書における「重い皮膚病」とは、ただ一つの病いを指すのではなく、様様な皮膚病の症状が混ざって書かれたのだろうと解釈されています。それでも、レビ記等に詳細にこの病いの診断の仕方や、治癒後の儀式が書かれているのは、見える部分(顔・手足)に症状が出て醜くなるために、この病いの人は、神様から罰を受けて「汚れている」と考えたことが背景にあるかもしれません。「神から選ばれた」と自負するイスラエルの民は、神様の性質である「聖さ」に連なる者でなければならず、外見上「不完全な者」は、社会の中で疎外される定めでした。この病いは、身体的なつらさは もちろん、精神的・社会的なつらさを引き起こし、人を苦しみに縛り付けるものだったと言っていいでしょう。

 イエス様の前にひれ伏し、へりくだった「重い皮膚病の人」

そんな中、この「重い皮膚病の人」は、イエス様を見て、まず、「ひれ伏し」ました。元々の言葉では「顔を突っ伏して身を投げ出し」という意味を含んでいます。神の御力をお持ちのイエス様に全てを委ねたいという切実な思いを表した態度だと思います。更に、この人は「主よ、御心ならば」と言った後で、自分の願いを述べています。「主よ」とは、この直前の段落で、弟子としてイエス様に招かれた「ペトロ」も同じように言った言葉です。「救い主」であるイエス様を完全に信頼していることを意味しています。そして、「御心ならば」という言葉が実に印象的です。元々の言葉から見て、「あなたが私と同じように、この病いを癒したいと思ってくださるならば」という意味です。ここには、神様にお願いだけして、「当然癒してくださいますね!」といった思い上がりがありません。願い事ばかり言って、神様からの御声を聞こうとしない、不遜な祈りと違って、「救い主のイエス様が、私と同じように思ってくださり、病いを癒してくださるとよいのですが…」というへりくだりの思いが溢れています。

 手を差し伸べ、触れて、心を寄せてくださる主

この「重い皮膚病」の人に向かって、イエス様は手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ。」と言われました。大変な苦しみの中、イエス様の救い主としての御力に完全な信頼を寄せ、へりくだった、この人に、イエス様は手を差し伸べて触れられました。ユダヤ教の指導者達は、このような人々を隔離して、疎外しました。一方、イエス様は手を差し伸べて触れられたのです。私達の信じるイエス様はそのような御方です!そして、「よろしい」とは、「私もあなたと同じ思いです。」という意味で、この直後、御言葉どおりに癒されたのです!

 人間にではなく、「まず、神様に心を向ける」

「重い皮膚病を癒された人」は、イエス様から二つのことを指示されます。一つは、この奇跡を誰にも言ってはいけないということ、もう一つは、癒された体を祭司に見せて、律法どおりに祭司に清めの儀式をしてもらって、人々に証明するということです。一見矛盾しているようです。けれども、恐らく、この癒された人が、自分の身に起きた奇跡を人々に伝えたいという思いに駆られる前に、まず、本当の癒し主の神様に感謝を献げることが一番重要だと、主は教えたかったのではないでしょうか。人々に惑わされず、まず神様に心を向ける、イエス様ご自身も神様への祈りを一番大事にされました。更に、イエス様は、祭司に「預言どおりの救い主到来」の証拠を見せる役目をこの人に与えたと見ることもできます。主の御用のために用いられるという恵みをも、この人は受けたのです。

6月21日の説教要旨 「一匹の羊」 牧師 佐藤 義子

詩編 139:7-10

ルカ福音書15:1-10

はじめに

ルカの福音書15章には、「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」の三つのたとえが記されています。イエス様がこれらのたとえを語られたのはエルサレムへ向かう旅の途上でした。エルサレムへの旅は、「ヘロデがあなたを殺そうとしています」(13:31)との忠告をうけながら、イエス様は、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と答えられ、その旅の行き着く先には、十字架の死が待っていることを、すでに承知されておられた旅でもありました。

ある注解書によれば、この15章は、ルカ福音書の心臓部と呼ばれているそうですが、それは、これらの譬えの中でイエス様がこの地上に来られた大きな目的が語られているからでしょう。今朝は、最初の二つのたとえについて、ご一緒に学びたいと思います。

ファリサイ派の不満・不平

1節に、徴税人や罪人がイエス様の話を聞こうとして、イエス様に近寄ってきたとあります。徴税人(税の徴収者)も、罪人(律法を守れない人、守らない人、異邦人、遊女など)も、当時のユダヤ人社会からは疎外されていた人達です。それを見てイエス様のそばにいたファリサイ派や律法学者などは、イエス様に対して批判し、不平を言い出しました。彼らは律法に従い自分にも厳しく、正しく生きている人達であり、民衆の見本でもありました。彼らは、「律法」を忠実に守ることこそが救われる道であり、神の国に入ることが出来ると信じていましたから、神の国について教えているイエス様が、なぜ、神の国から遠く離れて生きている罪人たちを拒まず受け入れるのか、平気でつきあっているのか理解できなかったからでしょう。イエス様は、彼らの批判にこたえる形で、の三つの譬えを語られました。

見失った羊の譬え

最初のたとえは、100匹の羊を持っている主人が、一匹の羊を見失った時、99匹を野原に残して、いなくなった羊を捜しに行く話です。羊飼いには、持ち主自身が羊の世話をする場合と、雇われた羊飼いがいます。雇われた羊飼いであれば、周辺を捜して見つからなければ、岩山から滑り落ちたのか、オオカミの餌食になったのかもしれないと、あきらめて帰る場合でも、持ち主の羊飼いであれば、「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」(4節後半)のです。母親が、わが子を捜し回るように、真剣に必死に、少しの物音にも注意を払いながら捜し、見つかるまでは決して帰らないという捜し方であり、ついに、羊を捜し出すのです。

悔い改める一人の罪人に伴う大きな喜び

羊を見つけ出した羊飼いは、疲れも忘れて羊を肩に乗せて帰り、友人や近隣の人々に報告し喜びを共にするのです。このたとえの羊飼いは、神様のこと、イエス様のことです。100匹の羊とは、すべての民です。ファリサイ派の人々や律法学者のような、律法を守る人達だけが数に入っているのではなく、徴税人や罪人と呼ばれる人達も、神様の愛する100匹の中の一匹です。しかしいろいろな事情のもとで、神様からも、律法で教える生活からも、遠く離れて生きている人々が「見失った羊」にたとえられています。その人達が、今、イエス様の話を聞きにやってきたのです。見失った羊が、今、羊飼いの所に戻ろうとしているのです。もし、徴税人や罪人がイエス様の話を聞いて、それまでの生活から神様に従う生活へと方向転換するならば、羊飼いの、見失った羊を見つけた時のあの大きな喜びが与えられ、その時、神様のおられる天においても、大きな大きな喜びがわき起こるのです。

一緒に喜んでください

「無くした銀貨」のたとえも、ある女性が、無くした銀貨一枚を必死で捜して、ついに見つける話です。彼女も、見つけた喜びを一人で喜ぶのではなく、友人や近所の人達を招いて、このことを報告し一緒に喜んでもらいます。いったんは手元から離れたものが、必死に捜すことによって再び戻ってくる・・。それが、失われた魂であったとするならば、再び神様のもとで新しく生きる魂の誕生の喜びは、どんなに大きな喜びとなるでしょうか。 これらのたとえは、正しく生きていると自負して、神様から離れている人達を嫌うファリサイ派や律法学者のような人達に、「わたしと一緒に喜んでください」とのイエス様の招きの声です。

6月14日の説教要旨 「岩の上に立つ教会」 平賀真理子牧師

詩編73:21-28

マタイ福音書16:13-20

はじめに

本日、仙台南伝道所の開設11周年記念感謝礼拝を献げることができ、今までの神様の恵みに感謝いたします。12年目の歩みに向けて、今日の聖書から、主の体の教会として立ち続けるために御言葉を学びましょう。

フィリポ・カイサリアの地方で

イエス様が福音宣教の拠点とされていたガリラヤ湖畔から、北東に40km離れたフィリポ・カイサリア地方は、ユダヤ人の心の故郷であるヨルダン川の源がある所でした。にもかかわらず、この土地は3つの意味で、聖書で証しされた神様とは敵対する神々で満たされていました。1つは、「バアル」という偶像崇拝の神々が祭られていたこと。2つ目は、ギリシア神話の神々の故郷とされ、その祠があったこと。3つ目は、ローマ帝国の皇帝の偶像を神として祭る神殿が建てられていたことです。このような異教の神々を祭っている地方の只中にあって、本当の神様の拠点(教会)を形成するために、イエス様は弟子達を教育し、御自分の十字架の死後、弟子達に福音宣教の御業を引き継がせる必要を切実に感じておられたのです。

弟子達はイエス様を何者だと思っていたのか?

この世での「神の国」の拠点としの教会を形成するにあたり、その礎となる弟子達が、まず、ご自分のことをどう理解しているか、イエス様は確認されたかったのでしょう。その核心の質問に入る前に、その周辺から聞き出しておられます。「人々は人の子(新約聖書でイエス様が御自分を表す表現)のことを何者だと言っているか。」弟子達の答えは、このマタイ福音書では具体的に4つ挙げられています。どれも当時のユダヤ人達が尊敬していた人の再来といえる優れた力を持った人間という意味です。人々はイエス様を尊敬しましたが、人間という枠の中でのことです。

弟子達への質問「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」

この質問には、2つのキーワードがあります。1つ目は「言う」という言葉です。聖書の世界では、「言う」=「言葉を発する」ことを実に大切に考えます。「言葉を言う」とは、その内容を確信し、実際にそのとおりになると信じることを意味します。聖書の世界の人々は、言葉に対する信頼が私達よりずっと高いのです。2つ目は「あなたがた」という言葉です。弟子達が複数いたから、このように表現されたのであって、「あなたはわたしを何者だと言うのか」と一人一人に尋ねておられるのです。私達も同じです。一人一人「イエス様を主と信じた者」が、集められた群れが「教会」です。

ペトロの信仰告白

イエス様の弟子達への質問に対して、シモンが受け止めて答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」「メシア」とは、「聖書の神様」が人間に送ってくださるという「救い主」のことです。罪におちた人間の罪を贖って、神様につなげてくださる御方です。「メシア」は人間ではなく、神の領域の御方です。だから、シモンの答えは、人々の答えとは一線を画しており、イエス様が本当に求めていた答えでした。また「生ける神」という言葉も大事です。なぜなら、異教の偶像で表される神々と違い、「聖書の神様は、御心に適う人々を救うために実際に働きかけて助けてくださる神様」と神様の御性質を言い得ているからです。

神様の働きかけによってなされる「信仰告白」

但し、シモンの信仰告白を、イエス様は「わたしの天の父による」ものだとおっしゃいました。直後の段落から見ても、シモン自身は、イエス様を救い主と深く理解していたのではないと思われます。それでも、神様の助けを受けながら、シモンが御自分を「救い主」と信仰告白したことをイエス様は祝福されました。

 「ペトロ」に続くように期待されている私達

この告白を受けて、イエス様はシモンに新しい名前を付けられました。その名前「ペトロ」は「岩」という意味です。聖書の神様への絶対的な信頼を表現する言葉として、「神は岩」と聖書には数多く記されています。その意味を持つ名前をシモンに付けられました。イエス様がいかに「ペトロの信仰告白」を喜ばれたかがわかります。ペトロへの主の御言葉「この岩の上に教会を建てる」とは「信仰告白したペトロの上に教会を建てる」という意味です。私達に一昨年与えられた教会堂の献堂記念の碑に「土台はイエス・キリストである(Ⅰコリント3:11)」とあります。その主が、教会の最初の礎の石としてペトロを堅く据えたと宣言されたのです。私達もペトロに続く者として期待されています。「あなたがたも生きた石として、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」(Ⅰペトロ2:5)

6月7日の説教要旨 「宣教の収穫を求めて」 平賀真理子牧師

エレミヤ書16:16-21

ルカ福音書4:42-5:11

 

はじめに

本日の新約聖書の箇所は、2つの段落から成っています。出来事としては大きく2つに分かれますが、イエス様が最も大事になさったことにおいて、一つだとも言えます。それは、福音宣教を第一とするということです。

イエス様の使命

前半の段落(4:42―44)から、イエス様は人里離れた所で、父なる神様に祈っておられたと思われます(マルコ1:35)。神様から愛と力をいただき、前日の癒しの業の疲れを癒し、そしてまた今後歩むべき道を神様から示していただくために祈っておられたのではないでしょうか。主は御自分の使命をはっきりおっしゃいました。それは、神様が御自分の民として選ばれたユダヤの民を救うために、神の御子であるイエス様がユダヤ中を巡り歩き、「神の国の福音」を告げ知らせることでした。

「神の国の福音」

イエス様が宣べ伝えた「神の国の福音」とは、具体的にはどういう内容なのでしょうか。まとめるとだいたい、次のようになるでしょう。「神様はその本質である愛ゆえに、人間を篤(あつ)い思いで愛されており、罪におちた人間を救おうとされていること、(旧約)聖書に預言されている『救い主』がイエス様であること、神様から離れている今までの生活を悔い改めて『救い主』イエス様の教えに従うことにより、人間は神様と繋がって生きることができ、本当の幸せになれる」と。

主に再び出会うシモン

後半の段落(5:1-11)によると、押し寄せてきた大勢の群衆を教えるためにイエス様が乗った船の持ち主が、シモンでした。彼は、自分の家で姑や大勢の病人の病をイエス様が癒された御業を数多く見ました。イエス様の癒しの御言葉が現実になっていくのを、たくさん見たのです。イエス様の御力を凄いとは知っていたでしょう。しかし、それまでの出来事は、再び出会ったイエス様は、漁師であるシモンに向かって、「これから自分の言葉に従って漁をしなさい」と御言葉をかけられました。主の御言葉が、今度は自分に注がれました。ルカ福音書によると、シモンは、イエス様の御言葉の凄さを既に知っていたので、「あなたのお言葉ですから」と素直に従ったのです。

主の御前にひれ伏したシモン

シモン本人の上に、神の御子イエス様の御言葉が現実となる「神の御業」がはっきりと示されました。漁師の彼らが前の夜から行っていた漁では魚は全く取れなかったのに、イエス様の御言葉に従った時、大変な量の魚が捕れました。これを見たシモンは神様の前にもはや逃れることができない自分を見出したのでしょう。そしてイエス様の御言葉や御力を目の当たりにして、自分は神様にふさわしくない者だとの思いが沸き起こり、御前にひれ伏し、「罪の告白」をし、それ故に、今度はイエス様を「主よ」と心の底から受け入れることができました。神様の前にひれ伏して「罪の告白」をし、イエス様を主と受け入れるということを、素直に、すぐ行っている、ここにこそ、シモンが神様に愛される理由を垣間見ることができます。シモンはイエス様からペトロ(「岩」という意味)という呼び名をつけられ、愛されました。また、10節の「あなたは人間をとる漁師になる」というイエス様の御言葉どおり、神様によって招かれている人々を導いて「神の国の民とする」という役割を担い、果たしていくことになりました。具体的には、この世での「神の国」の前線基地である「教会(主を信じ従う群れ)」を導くリーダーとして用いられたことが、使徒言行録にも証しされています。

すべてを捨てて従う弟子達への祝福

この漁の奇跡を体験した3人の漁師達は最初の弟子達となる恵みを受けましたが、「すべてを捨ててイエスに従った」(11節)ことが重要です。さて、私達はどうでしょうか。福音の素晴らしさを知らされていても、自分の持っているものをすべて捨てることは、大変難しいことです。けれども、今まで持っていた物や財産や、その多寡に頼るこの世の価値観では、神様に繋がる本当の幸せを得ることはできません。私達は教会に来て、福音を聞き、主の救いの御業を知らされたので、主に繋がりたいと望んでいます!「宣教の収穫」として、3人の弟子達と同じく、私達も、主が求めた「宣教の収穫」とされます。実に大きな恵みです。それに応えて「良い実である」と主にほめていただけるよう、歩みたいものです。

 

5月31日の説教要旨 「よく生きるということ」 牧師 佐々木 勝彦先生(東北学院大学教授)

詩編139:1-24
ヨハネ福音書9:1-12

はじめに
本日の旧約聖書の箇所は、詩編139編全編です。詩編とは、昔の人々の讃美歌です。当時の人々は節をつけて曲として歌っていました。今は、この旧約聖書にあるように歌詞だけが残っているというわけです。

詩編139編に示されている神様
詩編139編の幾つかに示されている神様、つまり、「聖書の神様」について、特徴を学んでいきましょう。
4節「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる」神様は、私達人間が話すよりも前に、全てをご存じだということです。
19節「どうか主よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。」人間にはどうしても憎く思う人、許せないと思う人がいます。それを言葉に出せずにいると、その感情が内向きになり、うつ状態になります。素直に言葉に出してよいのです。但し、神様の御前で。この箇所にあるのは、人間の心からの素直な祈りを神様は必ず聞いてくださるという、神様への絶対的な信頼です。ただ、それだけではありません。
13節「あなたは、わたしの内蔵を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」生まれる前から神様がいらっしゃるのです。神様がいらっしゃるのを、私は後で知ったにすぎません。
これらのことから、次のことがわかります。日常生活において、私達は祈ることが出来なくなることがありますが、その時にさえ、神様が居てくださるのです。私達が祈る前に、既に、神様が私を知っておられるからです。更に言うと、神様が私のことを祈ってくださっている、つまり、私達は神様から祈られている存在だということです。そのことを知って生きることが「よく生きる」ということです。

「生ける神様」であるイエス・キリスト
人間は、問題を抱えて生きるものです。今日の新約聖書の箇所にも、大変な問題を抱えた人が出てきます。生まれつき目の見えない人です。このことについて、人間は、何か原因があるはずだと思うものです。ここにあるように「本人か、両親が罪を犯したからだ」などというように。しかし、そうではないのです。ここで、神様は、祈りを期待しているのです。人間は悪い思いで、裏切ったりするのですが、神様は決して裏切らないのです。どんな状況にあっても、「神の期待に応えて生きる」というのが、「よく生きる」ということです。
「目が見えない人」に対して、生ける神様であるイエス・キリストは、原因を究明するのではなく、「神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃいました。神様は、この「目の見えない人」が、神様に祈り、信頼して生きること、つまり「よく生きる」ことを何よりも期待されていることを教えられました。

「祈り」について
神様さえ祈ってくださっていますし、私達人間も、手足が動かなくなっても他人のためにできることとして「祈る」ということがあります。この「祈る」ということが、即ち、「よく生きる」とも言えます。祈りの幅は世界に広がります。(若い学生達にも、地球の裏側をイメージして祈る人間になるよう、私は伝えています。)「祈る」という言葉を、別の表現をすれば、「期待する」ということです。また、「祈り合う」ということを通して、「祈りの友」ができます。それも本当に大きな恵みです。
「信仰」とは
ヨハネ福音書9:1以下の段落の「目の見えない人」についての主の御言葉「神の業が現れるため」(3節)は、私達一人一人に向けられているのです。このように生きることを「信仰」といいます。「チャレンジ」とも言えるでしょう。神の期待に応えようと、一歩前に出ることが大事です。

「ハレルヤ!」=「神様万歳!」
説教の前に讃美歌20番を歌いました。歌う機会の少ない讃美歌のようですが、歌詞の各節の最後にある「ハレルヤ!」の繰り返しが特徴です。「ハレルヤ」とはどういう意味か、御存知でしょうか?「神様万歳!」という意味で、喜びの爆発の言葉なのです。このような「神様に向かっての祈りの言葉を持てるか?」が信仰生活には大切です。祈りの言葉の中でも是非覚えてほしいのが、「主の祈り」です。この祈りをどんな時にも祈る信仰者となっていただきたいと思います。