1月15日の説教要旨 「整えられた我が家に」  平賀真理子牧師

エゼキエル書362529aルカ福音書112426

 はじめに(前段落「ベルゼブル論争」)

イエス様は病いに悩む人々を、多くの場合、彼らに取り憑いた悪霊を追い払うことで癒されました。その偉大な御力の出所につき、イエス様が現われる以前に尊敬を受けていたユダヤ教指導者達は、「ベルゼブル」という悪霊の頭からだと主張しました。彼らは、以前の名誉を保ちたいために、イエス様の御力が神様からくるものと認めるわけにはいきませんでした。しかし、手下の悪霊が人間に取り憑いて病いを引き起こしているのに、そのボスである悪霊の頭が部下の働きを帳消しにするように働くはずはありません。イエス様は、反対派の人々の矛盾点を突かれ、御自分の力は神様からくるのであり、それで悪霊を追い出しており、それは「神の国」が御自分の所に既に来ている証しでもあると宣言されたのです。

 「悪霊」、「汚れた霊」

さて、今日の箇所では、「汚れた霊」について語られているのですが、これは「ベルゼブル論争」の所の「悪霊」と同じと考えていいでしょう。「汚れた霊」とは、元々の言葉から見ても「聖くない霊」という意味で、聖書で語られている「本当の神様」の特性である「聖」という特性を持たない霊のことです。本当の神様を神様として認めない、尊重しない霊です。これが人間に取り憑き、神様を神様として認めさせないように、尊重しないように働きかけ、神様から引き離すという本当の不幸に陥れるのです。

 元の場所に戻ってきたがる「汚れた霊」

聖書の神様の特徴の一つに、「命をあふれさせることがおできになる」ことがあります。だから、この世を命豊かに創造なさったのでしょう。その反対の「汚れた霊」は、イエス様の偉大な御力によって、人から追い出されると自分と同質の「命のない所」=砂漠へ行かざるを得ません。ただ、「汚れた霊」はそこに行ったとしても、新たに取り憑く命を見つけられる確率は低いのです。命がないのですから。すると、「汚れた霊」は、前に取り憑いていた人間を「出てきた我が家」と例え、戻ろうとする性質があると、イエス様が指摘されています。「汚れた霊」が新しい所を開拓するエネルギーもなく、安易に戻りたがるのは、彼らを元々取り憑かせていた人間の心の中は入りやすいと悪霊は知っているからと主は語られています。「汚れた霊」はかつて自分がいた人間の心の中が、一旦自分が抜けて、きれいにされていることを発見し、そこが空間のままならば、再度住み直すのにちょうどよい場所を見つけたことになり、しかも、もっと悪い霊を引き入れる性質もあることが、主の御言葉からわかります。(イエス様がお一人で過酷な十字架に立ち向かったのと対照的です!)「悪いのは自分だけじゃない、みんなやってる!」とは卑怯なワルがよく口にする言い訳です。自分が悪いことを知りながら、悔い改める努力は怠り、悪い状態のまま居続けよう、相手を痛めつけようと努力するのが「汚れた霊」の特徴です。前に述べたように、イエス様に「汚れた霊」を追い払っていただいた人達は多くいたはずです。そういう人は、元々「汚れた霊」がいた場所を、空っぽのままにしないで、本当の神様から来る「聖い霊」で埋めなければ、一層悪い状態に陥ると、イエス様は憐れみによって教えてくださったのです。(主を受け入れなかったユダヤ民族の運命の預言であると見る説もあります。)

 神様から「命の息」を吹き入れられるはずの場所

神様は人間をお造りになった時、最後に、人間の鼻に「命の息」を吹き入れられました(創世記2:7)。これは、人間は「神様の命の息」をいただいて、本来の生き方ができることを意味しています。「息」という言葉は、旧約聖書が書かれた元々の言葉ヘブライ語では、「霊」という意味も持っています。「神の霊」が宿る場所が人間にはあるのです。見えない神様の霊が宿るのですから、見える体の部分ではなく、心、もしくは「霊を受ける場所」が、見えなくても必ず存在していると示されています。そこに、「神の霊」が入っていればいいのですが、神様に逆らう「悪霊」、「汚れた霊」が入ったままだと、人間は神様に逆らい、その結果、神様から祝福されない、罪多き人生、悩み多き人生に陥ることになります。

 「聖霊の宮」

私達も、元々は「この世の汚れた霊」によって罪多き人生を過ごしてきましたが、聖霊の導きで、福音に出会いました!それで「汚れた霊」を主の恵みによって追い出していただき、その場所が「聖霊の宮」となる幸いをいただきました。けれども、「汚れた霊」が戻りたがるのですから、いつも、その宮が空虚になっていないかを吟味しなければなりません。「霊が宿る場所を掃除し、整える」とは、神様に関わることを第一に尊重する思いで満たすことです。礼拝を何よりも大事にし、祈りや聖書の学びを尊重したいものです。「汚れた霊」が、ではなく、「聖霊」が、私達の心を、もしくは「霊を受ける場所」を、「整えられた我が家に」として戻ろうと思ってくださるように成長できることを祈り求めましょう。

1月8日の説教要旨 「異邦人の主」  平賀真理子牧師

詩編1021323 マタイ福音書2112

 はじめに

今年の暦で言えば先週の金曜日だった「1月6日」は、キリスト教会にとって重要な日です。「イエス様がおおやけに現れた日」として「公現日」と名付けられ、今日の新約聖書の箇所を覚える日として大切な日です。イエス様が神の民ユダヤ人達だけでなく、それ以外の民である「異邦人」達にも「救い主」として現れてくださったことを感謝し、祝うのです。

 

 「東の方からやって来た占星術の学者たち」

1節にある「東の方からやって来た占星術の学者たち」というのが、その「異邦人」達を象徴する人々です。東の方というのが、具体的にはアラビアかペルシャらしいのですが、大事なのは、彼らが異邦人だということです。また、占星術の学者と言っても、主な仕事は占いではなく、太陽や月や星などの天体の動きを客観的に観測して、農業などに助言することでした。今で言う「天文学者」とか「気象予報士」などと想像していいと思います。ユダヤ人達が「神様の御言葉を知らない」と蔑んだ「異邦人」ではあっても、彼らは客観的な真理に従う準備のできていた人々でした。

 

 もう一人の異邦人「ヘロデ大王」

さて、今日の箇所では、この学者たちの他に、「異邦人」である人物がいます。「ヘロデ大王」です(後々聖書に出てくる息子のヘロデ・アンティパス王と区別するため、今回は「ヘロデ大王」と記します。)。ヘロデ大王は、ユダヤ人の領地の南隣のイドマヤ出身者であり、ユダヤ人と見なされませんでした。つまり、ユダヤ人にとって、異邦人支配者だったわけです。唯一の神様を信じて生きるユダヤ人達を知っていながら、ヘロデ大王の関心事は、自分の欲望を満たすためにこの世での権力を増大させることだけでした。

 

 ユダヤ人でありながら、救い主の誕生を喜べなかった人々

一方、ヘロデ大王のお膝元に居たユダヤ人達は「救い主御降誕」の知らせを聞いてどう反応したのか、2種類書かれています。一つは、ユダヤ教指導者達(「民の祭司長たちや律法学者たち」)であり、もう一つはエルサレムの人々です(3節)。前者は、救い主の誕生地を預言書ミカ書5章を通して知っていてヘロデ大王に教えていますが、彼ら自身は知識はあっても、動きませんでした。また、後者は、ヘロデ大王の下で都にいられる人々であり、すぐに政権交代が起これば、自分達の運命はどうなるのかわからず、不安になったのです。「神の国」が来るために即行動することよりも、今の自分達の生活を守ることが大事な人々と言えるでしょう。そういう意味では、ヘロデ王とユダヤ教指導者とエルサレムの人々は同じだと思われます。

 

 神様と人間 -「救い主誕生」という事実をめぐって-

神様は、愛する人間に預言までしてくださり、実際にこの世に働きかけてきださって、救い主を誕生させてくださいました。にもかかわらず、神様が期待して選んだ人々(ユダヤ人)とその地域の支配者だったヘロデ大王(異邦人ですが)は、その救い主を最初から受け入れる準備ができていないことが示されています。イエス様の苦難は、もうここから始まっていると見ることができます。

 

 「ユダヤ人の王」から「異邦人の主」へ

一方、東方からやって来た占星術の学者たちは、「異邦人」とはいえ、ユダヤ人達の信じる神様の偉大さや、その神様が「ユダヤ人の王」を生まれさせるという預言を知っていたと思われます。そして、星の動きという客観的な事実を見て、ユダヤ人達の話を肯定的に受け止め、自分達を預言と事実の前に従わせ、旅へと出かけました。自分の命の危険を顧みず、救い主に出会う喜びを選んだのです。

ここに、ユダヤ教からキリスト教の萌芽を見て取れます。神様の揺るがしがたい選びによって、ユダヤ人達が神の民として救われるように、神様が導いていることがユダヤ教の根本にあります。けれども、神様はユダヤ人だけが救われればいいと思っておられるわけではなく、ユダヤ人を初めに救い、その後は「異邦人」も救われてほしいと願っておられるのです。詩編にもそれが現れた箇所が幾つかあり、今日の旧約聖書の箇所もその一つです。また、イザヤ書49章1節―6節には、救いの光がイスラエルから地の果てにまでもたらされることを、主が望んでおられることが明らかにされています。

ユダヤ人としてユダヤ人の只中に誕生されたイエス様ですが、今日の箇所では、そのイエス様を「救い主」として拝んで尊い宝を献げて喜んだのは、ユダヤ人達でなく、異邦人達だったと示されています。神様は最初のご計画にこだわらず(「ユダヤ人から救う」)、準備のできた「異邦人」にイエス様を救い主として啓示なさいました。ここに、民族を超えたキリスト教の救いが示されています。私達も肉の上では異邦人ですが、「異邦人の主」の救いを既に受けています。今週は「公現日」直後の週なので、特に、「異邦人の主」の救いの光を受けていることを充分に感じつつ、主への感謝をもって歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

2017・1月1日の礼拝説教要旨 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」 佐藤 義子

イザヤ書 49813・Ⅱコリント6:110

はじめに

2017年の最初の日を、聖日礼拝として皆様とご一緒に礼拝できる幸いを心から感謝いたします。今年度の聖句として与えられたのは、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」です。(コリント第二の手紙、6章1-2節)

「恵み」という言葉は聖書の中で度々登場しますが、特に「神様の恵み」という時、①イエス様を人間としてこの世に遣わされたこと、②イエス様の十字架の死を通して私(達)の罪をあがなってくださったこと、③イエス様を死から復活させて下さったこと、が、その中心にあります。

今、ここにクリスチャンとして礼拝の恵みにあずかっておられる方々は、神様が各々に定めて下さった日に、この三つを神様の恵みとして受け入れ、ご自分の信仰告白として、おおやけに言い表して洗礼を受けられた方々です。その受洗の時に、私達に何が起こっていたのでしょうか?

 

受洗はキリストと結ばれること

今日読みました聖書の前(5章)には 次のように記されています。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって・・」(17節-18節)。

私達が洗礼を受けた時、私達にはこのようなことが起こっていたのです。これから洗礼を受ける方々にも、このようなことが起こるということです。私達がおおやけに信仰を告白した時(決断した時)、私達は今までの自分から新しく創造された自分(新生)へと変えられます。イエス様はご自身をぶどうの木に、私達をその枝に譬えられているように(ヨハネ福音書15章)、私達は信仰告白と同時にキリストに結ばれ、キリストと結ばれる(=キリストと共に歩み,その交わりの中に置かれる)者は新しく創られていきます。

 

・・神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ」(同)

さらに信仰を告白することによって、神様が私達と和解して下さった喜びに招かれます。「和解」は、断絶など 関係が切れた状態にあったことが前提です。神様が私達と和解して下さったということは、それまで長い間、神様と私達人間の関係は切れていた(断絶していた)のです。神様は私達人間を創られ、命の息を吹き入れられて生きる者とされました(創世記)。ですから私達人間は、創り主である神様とは切っても切れない関係にあり、神様に従う限りにおいては祝福が約束されておりました。しかし私達人間は創り主に対して不服従を繰り返し、ついに神様と断絶関係に陥ってしまったのです。断絶に至った人間の罪は計り知れず、神様からの離反・不服従(自己優先)・反逆などを繰り返した結果、私達人間は滅びの道しか残されていませんでした。ところが憐れみ深い神様は、人間が地上において(サタンの支配のもとで・罪の中で)苦しんでいるのを見過ごすことを良しとせず、救いの手を差し伸べる御計画をたてて下さいました。神様と人間が再び関係を結ぶ道です!すなわち、人間の罪がつぐなわれて神様から罪の赦しをいただく和解への道!

このことが、18節の「キリストを通して」、すなわちイエス様の十字架による「死」と、神様による「死に勝利する復活」でした。なぜイエス様が十字架で死なねばならなかったのでしょうか?

それは、罪の赦しには「つぐない」が不可欠ですが、それが出来るお方(人間の罪を身代わりに背負うことの出来るお方)は、罪のない神の御子イエス様しかいないからです。それゆえ神様は御子を地上に送り、イエス様は、神様の御心に従って人間の罪を担い、罪をつぐなう死(あがないの死)としての十字架を引き受けられました。これによって「私(全人類)の罪」は赦され、神様は「わたしたちをご自分と和解させ」られたのでした。

 

また、和解の為に奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

 つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私達にゆだねられたのです。」(18-19節)

さらに神様は、この和解を受け取ったクリスチャンに一つの任務を与えられました。それは、和解の言葉をゆだねられた者として生きることです。イエス様を信じる信仰が創り主である神様のもとに帰る道であり、神様が用意して下さっている和解を受け取ることこそ、私達人間の本来の生き方であり、神様が祝福されることであることを、伝え、証しする任務です。

 

神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(6:1)

今日の聖書の6章1節では、著者パウロが信仰者に対して「神の協力者としてあなたがたに勧めます」と呼びかけています。そして神様から差し出された和解の恵みをいただいた者は、この恵みを無駄にしないようにと勧告します。恵みとは、自力で手にすることが出来ないものを与えられることです。「太陽の恵み」や「恵みの雨」のように、私達が生きていく上でなくてならぬものが 公平に与えられていることを思い起こしますが、ここでは神様から一方的に差し出された「神様との和解」、すなわち私達人間が、自分の創り主であるお方のもとに、イエス様の十字架のおかげで戻ることが出来た!神様とあるべき正しい関係(創造主と被造物)を結ぶことが出来た!生きる上で100% 必要なもの(無くてならぬものはただ一つ)が与えられた!ことを意味します。この大きな恵みを無駄にしてはいけないとの勧告と励ましを、2017年の御言葉として心に刻みたいと思います。

 

恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた」(6:2)

これはイザヤ書49章からの引用です。当時イスラエル民族は,バビロン捕囚の日々が半世紀近く続いており(BC587年から-解放はBC538年)、人々の中で、祖国への帰還と祖国の復興という期待と希望が小さくなっていく時、第二イザヤ(イザヤ書は1-39章・40-55章・56-66章を書いた3人により構成されている)と呼ばれている預言者が、神様から聞いて語った言葉です。この言葉は、まだ、捕囚が続いている中で、第二イザヤ(BC 545年頃)が、神様からの約束の言葉(慰めと希望)として語り、人々を励ましたのです。信じた人々は、この後で、この約束の実現を体験することになりました。

 

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

このイザヤ書の言葉をパウロは引用して、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と、コリントの教会の人々に(そして南伝道所の私達に)呼びかけます。今や、神様がわたしに下さった恵みを受け入れる時、又、すでに恵みをいただいた人々が、神様との和解の出来事を伝える奉仕を通して、救いが起こされる時です。私達の地上での生活には限りがあります。私達はそのことを忘れがちで「あわてることはない。あせることはない。今、決めなくても良い。もう少し後になってからでも・・」と言います。確かに今でなくても、次の決断の時が来るかもしれません。しかし来ないかもしれません。決断すべきとの思いが少しでも与えられたら、それを後回しにしてはいけないことを、この聖句は教えています。

「今」という時を見過ごさないように、いつも心の目を覚まして、今、何をなすべきかを、祈りを通して神様から教えていただきながら、新しい年を過ごしていきたいと思います。

あらゆる場合に神に仕える者として・・大いなる忍耐をもって、

苦難、欠乏、行き詰まり、・・労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって、」(4―7節)

  著者パウロは、教会の人々に奉仕を呼びかけるだけでなく、自らがどのように和解の福音に奉仕しているかを3節以下で語っています。

私達は、今すぐパウロのような福音の奉仕者になることはむつかしく思われますが、しかしキリストに結ばれて歩む時、このように生きることが出来る!ということを知らされます。なぜならパウロは「神の力によって」出来ていることを明言しているからです。

この一年、神様からどのような道を示されても、真理の言葉、神の力によって、大いなる忍耐をもって、苦難や行き詰まりに対処し、与えられた恵みを無駄にせず、イエス様に結ばれた者・新しく創造された者としてふさわしい歩みを 歩んでいきたいと祈り、願うものです。

12月25日の説教要旨  「天に栄光、地に平和」  平賀真理子牧師

ミカ書513 ルカ福音書2120

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、3つの段落に分かれています。1節―7節を第1部、8節―14節を第2部、15節-20節を第3部として見ましょう。

 第1部(1節-7節)からわかる4つのこと

ルカ福音書は、ユダヤ人達の預言を知らない人々に対して、イエス様の御降誕が本当にあったことだと伝えるために、史実と照合して記されています。歴史上で強大な国だった「ローマ帝国」の、しかも、実質的な初代皇帝アウグストゥスの時代の出来事だと知らせようとしています。これが、まず覚えていただきたいことです(1つ目)。

2つ目として、この世で強い勢力を持ったローマ帝国の強い皇帝の支配下で、本当の救い主イエス様は、力のないユダヤ人の一般家庭に、一番弱い赤ちゃんとして、しかも、旅の途中で生まれるという定めに置かれたことを覚えていただきたいです。

3つ目に、ユダヤ人達の救い主誕生の地として預言どおり、ベツレヘムに生まれたことが重要です。ユダヤ人の預言を知っている人が読めば、(今日の旧約聖書の箇所)ミカ書5:1節の預言をイエス様は満たす御方であることがわかるように記されています。

4つ目に、7節に書かれているとおり、神の御子のこの世での両親という大事な役割を担う夫婦とイエス様御自身には、人間として居られる最初の場所さえ、この世には無かった意味を理解したいものです!本来、赤ちゃんの誕生は特別な喜びであり、普通だったら、多くの人が出産や新生児のために配慮できるはずです。ところが、神様が御子をこの世に送られた、その時、人々は他人に構っている余裕がなかったのです。

 神様のことを忘れる人間に対してさえ、愛をくださる神様

人々がこの世のことで精一杯で、心に余裕がない、そんな時に、神様は御子をこの世に送られました。神様のことを考えている暇はない、理想の世界を思う余裕はない、そんな時に、神様の方では、私達の救いを切望して御子を送られました。神様の深い愛を私達は思い起こすべきです。

 第2部(8節-14節)「羊飼い達に与えられた御言葉」

ここで、救い主御降誕の喜ばしい知らせを最初に聞くのが、羊飼いであることに注目しましょう。彼らは貧しく、ユダヤ人の中で特に軽蔑されていた人々です。ユダヤ人の中で力のあった律法学者達は、羊飼い達が仕事柄、安息日を守れないことで、彼らを低く見ていました。しかし、神様は人間の見方を悠に超えた所に来られます!イエス様のお生まれになった晩、夜通し働いていた羊飼い達の所に、つまり、本当に慰めを必要とする所へ、主の天使によって「救い主御降誕」の喜ばしい知らせが確かに告げられ、それに加えて、天の大軍と称される、大勢の天使達が発したのが14節の言葉です。「天に栄光、地に平和」と集約して今日の説教題にしました。「神様のおられる所=天」が「いと高きところ」であり、14節の前半は、神様に向けた讃美と言えるでしょう。神様への讃美は、天使だけでなく、私達=救われた人間ももっと行うべきではないでしょうか。14節後半の言葉は、この世で生きる人間が「主の平和」をいただけるように願いを込められた言葉と言えるでしょう。そして「御心に適う人にあれ」の言葉にも注目しましょう。神様の御心に従う人が「御心に適う人」であろうと推測できますが、具体的にどういう人でしょうか、それが第3部に書かれています。

 第3部(15節ー20節)「御心に適う人」①

まず、羊飼い達です。突然、神様に選ばれて御言葉に出会ってしまったにも関わらず、彼らは、それに従おうと動き始めました。16節の初めの言葉「急いで」とは「熱望して」という意味があります。彼らは、神様からいただいた御言葉を積極的に確かめたいと思って行動したと読み取れます。そして、主の導きという助けもあったと思われますが、主の天使の預言 (12節)どおり、「飼い葉桶に寝かされて布にくるまれた赤ちゃん」のイエス様に出会えたのです!それだけでなく、羊飼い達は、神様の御言葉がこの世に本当に実現することを目の当たりにして、大きな喜びを感じ、他の人々に、自分達の体験を告げ知らせました。彼らは喜びを素直に表現し、主の恵みを告知する役割を果たしました!

 第3部(15節ー20節)「御心に適う人」②

次に、「御心に適う人」として覚えたいのが、イエス様のこの世での両親です。今日の箇所19節で、マリアは、これらの出来事を「心に納めて」とあります。彼女の行動に表れた忍耐強さ、確かな覚悟、深い洞察力、従順さが「御心に適う人」の特徴をよく示しています。マタイ福音書には、ヨセフの信仰もよく示されています。「主の御降誕」は、天の神様から働きかけられたことを、この世の「御心に適う人」が受け入れることにより、救いの第一歩として確定されました。「主の御降誕」を知らされた私達も「御心に適う人」として動き始められるよう、祈りましょう。