2020年3月8日の説教要旨 詩編51:3-6・ヨハネ福音書1:29-34

「世の罪を取り除く神の小羊」 佐々木哲夫先生

*はじめに

恥の文化 江戸時代の大阪商人は、商いの契約書に次のような但し書きを書いていました。「この契約書に決して違反いたしません。万が一、背くようなことがありましたら、万座の中でお笑いくださっても少しも恨みとは存じません。」

信用を旨(むね)とする商人にとって万座の中で恥を掻(か)くことは最高の罰でした。但し書きを読むと、単に世間体を気にするという表面的なことではなく、名誉を重んじる商人たちの価値観が伺えます。日本の文化を恥の文化と称し、罪の文化である西洋と対比して論じられることが少なくありません。確かに恥をかかないようにとの気持ちから一生懸命に努力することに私たちは共感できます。日本文化の本質的な特色なのでしょう。

恥の文化にある者が罪の概念を理解することは、心の中の価値観に変革を求める事ですので簡単なことではないと思われます。

*罪の文化  

恥の文化では、人が見ているか見ていないかという外面的な拘束力(こうそくりょく)に行動の動機を見出すのに対し、罪の文化では、誰が見ていなくても神様が見ている、天に恥じることのないようにという内面的な拘束力に基づいて行動します。例えば、モーセの十戒を何故守るのか。社会的秩序を維持するため、とのこともありますが、それ以上に、十戒は、神と人との間に結ばれた契約であり、神との約束であるから守るというのです。

ですから、誰も見ていないから盗む、他に目撃者がいないから自分に都合の良い偽りの証言をするということは、神との約束を破る、すなわち神に対して罪を犯すことになります。

*三つの「つみ」

旧約聖書の原文には「つみ」を表す言葉として主に三つの単語が使われています。「背(そむ)きの罪」「咎(とが)」そして「罪」と邦訳されている単語の三種類です。「罪」は「罪」なのだから「罪」という一つの日本語で表現すれば良いと思われるかもしれません。単語が三種類あるということは、ユダヤ人の罪に対する思い入れがあるからです。

日本人は天から降ってくる雨に思い入れがあります。例えば、春雨(はるさめ)、

五月雨(さみだれ)、梅雨(ばいう)、小糠雨(こぬかあめ)、夕立、秋雨(あきさめ)、時雨(しぐれ)、小雨(こさめ)、涙雨(なみだあめ)など、日本語の雨に関する単語は豊富で400語、もしくは1200語もあると言われております。それは、日本人の雨に対する繊細な感覚の現れでもあります。

*背(そむ)きの罪

本日の旧約聖書箇所の詩編51編3節を見てみます。

神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。

ダビデは「背(そむ)きの罪」を拭(ぬぐ)ってもらいたいと神に嘆願しています。

「背きの罪」とは、主人などを欺(あざむ)き反逆する罪のことです。例えば、牛、ろば、羊、上着、遺失物など巡って所有権を争い、裁判になり、有罪とされた場合の罪もこれに相当します。(出エジプト22:9)

*咎(とが)

4節には「咎(とが)」という表現があります。「咎」は、自分の好き勝手な判断で規則を破ってしまうことを意味しています。衣服を洗うことや沐浴(もくよく)をせよと命じるレビ記の規則に従わない罪を原文では同じ単語なのですが、「咎(とが)」ではなくレビ記では「罪責」と邦訳しています。(17:16)

*罪                       

 4節のもう一つの表現、ただ単に「罪」と記されている単語は、旧約聖書に300回以上も記されています。これは「あるべき道からは外れて不注意にも迷ってしまっている状態」を意味します。例えば、働いた人に賃金の支払いをせずに、働いた人から訴えられた場合の罪も含まれています(申24:15)。

わずか三種類の言葉ですが、私の行為がどの罪に問われるだろうかと考えさせられ、罪に敏感になってしまいます。ダビデは詩編51編において三種類の罪の言葉を13回も使って自分の犯した罪を全部ひっくるめて神に悔い改めを祈っています。

*責任ということ

罪に敏感になると、反面、罪に応じて下される罰はいかなるものかと気になります。旧約聖書を読みますと、例えば、自分の所有している牛が人を突(つ)く癖(くせ)を持っていることを事前に知っていたか、いなかったかで罰の程度が変わります。事件の加害者が、過失か故意かによっても変わります。心の中で自分の兄弟を憎んだか、憎まなかったのか、など内面的な動機も問われます。複雑(ふくざつ)多岐(たき)で詳細(しょうさい)な吟味(ぎんみ)が求められるので、律法の専門家でないと罪の解明(かいめい)が難(むずか)しくなってしまいます。神に対し罪を犯さないためには一体どうしたらよいかと途方に暮れてしまいます。

身近な例によって考えてみたいと思います。小学校6年生教科書『国語(下)』(昭和56年光村図書発行)に小児科医で思想家の松田道雄さんが書いた「責任というもの」という興味深い論説文が載っておりました。

要約して引用してみます。

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小学生の男の子たちが広場で野球をしていました。一人が打ったボールがフェンスを越えて向こうの家の窓ガラスを割ってしまいます。みんな一斉に逃げようとしますが、出口のところで校長先生に出会ってしまいます。そして、誤(あやま)りにせよ物を壊(こわ)したら持ち主に謝(あやま)らないといけないと注意されます。校長先生に言われたので、謝りに行ったとするならば、それは生徒としての義務を果たしたことになる。もし誰にも言われなくとも自分の意思で謝りに行ったのならば、それは壊したことの責任を取ったということです。規則などで縛(しば)られてではなく、自分の威厳(いげん)にふさわしいように振舞(ふるま)うことが責任です。責任は、人間にとって義務よりも大事なものです。

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このような論説文を読むと、規則や定めを熟知(じゅくち)していなくとも、神の似姿である人間の威厳(いげん)にふさわしく責任ある振る舞うことの大事なことが理解できます。人間には、自分の行動が神に喜ばれることか、厭(いと)われることか、を自主的に判断する能力が備わっているのです。

*取り除く=引き取る

 とはいえ、神の前で罪を犯してしまったらどうしたら良いのでしょうか。本日読みました新約聖書の箇所において、バプテスマのヨハネはイエス・キリストが自分の方に歩いてくるのを見て、

見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言っております。すなわち、どんな罪でも取り除くことのできるお方であるとバプテスマのヨハネはイエスキリストの真の姿を見抜いたのです。

「取り除く」という表現には「取り除いてポイと捨てる」というニュアンスだけではなくもう一つ意味があります。それは、「担う、背負う」とのニュアンスです。例えば、復活の朝早く、マグダラのマリアは、イエス・キリストの遺体が収められているはずの墓に行きます。しかし、イエス・キリストの遺体のない空っぽの墓を見て泣き出してしまいます。その時、復活のイエス・キリストが「なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」とマリアに声をかけます。その人物がイエス・キリストであることを認識できず、園(その)の管理人と間違えてしまったマリアは、

あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります」と語りかけます。

マリアの最後の言葉「引き取る」が「取り除く」と同じ原語なのです。

バプテスマのヨハネは

見よ、世の罪を引き取る(引き受ける)神の小羊

と言ったのです。それは、世の罪を引き受け、罪の赦しを実現した イエスキリストの十字架を連想させるものでした。

2020年2月23日の説教要旨

詩編95:1-11、ヨハネ福音書 6:1-15

「少しも無駄にならないように」 遠藤尚幸先生(東北学院中学高校)

*大勢の群衆

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」(6:1-2)

 今朝、私たちに与えられたヨハネによる福音書の言葉には、そのようにありました。主イエスの後を追って大勢の群衆が歩いていく。聖書の言葉そのままに読めば、湖を超えて向こう岸までついてきた。そんな、大勢の群衆の姿が目に浮かびます。彼らはどうして主イエスを追いかけたのか。聖書はそれを「イエスが病人たちになさったしるし」を見たからだと語ります。大勢の群衆もまた、自らの病を持ちながら、湖を渡り、主イエスの後を追ってやってきたのです。このような思いは2000年前の聖書の時代も、現代も変わりません。また、病だけではなくて、辛さや苦しみの中で、主イエスを追って来た人もいたでしょう。そのような意味で、私たちもまた、今朝、この大勢の群衆のようでもあります。一人一人それぞれにある思いの中で、今共に、主イエスの語る言葉に耳を傾けています。

*イエスは目を上げ

 主イエスは、大勢の群衆にどのように応えたのでしょうか。

イエスは目を上げ、大勢の群衆が自分の方へ来るのを見て」(5節)

 主イエスは、群衆を見つめます。そのために目を上げます。主イエスの眼差しは、今、この群衆に注がれています。群衆が追いかけて来るというのは、全く聞く耳を持たない方の背中を見つめながら、追いかけるのではありません。彼らが追う主イエスは、彼ら一人一人を見つめている。

群衆はこの眼差しの中を歩みます。この場面、私は、神様と、そこに集おうとする私たち一人一人の姿に重ねることができると感じます。私たちも今日それぞれの思いを抱えながら、この礼拝に集っています。一週間の歩みを終え、それぞれにあった苦労を乗り越えてここに集っています。大勢の群衆は湖を渡ってきたわけですが、それは決して容易な道ではなかったはずです。湖を渡るには準備が必要です。その途上、嵐が起こることもあります。人々は自らの足で主イエスを追いかけます。向こう岸へ渡るというのは容易なことではありません。しかし、それでも主イエスを追いかけて来る。礼拝堂に集う私たちもまた、何よりも主イエスが私たちに目を上げ、待っていてくださっている中で集っている。そのことを忘れたくはないのです。そしてこの眼差しは、今朝この時間だけに注がれているものではありません。振り返れば、この一週間すべてをも包み込むように注がれてきた眼差しです。礼拝は、この神様の眼差しに私たちが気づくときでもあります。ああ、自分の人生は、その歩みは、神様の眼差しの中にあったのかと気づきます。一人で歩んでいたと考えていた時、苦難の中にあった時、その時に、神様は目を上げ、この私を見ていてくださった。大勢の群衆も、主イエスの眼差しに気付いた時、そのことを思い起こしたはずです。主イエスが見ている。もう大丈夫だ。ここに私たちの真の安心があります。

*足りないでしょう

 主イエスはこの群衆に眼差しを注ぎながら、弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言いました。しかし、主イエスはこの後におこることをご存知の上で、フィリポにこう尋ねたと記されています。フィリポは、主イエスの問いにこう答えます。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。一デナリオンは、当時の一日分の給料と同等の金額です。ですから、二百デナリオンは200日働いた人が手にすることができる金額でした。主イエスの前にいた人々は男だけで5000人とも書かれています。女性や子ども含めれば1万人以上はいたと想像することができます。当然、この人々に食事を与えることなど想像することができないわけです。フィリポにとってみれば、自分の理解を超えた問いに、彼なりに一生懸命計算して出した答えが「200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」という諦めとも取れる言葉でした。そこで出て来るのが、一人の少年です。

*五つのパンと魚二匹

 8節には、続けて主イエスの弟子の一人であったアンデレがこう言ったことが記されています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。

 一人の少年が大麦のパン五つと、魚二匹を持っている。アンデレは、そのことを主イエスに報告します。しかし先ほどのフィリポ同様、それでこの人数の人に食べさせることなど不可能であることを伝えます。この少年はどうして大麦のパン五つと魚二匹を持っていたのでしょうか。主イエスについてきた人の子どもであったかもしれないし、一人で来た少年だったのかもしれません。自分で自分の分として、彼なりに一生懸命準備して来たものだったかもしれません。アンデレが言うように、大勢の前では意味がないものかもしれません。しかし沢山いる弟子たち、大人たちの中で、よく準備して来た少年であったことは確かです。主イエスはその少年を見逃しませんでした。主イエスの眼差しというのは、こういうところまで行き届いています。弟子が目の前の大勢の群衆にばかり目を奪われ、少年や、少年の持っている持ち物を「足りないでしょう」、「何の役にも立たないでしょう」と言う時に、主イエスはこの少年の持ち物こそ、この5000人以上の人々の空腹を満たすために用いるべきものだと判断するのです。主イエスは人々を座らせました。そして、パンを取り、感謝の祈りを唱え、魚も同じようにし、それを座っている人々に分け与えました。このパンと魚を通して人々は、満たされていきます。そして主イエスはこう言います。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい

*「少しも無駄にならないように」

「少しも無駄にならないように」。これが、主イエスが弟子たちに語った言葉です。人々を満腹にさせ、それでもなお残った分がありました。残った分をどうするか、主イエスはそれもまた丁寧に扱おうとします。考えてみれば今朝与えられた箇所は、最初から最後まで、主イエスの私たち人間に対する心遣いを見て取れる箇所だとも感じます。大勢の群衆を見つめる眼差しから始まり、小さな少年のわずかな持ち物を大切にし、そして、残ったものを一つも無駄にしない。一つ一つを丁寧に扱おうとする、主イエスの姿があります。ここで使われている「無駄にする」という言葉は原文では、ヨハネによる福音書においては「滅びる」とか「失う」とか「朽ちる」という意味で使われる言葉です。有名な言葉で、たとえばヨハネによる福音書3:16で使われています。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。他にも6:27「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」というところにも「朽ちる」という箇所で使われています。どうして、それほど大切に扱うのか。それはそこに集う一人一人が、少年が差し出したパンと魚が、神様ご自身が備え、与えてくださったものだからです。私たちが誰一人として、滅びることのないように、失われることのないように、朽ちることのないように、これが神様の御心です。そのために、主イエスは来てくださり、私たちに目を上げ、その眼差しを注いで下さっているのです。

*教会の姿

 教会は、主イエスを中心として、一人一人が、大切に、神様によって用いられる場所です。私たち人間には何の価値もないように見えるもの、弟子たちだけではなくて、少年も、まさか自分自身の小さな持ち物が、こんなに大きな出来事に用いられるとは考えてはいませんでした。私たちもそういうところがあります。自分の持っているもの、それを自分のものさしで測ってしまうところがある。主イエスがフィリポを試されたというのは、そんな人間のものさしだけで物事を測ることから抜け出させようとするためではなかったのかとも感じます。私たちの頭で考えることには限界があります。5000人以上の人に、食事を与えなさいと言われて、そんなこと無理だと考えてしまうのが私たちです。しかし、聖書は、その先に、神様が共にいるゆえに、道が開かれていくことを教えています。今朝与えられた詩編95:9には「あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した」とありました。「神を試す」とは「人間のものさしだけですべてを測ろうとすること」です。しかし、教会は、その先を見つめます。人間の持っている小さなものを、なお、神様は大胆に用いてくださる。私たち一人ひとりにも、そういうものがあるのではないでしょうか。それは自分から見れば、目の前にある課題を解決するのには十分ではないものに見えるかもしれない。しかし、神様の目には、他ならぬ十分すぎるものであることがあるのです。私が初めて神学校を見学に行った時に、説教台に立って説教を語っている神学生を見て、自分には到底こんなことはできないと感じました。しかし、神様は今、私を、この説教台に立たせてくださっています。人間の目に不十分だと思えることが、しかし、神様の御手の中で用いられる時に、思いもよらない可能性があったのだと気付かされるのです。

私たちのうちに、足りないものは何一つありません。神様が満たしてくださるから、私たちにはそれで十分です。

*世に来られる

 この人間の理解を超えた主イエスの業を通して、人々は変わっていきました。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」(6:14)

「世に来られる」とはヨハネによる福音書で重要な言葉です。ヨハネによる福音書は主イエスを世に来られる光であり、神の子であることを証言しています。つまりこの人々も、主イエスが何者であるかを知ったということです。主イエスこそ、この世を照らす光です。そして、私たちの罪を背負い、十字架につけられていく小羊です。私たち人間は、主イエス・キリストが十字架で命を捨ててくださったことを通して、神様の子どもとして今ここに集うことが赦されています。この人々の言葉は、私たち一人一人の言葉です。遠い時代、ガリラヤで始まった主イエスの伝道の果実は、今の時代、私たち一人一人を通して実っています。主イエスは、私たち一人一人を決して見捨てることはありません。

 どこまでも、最後の一人までも決して無駄にすることはしない。私たちがその最後の一人でもあります。私たちのために、キリストはあの十字架で命を捨ててくださいました。

*受難節に向かって

 今週の水曜日、灰の水曜日より受難節に入ります。受難節は主イエス・キリストの十字架の苦しみを覚える期間です。最後の一週間である受難週は、主イエスの十字架までの一週間を想起させる、教会歴の中で最も聖なる一週間と言われます。

どうして、主イエスの苦しみが一年で最も尊いのか。

それは、世に来られた神の子であるイエス・キリストが、私たち一人一人の罪を背負って、十字架の道を歩んで下さったからです。

私たち人間ではどうすることもできなかった、神様の前での罪の問題の一切は、キリストの十字架を通して贖われました。私たちはただひたすら、その恵みを感謝して受け取るだけです。

籠いっぱいになったパンの屑は、今、私たちの集う教会へと託されています。神様の恵みは、この教会を通して、さらに多くの人へと手渡されていきます。5000人を遥かに超える食卓は決して聖書の中だけの「奇跡」ではありません。その「奇跡」は教会を通して、私たち一人一人を通して、今も続いている出来事です。

あなたにも、神様の愛の眼差しが注がれている。安心していい。不安こそが高らかに叫ばれる時代にあって、神様が共にいる恵みをご一緒に伝えていきたいと願います。

教会はキリストの体です。誰一人滅ぶことのないように、朽ちることのないように、「少しも無駄にならないように」、神の恵み、十字架の キリストを私たちは今日、この時代に語り伝えます。

2020年2月16日の説教要旨

詩編32:1-7 ヨハネ福音書 5:1-18

          「起き上がりなさい」     佐藤義子牧師

*はじめに

本日の聖書は、イエス様が祭りの為にエルサレムに来られた時の出来事です。ユダヤの人達が祭りの度ごとにエルサレム神殿での礼拝を守る時、イエス様ご自身も人々と同じように律法に従われて、エルサレムに行かれました(大勢の人達が集まる時を、宣教の機会としても用いられました)。

エルサレム神殿を最初に建てたのは、旧約時代のソロモン王様ですが、その神殿はバビロニア帝国によって破壊され、バビロン捕囚の時代を経て、ペルシャ王によって神殿再建の許可が出され、だいぶ小さくなりましたが、完成の喜びは大きなものでした(エズラ記6:13~、ネヘミヤ記8章参照)。

その後 神殿は、歴史の変遷と共に多くの受難を受けた後、イエス様の時代には、ヘロデ大王が壮大な規模のものに建て直し(ヨハネ福音書2:20)、神殿を含むすべての面積はエルサレムの旧市街の6分の一に当たり、巨大な石垣の名残は、今も、「嘆きの壁」として見ることが出来ます。

このエルサレム神殿から約350メートル北に、「ベトザタ(口語訳聖書はベテスダ)」の池」を囲んで五つの回廊(柱の高さ8,5m、屋根もある)がありました。池から100mほどの所にはローマの軍隊の駐屯地と、総督官邸があり、神殿で何か起こればすぐ駆けつけられるようになっていました。

*横たわる大勢の人々

ベトザタの池を囲んだ回廊には、病気の人、目が見えない人、足の不自由な人、体のマヒした人が大勢横たわっていました。立派な神殿の近くに、大勢の苦しむ人々が集まっていたのは、そこが神殿への通り道で、施しを受けることが出来たという理由の他に、4節(ヨハネ福音書の最後に掲載・212頁)に「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」とあります。(ある注解書では、この池が間欠泉で、時々活性を帯びた水の噴出による治癒作用が起こり、最初に入る者は活性の強い水に触れられたと考えています)。

*「良くなりたいか」

イエス様のまなざしは、その中の一人の人に向けられました。彼が38年間病気のために苦しみ、起きて歩くことが出来ないことをイエス様は知り、彼に「良くなりたいか」と声をかけられたのです。

イエス様の問いかけ「良くなりたいか」とは、「あなたは、今ある状態にとどまっていることに満足しているのか。それとも、本当に変えられたいと思っているのか」との、彼の意志の再確認の言葉として聞くことが出来ます。彼の「「治りたい!良くなる時がいつか来る!」との願いは、38年間も空しく待ち続けたために、いつしか無感覚なあきらめの境地に陥っていたことでしょう。良くなりたいと思っても、良くなる時が来るとは実際には考えていなかったでしょう。彼は、誰も自分を助けてくれる人がいない、と絶望的な状況を訴えることしか出来ませんでした。

*わたしたち

カルヴァン(神学者)は、「私達は、この病人と同じことをやっている」と言いました。以下はその説明です。「この人は、自分の考えに従って、神様の助けに枠(わく)を定め、限界づけをして、自分が受け入れられる範囲を超えることは認めない。しかしキリストはその寛大さのゆえに、彼の不完全さを大目に見て下さっている。私達は、自分に近い手段だけにとどまっているのに、キリストは、すべての期待に反して、人知れないところから手をさしのべられ、私たちの信仰のせまさ、小ささをどんなに上回るものであるかを示される。・・だから私達もさまざまな苦悩に責められながら、どんなに長い間どっちつかずの状態に置かれても、時間の長さに嫌気を起こして、勇気を無くしてはならない」。

*「起き上がりなさい」 

私達が、あることを願いながら、現実の絶望的な状況を前にして、あきらめ、無気力に陥(おちい)り、祈り求めることをやめようとする時、(あるいはやめた時でさえ)「神様の時」が来るとイエス様の愛のまなざしは私に向けられて「良くなりたいか」と尋ねられ、癒(いや)し主(ぬし)イエス様の権威あるお言葉「起き上がりなさい」との声を今も聞くことが出来ます。

2020年2月2日の説教要旨

詩編139:1-10・ヨハネ福音書1:35-42

        「最初の弟子達 ①」     平賀真理子先生

*はじめに

 仙台南伝道所の開設当初からの目標は、イエス・キリストの本当の弟子を目指すことです。私達の主イエス様の弟子と言えば、12弟子のことを連想するでしょう。彼らがイエス様に出会った後、主に従うようになったいきさつは、4つの福音書に書かれていますが、特にヨハネによる福音書を深く読むと、その葛藤を、他の福音書よりも読み取ることができます。

*洗礼者ヨハネの証しによってイエス様の弟子となった2人の弟子達

今日の新約聖書箇所に入る前に、直前の出来事からお話しする方がよいでしょう。神の民として旧約聖書を奉じてきたイスラエルの人々は、神様を大事にすることを何よりも重視し、神様への礼拝を司る祭司達を尊敬しました。この家柄に生まれ、イエス様を「救い主」と証しして洗礼を授ける役目を果たしたのが「洗礼者ヨハネ」でした。彼こそ、「神様が約束なさった救い主」と期待されたのですが、彼自身は「後に現れる救い主を証しする役割だ」と語り、それが実現したことを福音書は記しています。彼はイエス様を「神の小羊」と繰り返し呼びました。これは、イエス様が人々の罪を身代わりとして贖う「贖い主」という面を強調しています。この証しを聞いて真剣に受け止めたのが、元々は洗礼者ヨハネの弟子だった二人でした。人間的に見れば、最初の先生(洗礼者ヨハネ)の目前で、次の先生(イエス様)に従うのは、礼儀に欠けるように思えますが、彼らは人間の思いよりも神様の御心を尊重したことになります。

また、今日の聖書箇所に入ると、洗礼者ヨハネの証しは別の重要な働きもしたとわかります。即ち、旧約から新約への継承です。旧約の完成の象徴と言われる洗礼者ヨハネから、新約の主であるイエス様へ弟子達が引き継がれたということです。

*イエス様の2人の弟子達への最初の問い「何を求めているのか」(38節)

 この2人の弟子達は、しかし、イエス様に直接何か言って従ったのではなかったようです。もしかすると「救い主」を前に緊張して何も言えなかったのかもしれません。そんな彼らに対して、もちろん、イエス様は咎めたりなさらず、まず、「何を求めているのか」(38節)と問われました。この問いは、この2人の弟子達だけでなく、後の時代の私達信仰者への問いかけと受け止めるべき御言葉ではないでしょうか。私達は主のこの問いに対して胸を張って答えられる生き方をしているでしょうか。

*2人の弟子達の答え「どこに泊まっておられるのですか」(38節)

 今日の箇所に戻り、問いを直接受けた2人の弟子達の答えを見てみましょう。「先生、どこに泊まっておられるのですか。」(38節)です。これはイエス様の深い問いの答えとなっているでしょうか?ずれていますね。実は、この「泊まる」と訳された言葉の元々の言葉は、「宿泊する」という意味の根本に、「留まる」「存在し続ける」という意味を持っています。この弟子達は、イエス様の具体的な宿泊先を知りたかったかもしれませんが、彼らの心の奥にはイエス様が「神様と同じ存在として留まり続けておられるのか」、つまり、「本当に神様から遣わされた救い主かどうか」を知りたいと求めていることを、本人達ではなく、イエス様が既にわかっておられたと読み取れます。宿泊先だけなら、それを確認して帰宅させればよいと思えますが、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」とおっしゃった後、彼らと共に泊まったのです(39節)。その間、2人に対して、イエス様は御自分が神様と同じ存在として留まり続ける御方であるという言動をとられたのだと推測できるでしょう。

(ルカ福音書24章の「エマオでの復活の主と2人の弟子達の出来事」を想起させられます)。きっと、彼らは霊的な目が開かれ、「イエス様は救い主」だと確信したのでしょう。

*アンデレ=兄弟シモンや他の人々をイエス様の許に連れてきた弟子

この2人の弟子の内の一人は、初代教会の指導者の一人シモン(後のペトロ)の兄弟アンデレであり、アンデレが先にイエス様に出会い、兄弟を連れてきたと示されています。シモン・ペトロはイエス様の預言どおり、教会の岩=礎となりました。アンデレは、これ以降も様々な人をイエス様の許へ連れてくる働きをしました。私達も、自分自身が主の許に招かれ、主が救い主と分かったのですから、主の許に留まり、周りの人を主の許に連れて来られるように聖霊の助けを祈りましょう。

2020年1月26日の説教要旨

詩編19:2-7 ヨハネ福音書 2:1-11

         「イエス様の宣教の開始」    佐藤 義子牧師

*はじめに

今日の聖書は、イエス様の「最初のしるし」(11節)と言われるガリラヤのカナという町で、イエス様が弟子達と共に村人の婚礼に招かれた時の出来事が記されています。この婚礼の場に、イエス様の母もおりました。カナは、イエス様家族が住むナザレの町からそれほど遠くなかったようで、おそらくマリアは、知人の家での接待を手伝っていたと思われます。

*「ぶどう酒がなくなりました」(3節)

結婚を祝う宴会の席で、飲み物の「ぶどう酒」が途中で尽きてしまったことから今日の聖書は始まります。花婿の実家は庶民の家で、裕福ではなかったようです。裕福であればぶどう酒は豊かに蓄えられていたことでしょう。マリアはぶどう酒が尽きたことに気付き、この状況を何とかしなければ・・と、息子のイエス様に助けを求めてきたことは想像できます。

お祝いで飲むぶどう酒がなくなったことが明らかになれば、主催者側の花婿や家族は恥ずかしい思いをするでしょうし、花嫁側の家族にしても、不本意でありましょう。喜びを共にしようとお祝いに来た人達にとっては興ざめとなるでしょうし、結婚という、人生の中でも最も喜ばしい祝いの席から喜びも半減してしまうかもしれません。マリアはこの窮状をイエス様に伝えることによって、イエス様は何らかの方法で助けてくれるに違いないとの強い信頼があったことを思わされます。ところが、イエス様のマリアへの返事は、期待を裏切るような言葉でした。

*「婦人よ、わたしと どんな関わりがあるのです。」

 イエス様は母マリアに対して「婦人よ」答えます。丁寧な呼びかけですが、親子の関係を絶ち切るような言葉でマリアと向き合われています。なぜでしょうか。それは、イエス様の使命をマリアに正しく伝えることにあったと思われます。イエス様の使命は、母マリアの為に仕えることではありません。マリアの願望ではなく、神の御意志が先行します。

神様から今、地上に遣わされている目的は、神の国の福音を宣べ伝え、人々に悔い改めを求め、神様のもとへと帰るように促す「宣教」です。イエス様はこの使命を果たすために、弟子を選び、これから厳しい道へと歩みを進めていきます。御自分が人々の救いの為に神様の力をいただく時は、いつ、どのような時なのか、イエス様ご自身、神様の御意志を尋ねつつ祈りの中で決断していかれます。母マリアはそのことを理解して、息子との関係を新しい関係へと変えていかねばなりませんでした。

*「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」(5節)

 母マリアのイエス様に対する信頼と確信は強く、イエス様にすべてを委ねた後、手伝いの人に、イエス様の言葉に従うように指示を出していきました。ユダヤの家庭には、常に自分自身を清く保つための、手を洗う律法のおきてがあり、そのための水が水ガメに用意されていました。

イエス様は手伝いの人に、水ガメに水を一杯入れるように命じました。

次にそこから汲んだものを世話役の所に持っていくように命じました。水が世話役のところに届いた時、水はぶどう酒に変えられていました。

*「喜び」の奉仕者として  

イエス様は、初めはマリアの願いを退けられたように見えます。しかし御自分が何をなさるべきか神様の御意志を仰いだ後、イエス様ご自身の決断でこの「しるし」を行われました。「しるし」とは神様が私達の世界に入ってこられた「しるし」です。イエス様がこのしるしを行われたのは、花婿への同情や母の言葉に仕える為ではなく、花婿の家の人達に対する「喜び」の奉仕者として仕えること、祝宴を全うさせることが御心であったということでしょう。世話役は花婿に「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、,酔いがまわった頃に劣ったものを出すが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれた。」と言いました。私達の社会では初めはみんな良いものを用意しますが、その状態を続けようとはしません。しかし神の国では最初は「ただの水」(私達)でも、神様の自由な裁量で力が働く時にぶどう酒!に変えられていきます。与えられた各自の信仰は、私達に新たな使命を与え、感謝と喜びの生活へと導いていくのです。

1月12日の説教要旨

詩編119:105・使徒言行録 17:10-12

「み言葉と共に歩む」      佐藤義子牧師

*はじめに

 私たちは毎週、礼拝の中で御言葉を聞き、学び、心にとどめ、そして家庭や社会に戻り日々の歩みを続けております。私たちは、時に「つぶやき」の誘惑に襲われます。「なぜ、私が・・」「なぜ、神様はこのような試練を」「私には無理。出来ません」など・・。

神様が遠くにおられるような錯覚に陥る誘惑です。そのような時、先週の礼拝で聞いたイザヤ書の御言葉が響きます。「あなたはなぜ、『私の道は主に隠されている』と、いうのか。あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。主に望みを置く人は新たな力を得、わしのように翼をはって上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

心が折れそうになった時、この御言葉が浮かぶならば、私達は、このみ言葉によって 励まされ、祈りを新たにすることが出来ます。

*ベレアの町の人々

本日の聖書は、使徒パウロの二回目の伝道旅行の時の出来事です。

パウロの伝道の前には、いつも、反対者、敵対者が立ちはだかり、時に、民間宗教とぶつかり、群衆の反感を買い、市の当局者にムチ打たれ、投獄までされました(パウロの受けた労苦参照:Ⅱコリント11:23-)。

フィリピの町で、教会の基礎が出来たあと、町を去るように言われ、次に訪れたテサロニケの町でも教会の基礎が出来ますが、ユダヤ人の嫉妬による暴動を起こされて追われ、そこから南西に約75キロ離れたベレアの町にパウロとシラスは逃れます。今日の聖書には、このように記されています。 「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。

キリスト教の命は伝道であり、ここにおられる方々も(私も)伝道によって救われ、さらに今は、救いが家族や友人にまで及ぶことを祈り願っております。

*求道者から信仰者へ

信仰は神様が与えて下さるものです。もと神学校の学長であった桑田秀延先生も、次のように書かれています。「罪とは神から離れ、失われていることであり、本当に礼拝すべき神を礼拝せず、神でないものを礼拝し、自己中心になり、物質中心になることである。・・・罪の救いは人間の側からは、なされない。人間は・・全く無力である。救いは神の側からくる。恩寵(*注)としてくるのである。」

(*注)恩寵(おんちょう)とは神の恵み、罪深い人間に神から与えられる無償の賜物のこと。

コリント書にも(12:3)「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです」と、あります。

 以上のことを大前提としながら、今日のベレアの町の人々の、求道者としての姿勢を見て、伝道を考える時、いくつかのヒントを与えられると同時に、救われた後の私たち自身にも語りかけているように思います。

素直」とは、聞く耳を持っていることです。心の中が自分の思いや考えで一杯になっていたら、聞いても心に入らず、逆に、聞いた言葉を自分の考えで跳ね返してしまうでしょう。

又、彼らが「非常に熱心に御言葉を聞く」ことが出来たのは、自分の中に、真理・真実なるものを持ち合わせていないとの「謙虚さ」があり、それゆえにパウロの語る言葉は「聞くに値する言葉」であることを本能的に察知出来たのではないかと想像します。

その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」とは、当時旧約聖書しかありませんでしたから、パウロが語る「十字架にかけられたイエスこそ、メシア(キリスト)である」との宣教が、旧約聖書(イザヤ書53章)の預言の成就であるのかなど調べていたのでは、と推測されています。

*信仰者として生きる

私達も又、救われた時の「素直さ」、「熱心に御言葉を聞く」、「聖書を良く読む」など、御言葉と共に歩む生活を続けていくために必要な栄養を、日々求め、与えられていきたいと願うものです。

12月8日 待降節第2主日の説教要旨

詩編27:1-6・ヨハネ1:14-18   「神を示された御子」佐藤 義子(協力牧師)

*はじめに

待降節に入り、2本目のローソクに火が灯りました。今朝はイエス様が私達の住むこの世界に来て下さったことについて、ヨハネによる福音書の1章から学びたいと思います。

 ヨハネ福音書は、ほかの三つの福音書とは違い、その書き出しは非常に強烈な、インパクトのある表現で始まります。

初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」

一瞬、何を言っているのか、わからずに読み進んでいきますと、言(ことば)とは、イエス様のことであることが分かります。そして「初めに」という言葉も、初めの初め、まだ天地が造られる前の、「初め」だというのも分かってきます。創世記1章1節に、「初めに、神は天地を創造された」とある、この「初め」に、イエス様はすでに神様と共におられた、ということです。

私達は「見える世界」に住んでいて、しかも時間(歴史)の中の、ほんのわずかの一時期しか、この地上に存在することは出来ません。けれども、聖書は、私達に見えない世界のこと、時間、空間を越えた「永遠の世界」があることを教えてくれます。

 ここで、言(ことば)と表現されている神の御子イエス様は、天地創造以前、永遠の世界で、父である神様と共におられました。ところが、今日読んでいただいた1章14節に「(ことば)は、肉となって、私達の間に宿られた」とあるように、「永遠の世界」から、「時間と地上の世界」に、神様から遣わされて来られました。

肉となって」との表現は、肉体を取る・・私達と同じ人間になるということです。永遠の、見えない世界におられた神の御子イエス様が、見える時間の世界に来られた、人間として誕生されたのです。人間は、肉体を持つゆえの誘惑があり、罪も宿り、さらには「死ぬ」定めを負っています。

神の御子イエス様は、人間になられたことにより、罪と死のある領域の中に、住まわれたのです。

ヘブライ人への手紙5章7節以下に、こう記されています

キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」さらに、フィリピ書2章6節以下には「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と記されています。

*御子イエス様が地上に来られた目的

神の御子が私達と同じ人間として生まれられた、その目的は何だったのでしょうか。12節以下に書かれています。

言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 イエス様が来られたのは、この地上の暗闇に、「光」としてすべての人を照らすため、そして一人でも多くの人々を「神の子とする」ためです。この、イエス様の働きを引き継いだ弟子達によって教会が生まれ、私達の小さな群も又、弟子達と同じように、まことの光として来られた救い主イエス様のことを、そして愛する御子を私達の為に遣わして下さった神様のことを伝え続けています。

*「わたしたちはその栄光を見た」(14節)

地上でのイエス様は「飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」(ルカ2:12)の姿が象徴しているように、この世の権威や権力から離れた世界に身を置き、最後は、十字架で殺されるという悲惨な最後で地上での生涯を終えられました。しかしヨハネ福音書の著者は、イエス様に隠されていた「栄光」を見たと証言しています。その栄光は父(神)の独り子としての栄光であって、「恵みと真理とに満ちていた」と伝えています。

イエス様は生涯、父である神様と霊で結ばれて、神様と共に歩まれました。神様はイエス様を通して自らを現わされました。イエス様の中には、偽りも憎しみもなく、真理の明るい光の中にすべての思いと言葉がありました。

*「私達は皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(16節)

「恵み」とは、それを受けるのに十分な理由も、価値もないのにもかかわらず、神様から一方的な愛、神様からの全く自由な愛が与えられることです。本当ならば受けるに値しない「神様からの恵み」です。讃美歌271番の最初で「功(いさお)なき我を、血をもて贖い(あがない)」と歌いますが、神様の前に、功績といえるものを何も持たない私達が、一方的な神様の愛によって、イエス様の流された血潮により罪が赦された、というこの讃美歌は、神様の大いなる恵みを讃美している讃美歌です。

*救いの恵みに与った(あずかった)者の歩み 

そして、救いの恵みに与った私達の、その後の歩みに於いて、恵みは、私達を立ち上がらせ、生き生きとさせてくれます。私達の人生には苦難がいろいろな形で押し寄せてきます。経済的困難、思いがけない病、自然災害、又、愛する人との別れ、人間関係におけるさまざまな問題などなど・・。それにもかかわらず、神の子とされた信じる者達の歩みは、一つの恵みに、やがて新しい恵みが加わり、恵みから恵みへと導かれていくことが語られます。

異なった環境で、異なった恵みがいつもそこにあるのです。順境の時と、逆境の時、青年時代と老年時代、自分の重荷を負う時と人の重荷を負う時、それぞれの時に、信じる者には、16節にあるようにイエス様の満ち溢れる豊かさの中から、恵みをいただき続けます。神様の恵みは、同じところにとどまっているのではなく、私達が生きる現場に応じて次々と形を変えて注がれます。そして、どのような困難の時にも押しつぶされない勝利が約束されているのです。聖書は真実です。恵みが途切れることはありません。もし、神様が用意されている恵みがわからず、苦しい時には、神様に、「信仰の目を開かせて下さい」と祈ることも良いでしょう。私達が受ける試練が、あとになってからその意味を知ることもあります。

*私の証し

私は、主人の母の介護を通して、神様の恵みを感じることが多々ありました。が、ある時期、神様の恵みを感じることが困難でした。それは母に幻視(ないものが見える)が起こっていた時期でした。母は昔、幼い娘を亡くした体験からか、小さい女の子がそばにいたのにいなくなったと捜す症状でした。何日も続くと私自身も寝不足になります。もう家での介護は限界かなと考え始めていた時です。母は別の症状に移ったことがきっかけで、小さい女の子を捜し回ることは終りました。困難な仕事と思えることでも神様は必ず助けて下さり、どんなに大変なことでも、ぎりぎりになって「神様、もう出来ません」と祈ると、必ずそこから又、新しい状況が開かれていくという経験を何度もしました。それ以来、何か大変なことが起こっても、私が引き受けられるから、神様はそのような状況に私を置かれていると自然に思えるのです。そして、その場その場で「ああ、守られている」と神様の恵みを実感し、感謝の日々です。

*「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」(18節)

 イエス様が十字架にかかられる前に、弟子達に「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」と言われました。その時、弟子の一人が、「私達に御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言いました。イエス様は、「私を見た者は父を見たのだ。なぜ、『御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである」と答えられました。 イエス様は永遠の世界から、私達の住む世界に、私達を神の子とするため、私達に神様を示すために来て下さった!のです。クリスマスの本当の意味を一人でも多くの方達に知って欲しいと心から願うものです。

11月3日・召天者記念礼拝の説教要旨

詩編23編・エフェソ書3:14-21 

        「三つの祈り」         佐藤 義子 

*はじめに

日本基督教団では、毎年11月の第一日曜日を「召天者記念礼拝」として守っています。私達の伝道所では3名の方々を覚えての記念礼拝ですが、この方々は、地上の生涯を終えるまで神様を信じて神様に従った方々です。  

私達は、先に召された方々の信仰生活を思い起こすことで時に励まされ、時に慰められ、又、時には「今いらしたら、きっとこう言われるでしょう」と教えられたりします。博子姉が後遺症で身体が不自由になり、つい不満を言いかけた直後、「『そんなことを言うなら、こちらにいらっしゃい』」と神様から言われてしまうわね」と良く言っていました。又、「私達(クリスチャン)は良いことが起こった時、神様に感謝するけれども、神様を知らない人は「運が良かった」と言って、時には威張ったりするのね。神様を信じているからこそ、私達は感謝できるのね」などの言葉を思い出します。 

平野兄で思い出されるのは、最後の日々を非常に穏やかに過ごされていたことです。ああして欲しい、こうして欲しいなどの不満は一切聞いたことはありません。訪問時、待降節の季節でしたのでクリスマスの讃美歌をたくさん、(おそらくご一緒に)歌った楽しいひと時が思い出されます。

石川兄はガンとの闘病生活を送られて63年の生涯でしたが、克明に闘病日記を記され、信仰のことや聖書の御言葉なども残され、看護婦さんにも伝道されていかれました。石川兄の記念礼拝には看護婦さんも福島から出席して下さり、以来「こころの友」を郵送しています。

神様を信じる者は、神の国の民とされて永遠の命をいただいていますので、肉体の死は天の国への入り口に過ぎません。終末の時、神様を信じる者達は、聖書で約束されているように「復活体」という霊の体が与えられます。そして「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3~)。

*異邦人

本日の聖書は、パウロが獄中から、異邦人教会に宛てて書いた手紙です。異邦人(ユダヤ人以外の外国人)は、それ迄、天地創造主のまことの神様を知らず、「律法」もなく生きてきた人達です。けれども神様の大きな愛はユダヤ人だけでなく信じる者すべての人を神の子とするために御子イエス様を遣わしてくださり、十字架で流された血によって、それまでの罪があがなわれ(赦され)、「神の家族」とされたことが、この手紙で語られています。私達日本人も異邦人ですが、「イエス・キリストを信じる」信仰により神の子とされました。これは大きな神様の恵みです。クリスチャンになった(とされた)私達は、神の国の民として新しく生まれ、新しい命が与えられました。新しく生れた者は、乳児から離乳食へ、そして固い物も食べられるように成長していきます。

*とりなしの三つの祈り

今朝の聖書箇所には、パウロが神様にささげた、「新しく生れたクリスチャン」達に対して「とりなしの祈り」が祈られている箇所です。

祈りの一つは、「あなたがたの内なる人を強めて下さるように」です。この祈りにつけ加えられて、「信仰によって心の内にキリストを住まわせ」「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」と祈られます。二つ目に、「キリストの愛を理解し、キリストの愛を知るようになるように」。です。三つめに「神様の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」との祈りです。

*強めて下さい

新しく生まれたクリスチャンが、神様の霊により、力をもって、「内なる人を強め」てくださるようにとの祈りですが、別の訳では「あなたがたのうちに与えられた新しい命を強くして下さるように」と訳しています。そして「キリストが心の内に住んで下さるように」とは、心の状態を、イエス様をお迎えして住んでいただける部屋に整えること、それには心を荒立てたり、怒りや憎しみの感情などは、外に吐き出しておかねばならないでしょう。

この箇所を、「イエス様があなた方の心に住み、喜んでそこに住み続けて下さいますように」と訳している聖書もあります。続いて「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」とあります。イエス様が心の内に住んで下さるならば、私達は、神様の愛という土壌の中に深く根を張ることが出来、そのしっかりした愛の土台に立ち続けて成長していけるのです。私達は、神の国の民として新しい命が与えられた(クリスチャンとされた)ことにとどまるのではなくて、成長していく道(=強くされていく道)が大きく開かれています。

*キリストの愛を理解し、キリストを知る道

パウロが捧げた二つ目の祈りは、神の子とされた者は、「キリストの愛を理解」するように、「キリストを知るようになる」ことを祈っています。パウロは、信仰の成長の為には、このことが不可欠であると考えているのです。神様の愛、キリストの愛は、広さ、長さ、高さ、深さでも、測ることが出来ない無限大であるゆえに、言葉で説明することは不可能です。

しかし私達は福音書を通して、その愛の一端に触れることが出来ます。

*イエス様の愛に触れる

たとえば姦淫の現場を捕えた女性を、律法により石打ちの刑で裁こうとしていた群衆に対して、イエス様はただひとこと「罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げよ」(ヨハネ8:7)と、持っていた石を手離させ、ご自身もこの女性を罪に定めず、「これからはもう罪を犯してはならない。行きなさい」と女性をその場から去らせたイエス様の愛を思い起こします。ザアカイもイエス様の愛に触れた人でした。人々から「罪人」呼ばわりされ嫌われて、お金はあっても孤独であったザアカイに対して、イエス様から声をかけ、彼の家の泊り客となられました(ルカ19:5)。又、イエス様が自ら、私達を羊に譬えて、迷子になった、たった一匹の羊の為に、ほかの99匹を置いてでも見つかるまで探し続ける羊飼いであることを語られています(ルカ19:4)。又、善きサマリア人は犬猿の仲であったユダヤ人が強盗に遭い半死の状態で倒れていたのを見つけて、その人の傷の手当だけでなく宿に連れて介抱し、宿の主人に、治るまで宿において欲しいと宿賃を渡し、足りない時は、仕事帰りに払うと言いました(同10:25)。最後まで見捨てることのないこの愛こそイエス様の愛です。

さらに、地上で最後の十字架で息を引き取られる時、イエス様を死へと追いやった宗教指導者や群衆、総督ピラトはじめ多くの兵士達のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、神様に執り成しの祈りを捧げられました。

パウロが手紙で、キリストの無限の愛の大きさを理解するように、そして、人間の知識をはるかに超えたこの愛を知るようにと祈った祈りは、信仰による新しい命が強くされていくこと、心の内にキリストに住んでいただくこと、神様の愛という土壌の中に深く根を張り、愛にしっかりと立つ者になることと、すべてがつながっています。

*「ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

この祈りは、愛と恵みと力で満ちている父なる神様のもとへ、イエス様の愛が私達を導いて下さり、私達も又、神さまの豊かさで満たされますようにとの祈りです。

ある注解者は「もし、この祈りを教会が祈り、教会が神様から、この祈りの答を受けるならば、教会は神様の賜物によって満たされ、完成される」と言っています。具体的には、神の義が私達に与えられ、神の愛が私達に注ぎ込まれ、神の栄光が私達を照らし、神の平和が私達の心の中に住むようになる」と説明しています。

*私達の祈り

私達の日ごとの祈りは、置かれた立場にあって祈る課題もさまざまです。しかし日ごとの祈りは、私達の信仰を形づくり信仰の成長をも導いてくれます。私達は、パウロの執り成しの祈りを通して、先ず神様に何を祈り求めていくべきかを教えられます。内なる人が強められ、どんなことにも動揺せず、心にイエス様に住んでいただき、愛に深く根を張り、イエス様の愛の大きさを理解し、人知を越えたこの愛を深く知り、神様の満ち溢れる豊かさで満たされていくように共に祈っていきましょう。

2019年10月6日・世界宣教の日の説教要旨

イザヤ60:1-2・コロサイ1:17-23 

「世界中に伝えられている福音」     佐藤 義子

*はじめに

本日は、「世界宣教の日」(日本基督教団・10月第一日曜日)です。福音が全世界に宣べ伝えられることはイエス様の遺言でもあり、マタイ福音書の最後に、イエス様の語られた言葉が記されています。

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 この言葉は、「大宣教命令」と呼ばれ、教会はこの言葉と共に歩みを続けていると言っても過言ではありません。教会の使命は伝道です。クリスチャンの使命も伝道です。誰に伝道するのでしょうか。聖書で語り伝えている神様もイエス様も知らない方達にです。家族、親族、友人、知人にとどまらず、神学校に導かれ牧師として、全く知らなかった地域で伝道している方々も多く、さらに、キリスト教主義の学校・病院・施設・幼稚園・保育園などで働きながら伝道している方々も多くおられます。(文書伝道・ラジオ伝道・インターネット伝道もあります)。

*世界宣教

目を国内から海外に向けて宣教師として伝道されている方々も多くおられます。私達日本人は「宣教師」という母国から海外伝道に派遣された方々によって福音を伝えられ、今や「イエス・キリスト」の名を聞いたことがないという人はいなくなり、迫害もなく、この山田の地でもこうして礼拝が捧げられていることは本当に感謝なことです。現在日本基督教団では、14ヵ国に20人の方々を派遣しており、子供も一緒の家族での派遣も、又、単身で赴任される方々もおられます。仙台南伝道所では、以前、聖書翻訳宣教師として働かれた虎川宣教師と、インディアン伝道をされているアメリカからウェイド宣教師をお迎えして説教を伺い、その内容は伝道所の「説教集」に収録されていますので、再び読まれることをお勧めします。

 *コロサイ書1章23節

本日の聖書の23節後半に、「この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました」とあります。パウロが仕えた福音こそ、私達が教会で聞いて、信じて、今も、依って立つ信仰の基盤です。

 *信仰の基盤

  今日お読みした聖書の少し前の14節から、少し先の2章12節の間に、重要な言葉が五つ出てきます。①「罪の赦し」(14節)②「御子は教会の頭(かしら)」(18節)③「十字架の血」(20節)④「神との和解」(同)⑤「私達の復活」(2:12)。この5つの言葉をつなげますと、以下のような福音、私達が聞いて信じた福音の内容が明らかにされています。

*福音の内容

私達は、かつては神様から遠く離れ、闇の力の支配下に置かれており、神様から離れている(=罪)ことさえ意識していませんでした。しかし神様は私達を愛するゆえに、御子イエス様を遣わして下さり、私達が神様から離れて生きてきたそれ迄の「」を、イエス様が流された「十字架の血潮」(=罪のあがない)によって「赦し」て下さり、それによって「神様と私達との和解」がもたらされました。この福音を信じる信仰によって私達はバプテスマを授けていただき、それによって罪の中で生きてきた古い自分がイエス様と共に葬られ(死んで)、イエス様と共に「新しい自分へと復活」させていただき(=闇の支配の領域からキリストが支配される領域に移された)、「救いの恵み」が与えられました。「御子イエス様は、教会の頭(かしら)」であり、教会(=信仰告白共同体)は、イエス・キリストの体です(コロサイ書1:18節 / エフェソ書1:23)。

*正しい信仰とそうでない信仰

 パウロの時代には、違う福音理解を持ち込む危険な指導者達がいました。それゆえパウロは23節で、「揺らぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」と記します。私達も聖書から、教会から、離れることなく、聞いて信じた福音に堅く立ち、伝道のために用いていただきたいと願うものです。

2019年6月2日の説教要旨

詩編62:8-9・フィリピ3:10-4:1

        「私達の目指すゴール」   佐藤 義子

*はじめに

フィリピ書は、パウロがローマの監獄に囚われていた時に書かれた獄中書簡と言われる手紙の一つです。イエス様が神の御子であり、私達を罪の支配から救い出すために十字架の死を引き受けられ、その後、神によって三日目に復活され、「聖霊降臨と再臨」の約束を弟子達に与えて昇天されました。今も私達に聖霊を送り続けて下さっています。この「福音」を、正しく宣べ伝えていくためには、いつの時代でも困難が伴ないます。が、パウロは私達の想像をはるかに越えた大きないくつもの困難の中で、伝道旅行を続け、教会をたて上げていきました。そしてそれらの教会の信徒達を心から愛し、育て、旅行先から、又、監獄からも手紙を書き、信仰を与えられたすべての人達が、信仰に堅く立って生きるように励ましました。

 フィリピ書は、フィリピの教会の信徒達に送られた手紙ですが、時代と場所を越えて全てのクリスチャン達に、そして私達にも届けられた手紙として、送り主であるパウロの熱い思いを感じながら読みたいと思います。

*クリスチャンの目指すもの 

私達は、信仰が与えられ洗礼を受けてクリスチャンになった時、それはとても大きな大きな恵みの出来事であるゆえに、そこで何かを達成したような(もう、これで安心!)「誘惑」に襲われることがあります。けれども、今日の聖書では、クリスチャンには達すべき目標・ゴールがあり、すでに伝道者として歩んでいたパウロさえ、まだ達していないと告白しています。「わたしは何とかして、そのゴールに達したい。神様がお与えになる賞を得るために、そのゴールを目指してひたすら走る」と言っています。そのゴールとは、「死者の中からの復活」(11節)です。

*「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私達は待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」(20節-21節)

すべてのことには初めがあり終りがあるように、この地上での私達の世界は「終末と再臨」が来ることをイエス様は語り、約束されました。その時には、信じる者は、天に属する霊の身体(復活体)が与えられることをパウロは、「Ⅰコリント書15:35-」でも丁寧に記しています。

*「キリストとその復活の力とを知り」(10節)

神様の力がどれ程のものかは私達の想像を越えています。この世界を、昼と夜に分け、大空と海と地に分け、地上には植物を、天には太陽と月と星を、海には魚を、空には鳥を、地には動物を、そしてこれらすべてを管理する者として人間を創られました。この神様の測り知ることの出来ない創造の力は、イエス様を死から命へと復活させた力にも現れました。「キリストとその復活の力とを知り」とあるように、クリスチャンは、この神様の絶大な力を知ることがゆるされています。ところで、私達は神様を過小評価していないでしょうか。天使ガブリエルはマリアに、「神に出来ないことは何一つない」と宣言されました。私達は、主イエス・キリストについてさらに深く知ると同時に、神様がイエス様を復活させた、その「復活の力」を知らされつつ、ゴールに向かって走り続けていますが、その道程において、イエス様の苦しみにも与(あずか)ります。

*「キリストの苦しみに与り

信仰を与えられると、愛する家族や親族、友人達に救いの喜びや神様の恵み、平安の中で過ごす素晴らしさを知って欲しいと願うようになります。しかし、イエス様のご受難に比べれば、はるかに小さいとは言え、私達の伝道も又、多くの困難や試練の中に置かれます。時に孤立し、無理解、誤解、偏見もあります。神様を知るがゆえの社会の不正や罪との戦いもあります。私達は、クリスチャンとして生きる大きな恵みの中で、イエス様の苦しみにも与る(つながる・連帯する)のです。「イエスの名の為に辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5:41)ます。

*「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、ひたすら走る

「私がキリストに倣う者であるように、あなた方もこの私に倣う者となりなさい」(Ⅰコリント11:1)。この呼びかけに応えたいと願います。