「終末についての御言葉(2)」  伝道師 平賀真理子

/n申命記30:1-6、11-14 /nマルコ13:14-27 /nはじめに  前回は戦争、地震、飢饉、迫害の記述がありましたが、その一つ一つの出来事に怯える必要はなく、サタンが支配する古い世界から、イエス様の勝利による、神様の愛の広がる新しい世界が生まれる希望を見い出しました。私達はそれぞれに与えられた持ち場において福音を広める為、福音に生きる証し人となることだけに心を砕いて歩めばいいと知らされました。 /n大きな苦難  今日の聖書では不可思議な言葉が出てきます。「憎むべき破壊者」「山に逃げろ」「下に降りるな」「物を取りに家に戻るな」「身重の女と乳飲み子を抱えた女は不幸だ」「このことが冬に起こらないように祈れ」など・・。 この意味を理解するため、先週の礼拝で学んだ「神殿奉献祭」の起源ともなったマカベア戦争についてお話したいと思います。 イエス様が生まれる160年程前アンティオコス4世(エピファネス)がユダヤ地方を治めることになりましたが、彼はギリシャ・ローマの神々への信仰をイスラエルの民にも強要し、エルサレム神殿にゼウスなどの偶像を入れて、それを拝ませました。偶像礼拝を避けていたイスラエルの民にとり、それは赦しがたい冒涜でした。「憎むべき破壊者」は、多神教の偶像、又は異民族の支配者のことです。彼は残虐にも都を破壊し、火を放ち、民を殺害し、武力で支配しました。「家に戻るな」は、焼き尽くされる町の巻き添えになって殺されるからです。立ち上がったイスラエルの人々は、山にあるエルサレム神殿で祈ってから戦いを挑み、抵抗運動が成功したことが背景となり、「山に逃げる」という表現になっていると思われます。さらにアンティオコス4世は、安息日や割礼などの律法を守る者の処刑を命じました。割礼は幼児に施されたこと、又、冬の戦いで餓死者が多く出たことなどから、「身重の女と乳飲み子を抱えた女は不幸だ」「冬に起こらないように祈れ」と、勧めているように考えられます。 イエス様は、あのアンティオコス4世の時よりも尚、大きな苦難が来ることを預言されました。それはかなり絶望的で覚悟のいることです。しかしその絶望の極みの時でも、イエス様が御自分の者として選んだ者の為に、苦難の期間を短くし、救われる者がいるようにすると約束されました。それは、主を信じる者にとっての大きな希望であり、救いです。 /n偽メシアの出現  21・22節は、偽メシアや偽預言者を信じるなとの警告です。にせ者達が「しるしや不思議な業を行う」とあります。本者か偽者かの区別は難しいように思われますが、私達の主、イエス様が私達に下さったのは、「奇跡」と同時に「福音」でした。イエス様は人々に神の御心や救いのご計画、悔い改め、神の国の民の理想を指し示して下さいました。更に、そこに聖霊が働いているかどうかは、本者かどうかを区別するサインです。イエス様は相手に対する憐れみと信仰への応答として奇跡の業を行われましたが、偽者達は自分の利益の為に人を利用しました。 /n「だから、あなた方は気をつけていなさい。・・前もって言っておく。」 表面的なものに気を取られ、イエス様の使命の重大さを理解しきれていない弟子達を前に、イエス様は、終末について教え、惑わされないように警告されました。この世の支配者(サタン)に勝利されたイエス様が教えられた「終末の徴」を、私達も、弟子達に連なるものとして学ぶことが出来、この世に対する最終的な勝利をイエス様と共有する幸いを与えられています。終末を待ち望みながら生きる者として、私達が今、なすべきことは、福音を信じる者として、主の前に恥じることのない信仰者として、信仰の成長を祈り求めることではないでしょうか。 自分に本当の意味での幸いを与えて下さるきっかけとなった福音を、あらゆる人々に広める為に、少しでも役に立てるように生きていきたいと願います。そのような働きが少しでもできるように、今週もまた、聖霊の助けを祈ってまいりましょう。

「キリストの声を聞き分ける」 牧師 佐藤義子

/n 詩編103:14-22 /n ヨハネ福音書10:22-30 /nはじめに 今日の聖書は、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた冬の時でした。神殿奉献祭とは礼拝堂を神様に献げる献堂式のことです。シリアの支配下に置かれていたBC167年、アンティオコス4世のエピファネスによってエルサレム神殿に偶像が祭られるなど、神殿は徹底的に冒涜されました。ついにユダヤ人は反乱を起こし、シリア軍を破ってエルサレムを奪回し(BC164年)、神殿は清められ、再び天地創造主である神様に奉献されました。この時一つの取り決めがありました。それは、ユダヤ人にとって非常に苦しめられたエピファネスのひどい政治を、神様が終らせて下さった、その恵みを人々が忘れず深く記憶にとどめるようにと、この日を神殿奉献記念祭として8日間、祝うことにしたのです。 /n「メシアなら、はっきりそう言いなさい。」 この歴史的な、神様の恵みを思い起こす祭りの時、イエス様はいつものように神殿に来られていました。普段よりも多くの人達が集まるこの時を、イエス様はご自分の使命である、神様を伝える時として大切にされたのでありましょう。その時、イエス様に対して態度を決めかねていたユダヤ人達、及び、悪意を持つユダヤ人達がイエス様のまわりを取り囲みました。そしてイエス様に詰め寄り言いました。「いつ迄、私達に気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」彼らはイエス様がメシアなら、もっと自分のことを明確に、あからさまに、大胆に、率直に表明して欲しいと言ったのです。イエス様がはっきり言わないので、自分達はどっちつかずの状態になっていると苦情を申し立てたのです。その一方で、イエス様が大々的にメシアであると宣言するならば、ユダヤ当局やローマ人達から危険人物として目をつけられることを期待していたのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は言ったが、あなた達は信じない</span>」 イエス様の返事は明快でした。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は言ったが、あなた達は信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証をしている。しかし、あなたたちは信じない</span>。」 イエス様は、御自分がメシア(救い主)であることを隠そうとはされません。イエス様の教えを聞き、不思議な業を見るならば、その業を通してイエス様の力の源である神様の力を認めることが出来たはずです。一切の先入観を捨て、イエス様に素直に向き合った人々は、イエス様を神のもとから来られた方であると信じました。なぜイエス様を取り囲んだユダヤ人達は、信じることが出来なかったのでしょうか。イエス様はその答えを衝撃的に語られました。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの羊ではないからである</span>」(26節)と。 /nイエス様の声を聞き分けるイエス様の羊 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰もかれらをわたしの手から奪うことはできない。・・ わたしと父とは一つである</span>。」(27節) イエス・キリストを信じる者が「イエス様の羊」と譬えられるのは、イエス様を最高の羊飼いとしてイエス様に管理されることを望み、神様の前に、それまでの本能に従う野獣の性質を悔い改め、従順に服従する羊となる道への招きに応答したからです。 この世の多くの人達がイエス様の言葉に耳を傾けなくても、羊飼いであるイエス様は、ご自分の羊たちのことを良く知っています。「この世」の声は大きく私達の耳に響いてきて、私達を誘います。しかし私達は「イエス様の羊」として、御言葉や祈りを通してイエス様の声を聞き分ける耳が与えられています。 御声を聞き分ける耳の訓練は、繰り返しイエス様の教えを聞き、その教えに従うこと、礼拝を守り、集会を通して、又信仰書などを通して信仰を学び続けること、又、日々の祈りを通して神様といつでも対話できる状態に自分を置くことです。イエス様の羊として羊飼いのイエス様から離れることのないように、まず礼拝にしっかりとつながりましょう。

「終末についての御言葉(1)」 伝道師 平賀真理子

/n詩編46:2-12 /nマルコ福音書13:1-13 /nはじめに  本日の聖書には、地震、戦争、飢饉という言葉があり、「今は終末だろうか?」と不安に思われる方もいらっしゃるかもしれません。そんな折に与えられた御言葉を、じっくり追いながら学んでいきたいと思います。 ユダヤ教の総本山エルサレム神殿で、本当は、救い主として迎えられるはずであったイエス様は、ユダヤ教の有力者達によって排斥されました。  イエス様は、彼らと討論しながら彼らの誤りを指摘されましたが、彼らはイエス様を救い主と認めることはできませんでした。エルサレム神殿は、古い形を固守したが故に、新しい形を受け入れられなかった「不信仰」のシンボルとなりました。にもかかわらずイエス様の弟子の一人は、「何とすばらしい建物でしょう」と、表面的な見方のままです。  イエス様は、エルサレム神殿が「人間の救い」の役目を果たさないなら、外見はどんなに立派でも、近い将来、崩れて滅びると言われました。 /n二つの質問 イエス様は不信仰のエルサレムを出て、そこを見下ろせるオリーブ山に来た時、弟子達(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)がひそかに尋ねました。彼らは最初にイエス様に呼び集められた弟子達です。素晴しいエルサレム神殿が崩壊するのは「終末」の時と考えて質問したのです。 「終末」は、「終りの日」・「主の日」と言われ、神様が審判と救いの完成の為にご自身を現わされる日であることがユダヤ教の中で知られていました。弟子達は二つの質問をしています。最初の質問は、いつ「終末」が来るのか。そして、第二の質問は、終末の「前触れ」としての出来事は何かです。 /n終末の前ぶれについて イエス様は、二番目の質問「前触れ」について、偽の「救い主」を語る者達の出現、戦いや地震や飢饉などを挙げられました。しかし、これらは起こるに決まっているが、まだ世の終りではないと言われます。 「起こるに決まっている」とは、神様の救いを理解できず、信仰を表すことができない「この世」は、主の御心に沿わず、崩壊していくようになっているのです。そして戦争・地震・飢饉などは「産みの苦しみの始まり」と言われます。これは、古い形の信仰に生きる世界から、新しい形の信仰の下に広がる世界へと移り変わる時(生まれる前)に伴う「苦難」です。御子イエス様がこの世に来られ、神の国の福音を広め、イエス様の救いを信じる者達が神の国の民となる世界、誰もが本当の神様の愛の主権の下で平安に生きる世界は、「産みの苦しみ」の後、到来するのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は自分の事に気をつけていなさい</span>。」(9節) イエス様は「あなた方は自分の事に気をつけていなさい。」と言われました。何をどう気をつけるのでしょうか。それは今後の出来事における弟子達の態度です。イエス様を救い主と信じるゆえに、権力者からの迫害があり、そこではイエス様について証言を求められます。力ある反対者達の前で自分の信仰を表現するのです。しかし神様のご計画によれば、信仰者がそのような目に遭うことで、「主が来てくださった!救いがこの世で成就される!」という福音が、全ての人々に広まることになるのです。人間の思いもよらないことです!「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される</span>」(詩編46:9)。 更に、迫害の中でも助け主として「聖霊」が共に居てくださり、信仰者を通して聖霊が語ってくださることを教えています。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならない</span>」(10節) 人間が、今の自己中心の世界を卒業し、全く逆の「神様の愛」を根本にした世界を生み出していくには、「産みの苦しみ」が待っています。 主の福音が広まるために弟子達は、純粋で強い信仰を貫き迫害に負けず、イエス様が救い主であると証しし、多くの人達が殉教していきました。「主の十字架」により、この世に対する神様側が勝利していることは確かです。私達も又、信仰によって新しい「神様主権の世」を創りだす手伝いが許されていることを感謝し、主の証人としての歩みを励みましょう。

 「真理を知り、自由になる」  牧師 佐藤義子

/n詩編65:6-14 /nヨハネ福音書8:31-36 /nはじめに  先週の礼拝で、イエス様の「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ</span>」との御言葉を学びました。イエス様を信じて従う者は、光であるイエス様といつも一緒に、明るい中を歩むことが出来るという約束でした。今日の聖書は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの言葉にとどまるならば、あなた達は本当にわたしの弟子である。あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする。</span>」というイエス様の約束の言葉です。 /n約束の条件  先週と同じように今日の御言葉の約束も、条件付き(?)です。もし、「イエス様の言葉にとどまるならば」、そうするなら、「私達は真理を知ることが出来、自由になる」のです。「とどまる」とはどういうことでしょうか。それは途中でやめないで、初めから終りまで同じように信頼し続けるということです。イエス様の言葉の中に根をおろして、そこにとどまり続けることです。イエス様の言葉の中に根をおろした時、イエス様の言葉が私達の行動を導きます。イエス様の言葉が私達の思いや私達の意志を動かします。そして私達のイエス様への愛を大きく成長させて下さるのです。 /n私達の行動原理  イエス様を知らなかった時、私達は自分の行動を決定するのは、それ迄、親や教師、友人・知人を通し、又、さまざまの情報などにも影響を受けながら形成した自分なりの価値基準に基づく判断でした。しかし聖書は今、「イエス様の言葉の中に根を下ろして真理を知るように」と招いています。私達の思いや意志の決定が、自分が作り上げて来た価値基準や行動原理によらずに、イエス様の言葉によって決定するように招いているのです。 なぜならイエス様に信頼し続けるならば、私達は真理を知ることが出来るからなのです。真理とは、嘘・偽り・にせものではなく、本当のこと、本当のもの、真(まこと)のこと、絶対的な真理です。 イエス様は、同じヨハネ福音書で「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は道であり、真理であり、命である</span>」と語られました。真理とはイエス様ご自身の中にあるものです。 /n誰かの奴隷になったことはない(?)  イエス様は、「真理はあなた達を自由にする。」と言われました。ここにおられる方は、御自分のことを「自分は不自由である」とは感じておられないでしょう。聖書に登場するユダヤ人達も、イエス様にこう答えました。「私達はアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。あなた達は自由になるとどうして言われるのですか。」と逆に質問を返しています。 /n罪の奴隷  イエス様は、自分達は自由な者だと主張するユダヤ人に対して「<span class="deco" style="font-weight:bold;">罪を犯す者は罪の奴隷である。</span>」と断言しました。この場にいたユダヤ人は幼い時から「律法」を教えられ、おそらく、きびしく律法を守ってきたとの自負があったでしょう。しかしイエス様は、あなた達は罪の奴隷となっているから、真理を知ることによって自由になりなさいと言われたのです。パウロが「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする</span>」と告白しているように(ロマ7:15)、愛そうと思っても愛せない。赦そうと思っても赦せない。裁くのをやめようと思っても裁いてしまう。これは自由を失って、罪の力につながれている状態です。イエス様は、そういう私達を、「罪の奴隷」と表現されているのです。 /n罪の鎖を断ち切る「十字架の死」  この私達をつなぎ止めている罪の鎖を切り離し、私達を罪の奴隷から解放して下さる唯一のお方がイエス・キリストです。イエス様こそ私達人間を罪から解放して私達を自由にするため十字架にかかられました。「十字架の死による、私達の罪の赦しと贖いを信じる」信仰によって、私達がつながれていた罪の鎖が断ち切られるのです。その時、御言葉が、罪に支配される行動原理を打ち破り、イエス様の教えに従う新しい行動原理を打ち建てるのです。御言葉にとどまり続けましょう!

「命の光を持つ」    牧師 佐藤義子

/n詩編98:1-9 /nヨハネ福音書8:12-20 /nはじめに 今日の聖書で、イエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。</span>」(12節)と言われました。世とは、この世です。私達が生きているこの世界全体のことです。私達が生きているこの世は、明るいニュースより暗いニュースを聞くことが多く、新聞の社会欄に目を通せば、悲惨な出来事、罪深い出来事が毎日のように報道されています。いじめから自殺に至るケース、児童虐待、殺人や強盗、ストーカー事件、DVの問題、過労死の問題、原発事故による人体への影響の恐怖、家も仕事も失い生きる希望を失っている方達、又、ネット社会が生み出しているさまざまな問題、さらに世界に目を向ければ、テロの恐怖や、今、尚、死傷者が絶えないシリアでの内戦、そこから逃げる難民の問題など、私達の住むこの世は、暗く病んでいると言わざるをえません。  さらに、一見幸せそうに見える家庭の中にも、家族の思いの行き違いや、夫婦・親子・嫁・しゅうとめの関係などで悩んでいる家族が大勢おります。 /nヨハネ福音書1章1節- 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった</span>。」 ここで「言」と訳されているのは、イエス・キリストのことです。イエス様は神様の御子であられ、神様と共におられましたが、神様から遣わされて、この世にこられました。ヨハネ福音書ではイエス様のことを「光」と呼び、この世のことを「暗闇」と呼んでいます。  今日の聖書は、暗闇の、この世で生きている私達のもとに、イエス様は「光」として来て下さった。だから私達がイエス様を信じて従うならば、私達はもう暗闇の中を歩かなくてもよいばかりでなく、私達の内にも光を持つようになるというイエス様の素晴らしい約束です。 暗闇の恐ろしさ、不安を知る者にとって、光が約束され、光と共に歩くことが出来て、しかも私達自身がその光をもつことが出来るというイエス様の約束は、何と素晴らしい約束でしょう! /n信じない敵対者  ところがイエス様を信じないイエス様の敵対者達は、自分で自分のことをいっても、それは信用ならないと反論しました。そこでイエス様は、語っていることが真実である証拠として、三つのことをいわれました。一つは、御自身がどこから来てどこに行くのか知っていること(あなた達は知らない)。二つ目に、御自身は裁かないこと(あなた達は、肉に従って裁いている)。三つ目に、イエス様は上(=天)に属していること(あなた達は下(=この世)に属している)を挙げられました。 /n光のみなもと イエス様が暗闇の中に光として来られた時、その光をどこから得たのか、その源をご存知であるから、イエス様は私達を導くことがお出来になるのです。生まれながらの人間は、自分がどこから来てどこにいくのか知らないまま生きているので、闇の中を手さぐりで歩くように、どのように生きるべきか道を見つけられずに悩み、不安と恐れの中で、さ迷うのです。特に「死が恐怖である」のは、自分がどこへいくのかわからないから恐れるのです。しかし、イエス様という光を信じて従っている者は、イエス様がどこから来られてどこに帰られたかを知り、イエス様のおられるところに信じる者も招かれていることを確信しています。 /nイエス様の証人  イエス様はご自分の証言に対して、ご自分をこの世に遣わされた父なる神様も共に証言されるので、御自分の言葉は真実であると説明されました。イエス様は何をするにも語るにも、常に神様から聞き神様が望まれることを行なわれました。この光であるイエス様に従う者は、命の光をもって歩む者とされ、その結果、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制が生まれて、光の子として生きるようになるのです。

「再び罪を犯すな」   牧師 佐藤義子

/n 詩編51:3-21 /nヨハネ福音書8:1-11 /nはじめに イエス様はこの日、朝早くエウサレム神殿の境内に行かれると、イエス様の教えを聞きたくて人々が集まってきました。イエス様はそこに座り、教え始められました。ところが突然、律法学者達が一人の女性を連れて来て、真ん中に立たせ「この女性は、律法の中でも厳しく禁じられている姦淫を行った女性である。律法は、石打ちの刑で死刑を命じている。ところであなたはどう考えるか。」とイエス様に質問してきたのです。 /n姦淫の罪 姦淫とは夫と妻以外の男女の、不義の関係を言います。十戒でも殺人と並んで姦淫は禁止されており、レビ記に「人の妻と姦淫する者は、姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」とあり、この前に「自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。」とあります。申命記にも「姦淫の罪を犯した男女は共に石で打ち殺さねばならない」とあり、その後に「あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」と、イスラエル共同体が神様の祝福をいただく為には、神様の戒めを守ることが大前提となっておりました。 /nイエス様の教え イエス様は、姦淫が重い罪であることを否定していません。それどころか、山上の説教では「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである</span>」。イエス様は、このように、性的な領域に於いて純潔を求められておりました。 /n沈黙  イエス様は、律法学者達の質問に答えようとはされず、地面に何か書き始められました。なぜイエス様は答えようとされなかったのでしょうか。 それは、彼らの質問がイエス様を訴えるための「わな」であることをご存じだったからです。イエス様は神様の愛を語り、「罪人」と呼ばれる人達の「友」として慕われておりました。律法学者達には、このイエス様の憐れみ深い心や柔和さが、罪に対する判決を和らげてしまうという危機感がありました。もしイエス様が死刑と言えば民衆の心はイエス様から離れるし、死罪を否定するなら、律法の破壊者として告訴できます。 /n「罪を犯したことのない者が先ず・・」 返事をされないイエス様に、律法学者達はしつこく問い続けました。イエス様がついに口を開かれました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい</span>」。自分は同じ罪を犯していないから「裁く権利がある」と考えていた人々は、イエス様の一言で、年長者から順にこの場を去っていきました。自分の内面をみつめ、良心にやましさを感じて、その場にいたたまれなくなったのでしょう。 聖書には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">正しい者はいない。一人もいない</span>」(ロマ3:10)、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている</span>」(同:23)とあります。 /n「再び罪を犯すな」 イエス様は、姦淫の罪を憎まれ、その戒めを破った人間の弱さに対しては嘆き悲しまれたことでしょう。しかし誰も彼女を罪に定めることが出来なかったことを聞き、罪のないイエス様でしたが「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない</span>。」と言われました。この言葉は、女性のこれから生きる道をまっすぐにし、悪から女性を守り、清めようとするものです。罪を犯した女性は、この言葉の前に、心からその罪を悔い改めたに違いありません。イエス様が来られたのは、裁くためではなく人々が救われるためでした(ヨハネ3:17)。神様は私達に今も呼び掛けておられます。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">悔い改めて、お前達の全ての背きから立ち帰れ。罪がお前達をつまずかせないようにせよ。私は誰の死をも喜ばない。お前達は立ち帰って、生きよ</span>」(エゼキエル18:30-)。

 「本当の信仰者」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書25:1-5 /nマルコ福音書12:41-44           /nはじめに  本日の聖書は、イエス様のご生涯の、最後の一週間の「論争の火曜日」での出来事の一つです。 最初は、ユダヤ教の指導者達から質問を受けてイエス様がお答えになる形をとっていましたが、指導者達はイエス様からどんなに誤りを指摘されても、反対の立場を決して変えようとしませんでした。彼らの役割は神様の教えを第一とし、それを民に伝え、来たるべき救い主を証しすることでした。しかし彼らは、職人階級出身のイエス様がメシアであるはずはないと決めつけ、悪霊の頭だと言ったり、神様を冒涜していると非難する姿勢を変えませんでした。それは、この世を仮に治めているサタンの性質を、彼らが受け継いでしまったいることを表しています。ユダヤ教指導者達は「律法」に詳しく、更に神様の御心を知っていると期待されていましたが、自分の利益、名誉、知識、偏見、思い上がりなどで自分の判断を絶対化して、神様の御声を聞くことを怠ったからです。 そしてついに救い主出現を前にして、サタンの最後のあがきがユダヤ教指導者達の姿を通して映し出されました。本来、「救い主の証人」となるのに一番ふさわしい彼らは、「エリート」という人間社会の中での優越感に溺れ、その待遇に甘えていたがゆえに、肝心なところで不信仰を重ねる形となったのです。 /n貧しいやもめ イエス様の目は、彼ら指導者達にではなく違う人々に向けられました。本来なら、救い主として、エルサレム神殿の中央に迎え入れられるはずのイエス様が、そこから外側の庭に向かって信仰者を探しておられたのです。そこには大勢の一般民衆がいて、特に献金を沢山して目立つ金持ち達が多くいましたが、イエス様が見つけて喜ばれたのは、献金額の多い金持ちではなく、その社会では軽んじられていたやもめ(未亡人)の信仰でした。 私達はイエス様の外の形に囚われない姿勢・考え方を知ることができます。 イエス様が評価されたのは、一般民衆の中でも最も弱い立場にいる女性、貧しくて何の権力もない一女性でした。後ろ盾となるべき夫を亡くし、経済的に困窮していたと思われます。当時の社会では、彼女の存在すら無視されてもいいような女性でした。又、ユダヤ教では女性は神殿の中の「聖所・至聖所」に入れず、その外側に設けられた庭(女子の庭)迄でした。その庭にあった賽銭箱にはラッパの形を逆さにした金属製の容器が13個ついていて、各々に献金の用途が絵によって示されていたそうです。金属製ですからコインの量に比例した音が響きます。やもめの捧げたレプトン銅貨は最小単位のコインで、薄くて貧相であり、わずか2枚であれば、その音もかすかで頼りなげな感じだったでしょう。 /n生活費を全部 しかし私達の主・イエス様は、人間の価値基準を越えて確かに存在する「神への信仰の強さ」が全てに優先されることを教えられます。イエス様は何が人間の心の中にあるかを良く知っておられる方です(ヨハネ2:25)。彼女の献金額はほんのわずかでしたが、それでも彼女は神様に思いの全てを向けて、その表れとして生活費全部を献金したのでしょう。神様に対する全き信頼と愛を見ます。  「生活費」を広義に解釈すると「人生、生活、一生」という意味があるようです。この世での自分の姿を神様の前にさらけ出し、へりくだり、自分を嘆いたり自暴自棄にならずに、神様の前に希望を持って、自分のすべてを献げ尽くしたやもめの信仰を、イエス様は喜ばれたのでしょう。 イエス様が渇望されたのは、神様が人間を愛する熱情と同じ位に神様を全き心で愛し、へりくだる者を愛する神様にふさわしい謙虚な信仰を持ち、自分を献げ尽くすことに喜びを感じ、それを貫き通す信仰です。それは、神の御子である身分に固執されず、私達の所にまで降りて来られ、私達の救いの為に全てを喜んで献げて下さったイエス様の御生涯そのものです。徹底した信仰を神様に献げられる「本当の信仰者」へと成長していくことを願い、その助けを聖霊に祈り求めてまいりましょう。

「神から出た教え」  牧師 佐藤 義子

/n詩編146:1-10 /nヨハネ福音書7:10-18 /nはじめに  今読んでいただいた聖書は、ユダヤ教の三大祭りの一つである、仮庵の祭りでの出来事です。仮庵の祭りについては、旧約聖書の申命記(16:13-)、レビ記(23:34-43)・民数記(29:12-14)にも記されていますが、モーセの時代以後長い間この祭りは行われず、バビロン捕囚から帰ってから再開されたことがネヘミヤ記8章で伝えられています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">山に行き、オリーブの枝、野生オリーブの枝、ミルトスの枝、なつめやしの枝、その他の葉の多い木の枝を取って来て、書き記されている通りに仮庵を作りなさい。(略)こうして人々はそこで過ごした。それはまことに大きな喜びの祝いであった</span>。」  この祭りは後に、イスラエル民族がエジプトを脱出して40年間の荒れ野の旅を続けた時、天幕を張りテント生活をしてきたことを思い起こす時として過ごすようになりました。イエス様の時代も、この祭りの時には、おびただしい巡礼者が、エルサレムに集まりました。 /nイエス様と兄弟達との根本的な違い 7章の初めには仮庵の祭りが近づいてきたので、ガリラヤにいたイエス様の兄弟達も祭りにいく準備をしていたとあります。兄弟達はイエス様に、ガリラヤのような田舎ではなく、大勢の人達が集まるエルサレムに上ってイエス様の実力を示し、自分がメシアであることを世間にアピールしたらどうだと促しています。私達の社会では力のある人が歓迎され、力のある人の所に人は集まります。イエス様の兄弟達は、まさにこの世の生き方に倣い、イエス様の力を世間に見せつけて人々の心をつかめと勧めたのです。それに対してイエス様は「私の時はまだ来ていない」と拒否されました。 「私の時」という「時」は、御自分のことをはっきりとおおやけに示す『時』のことです。それは十字架への道が開始される時でもあります。イエス様の「時」は神様がお決めになることであり、イエス様は決められたことに従順に従うだけなのです。兄弟達はこの世に同調し、この世の流れにのって生きているのでこの世との矛盾も戦いも抵抗もありません。 しかしイエス様は、この世が行っている悪をはっきりと指摘するので、この世はイエス様を憎みます。兄弟達の生き方は、人々が賞賛するやり方であり判定基準はこの世の人々に委ねる道です。イエス様はこの世の根本的な間違いを指摘し悔い改めを求められます。聖書は、「兄弟達もイエスを信じていなかった(神の子救い主として)」と証言します。 /n「神から出た教え」   今日の聖書では、祭りに行かないと答えたイエス様が、その後人目を避けてエルサレムに上り、祭りの中頃、神殿の境内で、人々に旧約聖書から教えられたと伝えています。それを聞いたユダヤ人達はイエス様が学問をしたわけでもないのに聖書を良く知っているので驚いたと記されています。それに対して、イエス様はこう言われました。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」</span>  イエス様の教えの中に神ご自身の御声を聞くかどうかは、その人が、神様との生きた交わりをもっていること、本当の信仰を持っている者、神様の御心を行おうとする者であるかどうかが問われます。   私達の語る言葉が人間から出ているなら、その言葉はその語った人に帰っていきます。けれどもその言葉が神様から出てくるなら、それは神様の栄光を表わし、目を神様に向けさせ、神様に対する感謝と神様への愛を引き起こします。自分を高めようとする者は、真理を手に入れることは出来ません。神様の栄光を表わそうとする者、神様を中心として歩む者だけが真理にとどまることをイエス様はここで教えておられます。 私達は、自分の意志を貫くことを最優先に考えたがります。しかしその前に先ず「イエス様のように神様の御心を行う者になりたい!」との願いと祈りをもって、今週の歩みを歩んでいきたいと願うものです。

「命のパンであるキリスト」  牧師 佐藤 義子

/n詩編78:23-29 /nヨハネ福音書6:32-40         /nはじめに 日本基督教団のカレンダーでは、8月第一日曜日は「平和聖日」として平和について考え、祈る時でもあります。 旧約聖書で「戦争」に対立する言葉として使われているのが「シャローム」というヘブル語です。「シャローム」は、何かが欠如したりそこなわれたりしていない状態、満ち足りている状態をさす言葉で、そこから無事とか平安、健康、繁栄、安心、和解など、人間の生きていくあらゆる領域にわたって、本当の意味で望ましい状態を意味し、精神的な平安の状態だけではなく、社会的に具体的・福祉的な意味などすべてを含んでいる言葉です。 このような意味での平和は神様の業であり神様の賜物でした。この賜物は、神様が一方的に与えるものではなく、神様に対する人間の態度と深い関係がありました。すなわち、人間が神様の意志に基づいて正義を行い、神様との契約関係を正しく保つところに与えられるものでした。 イザヤ書に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">正義が作りだすものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である</span>」(32:17)と記されています。平和のない現実の中で、平和を真剣に問題にしたのは預言者です。彼らは人々が神のもとに帰ること、又「正義によって平和をもたらすメシア」の到来を語り、平和を待望しました。又、神様の意志に基づいた本当の平和の確立のために、見せかけの平和状態や偽りの平和の預言に対して、戦争と滅亡の預言を語ることもありました。 旧約聖書では、「真の平和」は、人間の不義と悪の現実に対する神様の裁きと赦しのわざによって、苦難のその先に、初めて実現される救いとして待望されています。 新約聖書でも「平和」は、人間の生の全領域にわたって神様の意志に基づいた真の望ましい状態をさしている言葉です。 「シャローム」は、イエス・キリストによって与えられる神様の愛と救いの現実そのものです。 本日の平和聖日にあたり、私達は祖父母や両親を通して聞いてきた戦争の悲惨さを二度と子供達や孫たちに味わわせない為にも、社会の一構成員として、世界の動向や自分の国の在り方に関心を持ち続けなければならない責任を思います。しかしそれと同時にクリスチャンとして、正義の伴わない見せかけの平和ではなく、イエス・キリストを信じることによって与えられる神様の愛と救いがもたらす「真の平和」を知る者として、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">平和を実現する人々は幸いである</span>」(マタイ5:9)との御言葉のもとに歩むことが出来るようにと祈るものです。 /n命のパンであるキリスト 今、読んでいただいた聖書の前に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">はっきり言っておく。あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(</span>26節)とあります。 群衆は、自分達の空腹を満たすためにパンをくれるお方としてイエス様を見ました。イエス様は確かに肉体的な欠乏を補って下さいましたが、その奇跡の力を通してイエス様が神の子である(救い主である)という「神の力」を見ることが出来たならば、彼らはイエス様を通して神様を見る信仰へと高められていくことが出来たはずでした。しかし群衆は、神様が下さる救いを求めて来たのではなく、満腹させてくれた「パン」(自分達の利益につながる食べ物)にとどまっていたのです。 イエス様はそれを見抜かれました。それゆえに食べたら終ってしまうパンを求めるのではなく、イエス様がその為に来たところの「永遠の命に至る食物」の為に働くように教えられました。「では何をしたら良いか」と尋ねる群衆に、イエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である</span>」(29節)と答えられました。神様が「まことのパン」を与えてこの世に命を与えること、「まことのパン」「命のパン」とは、イエス様ご自身のことであり、イエス様を信じることによってイエス様とつながり、そのことによって命を受けることを教えられたのです。

「マリアの香油」  倉松 功先生

/n詩編145:1-16 /nヨハネ福音書12:1-8         /nはじめに  ヨハネによる福音書は、11章から12章11節まで、ラザロとその姉妹マルタとマリアのことをくわしく語っています。彼らが住んでいたのは、エルサレムの南東約3キロ離れたベタニアという村でした。主イエスはエルサレムに入城する前にも、その後でも、ラザロの家を訪ね、お世話になっていたように思われます。そのラザロについて、今読んでいただいた聖書にはこう記されています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせた(復活させた)ラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。</span>」(12:1-2)  その時マリアが純粋で極めて高価なナルドの香油を一リトラ(約326グラム・大きめのコップ1杯位)持って来て、それを主イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったのです。多量の香油であったのでしょう。ラザロの家は香油の香りで一杯になりました。 /nユダの非難  その時、後になって主イエスを裏切ることになるユダが、「その香油を300デナリオン(高く見積もって300万円・低く見積もっても150万円)で売り、貧しい人達に施しをする方が良かった」と非難したのです。マタイ福音書やマルコ福音書の並行記事では、ユダだけでなく他の弟子達も一緒に、(そこにいた人々も)マリアの行為に対して非難したと伝えています。 この非難に対してヨハネ福音書の記者は、二つのコメントを付しています。 /n二つの添え書き 一つは、ユダは貧しい人々のことを心にかけていたわけではないこと。もう一つは、彼は盗人で、主イエスと弟子達の財布を預かっていながら、中身をごまかし自分勝手に使っていたので、それをごまかすために、尤もらしいことを言っているというものです。このことは、ユダと同じような非難をした人達にも、多かれ少なかれ、同じようにいえるかもしれません。   /n信仰と行為   ユダに対する聖書の添え書きは、ユダの言葉は純粋なものではない、人間の好意が必ずしも純粋なものではないことを感じさせるわけです。しかしユダの本音はどうであれ、ここには「信仰と行為」あるいは「主イエスの福音と良き行為」との関係について重要なことを明らかにしているように思います。というのは、このマリアの香油のことがあった前後に、主イエスは弟子達に新しい掟をお与えになっております。その新しい掟とは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる</span>。」(13:34-35)です。 更にマタイ福音書やマルコ福音書によると、香油の出来ごとの前後に、主イエスは最も重要な二つの掟・二つの愛の戒めを示されました。   第一の掟は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主なる神を愛しなさい</span>」。それに続いて第二は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">隣人を自分のように愛しなさい</span>。」でした(マルコ12:29-参照)。 主イエスは、山上の説教以来、これまでも繰り返し隣人愛を語っておられます。従ってユダが、300万円に換金して貧しい人々に施した方がキリストの教えに叶っているのではないか、という愛の実践を提案したのはわからなくはないようにも思われます。 /n香油に対するキリストの態度   さてキリストは、この出来事の中にあって、どのような態度、言葉を言われたのでしょうか。キリストは、ユダの発言には目もくれていません。そしてマリアの行為を承認し、マリアは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたし(キリスト)の葬りの日のために、それを取って置いたのだから</span>」(7節)と、マリアの行為が、キリストの死、埋葬の準備のためのものだと言われたのです。確かにキリストはこの出来事の前に三度もご自分の苦難、十字架の死と復活について弟子達に予告しています。マリアも聞いていたでしょう。 その予告を聞いて、ペトロは、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とキリストをいさめました。さらに、キリストに従っていた人達はそれを恐れていた、と聖書は記しています。 ところがマリアは、キリストの受難の予告に従って、<葬りのために死の体に油を塗る>その備えを、すでに生前からキリストの体にしているのです。これがキリストの言われた「わたしの葬りの日のために、香油を取って置いた」という言葉です。 /nマリアの感謝の喜び・信頼の喜び マリアが、キリストのいわれる言葉をどこまで理解していたか分かりません。少なくてもキリストが苦難を受けられるのではないかということは予感していたでしょう。 私はむしろ、マリアの香油は、彼女達の兄弟ラザロがキリストによってよみがえらせられた(復活させて下さった)ことへの感謝、御礼もあったのではないか。そしてキリストは、再三、ラザロの家で、ラザロの家の人達に福音を語っていた。マリアは身近に福音に接し、主イエスが真に救い主である、キリストであると信じて受け容れた感謝の喜び・信頼の喜びが、ラザロの復活に対する感謝と共に、香油を塗るということの中に表れているように思われるのです。 私達は、キリストの死と復活の意味を見極め、充分に理解することは容易ではありません。しかし主イエス・キリストに信頼し、感謝することをマリアは教えているように思われるのです。ともあれキリストは、マリアの行為を御自分の葬りの備えと受けとめたのです。 /n二つのこと そして二つのことを仰せになりました。一つは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。</span>」(8節)です。「これからわたしは十字架の死を遂げる」ということが背後にあって、主イエスはこう語っておられるのでしょう。 「十字架の死」は何を意味していたのでしょうか。それは、ユダのような偽善者のみならず、不十分な良き言葉・良き行為しか出来ない私達の罪を赦し、救いの御業を成し遂げ、十字架の死と復活を遂行するということがキリストの思いでありました。そこで「私はいつも一緒にいるわけではない」と、おっしゃっているわけです。    さらに付け加えるならば、このキリストの十字架の苦しみは、まさに一回限りのことでありました。「一緒にいるわけではない」は、主イエスは死んでいなくなるということではなく、その死は、ユダや弟子達は勿論、私達に至るすべての人間、さらに(パウロが力を込めて語っているように)造られたもの、被造物すべての罪の贖い、赦し、そして新しい命を与えるために、父なる神が、御子・主イエスに託した事柄であったのです。そういう重大なことを、マリアをはじめ弟子達は知っていたかどうか わかりませんが、そういう思いが、マリアが香油を塗るという行為と共にあったということです。 /n記念として語り伝えられる ところで、今一つのことを申し述べねばなりません。それは、ヨハネ福音書が記していないことですが(マタイ・マルコ両福音書が記している)、主イエスは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として(注:つまりキリストの福音を思い起こすことと共に)語り伝えられるであろう</span>」と言われました(マルコ14:9)。これは、「キリストの死を記憶するため」に思い起こすことを言っているのではありません。「福音が宣べ伝えられる所では、香油の出来事が記念として語り伝えられる」は、もう少し重要なことを言っているように思います。 /n福音が宣べ伝えられる所で 「福音が宣べ伝えられる所で香油の出来事が語られる」という「福音」とは、キリストご自身のことであり、キリストによって「私達人間の罪の赦し」と「死からの解放」と「永遠の生命」が与えられるということです。その福音が語られる所で、この香油の出来事が語られるということは、この行為は福音にかかわる行為であったということです。 まとめて申しますと、十字架の死と復活を遂げたキリストが「福音」です。そのキリストの死の直前、キリストの死の苦難を予感しながら、キリストが救い主であることに感謝をして、キリストに対する信頼を、香油を注いで表わしたマリアは、福音であるキリストを、そういう形で受け容れているわけです。キリストを信じる信仰、それが、このマリアにおいては、香油を注いで感謝をすることであったといってもいいのではないでしょうか。 繰り返しになりますが、マリアの主イエスに香油をぬるという出来事は、マリアの、主イエスに対する信頼と溢れる感謝、キリストと実際に接した感謝、それらを含めたマリアの信仰をここで語っているように思います。 私共のキリストへの感謝、私共のキリストに対する信頼、そういうものを、マリアは、私共の模範として私共に示しているように思います。