説教要旨 「からし種一粒ほどの信仰」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 17章14-20節 14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、 15 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。 16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」 17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。 19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。 20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 /nはじめに  今日は8月の最初の日曜日で、日本キリスト教団が平和聖日と定めている日です。世界の現実は平和とはほど遠く、毎日のようにイラクでは自爆テロに巻き込まれての死者は絶えず、アフガニスタンではタリバンによる韓国人拉致が起こり死者がでています。家族の方々の緊張は私達の想像を越えたものだと思います。更にイスラエルとパレスチナの対立は根強く復讐が繰り返されています。国家間の戦争、或いは内戦による難民や孤児達の姿がテレビで放映される度、私達の胸は痛みます。なぜ人は争い続けるのでしょうか。平和とほど遠いのは、世界のことだけに終らず、日本でも地域で、学校で、勤務先で、家庭内で平和が奪われている現実があります。これは人間の罪の結果であるといえますし、それは即ち、この世では、悪の力が猛威をふるっているのです。 /n「平和」についての聖書のおしえ  イエス様は「平和を実現する人々は幸いである。その人達は神の子と呼ばれる」(山上の説教)と言われました。6月の伝道所開設記念礼拝では「できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい。自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐は私のすること、わたしが報復すると主はいわれると書いてあります。」(ロマ12章)を聞きました。又、イエス様は弟子達に「ふさわしい人を選び、その家にとどまり、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は与えられる」(10:12‐13)と約束されました。本日の平和聖日において、私達は平和から遠いところで生きている人々を覚えて、その地に平和が実現するように祈るとともに、私達自身が直接身を置き、かかわる所が、平和であるように祈りたいと思います。  __________________ /n父親の願いに対して答えられなかった弟子達  本日の聖書には、てんかんの病を持つ息子の父親の、いやしへの願いと、それに対するイエス様の応答、さらには信仰についての教えが記されています。イエス様の不在中、弟子達には息子をいやすことは出来なかったというのです。  「イエスは12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出しあらゆる病気や患いをいやす為であった」(マタイ10章)とありますから、12弟子にはいやす力が与えられていました。にもかかわらず・・です。嘆く父親と、いやすことが出来なかった弟子達を前にしてイエス様はその不信仰を嘆かれ、彼らが本当の正しい信仰を持つ迄には、どれだけの時と忍耐を必要とするのだろうかと言われました(17節)。山上では、確かに生きて働いておられる神様のご臨在がありました。しかし山の下では、不信仰が蔓延しているのです。 /nイエス様のいやし  イエス様は「その子をここに、私の所に連れて来なさい」と言われ、息子をいやされました。同じ内容がマルコ福音書にもありますが(9章)、以下のような会話が記されています。(父親)「おできになるなら、私共を憐れんでお助け下さい」。 (イエス様)「出来ればと言うか。信じる者には何でも出来る。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」 /n弟子がいやせなかった理由  なぜ私達はいやせなかったのか、と弟子が聞きました。イエス様はその理由を「信仰が薄いからだ。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば・・略」と言われました。からし種一粒ほどの信仰とは、イエス・キリストを見つめることから始まります。そこにはあふれる愛といつくしみと恵みがあります。それを下さいと求めるのです。求める者には与えられます。私達はそれを受け取るのです。 /n信仰について  信仰はみずからが生み出すものではなく、与えて下さるものを受ける事だといわれます。与えられていることに気付かなかったり拒んでいることもあります。私達が聖書を通して語りかけて下さるイエス様を見つめ、イエス様と向き合い、イエス様が指し示している神様を仰ぐ時、私達は自分を縛っていたものから自由にされて、それ迄捨てられないと思っていたものが色あせて見えてきます(フィリピ3:7‐参照)。 信仰が与えられるということは新しく生まれるということです。人生が変わるということです。遠かった神様がすぐ近くにいて、自分を守り、導き、支えてくれる、そのような人生を歩むようになることです。 /n信仰の力  「山に移れと命じてもその通りになる」(20節)とは、信仰には、私達の常識や経験が不可能と判断することも可能にする力があるということです。山を創られた神様を仰ぎ見る信仰者は、山と同じように神様の秩序に従います。創り主である神様が山を移すことをお望みになるならば、そのようになるとの信仰です。 /nからし種一粒ほどの信仰  からし種を畑にまけば成長して大きくなり、空の鳥がきて枝に巣を作るほどの木になります(マタイ13:32)。からし種一粒ほどの信仰とは、生きている信仰、命が宿っている信仰、成長していく力を内に秘めている信仰のことです。薄い信仰とは「生きていない信仰」です。神様を信じているといいながら実際の生活には何の力も与えていない信仰です。生きた信仰は、全知全能の神様を信じて祈ります。すべてのことが神様の御心によって行われることを信じます。からし種のように小さな信仰でも祈ることが出来、恵みを求めることが出来ます。恵みが与えられると、信仰はその恵みで成長していきます。私達は毎週礼拝に招かれ、恵みの座に連なり、聖書を通してイエス・キリストの言葉にふれ、生ける神様の力を知れることは本当に感謝なことです。今週も与えられている信仰を通して沢山の恵みを戴きながら成長し、求道中の方々は、信仰が必ず与えられることを信じて祈りつつ歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「イエス・キリストの変貌」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 17章1-13節 1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 11 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。 12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。 /nはじめに  本日の聖書には、イエス様の姿が変わったという大変不思議なことが記されています。場所は高い山、イエス様についていったのは12弟子の内わずか3人(ペテロ・ヤコブとその兄弟ヨハネ)です。この3人はイエス様が十字架にかかられる前に、ゲッセマネの園でイエス様のすぐ近くまでついていった弟子でもあります。おそらくイエス様はこの3人を選び、ご自分がいなくなった時に重要な役割を担うよう特別に訓練されていたのかもしれません。この日イエス様は「祈る為に山に登られ」(ルカ福音書 9:28)ました。十字架の道へ進もうとされていることが、確かに神様の御心に沿うものかどうか、そのことの確信を得る為の祈りと考えられています。 /nイエス様の変貌  山の上で、イエス様の姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、服は光のように白く(2節)なり、更に、旧約時代の偉大な人物モーセ(BC1300年頃)とエリヤ(BC9世紀)が現れてイエス様と語り合って(3節)いました。(モーセは旧約の律法を代表し、エリヤは旧約の預言者を代表する人物で、旧約聖書はイエス様を指し示しています。)三人が語り合っていた内容は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について」(ルカ9:31)です。これは、神様が人間を救うという深い偉大な御計画が、今まさに成就の時を目前にしている、ということを意味しているのでしょう。 /nペテロの反応  この世の、空間と時間の世界で生きている者が、一瞬、神様の世界・永遠の世界を垣間見るという出来事に出会った弟子の一人ペテロは、驚きと喜びから「私がここに仮小屋を三つ建てましょう」と奉仕を申し出ます。太陽の暑さや夜露からイエス様とモーセとエリヤを守り、この瞬間の栄光を少しでも長く続かせたいと願ったからでしょう。しかし霊の世界では、人間の言葉や思いは神様の言葉によってさえぎられます。ペテロの話が終らない内に光輝く雲が彼らを覆い、雲の中から神様の声が聞こえました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」。イエス様が洗礼を授けられた時も、神様の霊が注がれる中で同じ言葉が天から聞こえています(マタイ福音書3:17)。今、受難の道への歩みを始めようとされたこの時、再びイエス様は、「神様の心に適う者」と証言されたのです。 /n山の上 と 山の下  山上での、栄光に包まれたイエス様のお姿こそ、本来の神の御子の姿であり、その後の復活の姿でもあります。(「神の身分でありながら・・・僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリピ書2:6)。3人の弟子達はこの光景と、更に雲の中からの神様の御声を聞き恐怖に襲われました。ひれ伏している弟子達にイエス様は近づき、手を触れ「起きなさい。恐れることはない」と言われました。彼らが顔を上げると、イエス様以外誰もおらず霊の世界の出来事は終っておりました。イエス様が、これから山を下りられて人間の救いの為に、神様の御計画を一歩一歩果たされていくのです。その道は犯罪人の一人として人々からあざけられ、つばきされ、残酷な十字架という死刑が待っている道です。 /n復活するまで誰にも話してはならない  3人の弟子達はこの栄光のイエス様を見た証人でしたが、復活するまで語ることを禁じられました。イエス様のメシアとしての働きは、受難と十字架の死と復活をもって成し遂げられます。受難と死と復活を通らない内に、弟子達がこの栄光のイエス様を語るならば、人々は自分勝手な「メシア像」をイエス様に押しつけ、この世の権威を与えようとするでしょう。メシアに隠されている十字架の死と復活を経た神様の救いの御計画など予想も出来ずに、栄光だけのメシア像を求める群衆達は、かつてバプテスマのヨハネを好きなようにあしらって(11節)殺したように(バプテスマのヨハネは自分達の救いの為に、エリヤの働きとして神から遣わされた人)、イエス様に対しても同じようにする(12節)ことを、ここでもイエス様は予告されています。

説教要旨 「サタン、引き下がれ」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 16章21-28節 21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 /nはじめに  サタンとは悪魔の別名であることは知られており、サタンとか悪魔という言葉に対して過剰反応をする人達も多く存在します。しかし説教題につけた「サタン、引き下がれ」(私の前にではなく私の後に退け の意)はイエス様が実際に使った言葉であり、しかも言われた相手はイエス様の弟子の代表格であるペテロでした。なぜこんな激しい、厳しい言葉をイエス様は愛する弟子に使われたのでしょうか。 /n「このときから・・打ち明け始められた」(21節)  キリスト教では「時」ということを大変大事に考えます。最も良く知られている言葉が、コヘレトの言葉3章です。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失なう時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」・・。ここで言う「この時」とはペテロがイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白をした時をさしています。イエス様は弟子達に、ご自分のこれからのことを明らかにされる「時」を選ばれました。そして、この時からイエス様の新たな別の歩み・・・「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者達から多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する」(21節)道への第一歩を始められたということです。 /nペテロの反応  イエス様の「自分は必ずエルサレムに行って、多くの苦しみを受けて殺され・・」との、愛するイエス様の死の予告を聞いたペテロはすぐ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22節)といさめました。神の御子がそんな死に方をするなどあってはならない。そのような認め難いことを決して言ってはいけないと、心からそう思っての、とっさに出てきた言葉だったでしょう。 /n「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者」  ペテロの言葉の背景には、ペテロの願望がありました。神の御子なら当然それにふさわしい終り方-栄光に満ちた終り方-がある筈だという思いです。まして同じ民族の宗教的な指導者を敵に廻し、敗北の死を甘んじて受けることなど考えたくもなかったでしょう。しかしこのペテロの言葉に対して「サタン、引き下がれ」という言葉がペテロに向けて発せられました。「あなたはわたしの邪魔をする者」。(あなたは私の行く手にあってつまずかせ、私を倒そうとしている の意)。さらにあなたは「神のことを思わず,人間のことを思っている」と言われました。 /nペテロが聞き漏らした言葉  イエス様が弟子達に打ち明けられた言葉は「必ず・・することになっている」という神様の御計画を明らかにしたものでした。神様に従ってこれまでも歩まれてきたイエス様が、メシアとしてのご自分の地上での最後の歩みに向けて今、歩み始めたのです。しかしペテロはこの言葉に注目せず、イエス様の受難と死ということのみに反応しました。イエス様が伝えようとした神様の救いに向けたご計画について考える余地はまったくありませんでした。ペテロが善意でイエス様をいさめ、励まし勇気づけたとしても、それが神様の意志に反する以上、それはサタンの言葉となりサタンの働きとなります。イエス様は神様の意志に従って進むのみです。 /nペテロと同じあやまちを繰り返さないために  私達もペテロと同じあやまちに陥る誘惑が起こり得ます。目の前にいる人間の気持ちを配慮するあまり、神様の意志を問うことを忘れることがあります。人を愛することはイエス様の教えですが、神様の御意志を問う(イエス様ならどうされるか)ことを忘れた人への愛は、ペテロのように間違った言動を引き起こします。人を高めることで神様が軽んじられてはなりません。まず神様を仰ぎ、神様が今自分に求められていることは何かを考え知りたいと祈る時、神様は最善の道を示して下さるに違いありません。 /n「私について来たい者は、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」 (24節)  イエス様についていくことに伴う重荷(この世の論理・価値観などとの戦い他)は、イエス様が共に負って下さるゆえに、その荷は軽く、そこには安らぎがあります(マタイ11:28-30)。今週もイエス様に従って歩みたいと願うものです。

説教要旨 「あなたは私を何者だというのか」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 16章13-20節 13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 /nはじめに  本日の聖書の箇所は、4章途中から始まったイエス様の教えとその活動の中心的部分となる結びでもあり、クライマックスの部分ともいわれています。イエス様の働きを実際に目で見、聞いてきた弟子達が、今イエス様から「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われた場面であり、弟子の代表としてペテロが明確に信仰を告白した場面だからです。 /n大なことを打ち明ける前に  フィリポ・カイサリア地方に行った時のことでした。イエス様はここで初めてご自分がエルサレムで死ぬことを弟子達に打ち明けられますが、この重大なことを語られる前に、イエス様が語られ、又,行なってきた出来事を通して、人々がご自分をどのように見ているのかを弟子達に尋ねられました。この質問は、第二の質問を引き出すための問いです。 /n人々のこたえ  ある人々はイエス様を洗礼者ヨハネがよみがえったのだと考えました。ヘロデ王が神の道に背いて洗礼者ヨハネを殺したので、神様がヨハネをよみがえらせて人々に説教を続けさせている、と考えました。彼らはイエス様の説教の中に、ヨハネが語った罪への裁きと悔い改めによる赦しを聞いたからでありましょう。又、エリヤだと考えた人(マラキ書3:23参照)、エレミヤだと考えた人(エリヤと同様、終末に現れるとの伝説)、預言者の一人と考えた人達がいた一方で、待望のメシヤであると考える群衆はいませんでした。それは当時の人々は、メシヤとは、自分達をローマの圧制から救い出してくれる偉大な王(かつてのダビデ王のように)としてこの世の権力を握る人を想像していたようです。イエス様の奇蹟の力を見ても、そのへりくだる身の低さは自分達の運命を変えてくれるようなメシア像とかけ離れていたことでしょう。 /nそれでは、あなたがたは?  人々の評価・評判についての質問の後、イエス様が弟子達にされた質問は「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか?」でした。弟子を代表してペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えました。この告白は、教えられたことを口にしたのではなく、全く自由な自発的な返事としてなされた信仰告白でした。 /n生ける神の子  「生きておられる神」の御子とは、「あなたは命の根源であり、創造者であられる神様の御子であられる」「あなたは神様のすべての約束を満たすお方、神様のすべての意志を実行するお方、すべての悪に対して勝利されるお方、永遠の命をもたらすお方、あなたこそ、そのお方です」という告白です。 /n信仰を告白せしめる主体   「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」(17節)。 ペテロが、イエス様をそのようなお方だと見ることが出来たのは人間の力によるものではない、とイエス様は言われました。 イエス様をそのようなお方だと認識させたのは神様の働き、神様のわざであるというのです。   イエス様のこの言葉を聞く時、信仰とはみずから生み出すものではなく、まさに神様から与えられたことを素直に受け、告白することだという思いを強くします。 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ書10:17) /n新しい名前  ペテロが信仰告白をした時、イエス様は新しい名前、シモン・バルヨナ(ヨナの子シモン)から、シモン・ペトロ(私達はペテロと 呼んでいます)を与えました。イエス様は、このペテロ(岩の意味)の信仰告白の上にわたしの教会を建てると言われました。(18節)。教会はイエスをメシア、生ける神の子であるとの信仰告白の上に建てられています。教会とは建物を指すのではなく、この信仰告白のもとに集められた群(信仰告白共同体)です。仙台南伝道所はまだ会堂はありませんが「イエス様を神の子・メシアと告白する信仰者の群-教会」です。 /n天の国の鍵  イエス様はこのあと、ペテロに天の国の鍵を授けるといわれました。鍵とは扉を開けたり閉めたりするものです。ペテロが宣教の使命を託されて御言葉を語る時、それを受け入れた者には扉を開き、拒む者には、神様の恵みの中に入る扉を閉める決定権を委ねられたということです。裁判官が有罪か無罪かを決定するようにペテロは神様からの力を与えられて、彼の裁きも赦しもそのまま天において遂行されるという約束です。事実、ペンテコステの日に「ペテロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わ」りました(使徒言行録2:41)。このペテロに授けられた天の国の鍵は,その後今日まで教会のわざとして引き継がれています。すべてのキリスト教会において、イエス・キリストの言葉が語られ、それを聞く人々には「あなたはイエス様を神の子、救い主として受け入れますか」との(恵みの)問いが用意されています。そして「イエス様は生ける神の子です。天におられる神様が私達を罪から救う為に遣わされてきた神の御子です」と告白する時、教会は扉を開けて、罪の赦しを宣言し、バプテスマ式を執行いたします。 /nメシアであることを誰にも話すな  イエス様は、たった今告白されたこのメシアの事実を誰にも言ってはいけないと言われました。それは、この時を境として以後、十字架に向かっての歩みを始めることになるからです。イエス様のメシアとしての歩みはこの時点では完成されていません。今は、他の人々にイエス様がメシアであることを明らかにする時ではないのです。これから弟子達は十字架への厳しい道のりをイエス様と共に歩いていくのです。弟子達はイエス様の中に、今告白した「神の子」を見,続ける限りにおいて、 イエス様のもとにとどまり続けることが出来るのです。私達も、いついかなる時も(試練の中でも)、この告白のもとに歩みたいと願います。

説教要旨 「レプトン銅貨二枚」東北学院大学 佐々木哲夫先生

/n[イザヤ書] 55章1-2節 1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。 2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 /n[ルカによる福音書] 21章1-4節 1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。 2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、 3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」 /nはじめに  十字架を目前にした最後の一週間の間に、イエス・キリストは少なからず激しい議論を行なっています。例えば税金の問題に関しては「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(ルカ20: 25)、又復活に関しての議論では「神は死んだ者の神ではなくて生きている者の神である」(同38)と語っています。そして聞く人々に、はっきりと示す為にたとえを用いました(ぶどう園の農夫のたとえ話など・・同9‐)。又、言葉だけでなくて「宮清め」の場面では両替商の台を倒したり(ルカ19:45 -)、他の場面では、道すがらいちじくの木を枯らすということを通して弟子達に教える(マルコ11:12-)などしていましたが、イエスはひとときエルサレムの神殿にたたずみ、宮もうでをする人々を眺めておりました。 /n神殿の庭で  神殿の「婦人の庭」では献げものをする人達、祈りをもってささげる人達で混雑していました。その庭には13箇所の入り口があり、そこから自由に入ることが出来、又そこには13個のラッパの形をしたさい銭箱が備えられていました。当時のお金はおおかた銅貨などの硬貨が一般的であり、さい銭箱に投げ入れると銅貨がラッパの筒に当って大きな金属音が響いていました。おそらく多く献げる人のさい銭箱からは大きな音が響き、大きな音には多くの人々が注目した、そんな様子をイエス・キリストはひととき眺めていたのです。 /n貧しいやもめ  そこに一人のやもめがやって来ます。彼女の身なりから判断するのに、かなり貧しい状態にあるということは明らかでした。さい銭箱から響いてくる献げ物の音も他の人達とは違っておりました。かすかな音しか聞こえてきませんでした。レプトン銅貨二枚だったからです。その様子を見ていたイエス・キリストは弟子達を呼び寄せて、「この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた。あの金持ち達は皆,あり余る中から献金したが、この人は貧しい中から生活費を全部入れた。」と語ったのです。 /nこの話の意味は?   たとえば、「あり余る中から献げたささげ物は量的には多いけれど、心を込めてささげる貧しい者のささげ物は、たとえ小額であっても価値的にはむしろ多く献げたと評価出来る。献げる者の心のあり方が対比されている。そのことを教えている」と、理解することも出来るでしょう。片や、当時はお金持ちは信仰深い結果として神の祝福が与えられており、反対に貧しい者は信仰の報いを受けているのだ、と考えられていました。しかし「そうではない。『先の者が後になる。』 とか 『幼子の素直さが、賢者の賢さよりも評価される』というイエス・キリスト一流の価値の逆転をここでも教えているのだ」と考えることも出来るでしょう。 ここでは、聖書の言葉にとどまりながら、レプトン銅貨2枚の物語を考えてみたいと思います。 /nレプトン銅貨2枚  レプトン銅貨は非常に小さい金額の銅貨で、大人の1日分の日当の128分の一に相当すると計算されています。当時レプトン銅貨2枚で買えるのは小麦粉一つかみだったと考えられています。それはその人がその日、1日の命をつなげることが出来る最低量の食物と考えられていました。ユダヤ教の指導者の教えに、この話に類似する教えがあります。・・ある貧しい女性が一握りの小麦粉を献げにやってまいります。 ユダヤ教の祭司はそれを見て、こんな少ないささげ物とは何ていうことだ。こんな少ない量で何が出来るというのか、とこの女性をさげすみます。しかしこの時、神の言葉が響いてきて「この女性をさげすんではならない。彼女は自分の命をささげたのだ。」という言葉が響いてきます。そしてその言葉でユダヤ教の指導者は夢から覚めたという話 です・・。  この話で注目すべき点は、一握りの小麦の量(イエス・キリストの話でいえばレプトン銅貨二枚に相当する量)をささげており、この女性は自分の命をささげたと評価されています。むしろ問題はそれをさげすんだユダヤ教指導者の話です。 /nその日の律法学者との議論  おそらくイエス・キリストはレプトン銅貨二枚を献げる貧しいやもめの姿を神殿で見た時に、その日の激しい議論を再び思い起こしたことでしょう。・・「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(ルカ20:46‐47)。そんな非難をした後でありました。まさに婦人の庭で起きた出来事は、イエス・キリストにとって、自分の教えを具体的に弟子達に示す適切な出来事であったと理解され、すぐに弟子達を集め教えたのです。「あの貧しいやもめは誰よりも多く入れたのだ」。 /nイエス・キリストが見ていたもの  イエス・キリストのその時に意図していたのは、当時の律法学者や祭司達が語ることと、ご自分の語る福音との鋭い対比であったでしょう。イエス・キリストの語りたかったことは、豊かに神の国を実現する福音でした。十字架を目前にしたこの時に、イエス・キリストはレプトン銅貨2枚をささげる女性の話を弟子達に語ったのです。 どれだけささげるか、どのようなことをするか、外側の出来事を私達は見るものです。その日、婦人の庭での光景は、さい銭箱から響き上がる大きな音がその場を支配していたことでしょう。しかしその光景を見つつもイエス・キリストは異なるものを見ていました。真の価値を見ていました。換言するならば「何を大事にすべきか。」「何に重きを置くべきか。」それは人生観とでもいうべきもの・・を彼は見ていました。 /n旧約聖書の伝統を受け継ぐ価値観  私はこのイエス・キリストが神殿で見て語ったことというのは、イエス・キリストにおいて突然出て来たものではなく、それ迄に伝えられてきた価値観、長い旧約聖書の伝統を受け継ぐ価値観をイエス・キリストは明確にした、ということでもあると思います。 /n本日の旧約聖書、イザヤ書55章1節-2節 >> 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば 良いものを食べることが出来る。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」 <<   この箇所は実に印象深い箇所であります。「来て買え。求めて得よ。」 「買え」という表現がもともと使われていました。お金を払わず買え。価を払うことなく買って自分の手元におけ。食べよ。「金もないのに買え」というその意味は、「私に聞き従えば、良い物を食べることが出来、あなた達の魂はその豊かさで楽しむであろう。」 /n私達が受け継いでいる価値観  そのような価値観を伝統として旧約聖書は伝えており、今、イエス・キリストによって弟子達に伝えられ、そして又、(目前にしている)十字架の出来事によって明示され、確実なものとされ、今日の私達に伝えられている価値観でもあり、生き方でもあるのだ、ということを、 レプトン銅貨2枚を献げた女性の姿から今日学び取りたいと願うものです。(まとめなど 文責 佐藤義子)

説教要旨 「盲目の指導者」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 16章1-12節 1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。 2 イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、 3 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。 4 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。 5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。 6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。 7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。 8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。 9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。 10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。 11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」 12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。 /nはじめに  マタイ福音書の15章14節にはこのようなイエス様の言葉があります。「彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」 本日の聖書には、イエス様に天からのしるしを迫った当時の宗教的指導者ファリサイ派とサドカイ派の人達が登場します。イエス様は彼らのパン種(教え)に注意するよう警告しました。誰を道案内人に選ぶかは、現代に生きる私達にも大変重要な問題です。 /nファリサイ派とサドカイ派  この二つの党派はユダヤ教内で対立していた大きな勢力でした。しかしイエス様に対しては、一緒になって「天からのしるし」を求めました。イエス様がこの世の権威にのっとっていない指導者であり、当時の宗教指導者の教えから全く自由に行動されていたことにいらだちを覚えながらも無視出来ず、彼らはイエス様が本当に神のもとから来た人間であるのか、自分達の納得する方法でその証拠(しるし)を要求し、見極めようとしたのです。 /n「しるし」(証拠)を求めること  「しるし」を信じるとは、「しるし」という目に見えるものを通して信じることで、直接イエス・キリストを信じることではありません。しるしを見て信じるなら信仰を必要としません。彼らは夕焼けや朝焼けで天候を見分けることを知っていながら、イエス様を時代のしるし(イエス様こそ預言されていたメシアである)として見ることが出来ませんでした。しるしを要求する彼らに対して、イエス様はヨナのしるし以外は与えられないと宣言されました。(ヨナが三日三晩大魚のお腹の中にいて再び陸に戻された出来事を、 イエス様の十字架と復活の出来事に重ね合わせて見る)。信じることを回避し、しるしを求める人々は,そこから前には一歩も進めず取り残されるという状況を、4節の言葉 (イエスは彼らを後に残して立ち去られた。)が暗示しているようです。 /n「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」  向こう岸に行かれたイエス様は、弟子達にファリサイ派とサドカイ派のパン種(教え)に注意するよう警告されました。パン種の発酵力は強く、この強さが良い意味で用いられると、神の国の発展する力や、社会を改善する力に譬えられますが、ここでは間違った彼らの教えの強い影響力をさしています。   /n注意すべきパン種  イエス様が注意を促したのは、彼らの偽善です。ファリサイ派の人達は、外側を清く保つことを第一にしました。それは旧約聖書の教えからきています。「あなた方は自分自身を聖別して、聖なる者となれ。私が聖なる者だからである。」(レビ記11:45)。彼らは清くないものからの分離を大切にして、外面的・形式的・儀式的に整えることを最優先にしました。内面的な部分は後回しになり 隠れている部分を大切に考えませんでした。そのような生き方は当然、偽善を生みます。又、サドカイ派の人達は目に見える神殿、目に見える祭司職に権威をもたせ、それらの権威の力によりかかっていました。貴族階級の特権意識を持ち、世俗的で、物質的で、迎合的でした。両者に欠けていたものは、へりくだって真理に耳を傾ける姿勢、求道の精神でした。自分達は既に真理の教師であるとの自負心・自信が、彼らの聞く耳、見る目を失わせていました。 /n私達の警戒すべきパン種  私達も外側にこだわり中身をおざなりにする偽善を警戒しなければなりません。それと同時に、幼い時から見聞きしてきた仏教・神道・伝統・言い伝え・迷信・おまじないのたぐいの中にひそむパン種に注意しなjければなりません。たとえば、仏教の中に、死者を守り神とする信仰があります。私の知っている90代のクリスチャンのご婦人は、神様と亡くなった息子さんが自分を守ってくれていると信じておられます。もう一人の80代のご婦人は、息子さんの位牌と聖書の言葉を書いた紙を並べて飾っています。又、最近出席したあるキリスト教会の葬儀で読まれた教会員の弔辞の中に「千の風にのって」が引用されました。アメリカ人の歌詞の作者は、「私の墓の前で泣くな。私はそこにはいない」とは、復活の主を告げる言葉として書いたそうですが、訳した日本人は、聖霊を死者の霊に置き換えてしまったようです。にもかかわらず、キリスト者がそれを受け入れてしまっている現実があります。神様の位置に死んだ人間を置いてしまうのは、偶像崇拝にほかなりません。日本人キリスト者の中には信仰は信仰として、方角や、仏滅などの日を相変わらず気にしたり、迷信(・・をするとたたりがある)とかおまじない(・・すれば・・なる)、あるいは運勢などからきっぱり自由になれない方達もおられます。それこそイエス様が弟子達に注意を促したパン種の発酵力の強さでありましょう。私達が本当に畏れなければならない方は、天地万物を創られ,私達に命を与え、生かしてくださっている父なる神様であり、御子イエス・キリストです。イエス・キリストを神の子と信じる信仰こそすべてに打ち勝つものです。今週もイエス様から目を離さず、しっかり歩みたいと思います。 「日々、聖霊に満たされて」(A・W・トウザー著)より /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">悪を憎み、善を愛せよ また、町の門で正義を貫け。」</span>アモス書5:15 /n私たちは不正を憎まないで、正直を愛することはできない。不純物を憎まないで、純潔を愛することはできない。うそをつくことと、欺瞞を憎まないで、真理を愛することはできない。 /nもし私たちがイエス・キリストに所属するならば、主と同じように、あらゆる形態の悪を憎まなければなら ない。 /n私たち人間は、イエス・キリストのように神に敵対する者を憎み、神で満ちているものを愛することが不完全なので、完全な形で聖霊を受けることが出来ない。 /n 正しいことを愛するために注ぎ出された偉大な愛と、悪に対する純粋で聖なる憎悪という面で、イエス・キリストに従う気がなければ、神は私たちに聖霊を注がれない。

説教要旨 「奇跡は賛美に」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 15章29-31 29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。 30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。 31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。 /nはじめに  私達には生まれながら、見ることが出来る「目」聞くことが出来る「耳」かぐことが出来る「鼻」味わうことが出来る「舌」触れることが出来る「皮膚」―五官が与えられ、又、運動機能が与えられています。しかしその一方でこれらの機能が生まれた時から奪われている方々がいます。以前テレビで、医師から「あなたのお子さんには眼球がありません。」と告げられた母親の話を聞きました。私の知人のお嬢さんは、生まれた時から一切食べ物を飲み込むことが出来ず、栄養はすべて点滴でとります。その他、人生の途中から事故や病によって障がいを得る人達も多くいます。障がいと共に生きていく心の葛藤、社会からの差別、そして障がいによる現実の生活の困難さは生まれながらでも途中からでも同じです。 /n生まれつきの盲人  ヨハネ福音書9章には生まれながらの盲人がいやされた話が記されています。イエス様の弟子達が彼を見て質問しました。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。イエス様は次のように答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。イエス様の答えは、原因はその人にはなく神様の側にあるというものでした。神様が、その人を通して御業を現すためである、というのです。イエス様は、神様がこれからこの盲人に何を行ない何をなさろうとしているのかを神様に問い、それに従われました。すなわちイエス様は、盲人の目にこねた土をぬって、シロアムの池で洗うようにと言われました。その言葉に従った彼の上に、神様のわざが現れたのです。 /n山に登り、座られた。  今日の聖書は、イエス様がカナンの女に出会った旅からガリラヤに戻られ、山に登られた時のことが記されています。山上の説教でもそうでしたが、イエス様は人々に教えられる時、腰を下ろして語られました。 大勢の群衆がやって来ましたが、彼らは、自分の力で来ることの出来ない人達(足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人,その他多くの病人)を連れて来た人達でした。日頃から障がいを負っている人達や、病気の人達と深くかかわっていた人達であり、イエス様の所に連れていきたいとの愛と熱意があり、イエス様に見ていただけば何とかしてくれるに違いないとの望みと期待を持ってイエス様のもとへとやってきた人々であったのでしょう。 /n「イエスはこれらの人々をいやされた」(30節)  イエス様の足下に横たえられた人々の上に大きなことが起こりました。「口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになった」(31節)のです。彼らを連れてきて、このイエス様のいやしの奇蹟を見た人々は 「見て驚き、イスラエルの神を賛美した」(同上)と聖書は伝えています。 /nイスラエルの神  ここで「神」といわずに「イスラエルの神」となっているのは、彼らがイスラエルの民以外の民(異邦人)であったからではないかと考えられています。カナンの女が助けを求めた時イエス様は「私はイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」と、異邦人の救いはまだ来ていないことを言われましたが、ここでは、連れて来られた人すべてがいやされています。その結果異邦人が、奇蹟の背後に働かれている「イスラエルの神」すなわちイエス・キリストの父なる神様を賛美したのでした。 /n奇蹟の究極の目的  イエス様のなさる奇蹟は神様の業があらわれた結果であり、奇蹟の目的は、神様が賛美されること、神様に栄光が帰せられることです。神様を信じ従う者には、今もいろいろな形で神様のわざが起こっています。私達はその証人です。奇蹟を見た私達のすべきことは、神様を高らかに賛美し、神様の栄光をたたえることです。私達が創られた目的も実はここにあるということを心に覚えながら、この一週間の歩みが神様に感謝と賛美をささげる一週間でありたいと願うものです。

説教要旨 「裁くのは主です」 西谷幸介先生

この日は仙台南伝道所開設三周年感謝礼拝でした。 /n[コリントの信徒への手紙一] 4章3-5節 3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。 4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。 5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。 /nはじめに  40年位前の話ですが、野村監督が南海ホークスの捕手をやっていた時の日本シリーズ(対巨人戦)の巨人が三連敗した後の試合の時です。この試合でも南海が勝っており九回のツーアウトまでいき、この打者であと一球ストライクをとれば終り!という時でした。外国人投手が見事なアウトコース低めいっぱいの球を投げ込んだのです。テレビ観戦の私もストライクと感じれる球でした。球を受け取った野村捕手は立ち上がり、もうこれで試合終了という雰囲気でした。ところが審判が「ボール!」と言ったのです。投手も野村捕手も審判に激しく抗議しましたがボール判定は覆らず試合は続行となりました。その後、投手はストライクが入らなくなり打者は痛烈なヒットを打って、そこから巨人は息を吹き返し、その試合に巨人は勝ちました。後で野村監督は何かに書いていました。「あの時僕が悪かった。ストライクだ!試合終了だ!と思って腰を浮かせてしまった。もっとじっくり腰を据えてボールを受けとっていたら、審判もストライクだと判定出来ただろう」と。 /n裁くのは審判なのです。  捕手がストライク・ボールの判定をするわけではありません。そのようにルールで決められていて、審判の言うことを聞かないと試合は成り立ちません。ですから早まって裁いてはならない。「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」(5節)。私達は自分中心に生活をしており、自分の尺度で人を裁いております。「あの人は良い人だ。この人はダメだ。昨日は良かったけれど、今日は全然ダメじゃないか。」と裁くのは得意です。しかし、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7:2)。裁いてはいけませんというのが神様の教えです。 /nローマの信徒への手紙12章17節-21節  コリント書を書いた同じパウロがロマ書で以下のように書いています。 >>  「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」 <<    復讐(裁き)は私のすること、あなた方がすることではない。神様は、私に任せなさいと言われています。これを書いたパウロは迫害の途中イエス・キリストの霊に出会いイエス・キリストの声を聞いて、回心してキリスト教徒になった人です。パウロはイエス・キリストに直接会っていないにもかかわらずその教えをしっかりと受け継いだ人です。イエス・キリストは山上の説教で「迫害する者の為に祈りなさい。敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と教えられましたが、パウロも「せめてあなた方は、手を上げずに他の人々と平和に暮らすことを心がけなさい。」もっというならば、「敵が飢えていたら食べさせなさい、渇いていたら飲ませなさい、迫害する者の為に祈り、敵を愛せよ」とのイエス・キリストの言葉が、ここに言葉を変えて出てきています。 /n「復讐するは我にあり」  佐木隆三さんという人が同名の犯罪人の小説を書いていて、必ずそこには正当な裁きがあるし、なければいけないというのですが、又、新しく書いていて、この聖書の言葉の意味を作品の中でしっかり受けとめています。私達はそれ以上に受けとめなければなりません。「復讐は私のすること」とは旧約聖書、申命記の言葉です(32:35)。 /n旧約聖書と新約聖書  旧約のイスラエルの民は「神の裁き」をどのように受けとめていたか。大きくいうならば、イスラエルの民は「神様は私達の味方で、私達に意地悪する敵に対して裁きをしてくださる神」と信じていました。しかし新約では「裁いてはならない。あなた方が神を味方につけて何か自分の都合のために神様が手伝って下さり、他の人達を裁いて下さると考えるのは、とても大きな勘違い」なのです。人を裁くその量りであなた方も裁き返される。これが実は神様の裁きです。神様の正義は普遍で、私が信者だから、信じているから、神様は特別あなたに味方して下さるわけではない。正義は貫かれなければいけない。神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる神」(マタイ5:45)なのです。 /n裁きがなくなるわけではない。  神様が裁いて下さる。だからあなた方がなすべきことは人を裁くのではなくて、せめて、人に手をあげず裁かず仲良く暮らしなさい。それ以上に出来るならば、敵を愛しなさい。あなた方が生きている時にすることはそういうことだ。それに徹しなさい。裁きがなくなるのではなくて裁きは神様がします。だからお任せしなさい。ということです。 /n私達は裁かない。なぜなら・・  あなたが量るその量りであなたも裁き返されるということを本当にしっかり心に留めなさい。心に留めるならば、人を裁けない筈です。私達は人を容易に裁きながら「あなたにそういわれたくない」と人から裁かれたくないのです。自分に甘く自分中心です。しかし「神様が裁かれる」ということだけはあるわけです。「最後の審判」が私達の信仰にはっきりとあるわけです。本日の交読文「我が思いは汝らの思いと異なり、わが道は汝らの道とことなれり。天の地より高きが如く、わが道は汝らの道よりも高く、わが思いは汝らの思いよりも高し」(イザヤ書55章)と、あったように私達の正義の水準よりはるかに高い神様の裁き(しかしそれは正義)をもって、最後にすべてを裁いて下さる。結末をつけて下さるのです。 /n私達の信仰告白  私達は使徒信条の中で、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と最後の審判に対する信仰を告白しています。これがキリスト教の信仰です。決して正義をないがしろにするわけではありません。その正義の水準を神様の水準で裁かれるべきと考え、神様にお任せするのです。  アメリカにメノナイト派という大きなキリスト者の群れがあり、その中にアーミッシュといわれる特別な人達がいます。文明から自分達を断ち切る仕方で本当に純朴な仕方で自給自足の生活をしています。彼らの信仰は「敵を愛する」「人を裁かない」。これは徹底しています。去年、アーミッシュの小学校に、普通のアメリカ人が入ってきて銃を乱射しました。彼らは思いをすべて心にしまいこんで、犯罪を犯した人の為にも「神様が導いて下さるように」と言っていました。徹底しています。そういう仕方でキリスト教徒というのは2000年間の間に訓練を受けてきた、その一つの見本がアーミッシュの人達です。 /nある老婦人の証し  以前、東北学院大学で教えておられたS先生が特別伝道にいらして、一人の老婦人の話をされました。赴任後まもないある土曜日に面談の約束をして会った老婦人は、なぜ自分がキリスト教徒になったかを一枚の古い写真(それは16才の娘の公園で撮った写真)を示して話されました。 娘さんはこの写真の直後に亡くなったそうです。亡くなった原因はわかりませんが、この婦人はその後、娘の死は自分のせいではなかったのかという思いにさいなまれるようになりました。その思いから抜け出ようと、ダンス、運転免許、音楽、観劇など、色々なことをやりましたが、自分の心を落ち着けてくれるものは一つもありませんでした。その時キリスト教にふれて教会に行き、イエス・キリストの罪の赦しの説教を聞いたのです。娘の死の原因は自分のせいではないか、との思いも神様が受け止めてくださり、娘と母親との間にきちんと神様が裁きをつけてくださった。その方は、キリスト教の福音を聞いて心が落ちついたのです。神様にお任せして出来ることです。 /n神様に任せる  神様にお任せすれば、私に代わってイエス・キリストが十字架の上で結末をつけて下さり、私はこのままで生きていける。教会でその思いをささげながら、罪の赦しを受けながら生きていくしかない。しかしそれが、自分にとって「恵み」だということです。 /n年配のおじいちゃんの話  「私は昔、特攻隊だった」と毎週のように話される方が教会にいます。死ぬ覚悟で出かけて行き、途中で不時着やトラブルで引き返したりした、その内の一人でした。死んだ仲間のことが重くのしかかって忘れられない中で、その方はキリスト教信仰で乗り越えられたのだと思います。 /n私も・・  福音を聞き、十字架が罪の裁きと罪の赦しであると知って素晴らしいと思いました。私自身も罪人である自覚を持ちました。それをイエス・キリストが背負い、私の代わりに罰を受けて下さり私がこのまま生きていけるようにして下さっていることを知りました。これが私の信仰の、一つの原点です。これは日本人にとって恵みだと思います。 /n教誨師の話  牧師で教誨師(受刑者にそれぞれの宗教の立場で教える牧師やお坊さん)をやっている方が書いておられました。刑務所では講義形式で行う集合教誨、10数名程度の定員にしぼって行う座談会教誨、個別にカウンセリングを行う個人教誨があり、どれも受刑者個人の希望で選ぶそうです。中でも、牧師への希望が多いそうです。多分キリストの十字架の出来事が、犯罪を犯した人にとって強く印象づけられるのだと思う、と書いておられました。私が言葉を補うなら、自分の犯した罪に対する罰、そしてその赦しを、キリスト教はしっかりと十字架の出来事を通して教えているからだと思います。私達は人に恨み・つらみをもって、いつも裁いている。だけども人によっても裁き返される。しかしそこにはきちんと正義の原則で決着がつけられなければいけない。受刑者は、ほとんどの人が罪を悔いることになる。その時に自分が犯した罪にきちんと決着がつけられる十字架が印象深く受け止められるのではないかと思います。 /nキリスト教の救い  日本人は裁きをうやむやにしたい。まあまあでやっていきたい。しかしそこにきちんと「裁き」があり、受けなければならない「罰」があり、それをきちんと受ける。そこに「赦し」がある。これが、キリスト教の救いです。 /n十字架は、罪の裁き・罰・赦し   「非業の死」という言葉があります。非業の死とは仏教用語で、前世の報いによらないように思われる死のことです。仏教は「輪廻転生・信賞必罰」 と教えます。ところがそれでは説明がつかないことがあります。特に、なぜ死んだか説明できない人達には私達の心が痛みます。そういう人生の不可思議な、わからないことすべて含めて、神様は知っておられて裁きをなさる。これが十字架で罪が裁かれることです。但しそれは、イエス様が全部背負って下さり私達は赦されてもう一度生きていくことが出来る。本当にこれはお恵みで、肝に命じることであり、私達がイエス様に対して行うべきことは感謝だけです。そしてイエス様の教えに従って、他の人達に対してはせめて平和に生きていきなさい。もっとやれることがあったら、積極的にその人達に親切をほどこしなさい、愛を与えなさい。私達がやることはそれだけです。 /n戦没者慰霊(この部分の文責は佐藤義子牧師)  「非業の死」を遂げた人達の霊を弔わなければいけない。戦争のリーダー的責任を負った人達にとっては戦没者の慰霊は大きな問題です。裁く神、しかも赦して下さる神様がいない為に、何とか弔い上げをしたいという思いが、靖国・千鳥が淵の問題に表れてきています。政治の問題でもありますが、この視点でも見なければなりません。イエス・キリストが示して下さったような、裁きと恵みの神様がいないからです。私達はイエス・キリストを通して神様に出会わされたということを恵みとして知るべきです。日々、私達が行うべきは、せめて人に対して手を上げず平和に暮らすか、それ以上に出来るのであれば、どんな人に対しても愛をもって親切の限りを尽くしましょう。裁きの言葉や裁かれることについて一切心配しないで良いのです。最後に神様が決着をつけて下さいます。 *p17*おわりに(この部分の文責は佐藤義子牧師)  神様のさばきとゆるしは、イエス・キリストの十字架に示されています。神様はこういうふうにして私達を裁いてくださった、と私達は信じて、教えられた通りに日々の生活に励んでいくしかありません。これは本当に恵みです。その恵みの中に、40年前に娘を失われた80代のおばあちゃんが入れられてスーっと教会に通っていられるわけです。 /nいのり  天の父なる神様、あなたが御子イエス・キリストの十字架の罪の贖いを通して、私達に自由を与えてくださり、本当にありがたい赦しを与えて下さいました。このことに感謝しつつ日々の生活に励んでいくことができますように。そのことを知らずに私達の人間同志のさばき合いの中で、依然として暮らしていく人達がおられますけれども、キリストの福音がその人達にも与えられますように。この教会を通して、その恵みの福音が知らされますように私達を導いてください。感謝して尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

説教要旨 「あなたの信仰は立派だ」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 15章21-28節 21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がユダヤの国境外のティルスとシドン(地中海東のフェニキア)地方に行かれた時のことです。イエス様がそのような地方に出かけられるのはめずらしいことで、おそらく群衆から離れ、静寂を求めて、或いは弟子達を教える為に・・と推測されています。この地にはカナン人(昔ユダヤ人から追われたパレスチナ住民)が住んでおり、彼らはユダヤ人を歓迎せず、ユダヤ人も彼らを神を知らない汚れた異教徒として、そのままでは救いから排除されている民として軽蔑していました。 /nカナンの女  イエス様の名前は、この地方にまで既に伝わっていたようです。一人のカナン人の女が出てきてイエス様に向って「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけました。病気の娘を助けて欲しいとの叫びでした。ユダヤ人の間では「ダビデの子」=「メシア・救い主」を意味しました。しかしこの外国の地で、女からそのように呼びかけられることは異例のことでした。「しかし、イエスは何もお答えに」なりませんでした(23節)。女はイエス様が振り向いてくれることを切に期待し、叫びながら後をついていきました。 /n弟子の困惑  弟子達は後をついてくるカナンの女を追い払うようにイエス様にお願いしました。(別の訳では「去らせて下さい」・・早く解決して欲しい)。 /n「私は、イスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない。」  これが弟子達への、イエス様の答えでした。  イスラエルの失われた羊とはイスラエル全体をさしています。民全体が確固たるものを失って、神の導きを求めて頼りげなくさまよう状況をあらわしています。「私は・・しか遣わされていない」とは、遣わしたお方(父なる神様)がおられ、イエス様は派遣されたその目的を逸脱することは出来ない、ということです。(異邦人伝道は復活後、大宣教命令が出された後。マタイ28:19)。 /nイエス様の拒絶  カナンの女は近寄って来てイエス様の前にひれ伏し「主よ、どうかお助け下さい」と、自分ではなく娘の為に(娘の苦しみは自分の苦しみ)訴えました。しかしイエス様は、母親の願いがどんなに切実でも必死でも、それによってご自分の使命を変更しようとはされませんでした。「子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」(26節)。(子供=イスラエル、子犬=異邦人、パン=神様からの救いの祝福)。 /n「主よ、ごもっともです。しかし、子犬もパン屑はいただくのです。」  母親はあきらめませんでした。イエス様のおっしゃることは正しい。ユダヤ人から見れば自分達は汚れている民族である。パンをもらう資格はない。でもパンを食べる時にはパンくずが出る。子犬はそのおこぼれのパンくずを食べられる。だから私にもパンくずを下さい!と、イエス様が用意されている神様からの救いの祝福は、ユダヤ人の分をすべて使い果たしてもなお余りあるものであり、イエス様の溢れ出る豊かな力に自分もあずかれるのではないでしょうかという信仰です。 /n「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」  イエス様がこう女に言われたその時、娘の病気はいやされました。この母親は、「神様の御計画による順序」を受け入れました。「異邦人は選びから外れている」ことを受け入れ、イエス様は正しいお方であることを前提にしながら、なお、イエス様から離れまいと一生懸命でした。   /n詩編・叫びの祈り  旧約聖書の詩編にも、叫びの祈りがあります >> 22:20 「主よ、あなただけは私を遠く離れないで下さい。私の力の神よ、今すぐに私を助けて下さい」 << >> 30:11 「主よ、耳を傾け、憐れんで下さい。主よ、私の助けとなって下さい」 << >> 31:17 「あなたのしもべに御顔の光を注ぎ、慈しみ深く私をお救いください。」 << >> 69:2 「神よ、私を救ってください。大水がのどもとに達しました。私は深い沼にはまり込み、あしがかりもありません。大水の深い底にまで沈み、奔流が私を押し流します叫び続けて疲れ、のどは涸れ、私は神を待ち望むあまり目は衰えてしまいました。 << >> 79:9 「私達は弱り果てました。私達の救いの神よ、私達を助けてあなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、私達を救い出し、私達の罪をおゆるしください。」 << >> 119:86 「あなたの戒めはすべて確かです。人々は偽りをもってわたしを迫害します。わたしを助けてください。」 << >> 119:94 「私はあなたのもの。どうかお救いください。あなたの命令をわたしは尋ね求めます。」 <<    私達は幸いなことに祈ることが出来ます。そして祈りは神様が良しとされる時に聞かれます。ヨハネ福音書にはイエス様がぶどうの木のたとえを語られた箇所がありますが、その中で「あなたがたが私につながっており、わたしの言葉があなたがたの内にあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる、との約束があります(15:7)。さらにヨハネ手紙1の5章にはこのようにあります。「何事でも神の御心に適うことを私達が願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対する私達の確信です。私達は願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことはすでにかなえられていることも分かります」(14節)。 /n恵みが取り去られた時も・・  神様が祈りを聞いて下さらないことがあります。祈っても祈ってもこちらを向いて下さらない。そのような時に、私達はあきらめずにこの母親に答えて下さったイエス様に信頼し続けたいと思います。  私達は、神様の恵みを頂いていることがいつしか空気のように当然のように考えて、困難に陥ると神様はなぜそっぽをむかれるのかと問いたくなる時があります。しかし私達は本来恵みを受ける資格がない者です。受ける資格のない者が、神様の憐れみによっていただいているのが恵みです。恵みが取り去られた時、それが神様のなさることである以上、神様のなさることはすべて正しい、としてまず受け入れることを母親から学びます。その後で、「主よ、助けてください」と叫び、祈るのです。    今週一週間も、カナンの女の祈りに答えて下さったイエス・キリストの父なる神様と共に歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「何が人を汚すか」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 15章1-20節 1 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。 2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」 3 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。 4 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。 5 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、 6 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。 7 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。 8 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 9 人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」 10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 11  口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」 12 そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。 13 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。 14 そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」 15 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。 16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。 17 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。 18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。 19 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。 20 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」 /nはじめに    本日の聖書箇所のすぐ前に、イエス様が湖を渡ってゲネサレトという地方に行ったこと、その地では人々がイエス様を歓迎して病人を連れてきてイエス様にいやしていただいた出来事が記されています。病気の苦しみは苦しく、いやして欲しいという願いは切実です。彼らはイエス様に直接でなくても、その服のすそでも良いから触れさせて欲しい、そうすればいやされる、との信仰があったことを聖書は伝えています。 /nイエス様に近づく目的は・・  イエス様を、約180キロも離れたエルサレムの都から追いかけてきたグループがありました。それが本日聖書に登場するファリサイ派の人々と律法学者の人達です。彼らはゲネサレト地方の人々と対照的でした。イエス様に近づく目的は、論争をいどむ為であり、自分達の面子を守るためでした。彼らは、すでに、安息日に関する論争でイエス様に敗れ、その後もイエス様や弟子たちの言動に注目を続け、非難すべきことを見つけると、こうしてわざわざ遠くからやってくるのです。 この日、彼らが問題にしたのは、浄と不浄に関するもので、食事の前に手を洗っていないということでした。この手洗いは宗教上,重要な事柄の一つでした。 /n手を洗うことの意味  神様は聖なるお方でありますから、神様を礼拝し、神様との正しい関係を持ち続けようとするならば、自分自身を清く保つことが求められます。何を食べるべきかは神様が定めておられるので(レビ記 11章)それを感謝していただく食事は当時、宗教行事の一つでした。食事が清らかに行なわれるように、食事の前には手を洗うように定められ、これを無視することは、神の律法を冒涜することであり、神を冒涜することだと教えられていました。 /n律法を拡大解釈することの問題  イエス様の弟子たちが、この「昔の人の言い伝え」である手洗いをしていないというファリサイ派や律法学者の非難に対して、イエス様はただちに、「あなたがたは神のおきてを破っている」(3節)、「神の言葉を無にしている」(6節)と、彼らが根拠にした「昔の人の言い伝え」(口伝律法)に反論されました。当時、彼らは十戒の教えに対し、民数記(30:3)や申命記(23:22)にある誓願の教えから勝手に拡大解釈をした「言い伝え」を人々に教えていたからです。 /n偽善者よ  イエス様は彼らに「偽善者よ」と呼びかけ,イザヤ書を引用しました。彼らが単に言葉だけで神様に仕え、内側は神様にではなく人間に目を向けていたこと、そして、外側の部分はいかにも信仰的な振る舞いのように見えても、それは内面を隠すためであると指摘したのです。 /n浄・不浄の問題  この後、イエス様は、群衆に対して「何によって人は汚され、神様の前でよしとされないのか」という問題について教えられました。イエス様は「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す」(11 節)と言われました。食べ物は口から入り、言葉は口から出てきます。汚れを与えるものは口から入る食物ではなく、口から出て行く言葉であり、私達の語ることが、神様から離れさせる悪い汚れを与える、といわれました。私達を神様から離れさせる有毒なもの、私達を滅ぼす力のあるものは、自然界などの外側に存在するのではなく私達自身から出てくるという、大変ショックな言葉です。私達の口から出る言葉は、私達を神様に逆らう者にするというのです。言葉によって私達はお互いにお互いを危険な者にしあっているということです。 /nファリサイ派のまちがい  ファリサイ派の人々は、外側に汚れたものがあって, そこから遠ざかることによって自分を清く保とうと努力し、人々にもそう教えました。イエス様は、外側に汚れたものがあるのではなく、人間の内面から出てくる言葉こそが人を汚しあい,人を神なき姿へと誘惑されると語られます。 /n浄と不浄の境界線  イエス様は、戒めを破る者には服従を要求し、文字に固執する者には、律法から自由になる道を示されます。イエス様は神様の戒めを尊重するゆえに他のあらゆる権威を否定されました。そして清い物と汚れている物との間の境界線を新しく定められました。ファリサイ派の人々が最も気にしている「汚れ」というものは、外側にではなく自分自身の中にその根源があることを教えられたのです。 /nそのままにしておきなさい(14節)  イエス様に論争をしかけたファリサイ派の人々は又もや論争に破れた形となりました。その後イエス様について、かなり激しい非難を人々に語ったようです。その声が弟子の耳に聞こえてきたので、弟子達はそのことをイエス様に告げました。それに対するイエス様の返事は、「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。」 でした。彼らは神様の教えでなく自分達の知恵で作り上げた異質な教えを持ち込んで指導していましたから、神様の畑から抜き取られるのです。イエス様は彼らを気にする必要はないと言われました。 /nペテロの質問  「口に入る物は汚さず、口から出て来るものが汚す」との言葉の説明をペテロが求めた時、イエス様は「まだ悟らないのか」と嘆かれました。なぜならイエス様のこの言葉は単純なこと、原則的なことであり、自分の良心に照らせばすぐわかることだったからです。弟子達は長いそれまでの習慣により、自分達の良心よりも盲目な教師達の教えに影響されていたということでしょう。しかし私達は自分の心の中を見る時、その醜さを人から教えられなくてもすぐわかります。イエス様はペテロの質問に答えられました。 /nこたえ  食べ物は人を汚しません。食べたものが悪ければ胃を悪くすることはあっても心の中にまでいかないからです。しかし悪い言葉は、心を汚し(よごし)、心を滅ぼします。食べ物は自然の営みによって、不必要なものは排泄されるように創られています。しかし心の中にあって、しかも本来そこにあるべきものでない悪いものは自然の手段では外に出すことは出来ずそのまま抱えながら生活しています。しかも内面で生み出されるものです。それが言葉となって口から出ていき、悪い影響を与え、神様から私達をひき離します。 /n何が人を清くし、何が人を汚すか  イエス様の結論は、当時の宗教的儀式「手を洗う」ことについて、それをしなければ汚れる、ということはないということでした。ファリサイ派が問題にした「昔の人の言い伝え」をイエス様ははっきりと遠ざけらたということです。そして何が人を清くし何が人を汚すのかを明確にされました。    私達はイエス様の弟子としてしっかり学んでいかなければなりません。最も大切なことは、自分の考えではなく、神様が求められるのは何かを考えることです。外側のさまざまな規制は、いつも偽善に陥る危険をはらみ、又、その規制に安住したくなる誘惑もあります。神様の畑でしっかり育てていただく木になるには、イエス様の教えに聞き、イエス様に従うこと以外にはありません。案内して下さるイエス様の言葉がはっきり聞こえるように、私達は毎日聖書を読み、イエス様の言葉をたくさん内に蓄えて、この一週間も歩みたいと願うものです。