「罪人たちによる裁判」 伝道師 平賀真理子

/n ダニエル書7:13-14 /n マルコ14:53-65           /nはじめに  イエス様はユダの裏切りによって反対者達に引き渡されましたが、うしろで操っていたのは、宗教的権威をもつ人々であり、最高法院議員という政治的な権力を持つことができた「祭司長、律法学者、長老達」でした。彼らは「安息日の遵守」や「罪人達との交際による汚れを避ける」など、律法を大切に守り、又教えました。「律法」は、神様の御意思を示すものですが、彼らはそのことを忘れ、「形を守る」こと、すなわち、本質よりも目に見えるものにこだわりました。 それに対してイエス様は、「神様の愛」という本質を語り、神様の愛と力の表れとしての「奇跡」も行われました。彼らはイエス様と自分達との優劣を比較し、その結果嫉妬し、相手を亡きものにしようとしました。今日の聖書は、彼らが自分達の念願通り、「イエスを殺す」ことを決める箇所です。 /n裁判 彼らの心の奥底は、イエス様に対する嫉妬と憎悪の感情で満たされていました。けれどもそれを、正当な法的手段で包み隠そうとして裁判を開きました。裁判は通常、大事な祭りや大事な安息日には開かれません。この時は大事な過越祭でした。又、通常、夜は開かれません。この裁判は夜、行なわれました。裁判の場所も、大祭司の私的な邸宅の一部である庭でした。さらに、裁判では「証言が食い違った」(59節)とありますが、証言は細かい所まで一致しなければ、その内容は有効とされないのだそうです。刑の執行についても違法でした。死刑執行には、一日は必ず置くことが決められていましたが、イエス様の場合、数時間後に刑が執行されています。 /n沈黙の中のひとこと  裁判における数多くの証言は、どれも決定的なものではありませんでした。イエス様ご自身も、虚しい証言の一つ一つには沈黙を守られました。しかし、大祭司の、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という問いには、敢然と肯定の返事をされました「わたしがそうである」と。 「自分は神の子である」と言うことは、ユダヤ社会では神様への最大の冒瀆と考えられていましたし、イエス様も、その言葉でご自分が死罪になることは分かっておられました。それでもこのことを否定したり、曖昧にしたりすることはなさいませんでした。偽証は罪だからです。 /n判決 それに引き換え反対者達は、自分達だけでなく人々にも偽証するよう求めたのです。人を罪に誘導し、罪の仲間に引きずり込む・・、これも罪人の典型的なパターンです。 今日の旧約聖書(ダニエル書)にある「メシア」の姿は、大祭司達にもよく知られていました。イエス様が、御自分をメシアとして証言された言葉を聞き、大祭司は衣を引き裂いたとあります。これは宗教的な汚れ(神への冒瀆)を体験したことの、最大の怒りや嘆きの表現です。この直後、大祭司は「死刑判決」を下しました。 /n「唾をはきかけ、こぶしで殴りつけ、平手で打った」 判決後、イエス様に対して暴力が行われました。この世の権威の下にいる人々が、有罪とされた「弱い」者には力を用いて相手の尊厳を傷つけても許されると誤解したからです。何が真実かではなく、日頃、虐げられている自分のうっぷんをはらす人間の弱さ愚かさを知らされます。 /n十字架の背後には罪の赦しと神様の愛 このような反対者達や部下達の罪深さを見る時、自分の中にも同じような弱く愚かで自己中心的な罪を見つけます。この私達人間の罪を背負い、その罪が赦される為の犠牲として、イエス様は罪人達による裁判で苦しまれ、屈辱的な十字架の死を孤独の中で遂げられました。その歩みの過酷さを思います。しかしイエス様は、父なる神様の前に従順に従い続けた結果、「復活」の栄光を与えられ、信じる者達には新しい信仰と、信仰の共同体である教会が与えられることになりました。十字架は私の罪のため、しかしそれはその先に神様のもとでの、本当の人間としての祝福を、神様が私達に与えたいと願われておられるからです。 今週も、神の国の民として歩めるように、聖霊の助けを祈り求めましょう。 

「キリストの捕縛」    伝道師 平賀真理子

/n詩編22:13-24 /nマルコ14:43-52             /nはじめに  エルサレム郊外の「ゲツセマネ」という場所で、イエス様は父なる神様に、これから起こる苦難を出来ることなら避けさせて下さいと祈られました。しかし三度祈っても、その苦しみこそ,避けて通ることは出来ないとの神様の御声を聞かれたのでしょう。人々の罪を、御自分の命を捧げることで肩代わりするという「贖い主(あがないぬし)」としての使命こそが、神様の御心であるという思いをいよいよ強くされて、この後は、敢然と決意されて、十字架への道に赴くイエス様の姿が示されていきます。 /n祭司長・律法学者・長老たち イエス様から「裏切る者」と呼ばれた弟子のユダと、彼と共に結託して(というよりむしろ、その後ろで糸を引いていた本当の「罪人」である祭司長、律法学者、長老達)、イエス様を亡き者にしようとした人々が、今日の聖書に、具体的に書かれています。彼らはエルサレム神殿で礼拝を司る者、律法を人々に教える者、議会の議員など政治的にも力を持つ有力者達で、ユダヤ社会を支配していた人々です。しかしこの時「罪人イエス」を逮捕しに来たのは彼らの手下の者達でした。更に辛いことは、その中に、イエス様が選ばれた「12使徒」の一人である「イスカリオテのユダ」がいたことです。イエス様に従い、宣教の旅を共にしたユダ。彼は財布を預かっていました。信頼のあつかった彼がイエス様を裏切ることの残酷さを思い知らされます。 /n逮捕  時は夜。逮捕のため来た人々は、幾らかの明かりは持っていたでしょう。それでも誤認逮捕の可能性も考えたかもしれません。ユダは接吻を装いながら、暗闇の中でイエス様を捕まえて当局に確実に引き渡す役割を買って出たようです。本来「接吻」は相手を好ましく思う感情表現です。それを悪用し、心は「裏切り」という悪意に染まっていたのです。それこそ「罪」が、「罪深い」ことの一つの姿です。悪ければ悪いまま表わすことの出来ない人間の弱さ(サタンに付け込まれる弱さ)がそこにあります。 /n神様の御心を知って受け入れる イエス様は既に、ご自分が受けられる苦難をご存知でした。しかし、捕らえに来た人々は抵抗にあうことを恐れて、剣や棒を持ってきました。人間達は暗闇の中の大騒動に惑わされました。只イエス様お一人だけが、御自分のことより神の御心である「聖書の言葉の実現」を宣言されます。 /n聖書の言葉の実現 イエス様は御自分の道が、イザヤ書53章に預言されている「苦難の僕」としての歩みであることを知っておられました。それ迄のユダヤ人が考えていたような、「栄光の救い主」としてではないことを分かって歩んでおられました。この夜、「弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げて」しまいました。人々は、イエス様についてきた一人の若者まで捕らえようとしました。イエス様逮捕の様子は、緊迫した恐ろしい状況だったことを知らせるものです。弟子達やその親派など人間は誰一人、その状況を乗り越えられるほど強くなかった・・。ただ神様のご計画の重大さを知る御子イエス様だけが、その場を乗り越えることができた。 神様の御心を尋ね求めることをせず、ただ目の前の出来事を恐れて、場当たり的に混乱して取り乱す人間と、神様の御心を知って、受け入れる覚悟のイエス様の姿・・。実に対照的です。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる</span>。」(マタイ5:3) カラヴァッジョという画家がこの場面を描いた「キリストの捕縛」という絵があります。かつてこの絵の所有者であった女性は、警察官の夫が、無実の罪で、暴徒に殺されるという悲劇に見舞われました。彼女の深い悲しみと落ち込みから彼女を救ったのは、この絵に描かれたイエス様の姿でした。 イエス様が深い悲しみにある人々を慰めることがお出来になるのは、御自身が深く悲しまれたからです。悲しみにある者達が、主を呼び求めることを神様は求めておられます。私達は主イエス様に呼び集められた者達です。主が共にいて下さることを感謝し、この世での苦しみ・悲しみ・悩みを祈りの中で主に叫び、今週も聖霊の助けを祈ってまいりましょう。

「神の国に入る道」    牧師 佐藤義子

/n詩編119:33-40 /nマタイ19:16-30             /nはじめに 今日の聖書には、三つのことが語られています。一つは、イエス様と金持ちの青年との会話。二つには、人間にとって不可能なことが、神には可能であるということ。そして三つ目に、終末への約束と警告です。 /nお金持ちの青年 お金がある、まじめな青年がイエス様の所に来て、「永遠の命」を得る為にはどんな善いことをすればよいかと質問しました。「永遠の命」とは、信仰の熱心なユダヤ教徒が熱心に望んでいたもので、それは、救い主の支配のもとで祝福に満ちた来るべき世に住むことを意味していました。ユダヤ教では終りの日(終末)に、ある者は復活して永遠の命に入り、ある者は永遠に続く恥と憎悪の中に置かれるということが預言されています。(旧約聖書・ダニエル書12:1)。 このお金持ちの青年は、聖書で約束されている永遠の命を、今より確実に得る為に、イエス様のもとに来たのです。 /n「命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 イエス様はこの青年に、もし永遠の命を得たいのなら、掟を守りなさいと言われました。青年はどの掟かと聞き返し、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい</span>」とイエス様から言われた時、即座に「そういうことはみな守ってきました」と答えています(マルコ福音書では「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」)。この青年は、倫理的な生活面において、まじめに生きてきたのでしょう。「まだ何か欠けているでしょうか」と続けて問いました。 /n青年の質問 「まだ何か欠けているか」と問う青年は、「永遠の命」は、律法を守る生活を積み上げて来た人間の努力・宗教的な実績によって獲得できると考えていたことがわかります。だからこれ迄も、その努力を欠かさなかったし、今後も努力するつもりでした。自分の善い行ないと引き換えに、永遠の命が手に入ると考えていたこの青年に、イエス様はこう言われました。「もし完全になりたいのなら、・・貧しい人々に施しなさい。」 /n「賜物として」受ける 永遠の命は、自分の努力で獲得するものではなく、全くの神様からの賜物として与えられるものです。もし目に見える善行や、業績によるならば、行為の完璧さが求められるでしょう。それは不可能です。 彼は、自分の限界に気付き、これまでの生き方の原則を捨てて、「永遠の命」は、賜物として、恵みとして受けるものであることを知り、謙虚な姿勢へと変わったならば、イエス様のもとから去ることはなかったでしょう。しかし彼は、イエス様の言われたことを、付け加えるべき善行の条件として聞き、その結果、財産放棄は出来ないと、悲しみながらも去って行きました。イエス様は、このあと「<span class="deco" style="font-weight:bold;">金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい</span>」と言われました。 /n「永遠の命を得る」=「神の国に入る」 先週、説教されたウェイド宣教師は、「神の国には主権者がおられます。御国の民とされた者は、命をはじめとして、肉体、体力、能力、健康、財産、家族、賜物など、すべては神様からいただいた神様のものです」と語られました。ところが青年は、自分の財産に執着し続けました。 /n金持ちが神の国に入ることは・・ お金持ちが富から自由になることは、らくだが針の穴を通るよりむつかしいと、イエス様は、その困難さを弟子達に語りました。弟子達は驚き、それでは救われる人がいないのではないかと答えますと、イエス様は、「人間には出来ないが神は何でも出来る」と答えられました。神様だけが、人の心を変えることが出来るお方です。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる</span>」  終末については、私達には多くのことが隠されています。信仰生活が長いことが自慢になるわけではありません。その人が今、どれほど喜んで、神様に感謝して、神様に従う生活を送っているかが大切です。 イエス様は、従う者への終末の祝福の約束と、警告を語られています。神の国について、私達はさらに学んでいきたいと願っています。

「神の国と神の義を求めよ」 ウェイド・マカーグ宣教師

/n マタイによる福音書6:33 /nはじめに 今朝は、マタイ福音書の6章の御言葉を御一緒に分かち合いたいと思います。御言葉には、何度も繰り返されている言葉があります。初めに書かれている言葉がつながっていく文脈の、その「読み解き方」があります。 たとえば、「愛」、「礼拝」、「従順」という言葉が一つの章に入っている個所があります。そして順番は、優先と大切さを表わしています。 /nアブラハム そのことは、創世記22章において、イサクを献げる準備をしているアブラハムの姿に見られます。「あなたの愛する独り子を連れて、私の命じる山に登り」(2節)。ここに、父と子の愛の関係を見ることが出来ます。愛の力です。聖書の中で最初に「愛」が語られるのはこの場面です。これは、最初の「型」となって、御父(神)と御子(キリスト)の関係を表わしています。その御父である神は、御子を送ってくださったほどに、この世を愛して下さいました(ヨハネ福音書3:16)。 「愛」ということの中に、「従順」ということが出てきます。私達は従うことなしに、「愛」を知ることはむつかしいことです。イエス様は、「私を愛するならば、私のいうことを聞きなさい」と言われます。 そこには「礼拝」も含まれてきます。私達の礼拝も、神様への従順な生き方を通して成り立ちます。礼拝も、私達の内から出る愛の表現を、神様に献げるというところにあります。このことについては、たとえば、イエス・キリストの生き方・生涯を見る中で見ることができます。イエス・キリストの生涯で最初に語られたメッセージは、最も大切であり、イエス・キリストが来られた理由が語られます。 イエス・キリストのメッセージはどういうメッセージだったでしょうか。 /nイエス・キリストが来られた理由 イエス・キリストが来られたのは、キリスト教をつくるためではありません。クリスチャンのためでもありません。最初の言葉は、「悔い改めなさい。御国が近づいた。」です。  御国というのは、神の国です。そこには主権者がおられます。民主主義ではなく、王を投票して選ぶということでもなく、王国に於いては、すべてが王のものであるということです。「自分の」家ではなく、「自分 の」車ではなく、「自分の」賜物ではなく、「自分の」家族ではなく、「自分の」時間ではなく、「自分の」体でもない。すべてが王に属します。すべてが王のものです。王の言うことを聞かなければ、反逆しているとみなされます。 主が来られたのは、御国に人々を迎え入れるためです。主イエスは、このメッセージを何度となく繰り返し語りました。マタイ福音書4:23にも「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣ベ伝え、ありとあらゆる病気をいやされた</span>。」とあります。6章の、祈りについて「<span class="deco" style="font-weight:bold;">御国が来ますように。天におけるように地の上にも</span>」(10節)と祈るように教えています。33節にも「<span class="deco" style="font-weight:bold;">まず、神の国を求めなさい</span>」と命じられており、9:35にも「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病気をいやされた」と記されています。   /n二つの王国 マタイ12章には、二つの王国があるとの譬えがあります。26節には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。それではその国は成り立たない</span>」。そして28節に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている</span>」とあります。 「暗闇の王国・罪の王国」と「光の王国・聖さの王国」の二つの国です。キリストが地上に来られたのは、敵対する国(サタンの国)を滅ぼし、御国が前進していくためです。 コリント第二 5:20には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達はキリストの大使です</span>」と書かれています(リビングバイブル訳)。大使の役割とは、その国の代表として遣わされて来るということです。私がアフリカに居る頃、自分がしたくても したくなくても、私は、アメリカ合衆国の代表としてそこに居ました。アフリカでは、そこに居る人々にとって、私が初めてのアメリカ人として会う機会になっていました。私が国の代表としているならば、アメリカ人はこういう人だと印象付けられます。 しかし私達クリスチャンは、自国の代表という以上の責任があります。私自身の最も重要にしている優先順位は、アメリカの国ではなく、王の王であるキリストに、私は仕えているということです。ということは、私を通して御国を表わすということ。私は、私の王を印象づけなければならないということです。 そのことは、皆さんが共に負う責任です。人々が私達を見る時に、この人が天国の代表、天国人の生きかたであると見ますから、責任を持って生きなければなりません。そのことに私達が責任をもって歩んでいるならば、その姿が他の人達を引き寄せる力となるはずです。私達には、御国をこの世に現す機会が与えられています。それは御国をこの世の人々に見せていく、紹介することです。二つのポイントをあげたいと思います。 一つは、コリント第一 4:20です。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の国は</span>(話の中の)<span class="deco" style="font-weight:bold;">言葉ではなく力にある</span>。」 御国は、対立を招くためにだけ来るのではなく、御霊の力を発揮するものとして来るのです。 /nインディアン伝道 私は現在、アフリカから拠点をアメリカに移し、ネイティブアメリカンと言われるインディアンに奉仕しています。これは、合衆国の歴史の中でも、最も悲惨な歴史の一つです。原住民の方々に対して、アメリカがした行為は、残念な結果を招いています。その結果によってインディアンの方々には、うつ的な(否定的な)要因が残っています。 現在、私が奉仕している地域は、カナダから南米までの地域の中で、二番目の貧困地域と言われています(タヒチの次)。成人男性の寿命は48歳とされ、アルコール依存症は80%、80%の人は失業中で仕事がない。又、私が10か月間滞在中、多くの若者が自分で自分の命を断つという事件が起こっています。この世の視点から見るならば絶望的な状況です。たとえ財政があっても、これを助けることは出来ないでしょう。沢山の カウンセラーが来ても皆を助けることは出来ないでしょう。何か特別なプログラムを組んだからと言って、助けることも出来ないでしょう。彼らに必要なのは、「御国」が彼らに来ることなのです。 なぜならイエス・キリストだけが人を変えることが出来るのです。 /n悪の霊との戦い 私は、より自分に戒めを込めて、その地域に入る時に神の国の代表であることを自覚して行きます。御父が御子にしたように、神の働きがその地域で どのようになされたかを見ることが出来るのです。しかし、簡単にたやすく見ることが出来るというわけではありません。多くの障害がある中でやっています。今、そこで、私の最大の障害となっていることは、私が白人であるということです。彼らにとって、私が白人である=「うそつき」という固定概念があります。インディアンとの長い歴史の中で、白人と交わした契約がうその契約であったからです。ですからその地域では、会う前から偏見と差別があります。私は、聖霊を本当に信じていかなければ、そして聖霊の力を通しての機会を見出していかなければいけません。それは聖書に書かれているように、私達は血肉の戦いに属しているのではなく(注:見える世界での戦いではなく、見えない)霊的な戦いの中にいるということです。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、悪の諸霊を相手にするものなのです</span>。」(エフェソ書6:12) /n地域で起こったこと  ある日、ある家を訪問した時のことですに、その家の誰かが亡くなったということでした。そこは犯罪が蔓延している地域でした。  御国に属する者は、「恐れ」をもたないということが、先ずあります。もし私が恐れに駆られているならば、神の御国を代表することは出来ません。聖書にあるように、私達は「恐れの霊」を与えられているのではなく、「愛」と「力」、「平安で満たされている思い」が与えられています。 私はその家に入って行く時、女性が来ました。彼女の名前はメラニーと言いました。彼女は入るやいなやうずくまりました。どうしたのかと尋ねると、「私はいろいろな病気を持っている」と言いました。長血も患っていました。そして非常にやせ細っていました。二階に上がるにも四つん這いになってでしか上がれないと言います。そして毎晩、悪夢を見るという状況が続いていました。インディアンの方々の中には、霊的に敏感の方々がいます(いろいろなものが見える。寝る前に、窓の所にいろいろな顔がみえ、恐れにかられて寝られない・・など)。  もし私が御国の代表であるなら、この同じような状況が続くのではなく、何かが変わらなければならない。 私は「祈らせて下さい」と言いました。そして彼女の背中に軽く手を置きました。優しく語りかけました。そして「神から出ているものでなければ今、この場から去りなさい、イエス・キリストの御名によって」と祈りました。彼女の体は震えて動き出しました。そしてその場に倒れました。眼も白眼になりました。その時家族も驚いて来ました。私は、「これは霊的なものだ」と言いました。そこにいた悪霊が語りだし、私の祈りを阻止しようとしていました。私はイエス・キリストの名において、その悪霊が出て行くように祈りました。すると、息を吐くような形で白眼ももとに戻り、彼女は、自分がなぜ床に倒れているのかわからないと言いました。それから彼女は椅子に座り、「又、同じような状況に戻らないですよね」と私に確認を求めました。私は彼女に「戻って来ないですよ」と安心するように言いました。彼女は、自分の体を調べてみて、笑顔が戻りました。痛みがすべてなくなったからです。次の日、彼女を訪問をした時、彼女の顔は満面の笑みでした。彼女はこれまでになく、十分に熟睡しました。彼女は完全に悪の霊から解放されたのです。「御国」が彼女のところに来たのです。 別の家を訪問した時、「誰か病気の人はいませんか」と聞くと、歳をとった女性が来ました。腕が曲がっており、背中も曲がっていて、ゆっくり歩いていました。彼女は、体全体が痛いと言いました。彼女の腕を見た時に筋が固まっているのが見えました。ひじも普通より二倍に腫れていました。私は、私と一緒にいた友とお祈りをして、「神の御国があなたの家に来ましたよ」と言いました。祈っている間に何かが降り立ってきたように感じました。彼女は、痛みがだんだん無くなってきていると言いました。私達は二回祈りをささげて、彼女の痛みはなくなりました。しかし腕だけが硬直したままでした。又祈りました。するとゆっくりですが腕が動き始めました。又、祈りました。彼女の腕は全部動くようになり、腫れていた部分も完全に癒されました。   彼女は涙を流し、喜んで腕をいっぱい動かしていました。神の御国がその家を訪れたのです。私は、家にいた多くの人に「皆さんこれを見たでしょう。神の御国がこの家に来た証拠ですよ」と言いました。そして、「やがて裁きの日が来ます。自分達の人生において、自分のしたことの、申し開きをしなければならない時が来ます。あなたがたが神に対して罪を犯すならば、裁きの日にあなた方は必ず裁かれます。罪から離れなさい。そしてイエス・キリストの血潮によって、罪を洗い流されなさい。そしてイエス・キリストが三日目に復活したことを信じなさい。そして生まれ変わることが出来ると信じなさい。」と語りました。   語っていたそこに、20歳ぐらいの女性がいました。彼女は「私にはイエス様が必要です」と告白しました。 /n神の国の文化 神の御国についての、二つめのポイントですが、それは御国の「文化」があるということです。マタイ福音書5章6章、18章には御国について事細かく語られています。この世の教え・この世の方針とは違います。 たとえば、一番になりたい人は、最後にならなければならない。偉大になりたければ、皆に仕えなければならない。命を与えられたければ、それをなくしなさい。神に見ていただきたければ、隠れた所に行きなさい。心の清い者が神を見る。罪を満足させない。それは義に飢え渇いて求める人達は満たされるから・・など。 聖書には、御国について何度も同じことが繰り返されている言葉があります。ヨハネ福音書の13章には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる</span>」(34-35節)。 「互いに愛し合うならば」。これが、御国における中心となるものです。 エフェソ書5:21以下で、パウロは夫と妻の関係を、キリストと教会の関係に「型」として譬えています。私達がイエス・キリストに属しているならば、神の国は、神の力のみでなく、(教理ではなく)、「愛」が中心にあることは明らかになります。これは自然なことではありません。私達がへりくだる姿勢をとり、私達の兄弟姉妹達を支える。私たちよりも他の人たちを優先する。これこそが超自然なことなのです。   /nダスティのこと インディアンの方々が住んでいる場所において、彼らの信仰する宗教の中に、太陽に対する踊りがあります。その儀式では、木が用意され、飲み食いせず、四日間断食をします。そして彼らは、ビジョン(神からのメッセージ)を求めます。木からつるされているコードの先に針があり、それで自分達を刺す・・。それが、自分達を造り主(神)に献げているという宗教行為でした。この行為は、その部族の男性にとってはとても重要な儀式でした。この儀式の中心になっているのは、ダスティという人でした。 彼は白人を嫌っていました。白人がやってきた行為をすべて憎んでいました。私は、白人を嫌っているのだから、彼と関係を持たないようにしようと思いました。しかし私は、王の王(キリスト)に仕えているのだから、その事をこの人達に知らせなければいけないと思いました。 愛というものは決してあきらめない。私は、彼を愛し抜こうと決心し、愛し続けました。しかし、私が彼から感じ受けるのは、憎しみしか感じられませんでした。そのため私達は、神に従う者として、時に、それは大変困難なことでした。ある日、その村に向かって車を運転していました。突然その時、私の心にダスティに対する憐れみの心が生まれました。  見えて来たもの・ビジョンが与えられました。それは、私がダスティの前に、膝を屈めていることでした。それは、私が昔の白人のしたことを赦してほしいと懇願している姿でした。私自身、インディアンに何かし ているわけではありません。しかし白人として、白人がしたことに責任があるのです。 私はこのビジョンをいただいた時、「神よ、このことを、あなたがさせてくださらなければ大変です」と祈りました。なぜならダスティさんは有名な人で、いつもそばに人が沢山いました。しかし私が見たビジョ ンには、私とダスティさんの二人だけしかいませんでした。行った場所は学校のような所でした。二人になるのはむつかしいと思いました。 しかしながら、行った先で、第三者が突然いなくなり、私と彼の二人きりになりました。もういいわけは 出来ません。私は彼の前で、ひざをかがめ、神様の御心を感じ取ることが出来ました。涙が出ました。過去に白人がした行為を、ダスティさんの家族にしたことをわびました。 最初に彼のプライドが出ました。彼は「あなたには赦しを乞う権利はない」と言いました。しかし私は続けて言いました。「私は白人を代表して赦しを乞いたい」と言いました。すると突然、彼は静まりました。 何かがそこで始まっていたのです。その場から立ち上がる時に、何かがこわれ、崩れる感じがしました。霊的なものでした。それまで私に対して憎しみの顔で見ていたダスティの、何かが変わりました。彼はインディアンの中でも「長」とされている人でした。その時から、扉が開かれ、彼との関係作りが始まりました。 再び神様からビジョンをいただきました。それは、へりくだりの中から信頼関係が生まれるということです。   /nおわりに お祈りをもって閉じたいと思いますが、使徒パウロはエフェソの教会の為に祈りました。使徒達は、教会のためにどのように祈ったのでしょうか。 その高さと広さと深さのゆえに、神の愛を知ることができますように。神の愛は、私達の考えをはるかに越えるものです。私達が神の愛で満たされている時、私達は神の愛で完成され、完全になります。 この愛というものを通して、神の御国を人々に知らせることが出来ます。 教会が愛を知って、愛の共同体になる時に、言葉だけでなく、行動をもって。そこには神の御国が降り立ち、そこに神の国が明らかになります。 イエス・キリストのもとへと多くの人々が引き寄せられてきます。  それは、キリストの体である「教会」の美しさを知るからです。 キリストの体とは、この教会をあらわします。もちろん体の美しさを知るならば、頭(かしら)であるイエス・キリストを求めます。 そして、イエス・キリストを自分達のものと願う人達が現れます。 皆さんと一緒に、心から祈ります。 その祈りの中に、神の御国の大使として下さいと祈って欲しい。 神の御国を代表する良き大使となるように。 それを通して、御国がこの地上に、私達の内に表わされますように、力を持って、愛をもって。 求めるならば、必ず与えられます。 皆様に懇願します。神の愛を求めて、祈り、それを受けてください。  _______________ <祈祷> 恵み深い天のお父様 主イエス・キリストの御名を通し、感謝申し上げます。神の御国の民とされていることを感謝致します。そこには大いなる責任も伴いますが、主よ、どうか私達の生き方を通し、あなたが、ほまれを受けることが できますように。もし、私達の歩みの中で、私達が良くない歩みをしたならば、どうか、それをゆるしてください。そして私達の、隠れている部分から明らかにされている部分に至るまで、純粋の愛の生き方が出来ますように。職場においても、家庭においても、同じような強い生き方ができますように。どうか私達の心を愛で満たしてください。 あなたの愛を広く深く知ることができますように。あなたの愛で、私達の心を満たして下さい。私たちがこの世に対し、あなたの弟子であるということを知らせることができますように。 イエス様が、私達の模範となってくださったことを感謝いたします。 私達は、あなたを愛するということを告白します。あなたを讃美します。 主よ、この時を感謝します。あなたの御言葉を感謝します。 又、御霊が私達の内に備わっていることも感謝します。 私達が神の家族であることも感謝します。 アフリカ・日本の隔たりがなく、私達が神の家族に属していることを感謝します。 私達の文化が、御国の文化でありますように。それが、愛の共同体でありますように。 主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン

「わたしもその中にいる」  牧師 佐藤義子

/n 詩編147:1-7 /nマタイ福音書18:10-20 /nはじめに  この地上にキリスト教会が出来たのは、ペンテコステ(聖霊降臨日)の日でした。その日、約束されていた聖霊が弟子達に降り、弟子達は聖霊を受けて、十字架で殺されたイエス様こそ神の御子・救い主であると語りました。この弟子達の説教を聞いて、信じた人々の群れが教会の始まりです。ですから、教会の土台はイエス・キリストです。教会が教会となっていくために、又、私達が「神の国の民」とされていくために大切なことを、イエス様はマタイ福音書18章で教えています。 第一に、天の国で一番偉い存在は誰か。<自分を低くして、子供のようになる人が、天の国でいちばん偉い>。 第二に、信仰の仲間をつまずかせることの罪の深さ。<信仰の弱い人をつまずかせるなら、その、つまずきになった部分を切り捨てなさい>。そして今日読んだところの、「神様の御心は一人も滅びないこと」。また、「教会の仲間が罪を犯した時には、どうしたら良いのか」。そして最後に、神様から赦された者が、もし隣人を赦さなければ、どうなるかについて語られています。 /n小さい者を軽んじてはいけない  十節の後半では、小さい者を一人でも軽んじないように教えています。詩編91篇には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主は、あなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。</span>」とあります。人々から「小さい者」と思われていても、神様を信じる者には神様の守りがいつもあり、神様の守りは、天の使いを通して働かれていることを教えています。 そしてイエス様は、100匹のうちの一匹が迷い出た時、羊飼いは99匹を山に残して一匹を捜しに行くたとえ話をされました。神様の国で、神の民とされた者は、一人でも滅びの世界に戻ってはならない。離れた時は、羊飼いのように捜しに行き、連れて帰るのです。私達は、お互いに愛をもって励まし合い,支え合いながら、信仰生活を共に全うしていきたいと願っています。 /n兄弟への忠告  兄弟とは同じ信仰者、主にある兄弟姉妹のこと(教会の仲間)です。神様を信じ、イエス様を信じて従っていく時、私達は、信仰と祈りによって悪から守られます。しかし悪の力はすさまじく、悪魔サタンは、いろいろな手法を用いて信仰者を誘惑し神様から遠ざけようと試みます。その結果、誘惑に負けたり、試みられて罪を犯すことがあります。信仰の仲間の一人が罪を犯した時、そのことを知った人は忠告しなければなりません。放っておけば、罪の空気は教会の中に拡がります。罪の芽は早いうちに刈り取らなければなりません。忠告は、最初二人だけのところでします。その人が忠告を受け入れたら、教会は強く立ち続けることになります。受け入れない時には、さらに一人か二人を連れて説得にあたります。「そのことが罪である」と確定されるためには、二人又は三人の証人が必要だからです。それでも忠告を聞き入れない時、教会は、その人を、天の国の民とはみなさずに、信仰を持つ以前の時の関係に戻すことになります。これは神様の教会をきよく保つためです。 /n教会への委託  教会には、イエス様から「権威」が委託されています。悔い改める者には「罪の赦し」を宣言します。その一方で、罪ある者を裁きます。それは、愛を破壊し、不正を犯し、主にある兄弟姉妹を否定した時です。 イエス様は、教会の仲間が罪におちいらないように、罪を遠ざけるようにとの願いで結びつくことを求めておられます。悪に対する戦いは、私達を祈りへと導きます。イエス様は、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。二人または、三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(18:19) と約束されました。 私達がどこにいても、心を一つにしてイエス様の名前を呼び求める時、イエス様はいつでもどこにでも来て下さり、私達と共にいて下さるとの約束です。そして私達の祈りは、イエス様が神様に執り成して下さるのです。何と力強い励ましと恵みの約束でしょうか。共に祈りましょう!

「天の国について(2)」  牧師 佐藤義子

/n詩編104:24-35 /nマタイ福音書13:44-52 /nはじめに  本日も前回に続いて、天の国についてイエス様の教えを学びたいと思います。天の国と言う時、社会一般で使っている「天国」とは区別しなければなりません。聖書を通してイエス・キリストが私達に教えておられる天の国(神の国)は、神様が支配されておられる場所であり、神様がすべてのルールを決められており、人間が自由勝手に入ることは出来ません。イエス様は、どんなに門をたたいても開けてもらえなかった人々について、たとえで語られています。ですから私達は、礼拝を通して天の国について正しく学び、天の国に招かれている「神の民」の一員として、日々どのように歩んでいくかを示されていることに感謝するものです。  先週は、天の国について三つのたとえ(毒麦・からし種・パン種)を通して学びました。 /n「宝」と「真珠」のたとえ  今日の聖書には、さらに天の国について三つのたとえが語られています。最初は「宝」です。ある人が畑を耕していたら、くわの先に何かがぶつかり掘って見ると「宝」でした。背景として当時パレスチナでは、財宝を壺に入れて土の中に埋めることがよくされていたそうです。住んでいる所が戦場となり略奪から財産を守る為に、あるいは父親が埋めていたのを息子が知らぬまま相続してその土地を売り、新しい所有者が畑を小作人に任せていたというようなことが考えられます。この宝の発見者は、この宝を手に入れる為、自分の全財産を処分してこの畑を買うのです。二番目の譬えは、真珠の商人が良い真珠を探しており、ついに本物の高価な真珠を見つけました。彼はやはり全財産を処分して、この見つけた真珠を買うのです。 /n「持ち物をすっかり売り払い」  最初の人は努力せずに宝を見つけました。それに対して真珠の商人は、商売のためにあちこち探しあるいて努力して見つけました。共通しているのは、どちらも自分の持ち物を売り払い、それと引き換えに発見物を手に入れたことです。自分の持っている物すべてを処分することは大変なことです。それまで苦労して築きあげてきたものを手放すことは、勇気がいります。ところがこの譬えでは、どちらの人にも迷いはありません。むしろ喜んでいます。それほど発見物は価値があるのです。 /n譬えの意味  「宝」と「高価な真珠」にたとえられているものは何でしょうか。 これは、天の国のたとえですから、宝や真珠にたとえられているのは、神様の支配の中に入ること、神様の支配のもとで生きることです。もっと具体的にいうならば、天の国への道しるべであるイエス・キリストに出会い、イエス・キリストと共に生きるということ、そして永遠の命をいただき、神の国に入ることです。そしてこのことは大きな喜びを伴う出来事なのです。ただし、この大きな喜びのためには「それまで持っていたものを手放す」という行為(犠牲)が伴います。なぜなら神の国に入ることは、自分を神様の支配のもとに置き、神様のルールに従って歩み出すことですから、いままでの、自分を主人公とする生き方を捨てなければならないからです。  このことを恐れることはありません。自分をみればわかるように私達は頼りない者です。何が起こるかわからない世にあって、明日の自分のことを知ることは出来ません。大震災がそのことを教えています。 それに対して神様は全知全能であり、私の生と死を支配される方、わたしのすべてを知っておられますから、神様の支配のもとで生きることが出来るならば、私達には、何も恐れるものはありません。 /n魚の網のたとえ  最後のたとえは、網にかかった魚のたとえです。捕えられた良い魚は器に入れられ、使い物にならない魚は捨てられます。つまり、同じ網から、神の国に入る者と、そうでない者に分けられることを教えています。 以上、私達は2回にわたり、天の国について学びました。ここにおられるすべての方々が、学んだものとしてふさわしく行動し、これからもイエス様の教えに学び、神の国に招き入れられる道を、共に、確実に歩んでいきたいと心から祈り願うものです。

「天の国について(1)」  牧師 佐藤義子

/n詩編90:1-12 /nマタイ福音書13:24-33 /nはじめに 今日の聖書は、イエス様が語られた「天の国」の譬え話です。たとえ話は、人に何かを伝えたい時に、少しでもわかりやすく伝える為に用いられます。 ところが今日の聖書では、イエス様は、群衆に対して「たとえ話」をされますが、何を伝えたくてそのたとえを用いるのかを語られません。そのことを弟子達が不思議に思いイエス様に尋ねますと、イエス様はこのように答えられました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人達には許されていないからである。</span>」 /n天の国の秘密  秘密は「奥義」と言い換えられます。「天の国」とは、神様が支配されているところですから、天の国を正しく知る為には、神様のことを正しく深く学ぶことが必要です。イエス様は「奥義を悟ることが許されていない人」について、旧約聖書の言葉を引用されました。それは「心が鈍り、耳は遠く、目は閉じてしまった人。心で理解しない人、悔い改めない人」です。「耳が遠い」とは、聞くには聞くが決して理解しない人、「目を閉じてしまった人」とは、見るには見るが決して認めない人のことです。 /n天の国のたとえ  今日の聖書には、天の国についての三つの譬え話が記されています。 第一は「毒麦のたとえ」です。内容は、ある人が畑に良い種をまきましたが、同じ畑に、夜の内にこっそり毒麦の種をまいていった人がおりました。そうとは知らず良い麦だけを期待していたしもべ達は、芽が出て実り始めると毒麦に気付き、急いで主人に報告します。主人は「敵のしわざだ」と言い、育つままにしておくように指示します。そして収穫の時期になったら、最初に毒麦を集めて焼く為に束にして、その後、良い麦を集めて倉に納めるように命じます。このたとえには、天の国の奥義が隠されています。弟子達は、群衆と別れて家に戻ったイエス様に、このたとえの解き明かしを求めました。  イエス様は次のように説明されました。良い種を蒔くのはイエス様です。イエス様が蒔いた種からは良い麦だけが育ちます。良い麦とは、神様を愛し、隣人を愛し、神様の喜ばれる生き方をしたいと願いつつ生きていく者です。しかしこの世にはイエス様の敵も存在しており、人々が気付かぬ内に悪い種をまいていきます。それは良い種と同じように、人格の奥底に侵入します。欲望をかきたて、自分の利益を求め、人を憎み、人をさばき、悪魔の意志をおこなう生き方です。そして困ったことに、良い種も悪い種も同じ畑(世界)に蒔かれ、教会も例外ではないことです。   毒麦は雑草で、苗の時は小麦と良く似ていてほとんど見分けがつかず、穂が出て初めてそれと区別がつくそうですが、その頃には根が絡み合っています。小麦は根が弱く、毒麦の強い根が、小麦を一緒に引きぬいてしまうので、収穫までは毒麦をそのままにしておくのだそうです。たとえで、主人が、毒麦をすぐ抜くことを禁じたのは良い麦を収穫するためでした。収穫の時には毒麦は束にされ、焼かれます。イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">良い麦(正しい人々)は、父の国で太陽のよう輝く</span>」と語られました。 /nからし種とパン種 二番目に、天の国が「からし種」に譬えられます。それは畑や庭にまかれる他のどの種よりも小さいのですが、やがて、ほかのすべての植物を遥かに越えて、大きく成長し、鳥が巣をつくれる程になります。  三番目に、天の国が「パン種」(イースト菌)の働きに譬えられます。パンを焼く時、粉の中にイーストをまぜますが、その量は小麦粉に比べればほんのわずかです。しかし、それが入ればイースト菌の発酵作用は、まわりから始まり、ついには全部が発酵してふくらんできます。  イエス様が、小さなガリラヤの村にまかれた神様の言葉は、初めは、小さな働きとしてしか映らなかったでしょう。イエス様は御自分を人々の下に置き、謙虚に生きられました。しかし蒔かれた小さな種は、今や、全世界に拡がり、大きな働きをし、今も人々を神様の支配へと招いています。そして内に大きな力を秘めている神様の言葉は、毎週の礼拝で、私達にも蒔かれていることを覚え、この恵みを感謝するものです。

「ゲツセマネの祈り」  伝道師 平賀真理子

/n詩編75:7-11 /nマルコ福音書14:32-42 /nはじめに  最後の晩餐の後、イエス様と弟子達はエルサレム郊外のオリーブ山に出かけました。その麓に「ゲツセマネ」というイエス様が愛しておられた祈りの場所がありました。ゲツセマネ(油縛りの意)には、オリーブが沢山生えていて、その実が沢山取れたということです。 十字架の苦難を前にして祈られたイエス様の祈りは、「ゲツセマネの祈り」として有名です。        /nわたしと共に目を覚ましていなさい ゲツセマネについた弟子の中からイエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を選び、祈りの場所へ伴われました。12弟子の中で、この三人を、イエス様はいつも大事な出来事の場所に連れて行かれます。  ゲツセマネでのイエス様のご様子は、危機感迫るものであったようです。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスはひどく恐れてもだえ始め</span>」(33節)、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">死ぬばかりに悲しい</span>」(34節)と言われました。これから受けようとなさる苦しみを予感し、恐れてもだえるほどに悩まれたのです。それだけではなく、マタイ福音書26章では、イエス様は弟子達に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしと共に目を覚ましていなさい</span>」と言われています。それは、神の救いの業の上に、自分達が少しでも参与出来るというこの上もない名誉なことでした。ゲツセマネの出来事の前に、弟子達が終末について質問した時も、イエス様は「終末は、天の父なる神様しか知らないが、目を覚ましていなさい。」と言われています。 /n終末の開始 神の御子・イエス様がこの世に生まれたという出来事により、終末は既に始まったと言われます。それは神様が人間を救うという約束を守るため、御子をこの世に送り出して下さったからです。そして人間の救いの為に、人間の罪をすべて贖(あがな)う=(身代金を払って、罪の奴隷から自由にする)、つまり「神の御子」の命の尊い犠牲(十字架の死)を実現されたことこそ、「終末」の出来事の中心とも言えるでしょう。「目を覚ましていなさい」は、終末の合図として「今こそ、その時!」ということでしょう。 /nゲツセマネの祈り ゲツセマネの祈りの言葉は、「(<span class="deco" style="font-weight:bold;">アッバ)、わたしの父よ</span>」と、かなりの親愛の情を含んだ呼び掛けで始まり、「あなたは何でもお出来になる」と、神様の御力への賛美が続き、そして「この杯を取りのけてほしい」(杯とは、神様が人間に与える運命・使命を指す言葉)との願いが祈られます。私達人間は、「杯を飲む」=受け入れる、か、「渡された杯を、神様が過ぎ去らせる(取りのける)」ように、祈っていくことしかできません。  イエス様が祈られている「杯」とは、神様への不信仰を続けた人間に、本来渡されるべき「さばきの杯」のことであり、それを、神の御子でありながら、へりくだって人間となられた(フィリピ2章)イエス様が、「人々の罪の贖い主」として代わりに飲むという運命(使命)を指しています。ご自分に与えられている使命を前にしながら、しかしこの「さばきの苦い杯」を出来ることなら神様が取り除いて下さるように切実に祈られているのです。けれども最後には、「私の願いではなく、父なる神様の御心に適(かな)うことが実現されるように」と祈られました。  ここに私達が神様に願い事をする時の、あるべき祈りの姿を見ることが出来ます。 /n心は燃えても、肉体は弱い  他方、共に祈ることを求められた三人は眠ってしまいました。「汗が血の滴るように地面に落ちる」(ルカ書)ほど、極度の緊張と苦しみの中で祈られたイエス様と対照的です。イエス様は彼らを起こし「<span class="deco" style="font-weight:bold;">心は燃えても、肉体は弱い。目を覚まして祈っていなさい</span>」と言われ、再び祈られました。祈り終えられたイエス様は再び眠ってしまった弟子達に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">もうこれでいい。時が来た</span>」と御自分を捕らえに来た人々の所に向かわれました。 /n私達の祈り 私達が辛い時、悲しい時、苦しい時「どうぞこの杯を取りのけて下さい」と何度でも祈ることがあります。そのような時、私達は自分の思いだけにとらわれるのではなく、「神様の御心、神様の御計画があるならば教えて下さい。そしてその運命(使命)を受け入れられるように御力を与えて下さい」と祈れるように、聖霊の助けを求めてまいりましょう。

「委ねる信仰」    牧師 佐藤義子

/n詩編57:2-12 /nマタイ福音書10:16-23 /nはじめに  日本基督教団では、8月の最初の日曜日を「平和聖日」と定めて、平和について考える時としています。個人的なことで恐縮ですが、私は終戦の前年に満州で生まれ、母は病の中、姉と私を連れて引き揚げてきました。後に多くの中国残留孤児をテレビなどで見聞きし、自分もその一人になる可能性があったことを思い、戦争が一人一人の人生に大きな影響を与えていることを実感しました。今なお世界各地で起こっている戦争が、人々に分裂、憎しみ、愛する家族との死別・離別を引き起こしながら、それでも話し合いによる解決が困難になっている現実を思い知らされています。戦争は、神から与えられた人間の自由意志によって起こされます。国と国、民族と民族、思想・宗教などの衝突から生まれ、その背景に、それぞれの自己主張、自己正当化、自己絶対化があります。戦争のある世界は平和から程遠いものですが、それでは日本は68年間、戦争はないので、「日本人はみな平和に生きている」といえるでしょうか。 /n平和  旧約聖書で「平和」とは、あらゆる領域(精神的・肉体的・社会的)で、具体的にすべて満たされている状態のことです。しかしそのような平和は神様が持っておられるものであり、神様が下さるものです。この平和は、人間が神様の意志に基づいて正しく生き、神様との関係を正しく保つことの中で神様から与えられるものです。さらに、この平和は正義と深い関係に置かれ、正義のないところには、この平和はあり得ません。 新約聖書においても、平和は、人間の生きるすべての領域にわたって、神様の意志に基づいた本当の望ましい状態のことです。特に新約では、イエス様が、神様から遣わされたことによって与えられる「神様の愛と救いの現実」そのものが平和です。(人間は、イエス様がくるまでは、神様と敵対関係に置かれていましたが、その原因となっていた人間の罪をイエス様の十字架によって赦していただいたことにより、人間は神様との間にも人間相互間にも平和が打ち建てられました)。平和聖日を迎えるにあたり、私達は見せかけの平和ではなく、神様が下さる本当の平和を祈り求めて、神様の御心にかなうように、正義を愛し、誠実に歩んでいきたいと願っています。 /n何をどう言おうかと心配してはならない  今朝の聖書は、イエス様が12弟子をユダヤ人社会に送り出す時の言葉です。イエス様は、ユダヤ人社会の人々を狼、弟子達を羊に譬えて、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">蛇のように賢く、鳩のように素直になれ</span>」と言われました。「イエス様こそ救い主」との福音は、ユダヤ人達の考える「救い主」と違っていたので、弟子達への憎しみが予測されました。それに対して弟子達は、憎しみ返さず、いつどのような時でも落着いて、人々と正しく向き合う賢さを持ちながら、同時に、敵から訴えられるようなことを決してしない純真さ、自分を汚すことなく、の奉仕のわざを傷つけない素直さを持つよう求められました。さらに、ユダヤ人社会に於いて弟子達の言葉が受け入れられない時、弟子達は訴えられて、宗教法廷に引き出され、権威ある人々の前で弁明しなければならなくことを預言されました。そのような時、心配することはないと言われます。なぜならイエス様を神の子と信じる者は、イエス様と同じように「神様を父と呼ぶ」ことが許されており、神様の霊が信じる者の中にあって、神様の言葉を語る神の子として、裁判官の前に立つからです。神様の霊が導いて、語るべき言葉を与えて下さるからです。さらにイエス様は、弟子達がユダヤ教の異端者として、すべての人々から憎まれる時、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">最後まで耐え忍ぶ者は救われる</span>」と約束されました。異教社会の日本に於いて伝道する私達にも、イエス様は同じように、心配せず信じて委ねるように求めておられます。 先週(8月25日)の説教要旨 詩編104:24-35・マタイ福音書13:44-52 「天の国について(2)」  牧師 佐藤義子 *はじめに 本日も前回に続いて、天の国についてイエス様の教えを学びたいと思います。天の国と言う時、社会一般で使っている「天国」とは区別しなければなりません。聖書を通してイエス・キリストが私達に教えておられる 天の国(神の国)は、神様が支配されておられる場所であり、神様がすべてのルールを決められており、人間が自由勝手に入ることは出来ません。イエス様は、どんなに門をたたいても開けてもらえなかった人々について、たとえで語られています。ですから私達は、礼拝を通して天の国について正しく学び、天の国に招かれている「神の民」の一員として、日々どのように歩んでいくかを示されていることに感謝するものです。先週は、天の国について三つのたとえ(毒麦・からし種・パン種)を通して学びました。 *「宝」と「真珠」のたとえ 今日の聖書には、さらに天の国について三つのたとえが語られています。最初は「宝」です。ある人が畑を耕していたら、くわの先に何かがぶつかり掘って見ると「宝」でした。背景として当時パレスチナでは、財宝を壺に入れて土の中に埋めることがよくされていたそうです。住んでいる所が戦場となり略奪から財産を守る為に、あるいは父親が埋めていたのを息子が知らぬまま相続してその土地を売り、新しい所有者が畑を小作人に任せていたというようなことが考えられます。この宝の発見者は、この宝を手に入れる為、自分の全財産を処分してこの畑を買うのです。二番目の譬えは、真珠の商人が良い真珠を探しており、ついに本物の高価な真珠を見つけました。彼はやはり全財産を処分して、この見つけた真珠を買うのです。 *「持ち物をすっかり売り払い」 最初の人は努力せずに宝を見つけました。それに対して真珠の商人は、 商売のためにあちこち探しあるいて努力して見つけました。共通しているのは、どちらも自分の持ち物を売り払い、それと引き換えに発見物を手に 入れたことです。自分の持っている物すべてを処分することは大変なこと です。それまで苦労して築きあげてきたものを手放すことは、勇気が いります。ところがこの譬えでは、どちらの人にも迷いはありません。 むしろ喜んでいます。それほど発見物は価値があるのです。  *譬えの意味 「宝」と「高価な真珠」にたとえられているものは何でしょうか。 これは、天の国のたとえですから、宝や真珠にたとえられているのは、神様の支配の中に入ること、神様の支配のもとで生きることです。 もっと具体的にいうならば、天の国への道しるべであるイエス・キリストに出会い、イエス・キリストと共に生きるということ、そして永遠の命をいただき、神の国に入ることです。そしてこのことは大きな喜びを伴う出来事なのです。ただし、この大きな喜びのためには「それまで持っていたものを手放す」という行為(犠牲)が伴います。なぜなら神の国に入ることは、自分を神様の支配のもとに置き、神様のルールに従って歩み出すことですから、いままでの、自分を主人公とする生き方を 捨てなければならないからです。  このことを恐れることはありません。自分をみればわかるように私達は頼りない者です。何が起こるかわからない世にあって、明日の自分のことを知ることは出来ません。大震災がそのことを教えています。 それに対して神様は全知全能であり、私の生と死を支配される方、 わたしのすべてを知っておられますから、神様の支配のもとで生きる ことが出来るならば、私達には、何も恐れるものはありません。  *魚の網のたとえ 最後のたとえは、網にかかった魚のたとえです。捕えられた良い魚は器に入れられ、使い物にならない魚は捨てられます。つまり、同じ網から、神の国に入る者と、そうでない者に分けられることを教えています。 以上、私達は2回にわたり、天の国について学びました。ここにおられ るすべての方々が、学んだものとしてふさわしく行動し、これからも イエス様の教えに学び、神の国に招き入れられる道を、共に、確実に 歩んでいきたいと心から祈り願うものです。

「平和があるように」 牧師 佐藤義子

/n詩編71:14-19 /nマタイ福音書10:5-15 /nはじめに 今日の聖書は、イエス様が12弟子を選ばれて、伝道に派遣するにあたり語られた言葉です。第一に、派遣先について。第二に、何を伝えるのか。第三に、何をするのか。第四に、所持品について。第五に、滞在先についてです。イエス・キリストの教えが全世界に拡がっていく時、その最初に遣わされた12弟子達は、イエス様から何を命じられて送り出されたのか、大変興味深い箇所でもあります。 /n派遣先 弟子達の派遣先は、異邦人(ユダヤ人以外)の町ではなくイスラエルの人々(ユダヤ人)に限定されています。申命記(旧約聖書)にはこう記されています。「あなたは、主の聖なる民である。あなたの神、主は・・すべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなた達を選ばれたのは、あなた達が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなた達の先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなた達を導きだし、奴隷の家から救い出されたのである」(7:6-8)。すべてのことには順序があります。最初は「イスラエルの家の失われた羊」=(神を知りながら神から離れているユダヤ人)です。 /n何を伝えるか イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい</span>。」と命じられました。それまでは、天の国(神様のおられるところ)は、人々の、想像に基づいた、漠然としたものだったでしょう。しかしイエス様は天から(神様のおられるところから)来て下さり、天の国について教えられました。天の国は近づいたのです。天の国はもう見知らぬ国ではなくなりました。イエス様を信じる者は、イエス様を通して、この地上において罪が赦され、神の子とされ、神様の支配を受けることが出来る喜び、さらに永遠の命が与えられるという喜びが与えられます。これが福音(ふくいん)の使信です。   /n何をするのか イエス様は弟子達に「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病をわずらっている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」と命じました。このわざは神様の業でありイエス様御自身がなさった奇跡のわざです。イエス様は、この奇跡のわざの力を、これから遣わそうとする弟子達に、与えられました。 /n所持品について 所持品は「なし」です。弟子達の語る福音も病人を癒す力も、すべてイエス様からいただいたものです。ただで受けたものはただで与えます。弟子達が必要とする食物は、旅先で福音を聞いた人達や、愛の奉仕を受けた人達が、その報酬として与えるでしょう。これは、仏教の、托鉢や施しを受けることではなく、「働く者が食物を受けるのは当然」だからです。何も持たずとも神の働き人は、神が養うこともして下さるのです。 /n滞在先  イエス様は、「町や村に入ったら、ふさわしい人は誰かを良く調べ、旅立つ時まで、その人のもとにとどまりなさい。」と言われました。滞在先は慎重に選ばなければなりません。伝道の妨げになるような人の所では良い働きは出来ません。福音を聞く耳があり、客を親切にもてなす人、キリストの使者ということで喜んで迎え入れてくれる人が、ふさわしいと言えましょう。滞在先を決めたら、町を離れるまで変えてはなりません。その家に入ったら、「あなたに平安・(平和)があるように」と祈願・祝福を祈ることを命じています。「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなた方の願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」と言われました。 /n弟子を引き継ぐ 私達も、祝福と平和を携えて伝道する時、反応は、聞く人と拒む人に分かれます。弟子達の時代から常にそうでした。私達は伝えた相手の終末に関して責任を持つ必要はありません。しかし伝える責任はあります。なぜなら「<span class="deco" style="font-weight:bold;">今や恵みの時、今日こそ救いの日</span>」(2コリント・6:2)だからです。