「光の子として歩む」   牧師 佐藤 義子

/n詩編 18:26-35  /nエフェソ書5:6-14 /n はじめに  キリスト者とは、「イエス様を、神の子・救い主と信じる者」です。 以前は、そのような信仰を与えられていなかった者が、神様に出会い神様から信仰が与えられ、神様を信じて従って行く決断をして、バプテスマを受けてクリスチャンになった者です。今日の新約聖書のエフェソ書5章を開くと、右頁下段に、「古い生き方を捨てる」との小見出しがあり、左頁上段には「新しい生き方」とあります。ここから、クリスチャンとは「古い生き方を捨てて、新しい生き方へと変えられた者」だとわかります。 /n 私達は神に愛されている子供 5章1節で、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と呼びかけています。私達は神様から愛されている子供です。なぜなら神様は、私達に愛する独り子イエス様を下さったからです。 もしもイエス様がおられなかったら、私達は神様から罪を赦されないまま、祈ることも出来ない関係が続いていたでしょう。しかし神様は私達を愛して下さっていた。だからイエス様を下さったのです。そしてイエス様は、私達の罪が赦される為に十字架で血を流されました。私達の罪はあがなわれ、信じる者は神の子とされ、「天のお父様」と祈る道が開かれたのです。 /n 神に倣う者となりなさい 神様は、たとえ私達がどのような者であっても、全くの無条件で、信じる者を神の子とされました。「神に倣う者」とは、神の子としてふさわしくありたいと願うことであり、イエス様に倣うということでもあります。イエス様は私達の為に、ご自身を捧げて下さったから、私達もそれに倣い、愛によって歩むようにと聖書は勧めています。 /n 今は光となっている 8節に、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」とあります。クリスチャンは「光」とされました。神様が光であるから、御子イエス様は、光としてこの地上に来られ、そして、信じる者は「光の子」とされ、神様に愛されている子供です。   光でない者は闇です。人は、光か、闇か、どちらかであり、中間はありません。そして、光は実を結び、暗闇は永久に不毛です。 /n 光から生じるもの   9節に、「光から、あらゆる善意と正義と真実が生じるのです」と記されています。あらゆる奉仕に働く善き意志、悪から遠ざかる正義、偽善を拒む真実が、光から生れます。光は、多くの実を育てて成熟させます。ガラテヤ書では、光から生れるものを「霊の実」と表現して、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を挙げています。 キリスト・イエスのものとなった人達は、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったと説明します。十字架につけたということは死んだということです。死んだ肉欲の働きとして、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、このたぐい」を挙げています。これらは暗闇であり、何も生み出さない「不毛」だということが良くわかります。   /n 光の子として歩む 真っ暗な部屋に一筋の光が入った途端、暗闇は逃げて行きます。私達クリスチャンは光ですから、闇とは共存できません。 14節には「眠りについている者、起きよ」と呼びかけています。眠っている人は、眠っていることを自覚できません。自分が眠っていることを知るのは目覚めた瞬間です。 目覚めて闇から救われたキリスト者は、聖霊の導きをいただいて、光の子として歩んでいきましょう!

「パンと神の言葉」   牧師 佐藤 義子

/n詩編 91:1-13  /nマタイ福音書4:1-11 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様が荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた時の出来事です。私達が信じるイエス様は神の御子であり、私達人間を救う為に、この地上に人間として生れて来られました。人間として生れてくださったということは、肉体を持つゆえの苦しみや戦いが私達と同じようにあり、その御生涯は、私達と比べることの出来ない、はるかに厳しいものでした。 イエス様が、おおやけの生涯に入られたのは30歳の頃と言われますが、最初にされたことは、ヨルダン川に行き、バプテスマのヨハネから洗礼を受けることでした。ヨハネは、罪を犯されなかったイエス様に洗礼を授けることを拒みますが、「正しいことを行うのは我々にふさわしいこと」と言われて授洗します。すると天が開いて神の霊がイエス様の上に降り、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という神様の御声がありました。 その後、イエス様に降った霊が、イエス様を荒れ野に導いていきました。 霊に導かれて荒れ野に行かれたということは、このことが神様から出た、神様のご計画であったと受けとめることが出来ます。 なぜ、神の御子が誘惑を受けなければならなかったのでしょうか。 /n誘惑 誘惑は、人が人として正しく生きていくことを邪魔し、人を堕落させ、神様から離反させることを目的とします。外から来る誘惑もあれば、内側から起こる誘惑もあります。洗礼を受けられたイエス様は、40日間、断食され、そのような状況のもとで悪魔の前に立たれました。空腹を覚えられたイエス様への最初の誘惑は、「あなたが神の子ならば、石をパンに変えてみよ」でした。第二は、「あなたが神の子ならば、神殿の屋根から飛び降りてみよ。聖書に、『天使が支えてくれる』と書かれている。」という聖書を引用しての誘惑でした。第三は、「もし、悪魔にひれ伏して拝むなら、この世のすべての権威・権力を与える」という誘惑です。 最初の二つは「あなたが神の子なら、私の言う通りやってみよ」との誘いです。 /nイエス様の応答   イエス様は神の御子として、石をパンに変えることも、高い所から飛び降りることも出来ました。しかし神様が「生きよ」と命じられる時、パンがなくても命を保ち続けることが出来ます。イエス様が神様の力の中で命を支えられる限り、どのような者もイエス様の命を損なうことは出来ません。悪魔は、神の力を使うように誘導しましたが、イエス様は申命記の言葉で、この誘惑を退けられました「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」(8:3)。   第二の誘惑も申命記で退けられました。「あなたたちの神、主を試してはならない。」(6:16)。イエス様が悪魔の誘いにのり、神殿の屋根から飛び降りるならば、神様がイエス様を守って下さるかどうかを試すことになります。神様が支配者であり、神様の主権を認めるなら、神様の意志が先行しなければなりません。イエス様は、神様がなすように命じられたこと以外は何もなさらないことを伝えました。 /n「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕えよ。」(申命記6:13) 最後の誘惑は、悪魔にひれ伏すことによって、この世の支配権をすべて与えるというものでした。お金や地位や権力など生きる為には大きな武器となり得ます。しかしイエス様は、申命記の言葉をもってサタンを退けました。イエス様はご自分の上に、神様以外のどのような支配をも許されませんでした。イエス様は私達に、神様に従って生きる生き方をはっきりと示し、誘惑や試練の中での、悪魔に勝利する道を教えられ、以後の公生涯においてもサタンとの戦いの中で神様への従順を貫かれ(フィリピ2:8)、この世の勝利者となられました。(ヨハネ16:33)。 私達も又、御言葉をたくわえて、み言葉に従順に従う信仰をもって、この世の戦いに勝利されたイエス様の御跡に従っていきたいと願うものです。

「神のものは神に」  伝道師 平賀真理子

/n出エジプト記 20:4-6  /nマルコ福音書12:13-17 /nはじめに イエス様の地上での最後の一週間の三日目の出来事です。この日イエス様を神殿から追い出そうとして、祭司長、律法学者、長老達はイエス様の言葉じりをとらえて陥れる為、ファリサイ派やヘロデ党の人をイエス様のところに遣わしました。ファリサイ派とヘロデ派は、本来は、相いれない者同士です。しかし「イエス追放」という共通の目的に向かって、一時的に手を結んでいます。彼らは、自分達の敵意を隠す為に、イエス様を褒め(「あなたが真実な方であることを知っています」)、イエス様を油断させ、失言を引き出そうと考えたようです。 /n言葉のわな 彼らはイエス様に「あなたは・・真理に基づいて神の道を教えておられるからです」と敬意を装った後、「皇帝に税金を納めることは律法に適っているでしょうか」と質問したのです。この質問は、神の民であるイスラエル民族が、異邦人の国の皇帝に税金を納めることの是非を問うものです。「納めるべき」と答えれば、「異邦人支配を容認した」と責めることが出来ます。又、民衆は重税で苦しめられていたので、イエス様の人気は失墜するでしょう。「納めるべきでない」と答えれば、ローマ寄りのヘロデ派の人々が黙っていません。どちらに答えてもイエス様を追い込めます。 /n「銀貨を持って来て見せなさい」 しかしイエス様は人の心に何があるかを知っておられる方です。彼らの 醜い意図を見抜きつつ、それでも忍耐して質問に答えるため、まず彼らにローマのデナリオン銀貨を確認させました。貨幣にはローマ皇帝の肖像と銘がありました。イエス様は、「皇帝のものは皇帝に」と言われ、その後で更に、「神のものは神に返しなさい。」と答えられたのです。   /nこの世の大原則 イエス様の答えは、納税だけでなくこの世の大原則を示されています。それは、神様が本来この世を造られたのであるから、この世のすべては神様に返されるべきものであるということです。神様の造られた世界にあって、皇帝などは一時的に権力を借りているにすぎず、その繁栄も一時的なものです。しかも権力をめぐり、この世は、残忍、嫉妬、狡猾、欺瞞などが渦巻く世界になってしまいました。 /nイエス様の目的 神様は人間を深く熱烈に愛しておられたので、サタンのわなによって悪に染まった人間とこの世を、神様が本来造った性質に取り戻すために、最終的に御子イエス様をこの世に送り、イエス様の歩みを通して救いのご計画を実行されたのでした。「もともと神のものであった人間やこの世を、神に返す」。これこそイエス様が来られた目的です。イエス様の十字架の血潮に贖われて、神様のものとされた信仰者の私達は、本当の意味で神様に返されるにふさわしいものとなっているでしょうか。 /n神様の祝福 今日の旧約聖書には、「私を愛し、私の戒めを守る者には幾千代にも及ぶ祝福を与える」とあります。神様のことを第一に思い、その御心を知り、御言葉を守る者に、神様は永遠に祝福を与えて下さいます。 私達はイエス様の教え、弱い者への愛、へりくだりの心を中心に、誠実に生きることが求められているのではないでしょうか。日々の祈り、聖書の学び、愛に基づいた働き、そして主日ごとの礼拝によって、神様のものとされた私達の霊に、神様の像が深く刻まれていくのです。 「どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。…御父は、私達を闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さいました。私達は、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」                        (コロサイ1:9-)。

「だから、わたしも働く」  牧師 佐藤義子

/n詩編32:1-7 /nヨハネ福音書5:1-18 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がなさった奇跡の中でも「ベトザタの池の奇跡」(口語訳「ベテスダの池」)として良く知られています。この出来事ではイエス様と、38年間病気で苦しみ、歩くことの出来ない人、そして、熱心なユダヤ教徒達が登場します。  初めに38年間という時間を考えてみます。例えば私の場合、満州に生れて、日本に引き揚げてきて、子供時代を経て高校を卒業し会社に勤め、神学校に行き、大学紛争をはさんで7年後に卒業して学校の先生になり、結婚し、三人の子供が与えられ育てていた年月です。それは大変長い長い時間です。この長い時間を、この人は、病気という状態で、エルサレム神殿の「羊の門」とよばれる門の近くの池を囲む回廊で、他の同じような体の不自由な人々と一緒に過ごしていました。何歳からかわかりませんが、毎日神殿に来る大勢の人達を見ながら、神様はなぜこのような不公平をお許しになるのかとうらめしく思い、自分の人生に絶望したこともあったかもしれません。しかし長い間、同じ状況が続く内に、あきらめに似た気持を抱くようになっていたかもしれません。私達の想像をはるかに超えた人生です。 ある日イエス様は祭りの為エルサレムに来られ、回廊に横たわる大勢の病人や、目の見えない人、足の不自由な人、体のマヒした人達の中から、この、38年間病気で苦しんでいた人に目をとめられました。 /nいやし イエス様が最初にこの人に「良くなりたいか」と尋ねた時、この人は、「主よ、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。」と答えています。 「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていてもいやされたからである。」と、ヨハネ福音書の最後に説明があります。 ここは間欠泉であったらしく、活性を帯びた水が時々噴出し、この活性の強い水に触れた人が、それによって治癒したことが背景にあるようです。彼は孤独であり、助けてくれる家族、友人はいませんでしたが、治りたいとの思いはこの言葉に溢れています。 イエス様は、この言葉を受けて、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。彼は即座に癒されて、イエス様の言葉通り、それまで横たわっていた担架か布団を持って歩き出しました /n「律法で許されていない」 その日は、律法ですべての行動が制限されている安息日でした。彼が病から解放され、喜んで床を担いで歩いていたところを、ユダヤ人達から「律法破り」と、とがめられたのです。彼は、自分に歩けと言った人がいて、自分は、ただその人の言うことを聞いただけだと釈明をします。ユダヤ人達は、律法を破ることを命じた者が誰かを追求しました。癒された男はイエス様の名を知りませんでしたが、この後イエス様と再会し、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかも知れない」と言われました。ところが彼はユダヤ人達のところに行き、自分に律法を破らせたのは「イエス」だと知らせました。そこでユダヤ人達のイエス様への迫害が始まったのです。   /n「私の父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働く」   迫害するユダヤ人に対して、イエス様は神様を父と呼び、父なる神様は昼も夜も24時間、365日、働いておられることを主張されました。イエス様は神様の御子として神様に従順であり、神様に逆らって行動されることはありません。熱心なユダヤ教徒達が、どんなに律法を引き合いに出して、その正しさを主張しようとも、イエス様は、「目に見える行為の律法遵守」を超えて、律法の精神である「神様の愛の業」に生きられるのです。父なる神様も、御子イエス様も、今も働いておられます。   それゆえに、神様を信じ、イエス様を信じる私たちですから、私達も又、神様の愛のわざに参与させていただけるよう、必要な時はいつでも働けるように、心も体も整えて、今週も歩んでいきたいと願うものです。

「自由を得させる真理」  牧師 佐藤義子

/n詩編125編 /nヨハネ福音書8:31-38 /nはじめに  今読んでいただいたヨハネ福音書の最初には、「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人達に言われた」(31節)とあります。30節に、「これらのことを語られた時、多くの人々がイエスを信じた」(30節)とあるので、それ迄イエス様のことを信じていなかったユダヤ人達が、イエス様の話を聞くうちに、イエス様を信じるようになったことがわかります。  ところがこの後、59節には、イエス様の言葉を聞いていたユダヤ人達が、手に石を持ってイエス様に投げつけようとした為、イエス様は神殿から出て行かれたことが記されています。イエス様を信じたはずのユダヤ人達が、イエス様との会話により敵対者となっていくことに驚かされます。 /n本当にイエス様の弟子になる イエス様は、「わたしの言葉にとどまるならば、あなた達は本当に私の弟子である。」(31節)と言われました。イエス様の言葉に、絶えず信頼をもってとどまるということは、イエス様から離れない。イエス様を信じ続ける。信頼し続ける。イエス様に目を向け続ける。脇見をしないことです。 具体的には、イエス様の言葉に導かれる。イエス様の言葉が私達の思いと意志を動かしていくということです。そうするならば、私達は空しい空虚な思いや、空想や、偽りと決別し、人を自由にする「真理」を知ることが出来るとイエス様は言われます。 /n「真理はあなたたちを自由にする」 ところがイエス様を信じたはずのユダヤ人は、イエス様が続いて言われた「真理はあなたたちを自由にする」と言う言葉に反発しました。つまり、自分達はもともと自由であり、誰かの奴隷になって不自由な状態になったことはないと主張したのです。それに対してイエス様は、「罪を犯す者は罪の奴隷である。」すなわち、「あなたは罪の奴隷だ」と言われたのです。 /n罪の奴隷  罪とは何でしょうか。簡単にいえば、神様への不服従(戒めを破る)です。 例えば、十戒の中に「偽証してはならない」があります。ところが人間社会では、自己弁護、自己正当化のために「うそ」が入ってきます。「うそ」をつくことは罪です。うそをつかざるを得ない状態は、鎖につながれた不自由な奴隷状態にあります。生まれながらの人間は、さまざまな欲望を持っています。そしてその欲望を満たすために、頭では悪いと知りながらコントロールがきかず、罪の奴隷となっています。    この罪の奴隷状態にある私達人間が、「真理」を知ることによって自由になれる。自由を得ることが出来るとイエス様は言われたのです。イエス様は同じヨハネ福音書で「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われました。イエス様ご自身が、神様の真理を現されたのです。イエス様が語られる言葉すべてが真理です。ところがこの世には、神様の支配される世界に生きることを阻止し、そこから引き離そうとする誘惑、力が至る所に存在します。 私達が「自由」になるということは、これら真理に逆らうものすべてから解放されることです。イエス様を信じて、イエス様が教えて下さっている言葉にとどまり続けるならば、私達はこの世の伝統や風習、価値観、人の目、その他全ての束縛から解放されて、自由に生きる(神の子として生きる)ことが出来るのです。このためにイエス様は来てくださいました。 /n本当の弟子になりたい イエス様は、私達を罪の奴隷から解放して下さる為に(その鎖を切り離して下さる為に)、十字架にかかって死んで下さいました。そして三日目に復活して、死(罪)に対して勝利者となられました。 イエス様が地上で繰り返し語られたことは、神様を愛することと、私達が互いに愛し合うことです。イエス様はその見本を示されました。私達はイエス様の本当の弟子になりたいと思います。それには、御言葉にとどまることによって、真理であるイエス様を益々深く知ることであり、それによって、私達を神様から引き離す力から自由にされることです。 今週も御言葉に導かれて歩んでいきたいと祈るものです。

「ぶどう園と農夫のたとえ」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書5:1-7 /nマルコ福音書12:1-12 /nはじめに   ユダヤ教指導者達は、イエス様のなさった「宮清め」だけでなく、神の御子にしかできないイエス様の力ある業や説教や癒しによって、群衆の尊敬が、自分達からイエス様へと移っていくことへの嫉妬や敵意がうずまいていました。しかも群衆は、イエス様を通して神様の力の偉大さを知り、神様を心から讃美していたのです。 神様がイスラエルの民を御自分の民として選んだのは、彼らが他のどの民よりも貧弱であったからだと聖書に記されています(申命記7:7)。神様は弱い者を憐れまずにはおれない御方です。その御心こそ第一に尊重されるべきでした。その神様の愛を分かりやすく人々に示したのがイエス様です。しかしユダヤ教指導者達は、律法の細々した規定や解釈に気を取られ、それが分からず、イエス様をどうにか追い払おうとしています。又、自分達から離れていった民衆の心を再び取り戻そうとしています。 イエス様は、真実に対してはっきり従う決断をしない彼らに対して、きっぱりと線を引きました。しかし憐れみの心を持って真実を理解させ、救いに入ってほしいと思われて、彼らの姿を知らせるために、本日の「ぶどう園と農夫」の話をされたのではないかと思います。 /nぶどう園 「ぶどう園」と言えば、イスラエルの人々はイザヤ書5:1~7を思い出したことでしょう。「ぶどう園を心をこめて造った人」とは「神様」です。「ぶどう」は、「イスラエルの民」です。「ぶどうの良い実」とは「イスラエル民族の神様(ヤハウェ)への信仰」であり、「実が酸っぱい(ぶどう)」は、「神様への不信仰」のことです。具体的には「偶像礼拝」です。 主人が「ぶどう園を見捨てる」とは、不信仰の民全体を裁かれることで、悲しみや苦しみに民全体を引き渡すというたとえです。   /n農夫  イエス様は、旧約聖書と同じ背景を使いながらユダヤ教指導者達を、「ぶどう園の農夫」にたとえました。最初にぶどう園の主人が、いかに智恵を使い愛情をかけてぶどう園を造ったのか、手順を挙げて表現しています。「主人」はこの世を造られた神様と考えて良いでしょう。「ぶどう」はイスラエルの民と考えて良いでしょう。「農夫」はそれを管理し育てる役割を託されています。そして良い実りをもたらし、その収穫を渡すように主人から期待されています。この農夫の役割こそ本来、民の信仰を育て上げ、それを神様に捧げるはずのユダヤ教指導者=大祭司・律法学者・長老達が担うはずでした。しかし彼らは、その役割を担うことなく、自分達の権威を保持する為に預言者達にひどい仕打ちをします。 /n「捨てた石が隅の親石となる」 たとえでは、農夫達は送られてくる主人のしもべを殺してしまいます。主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと思い、最後に息子を送ります。これこそ父なる神様が人間を救いたいという愛ゆえに、この世に送った御子イエス様のことです。ところが自分達の利益に目が眩んだ農夫達によって息子も殺されるという描写は、イエス様がユダヤ教指導者達の働きかけによって十字架にかけられる受難の道のりを示しています。主人の忍耐も息子の死迄で、そこから徹底した裁きが始まります(9節)。   イエス様は詩編118編を引用し、「捨てられた石が隅の親石となる」という神様の業を語られます。それは、ユダヤ教指導者達がイエス様を排除しても、神様は排除されたイエス様をメシアとして用いられるということです。神様の業は人間には理解しがたく、不思議としか言いようがないと詩編は告白します。私達が信じるイエス様は、人によって捨てられ、神様によってメシアとされた「神の御子・イエス様」です。

「恵みによって召し出す神」  牧師 佐藤 義子

/nエレミヤ書1:4-8 /nガラテヤ書1:11-24 /n今、読んでいただいたエレミヤ書には、若き日にエレミヤに臨んだ神様の言葉が記されています。それは「私はあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生れる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」というものでした。この時エレミヤは、「わたしは若者にすぎません」と、神様からの召命を拒みますが、神様は「若者にすぎないと言ってはならない。誰のところへ遣わそうとも、行って私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。」と語りました。 /n「母の胎内にある時から選び分け」 そして、今日のガラテヤ書でも、パウロがこのように言っています。 「しかし、私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(2:15)と。 パウロは、イスラエル民族として純粋な血筋の中で生れ、律法を守る点では熱心なユダヤ教徒であり、ガマリエルというユダヤ教の大指導者のもとで訓練を受けてきました。彼はその熱心さのゆえにキリスト教徒を迫害しました。その彼が、迫害を目的にダマスコの町に向かっていた時、突然、天からの声を聞いたのです。それはイエス様の「なぜ、私を迫害するのか」との言葉でした(使徒言行録9章)。彼はこの出来事を通して180度変えられ、後に、今読んだように、「私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出して下さった神」と、神様を崇めているのです。 /nユダヤ教とキリスト教  ユダヤ教で最も大切にされるのは「律法」です。律法を守ることこそ救いの道であり、天国に行く道でした。ユダヤ人の「シェマー」と呼ばれる基本的信仰告白は、「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5)であり、神を愛することは、十戒を中心とした律法を守ることでした。 ところがキリスト教は、十字架で殺されたイエスこそ神から遣わされた神の子・救い主であり、神はこのイエスを死から復活させ、神の右に挙げられ、約束の聖霊を送って下さった。だから悔い改めて、イエスを「救い主」と信じる者は救われる。信仰こそ救いの道と宣べ伝えました。 律法を行うことで人は救われると教えてきたユダヤ教に対し、「イエスをキリスト(救い主)と信じることこそ神の国の民とされる道である」ことが宣べ伝えられたのです。 パウロは、(神を冒涜した罪によって殺された)イエスを、神の子と信じて、自分の全存在を支配する「主」として仰ぎ、従うように教えるキリスト教は、ユダヤ教の敵であり、撲滅すべき相手と考えて迫害したのです。その彼が、今や、「自分は母の胎内にある時から選び分け、キリスト教伝道者として外国人に遣わされている」と告白しています。 /n恵みによって召し出す神 神様を良く知らない時は、何でも自分の意志や考えでやっていけると思います。しかし信仰が与えられ、神様のご計画があることを知らされた時、私達はエレミヤのように、そしてパウロのように従わなければなりません。又、神様の御計画を知りたいと願い、祈るように導かれます。例えば、全てのことには神の定められた時がありますが、(コヘレトの言葉3章)、私達は「今がその時だろうか」と祈ります。自分の願いでなく、神様の御心を第一に考えられるようになります。パウロを恵みによって召し出した神は、私達をも恵みによって召し出されるお方です。

「主イエスの権威」  伝道師 平賀真理子

民数記16:1-7 マルコ福音書11:27-33 /nはじめに  今日の新約聖書は、イエス様が過越祭のためにエルサレムに入られて、三日目の出来事です。一日目、イエス様は祭りで集まってきたイスラエル人達に救い主として大歓迎を受けました(11:1-11)。二日目は、「宮清め」(エルサレム神殿が本来なら「祈りの家」としてあるべきなのに、商売人達の儲けのために利用されているのを見て、イエス様が商売人達を追い出された)をされました。このことはイスラエル社会で最大の尊敬を受けていたユダヤ教指導者達、及び神殿の運営方針に対して間違っていると批判したことになります。 /n「何の権威で」「誰が権威を与えた?」 イエス様は宣教の初めから、権威ある者として他のユダヤ教指導者達とは違っており、ファリサイ派の人々はその凄さを悟り、自分達が生き残るには、もはやイエス様を亡き者にすべきであると動き始めました(3章)。それまで自分達の教えをありがたく受けていた一般民衆が、自分達よりもイエス様の教えや癒しを見聞きし、その力に感動して受け入れる様子が、何よりもファリサイ派の人々を嫉妬させたことでしょう。  「宮清め」の翌日、イエス様が神殿の境内を歩いておられると、ユダヤ教指導者たちが問いました。「何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えているのか」。「このようなこと」とは、「宮清め」の行為自体とその後の神殿での教える行為、さらに大きくとらえると、今迄の、イエス様の宣教活動全般、更にはユダヤ教批判のことを指すと思われます。「何の権威で」「誰が権威を与えたのか」との問いは、「祭司階級でもなく、職人階級出身の『イエス』には、神に選ばれて高い身分にある自分達を超えて、現状を批判する権利はない」との非難が込められています。 /n「ヨハネのバプテスマは天からのものか、人からのものか」 イエス様は、この問いに答える条件として、「ヨハネのバプテスマは天からのものか、人からのものか」を答えるように求めました。ユダヤ教指導者達は、祭司階級にあることに誇りを持ち、その価値観に従うなら、洗礼者ヨハネこそ祭司階級の両親を持ち、救世主の道を真っすぐにする者として生きた人でした。ヨハネは、預言者達が語って来た「救世主の先駆者」として生まれる前からイスラエルの人々に期待され、生まれた後も人々に尊敬される生き方をし、水による洗礼で多くの人を悔い改めに導きました。イエス様は、ご自分を救世主だと証しした洗礼者ヨハネのことや、彼の施した洗礼のことを指導者達に思い起こさせようとされました。イエス様から問い返された指導者達は、しどろもどろになります。出身階級といい、聖書の預言と言い、彼らが頼りにする根拠そのものから、「ヨハネの洗礼は神様からきたもの」であることに思い至ったのです。 /n「分からない」 神様の約束の預言と実現としての洗礼者ヨハネ。そのヨハネが「この人こそ救世主」と証ししたのがイエス様でした。それなのに、ユダヤ教指導者達は人間的判断で、イエス様を「救世主」と認めませんでした。もしヨハネを、神様からの権威が与えられていたと認めるならば、ヨハネの証しを信じないことは、神様からの権威を信じないことになり、ひいては神様を信じないということにもなりかねません。それは、彼らの宗教的指導者の立場を否定することになります。あわてた彼らは、逆の、「人からの権威」という答を考えますが、それでは民全体の信仰とは異なり、人々からの支持を失います。彼らは「分からない」と答えました。 /nイエス様の愛による支配  イエス様は、神様の真実の前に、正直に答えようとしない宗教的指導者達との問答をこれで終りにされました。この世の権威は自分の利益や名誉を求めて他人をどこまでも押さえつけようとします。 この世の全ての権威を持っておられながら、忍耐強く、仕える愛で私達を導いて下さるイエス様に感謝を捧げます。その思いが「礼拝」という形で多くの兄弟姉妹と共に神様への賛美として献げられることも感謝です。  今週一週間、私達に起こる出来事を通して神様から何を語りかけられているか、よく知ることができるように、聖霊の助けを祈って過ごしてまいりましょう。

「恵みにより救われる」  牧師 佐藤義子

/n[詩編]36章6-10節 /n[エフェソ信徒への手紙]2章1-10節 /nはじめに   私達は、自分の生きている世界のことを何となくわかっているような気になっていました。しかし大震災で、私達を取り巻く環境が一変した時、実はそうではないこと、私達人間の想定範囲は、きわめて限られたものであったことが明らかになりました。多くの命が失われ愛する家族を失ない、今なお深い喪失感の中で先に進めない方達や、敷かれていたはずのレールが、突然目の前から消えて、不安と焦燥感の中にいる方達、又、先日も、失業手当が切れる時期を控えて、深刻な状況が報道されておりました。  人間が生きる為には、衣食住や、家族や、将来の夢や希望も大切であり、それらを突然失った方々の力になりたい、助けたいと、本日も、七ヶ浜や蒲生の被災家屋の修復作業のため、アメリカから応援に駆け付けて働いておられるサマリタンズ・パースの方々が、ご一緒に礼拝をささげています。 /n私たちは死んでいた! 今日読んでいただいたエフェソの手紙2章の1節には、突然、今生きている人に向かって「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたは死んでいた</span>」との言葉が出てきます。 さらに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は過ちと罪を犯して歩んでいた</span>」「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしたちも皆、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした</span>」とあります。この手紙はエフェソの教会の信徒達に送られた手紙ですが、聖書は常に今を生きる私達に向けて語られている神様の言葉ですから、「あなた方」という部分を「私」に置き換えて読み進みたいと思います。 そうしますと今日の箇所は、「以前の私は、過ちと罪を犯して歩んでおり、神の怒りを受けるべき者として死んでいた」となります。この箇所からも、聖書は「生きる」とか「死ぬ」という言葉を、一般的な意味で使っていないことがわかります。 聖書で「死ぬ」とは、呼吸が止まることではなく、自分の過ちと罪の結果、神の怒りを受けた者。神に従わない不従順な者に働く霊に従って、肉の欲望の赴くままに生活していた者が神の怒りを受けている状態のことです。 エフェソの信徒達は、「以前は死んでいた」けれども、今は生きています。 /nキリスト・イエスによって共に復活する 神様を畏れないこの世の支配者、サタンとか悪とか呼んでいますが、その霊に従って、肉体の欲望や心の欲望のままに行動した結果、生まれながらの人間は、肉体は生きていても死んでいるということです。 ではどうしたら死から命に向かうことができるのでしょうか。死から命に向かうために、聖書は、そこにはまず神様の豊かな憐れみと、神様の人間へのこの上ない愛があったことを伝えています。罪で死んでいた人間を、神様はイエス様と共に復活させて下さったこと、それは一方的な神様の恵みによるものだと4節以下に記されています。  この恵みを受ける信仰が与えられたことで、信じる者は救われたのです。 /n恵みにより、信仰によって救われる 今、私達が生きている世界が終った後に、神様の創られた世界が完成する時がやって来ます。神様はイエス・キリストを私達に遣わして下さり、その死によって、私達の罪を贖って下さいました。その限りない豊かな恵みは、来るべき世において、栄光を受けられたキリストのご支配を直接受けることの約束へと続きます。神様の恵みが私達に注がれ、私達の中に働く時、私達の心は神様に向かい、神様の恵みを確信することが出来ます。 この信仰が与えられる時、救いが起こります。神様の恵みが救いをもたらすのです。救いは「神様の恵み」によって起こるので、私達が神様のために何かをする必要はなく、救われた人は、誰も自分を誇ることはできません。 /n神の作品として生きる  口語訳で10節には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達は神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日をすごすようにと、あらかじめ備えてくださったのである</span><span class="deco" style="font-weight:bold;">。</span>」とあります。  私達はそのように造られているのですから、そのように歩んでいきましょう。聖書はいつもそうですが、例外なくすべての人に語られています。聴く耳をもって従っていきたいと願うものです。

「新たに生れる」  牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]40章25-31節 /n[ヨハネによる福音書]3章1-15節 /n はじめに   今年度の御言葉は、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れた者は肉である。霊から生れたものは霊である。」です。 元旦礼拝では、毎年「その年の聖句」を学んできましたので、今日も、この御言葉についてご一緒に学びたいと思います。 /n ニコデモの訪問 今日の聖書に登場するニコデモは、議員であり、ユダや教の中でも厳格なファリサイ派に属していました。ユダヤ教徒(特に指導者達)は、イエス様に対して距離を置いていました。二節には、ニコデモがイエス様を訪ねて来たのが夜であったことを記しています。それは、イエス様への訪問を人に知られたくなかったからでしょう。彼はイエス様の話を見聞きし、イエス様の言動は確かに正しいと認めつつも、その一方でイエス様のことを警戒している仲間の人達のことを気にしていたのです。 /n 心の自由と不自由 人はなぜストレートに自分の確信に従って行動出来ないのでしょうか。それは、人の目、人の噂を気にするからです。自分が良いと思うことを良い、悪いと思うことを悪いと言えるのは、その人の中に自由が確保されている時です。しかし、言うべきだと思うことを人前で言えず、こっそり言いに来るのは、その人の心が不自由な状態に置かれています。ニコデモは、人々の判断や、この世の栄誉を気にしながら、その一方で、自分の心の中に生れたイエス様への信頼を伝えるべきだと考えたようです。 人間に対しても神様に対しても、両方に心が向いているニコデモを、イエス様はすべて見通された上で、暖かい忍耐をもって迎えます。ニコデモは「ラビ(先生)、私共は、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことは出来ないからです」と言いました。 その言葉に対して、イエス様は、「はっきり言っておく。人は、新たに生れなければ、神の国を見ることは出来ない。」と言われました。 /n 新たに生れる ニコデモは、「自分はイエス様を正しく理解している」と過信していました。けれどもイエス様は、「神様が、人間に対して行うことを理解する為には、あなたがまず新しく誕生することがなければならない」と言われたのです。人は、自然の誕生のままで神の国に入ることは出来ません。そこに入る為にはもう一度新しく生れなければならないのです。  「新たに生れなければ」と聞いたニコデモは、人が誕生を繰り返すことは不可能であると反論しました。 イエス様は、身体的な意味で新しく生れると言ったのではなく、新しい命がその人に吹きかけられ、新しく生きることが始まる時のことを言われたのです。この新しい命は、神様だけの所有であり、この神様の賜物をいただけた時のみ、神の国を見ることが出来、神の国に入ることが出来るのです。ニコデモが神様から新しい命を与えられて新しく生きる者とされるためには、創造者である神様がそのようにして下さらなければならず、人が出来ることは、祈り求めて、ただ受けることだけです。 /n「誰でも水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。」   水と霊は新しい人を生み出します。その時人は、神様によって定められた生命力をもちます。新しく生れるとは、バプテスマの水を通して神様の赦しの領域に移されることです。神様が恵みをもってその人に近づく時、人は内側から捕えられ、形作られていきます。神様は霊において、その人に臨みます。神様は、その人の思いを支配し、その中に光を与えられます。神様は、その人の感覚や意志を呼び起こされます。(「新生」)。人間が自分自身から造りだす全てのものは肉の性質を帯びており、神様が私達に与えるものは霊です。霊は神様の本質と力です。