「神に受け入れられる人」」 佐藤義子 牧師

/n[申命記] 10章12ー18節 12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、 13 わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。 14 見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。 15 主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。 16 心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。 17 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、 18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。 /n[使徒言行録] 10節1ー48節 1 さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、 2 信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。 3 ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。 4 彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。 5 今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。 6 その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」 7 天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、 8 すべてのことを話してヤッファに送った。 9 翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。 10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、 11 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。 12 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。 13 そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。 14 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」 15 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 16 こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。 17 ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、 18 声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。 19 ペトロがなおも幻について考え込んでいると、““霊””がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。 20 立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。 21 ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。 22 すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」 23 それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。 24 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。 25 ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。 26 ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」 27 そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、 28 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。 29 それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」 30 すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、 31 言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。 32 ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』 33 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」 34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 36 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、 37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。 39 わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、 40 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 41 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 42 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」 44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 46 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 47 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。 48 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。 /nはじめに  本日の聖書は、内容から6つに分けられます。コルネリウスが見た幻について、ペトロが見た幻について、ペトロとコルネリウスの使者との面会、ペトロとコルネリウスとの対面、ペトロの宣教、そして異邦人にも聖霊が降(くだ)ったという出来事です。 /nコルネリウス  彼は、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」人でした。ある日、幻の中で天の使いからペトロという人を招きなさいと命じられます。彼はすぐに使者を遣わしました。 /nペトロ  他方、ペトロも幻を見ます。幻に、獣や空の鳥など(レビ記11章で清くないとされるもの)が入っている大きな布のような入れ物が天から降りて来て、それを食べるように言われます。ペトロは、清くない物は食べたことがないと断りますが「神が清めたものを、清くないなどといってはならない」と声が聞こえ、このやりとりが三度あって入れ物は引き上げられます。ペトロが幻の意味について思案に暮れている時、コルネリウスの使者が到着します。すると神の霊が、ペトロに彼らと一緒に出かけるようにと促します。 /n異邦人との面会  ユダヤ教徒はユダヤ人以外の外国人(異邦人)と付き合うことは禁じられていたので、ペトロは異教徒を家に招き入れて話をすることなど考えられませんでした。しかし彼は神の霊に従うという信仰の決断をして、使者を家に泊らせ、翌日、彼らと一緒に出発しました。 /nコルネリウスとペトロの対面  コルネリウスは、親類や親しい友人達を呼び集めて、ペトロの到着を待っていました。ペトロはコルネリオと会い、彼の幻の話を聞き、家で待っていた大勢の異邦人に福音を伝える宣教の使命を確信します。 /nペトロの説教  ペトロは、自分が見た幻から始まる一連の出来事が、すべて神様のご計画の中にあり、ユダヤ人とか異邦人とかの区別なく、「神様を畏れて正しいことを行う人は、神様に受け入れられる」ことを宣言しました。そして、イエスを救い主として信じる者は誰でもキリストの名によって罪の赦しが与えられることを宣言したのです。 /n聖霊が異邦人に降る  ペトロがまだ語っている最中に、そこにいた異邦人達の上に聖霊が降(くだ)りました。ペトロは異邦人にも聖霊が降ったのを見て、その場で彼らに水の洗礼を授けました。 /n異邦人への救いは、神様の御計画。  コルネリウスは、自分の民族の宗教に甘んじることなく、ユダヤ教の伝える天地創造主である神様を信じ、聖書の教えに従い、隣人への愛に忠実でした。家長としての役割も果たし、幻で与えられた指示にもすぐ従いました。神様を愛し、人を愛し、真実を求めて生きていたコルネリウスを、神様は異邦人への救いの道を開かれる時の証人とされました。 ペトロは、清くない物を食べるようにと言われた天からの声を、最初は理解できませんでしたが、神様に従順でありたいと願う信仰によって、「神様は人を分け隔てなさらない」ことを知らされ、民族の壁を越えて宣教の使命を果たしました。 私達はこの神様の導きに従って歩む者です。

「なぜ恐れるのか」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編] 65編2ー9節 2 沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます。 3 祈りを聞いてくださる神よ/すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。 4 罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。 5 いかに幸いなことでしょう/あなたに選ばれ、近づけられ/あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって/わたしたちが満ち足りますように。 6 わたしたちの救いの神よ/あなたの恐るべき御業が/わたしたちへのふさわしい答えでありますように。遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに依り頼みます。 7 御力をもって山々を固く据え/雄々しさを身に帯びておられる方。 8 大海のどよめき、波のどよめき/諸国の民の騒ぎを鎮める方。 9 お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響きます。 /n[マルコによる福音書] 4章35ー41節 35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。 /nはじめに  今日の聖書で、イエス様と弟子達の乗った舟が渡っているのはガリラヤ湖です。通常は緑に囲まれた穏やかな湖ですが、急に嵐が起こることでも有名なところだそうです。近くの標高800mの高原から、この湖に冷たい風が吹き降ろし、渦巻くことになるからです。ここでもそのような急な嵐だったのでしょうか。「舟が沈む!」とおびえている弟子達と、船尾の方で眠っておられるイエス様がいます。弟子達はイエス様を起こし、「先生、私達がおぼれても構わないのですか。」と咎めました。この言葉の原語を厳密に訳すと、「先生、私達が全滅してしまっても、あなたは気にかけないのですか。」となります。弟子達は主イエス様が何者であるかを、まだはっきりと理解していなかったことが読み取れます。 /n私達が嵐に遭遇する時  イエス様は、この嵐に出会う前までに、神様の権威を持って「御言葉を伝え」、「神の国を教え」、御力で「癒しの奇跡を行って」こられました。弟子達はこの歩みを共にしていたのですから、「イエス様と共にいる限り神様によって舟は守られ、神の御子イエス様の一団が全滅することはあり得ない」と、主への全幅の信頼をもって信仰を貫き通すことが出来たのではないでしょうか。「この大変な時に、あなたが共にいてくださって感謝です。どのようになろうとも、あなたにわが行く末を委ねます。」というような言葉がでてきても良かったのではないかと思います。しかし実際には「先生、私達がおぼれても・・」でした。 私達の人生の中で、このような場面に出会う時、私達はどのように神様と向き合うのでしょうか。また、これまで向き合ってきたでしょうか・・。詩編65篇には、神様を信頼できる恵みが賛美されています。 >> 「私達の救いの神よ・・すべてのものがあなたに依り頼みます。  御力をもって山々を固く据え 雄々しさを身に帯びておられる方。  大海のどよめき、波のどよめき 諸国の民の騒ぎを鎮(しず)める方。」 << /n「なぜ怖がるのか」  イエス様の弟子達への問いかけの原語は、「なぜ、臆病のままなのか」です。続いて「まだ信じないのか」は、「まだ信仰を持つには至らないのか。」です。ここに弟子達の信仰の姿が浮かび上がります。弟子達は「イエス様が神である」ことがどういうことであるのかを完全には理解できていませんでした。ただ、主の召し(召命)に従ってイエス様と共にいたのです。しかしイエス様は、この臆病のままで、真の信仰を持つには至らない弟子達を見捨てることなく、やがて強い信仰が持てるようにと、この問いを通して、弟子達の信仰の成長を根気強く促しておられます。ここに、忍耐強い神様の愛を読み取ることが出来ます。 /n信仰への道  私達は、全てがわかってから(全てを信じることが出来てから)、信仰を持とうと考えがちです。けれども私達人間には、神様のことが全部わかり切るということはあり得ません。弟子達でさえ、ただ、従っただけでした。そして成長していきました。大切なことは、先ず、弟子達のように、イエス様を信じ従っていくという、主の呼びかけに答える決心をすることです。「イエス様(神様)に従いたい」との思いが心に芽生えたら(それを主の呼びかけと聞き)、神の家族となって歩み始めて良いのです。初めは臆病者といわれるような小さな信仰でも、イエス様は愛と忍耐をもって「なぜ怖がるのか」と、信仰の成長へと導いて下さいます。私達が強い信仰へと成長する為には、私達が本当の意味で「イエス様が神である」ことを知り、「イエス様が私の救い主である」ことを心から信じることです。その時に私達は溢れる喜びで満たされます。十字架を前に、イエス様を見捨てて逃げ去った弟子達が、復活されたイエス様と出会い、その復活の力にあずかり、聖霊をいただくことによって大きく変えられたように、私達も又、イエス様の復活の力にあずかり、聖霊の導きと助けをいただきましょう。そして、主のご期待に答えるべく、互いに励まし合って、信仰を強め、主を頭(かしら)とする一つの体としての教会に、益々なっていけるように努めましょう。

「イエス・キリストのわざ」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 121編1bー8節 1b わたしの助けはどこから来るのか。 2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。 5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。 7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。 8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。 /n[使徒言行録] 9章32ー43節 32 ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。 33 そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。 34 ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。 35 リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。 36 ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。 37 ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。 38 リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。 39 ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。 40 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。 41 ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。 42 このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。 43 ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。 /nはじめに  本日は「聖徒の日」として召天者記念礼拝をささげます。「聖徒」とは、神様に対してきよめられた者のことで、すべてのクリスチャン・キリスト者をさす言葉です。しかし「きよめられた者」とは、道徳的な意味でなく、コリントの手紙1:30「神によってあなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私達にとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。とあるように、その人自身が聖いのではなく、イエス・キリストの持っておられる義と聖を与えられた者、キリストの所有されておられるものを転嫁された者であるということです。「誇る者は主を誇れ」とあるように、私達には誇るものは何もない。ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって私達は義とされ、聖いものとされている、ということです。 /n私達は旅人   ヘブル書では、信仰をもって生きる者は地上にあって天にあるふるさとを求めて歩む旅人であると表現しています(11:13-)し、フィリピ書には、「私達の国籍は天にある」(3:20)とあります。イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きる永遠の命が約束されていますので、特に今日は信仰をもって生き抜いた天上の聖徒の方々を覚えつつ、礼拝をささげます。いずれ私達は、この写真の方々と同じように神様から召される時を迎えます。その時、私達は、地上での生涯を神様に深く感謝し、神様のもとに喜んで召される者でありたいと願うものです。キリスト者の死は、この世での絶望的な死ではなく、天国への凱旋であり、神様のご計画のもとに召されていくという、神様にお委ねした平安の時でもあります。地上においては愛する家族との別れがあり、残されていく家族への思いは測り知れないものがあります。しかしその悲しみ・心の痛みも、やがて必ず来られるイエス・キリストの再臨の時までで、残された家族には神様の慰めといやしを信じることが出来るのです。パウロは手紙でこう記しています。「私は世を去る時が近づきました。私は、戦いを立派に戦いぬき、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けて下さるのです。しかし、私だけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます」(テモテ4:6-8)。この信仰を与えられるように共に祈りたいと思います。 /nアイネアとタビタ  今日の聖書には、二つの出来事・・一つは、8年間中風で寝たきりのキリスト者がいやされた話、もう一つはクリスチャンの婦人が生き返った話です。ここに、私達の生も、死も、病も、すべてを支配されるお方がおられることが伝えられます。私達は自分がいつ生まれていつ地上を去るのか、自分で決めることはできません。病についても同じです。私が出会ったある入院患者さんはこう私に言いました。「結核という病気がどうして起こるのか、その原因については知ることができます。でも私が知りたいのは、その結核という病気になぜ、この私がならなければならなかったのか、それが知りたいのです。」この言葉は、おそらく病気の方、すべての思いではないかと思います。しかし、この問いに対する答え、それを聞くべきお方は、神様以外にはおられません。 /nイエス・キリストのわざ  私達は被造物(神によって造られたもの)で、神様の支配の下で生かされているゆえに、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」「タビタ、起きなさい」という、神様の創造者としての力、命を支配されるお方の力を、イエス・キリストが弟子ペトロを通して、この二人に働かれたのを見て、神様を崇めます。

「真の岩なるキリスト」 倉松功 先生

/n[詩編] 95編1-7節 1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。 2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。 3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。 4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。 5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 /n[マタイによる福音書] 16章13-20節 13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 /nはじめに  本日は、私達プロテスタント諸教会の成立のきっかけとなった宗教改革を記念して礼拝を捧げることになりました。宗教改革の意義というのは、聖書の解釈、つまり聖書の理解の中に、最も中心的なものが表れてくるのではないかと思います。そうでなければ、宗教改革の中心的なものは、「聖書の本当の真理を解き明かす」ということにならないわけです。「聖書の一番大事なことを理解する」ということに、宗教改革の意義、特色が表れている、ということが言えると思います。聖書のすべての理解が カトリック教会と違うというわけではなく、むしろ理解が違うところはそれほど多くないと思います。そう多くない中で、今日の聖書の箇所は最も大事なカトリックとの違いを示している箇所ではないかと思います。 /n主イエスの第一の質問  本日の聖書では、主イエスが弟子達に対して二つのことをお尋ねになっています。第一の質問は、人々は「人の子」を何者だと言っているか、という問いです。「人の子」というのは、主イエスが御自分のことをそう呼ばれたのです。主イエスの自称です。「私はこういう者」という時に、「私は人の子だ」とおっしゃったのです。「何者だと言っているか」との問いに対して弟子達は「洗礼者ヨハネ、或いは(最も良く知られていた旧約時代の)預言者エリヤ、エレミヤだと人々は言っています」と答えています。 /n第二の質問  次に主イエスは「あなた達は私を何者だと思っているのか」とお聞きになりました。するとペテロは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です。」と答えました。このペテロの答えは、主イエスが期待していた答えだったのです。 /n「人の子」  「人の子」は聖書から考えて見ますと、旧約聖書イザヤ書にあるように、私達の罪の贖い(あがない)、罪の赦し、救いの為に十字架の苦しみを受ける救い主(メシア)のことです。同時にダニエル書には、人の子は、この世界の終りの日(最後の審判の時)に、神の栄光に包まれて来られる、そういう方のことです。ペテロは主イエスをそのような「人の子」としての歩みをなさっていると答えたのです。これはキリスト教の中心をなす本当に大切な信仰です。 /nペテロに信仰告白をさせた方  しかしこの信仰の告白を、ペテロは、この時、主イエスがどんな形で人類を救いながら、十字架と復活をどういう形で遂行するのか何も知らない状況でした。ペテロに限らず他の弟子達も、主の十字架と復活については何もまだ知りませんでした。ただ主イエスを神の子、救い主として、受け入れたのです。このペテロの告白に対する主イエスの対応、語りかけが、本日の聖書の中心となっています。主イエスは「バルヨナ・シモン(ヨナの子シモン=本来のペテロの名前)」と語りかけ、主イエスが救い主・キリストであり、世の終わりに再臨する神の子である、とペテロに教えたのは、「主イエスが誰であるか、ただ一人知っておられる神である」と語られています。主イエスは「ペテロ、おまえ自身が本当にこのような信仰告白をした」とは言っておりません。ただ一人知っておられる父なる神がこれを示したのだと言われています。これは私達にとって大変重要な言葉でしょう。この主イエスの言葉は、「誰も神の霊(聖霊)によらなければ、イエスは主であるとはいえない」(コリント12:3参照)と言ったパウロの言葉を想い起こさせます。全聖書、新約聖書全体がそういっているというふうにも思います。これは、主イエスの言葉をパウロを始め、弟子達がよく身にしみていたということでしょう。 /n「この岩の上に教会を建てる」  主イエスは、ヨナの子シモンにペテロ(岩)という名前を与え、この岩の上に教会を建てる。しかもその教会は、死によっても滅ぼされないと付け加えています。これはペテロに対する大変な祝福です。大変な祝福でありますが、大事なことは、マタイ福音書18章にキリスト者が二人三人集まる所に私もそこにいると言われ、その二人・三人の集まりに、これと同じ言葉(地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天上でも解かれる)を主イエスは(教会に)与えています。これも見逃すことは出来ません。これは「あなたは生ける神の子・キリストです」という告白に対する、主イエスの祝福の言葉ということになるでしょう。 /nローマカトリック教会  このペテロに対する祝福、そしてこの岩の上に教会が建てられ、地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる、そういうこの救いに対する権利を、カトリック教会はペテロだけではなくてペテロの後継者である代々のローマの司教・教皇に与えることになりました。ローマカトリック教会の教皇は、代々、キリストの代理者として、カトリック教会の頂点に立ち今日に至っております。カトリック教会では全世界の教会が一つのカテキズム(教理問答)を学んでおり、その中に、教皇について次のように述べております。「ペテロの後継者である教皇は、教会の上に、完全、最高、普遍の権能を有し、それを常に、自由に行使することができます。」このように、マタイ福音書16章の18節-19節は、代々のローマ教皇の主張、権利の根拠となり、私共プロテスタント教会との大きな違いです。 /n教会が建てられる岩とは  別の角度から見てみたいと思います。それはペトロ自身のことです。まず宗教改革者ルターやカルヴァンは、教会が建てられる岩というのは、ペテロが告白した「主イエスご自身」のことだと反論しました。この反論を、ルターは何度も何度も繰り返し語りました。ローマ教皇の、古代の末期から続いてきた教皇の権利に対して、繰り返し繰り返し、それは聖書の証言ではないと言い続けたことに、ルターの意義があるのではないか、といってもいいのではないかと思います。ルターの根拠は、使徒パウロが「教会の頭はキリストで、教会はそのキリストの体である。キリストに結ばれて、その体を全員がつくる」と言っている言葉です。そのキリストの体を構成する一人として、その枝の一つとして各々がいるので、決して、上位の区別、差別はないということを言っています。文脈の上では「この岩の上に教会を建てる」という主イエスの言葉は、ペテロ個人について言われているようにも理解されますが、そのペテロは、同じマタイ福音書の16章23節では「サタンよ引き下がれ」と、主イエス・キリストから言われています。これも一つの驚きです。更に、主イエスが十字架につけられる直前にペテロは三度も主イエスを知らないと裏切りました。宗教改革者達が主張したように、教会は「主イエスは神の子・救い主・キリストである」と告白する人々によって成立してきたし、成立すると言わなければなりません。 /n岩とは主イエス・キリスト  詩編95編に「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」とありました。詩篇31編には「主は私の大岩、私の砦、私の神、砦の岩、城塞」と言っています。又、パウロはコリントの手紙10章4節で、モーセに率いられたイスラエルの民が、荒野で霊的な飲み物を、霊的な岩から飲んだ。「この岩こそキリストだったのです」と言っています。このような聖書箇所を根拠に、又、ペテロ自身の歩みを参考にするなら、宗教改革者達が言ったように、教会がその上に建てられたというのは、ペテロが告白した、その主イエス・キリスト、あなたは生ける神の子、キリストです、との告白、岩なるペテロが告白した主イエス・キリストだとの理解は間違いではないでしょう。即ち、主イエスを「生ける神の子」と告白する人々なしに、教会の集まり・共同体はありません。 /n「私はあなたのために祈った」  しかし、ペテロの上に教会が建てられるということと、ペテロの告白したことの上に建てられるというのは、必ずしも結びつくとは限りません。しかし聖書全体を読んでいきますと、結びつかざるをえないようにも思います。それは、ペテロが三度主イエスを否認する前に、主イエスからこう言われています。 >> 「あなたは私を否認する。しかし、私はあなたの為に、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい」(ルカ22:32) <<  この主イエスのペテロに対する祈りが、この二つの矛盾を結びつけているのではないかと思います。このような「まことの岩としてのキリスト」の導き・働きが、ペテロを支え導いていた。そこではじめてペテロは一つの岩となり得たのではないでしょうか。主イエスの先立つ恵みのゆえに一つの岩であり得たのではないかと思います。 /n私達に知らされている多くの証言  このペテロに比べて私達はどうでしょうか。私達は主イエスの地上の生涯だけではなく、主イエスについて旧約聖書はもちろん、福音書や使徒達の手紙によって沢山の知識が与えられています。たとえば「御子は見えない神の姿であり、全てのものが造られる前に生まれた方です。・・万物は御子において造られたからです」(コロサイ1:15-16)。「神の言葉としての御子によらないで創造されたものは何一つなかった」(ヨハネ1:3参照)などです。さらにペテロが(この告白の時点では)何も知らなかった主イエスの救いの御業の遂行についても、十字架と復活の出来事と意味について、使徒パウロから非常に力強い証しが与えられています。私達はそのような主イエスについての証言を受け容れ、主イエスを救い主・キリストと信じ、告白することによって、ペテロと同じ約束と祝福を与えられているのです。すなわち私達一人一人がペテロと同じ「岩」と呼ばれ、その上に教会が建てられてきたのです。 /n万人祭司  これが、「キリストを信じる全ての者が、司祭であり祭司である」というプロテスタントの万人祭司という宗教改革の原理です。宗教改革者ルターは、ローマ教皇あるいはペテロに与えられた信仰・・・それは、キリスト者一人一人にキリストによって与えられる。そのキリスト者一人一人が直接キリストを受け入れる。キリストを通して直接神の前に立つ。そういう司祭の務め、資格が与えられている、と主張します。その信仰は、ペテロと同様、神の聖霊の働きによって与えられた信仰にほかなりません。それは又、真の岩であるキリストが持っておられる信仰が、私達一人一人に与えられるからとも言えるでしょう。それゆえ、教皇と私達、婦人であれ子供であれ、キリストへの信仰において、何の違いもない、とルターは繰り返し主張しました。このことを宗教改革記念として今日、私共が覚えていいことではないでしょうか。 /nキリストの体である教会  まことの岩であるキリストによって、教会が私達の上に建てられています。それゆえ私達は(パウロがいったように)「キリストの体なる教会」なのです。それは目に見える建物としての教会では決してありません。そうではなくて、まことの岩であるキリストを告白する者の上に教会が建てられる・・そういう目に見えない教会です。この教会は、(ニカイア信仰告白にありますように)唯一の、聖なる、公同の(普遍的な)使徒的教会に連なる教会である、ともいえます。まことの岩としてのキリストを信じる者として、そのような大きな恵みと賜物が与えられていることに私共は感謝し、主をほめたたえたいと思います。確かに私達の歩みは、弱く不信仰な歩みです。ざんげや悔い改めを欠くことはあり得ません。しかし主イエスがペテロに語られたように、私達に先立つ主の御守り、恵み、助け、慰め、励ましを与えられつつ、共に歩んで参りたいと思います。私達のまことの岩である主に従う者でありたいと思います。(文責:佐藤義子)

「神の国のたとえ」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編] 33編12ー22節 12 いかに幸いなことか/主を神とする国/主が嗣業として選ばれた民は。 13 主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり 14 御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる。 15 人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる。 16 王の勝利は兵の数によらず/勇士を救うのも力の強さではない。 17 馬は勝利をもたらすものとはならず/兵の数によって救われるのでもない。 18 見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。 19 彼らの魂を死から救い/飢えから救い、命を得させてくださる。 20 我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。 21 我らの心は喜び/聖なる御名に依り頼む。 22 主よ、あなたの慈しみが/我らの上にあるように/主を待ち望む我らの上に。 /n[マルコによる福音書] 4章21ー34節 21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。 22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。 23 聞く耳のある者は聞きなさい。」 24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。 25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」 26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 29  実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。 /nはじめに  「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と、イエス様は言われて、神の国の宣教活動を始められました。「神の国を宣べ伝え、この世に広める」ためにこそ、イエス様はこの世に来られました(マルコ1:38)。 /n「神の国」とは?  「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20)。神の国はお互いの人格的関係の中でこそ成り立つ・・そこには「神の愛が、神様と人間の間、そして人間と人間の間に満ち満ちている世界」です。 /n「神の愛」とは?  「神の愛」の元々の言葉は「アガペー」と呼ばれ、「尊敬する」「賞賛する」の意味から生まれた言葉です。私達の社会でよく使われる「愛」は恋愛に見られるような、一時的で不安定な「好き」な気分を連想しますが「アガペー」は全く違います。相手を大事に思い、尊重し、責任を持ち続ける決意ある真心をいいます。私達の主、イエス様の父なる神様は、まさに、この愛を人間に注がれました。神様から愛の対象として創られた人間が、罪に陥り、不信仰を続けたにもかかわらず、人々を愛し続け、その罪を御子に贖(あがな)わせるという犠牲を払ってまでも「人々を救う約束」を果たされたのでした。 /nイエス様は御言葉と行為で。  自分の一時的な感情や利益の為に人を利用することがまかり通る、今の、私達の罪ある世界と違って、神の国は、責任を持ちつつ互いを敬い、尊重する気持を持って、神様ご自身や周りの人と永遠につながっていられる世界、神様の愛が溢れた世界です。イエス様は「神の愛」や「神の国」を、御言葉(山上の説教や多くの譬え)と、行為(癒しや自然現象を御心のままに変える奇跡など)で教えられました。 /n神の国の広がり  今日の、ともし火のたとえは、「命の光(ヨハネ8:12)としてこの世に来られたイエス様の神の国の福音が、必ず明らかになる」との預言です。イエス様が救い主としてこの世に来て下さり、神の国を教えて下さったこと、神様の偉大な力を示し、人々に希望を与える為に信仰のある所に奇跡を行って下さったこと、人々の罪を贖って下さったこと、父なる神様への絶対的な服従によって死に打ち勝ち「復活」という栄光を賜ったこと等、二千年間伝えられ続け、信じられ、人々の希望であり続けました。 /n「成長する種」(4:26-)  人はごくわずかの働きだけ(種を蒔くだけ)で、あとは神様が働いて下さっていることが語られます。どんな時も神様のご計画は着実に進んでいくのです。人はそれぞれの時や場所にあって、そのご計画の下、働く役目が与えられています。人には知らされず神様だけが計画され、実行されていくのです。 /n「何を聞いているかに注意しなさい。」(24節)  神の国の広がりの希望を知らされている私達は、神様側の基準を理解し、従い、保ち続けることが求められています。神の国に招かれた私達は、その国にいる喜びと恵みに感謝しましょう。その恵みを理解せず、感謝できなければ、降り注いでいるはずの恵みを感知できずに不安や不満を抱くようになり、枯渇し、神の民の恵みを自ら失うことになります。私達は神の国に招かれ、又、神の国を受け継ぐ者としての恵みを感謝し、信仰を最後まで貫き、「神の国を広げる」という尊く、且つ素晴らしい御業にしっかり関わっていけるよう、神様に願い求めてまいりましょう。

「回心後のパウロ」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 3編2ー9節 2 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい 3 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ 4 主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。 5 主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます。〔セラ 6 身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。 7 いかに多くの民に包囲されても/決して恐れません。 8 主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください。 9 救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ /n[使徒言行録] 9章19bー31節 19b サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、 20 すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。 21 これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」 22 しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。 23 かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、 24 この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。 25 そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。 26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。 27 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。 28 それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。 29 また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。 30 それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。 31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。 /nはじめに  パウロは自分を、「アブラハムの子孫であり、生まれて8日目に割礼を受け、ベニヤミン族の出身でヘブライ人の中のヘブライ人です」(フィリピ3:5)と紹介し、更に、「私は先祖からの伝承を守るのに 人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりも、ユダヤ教に徹しようとしていました。」(ガラテヤ1:14)と記しています。ヘレニズム文化の都市・タルソスで成長し、ギリシャ語に堪能でローマの市民権をもつ彼は、エルサレムの有名な律法の教師ガマリエルの門下生として、熱心なユダヤ教徒でした。 /nパウロの回心  その彼がダマスコ途上で復活の主イエスに出会い、主イエスを自分の主として受け入れたのです。パウロは変えられた自分を「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選びだされ、召されて使徒となったパウロ」(ロマ1:1)と記しました。彼はそれ迄の考え方「人が救われるのは律法を守るという行為による」のではなく「イエス・キリストを信じることによる」ことを知り、神の愛・キリストの愛が自分を見出してくれたことを知りました。自分には誇るものが何もないことを知ったのです。 /nダマスコで  回心したパウロは、ダマスコにあるユダヤ教の会堂で、「イエスこそ神の子である」と、旧約聖書のメシア預言がイエス・キリストにおいて成就したことを大胆に宣べ伝えました。 すぐさま驚きの反響が広がり、今度はパウロがユダヤ人から命をねらわれるようになります。ユダヤ人はパウロを殺そうと昼も夜も町の門で見張りましたので、キリスト者の仲間が夜の間にパウロを籠に乗せて城壁づたいに外へつり下ろしました。 /nエルサレムで  キリスト者パウロとして、彼は主イエスの弟子達に会いにいきますが、迫害者として名が知られていた為、弟子達はパウロに対して不信と恐れを抱きました。しかしバルナバはパウロを信じ、受け入れ、使徒達の所へ案内し、神様がパウロになさった出来事を説明しました。それによってパウロはエルサレムの使徒達と交わり、ユダヤ人伝道を続け、再びユダヤ人から命をねらわれます。そこで仲間達は彼をタルソスへ向かわせました。 /n「こうして教会はユダヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えて」(31節)   私達の伝道所の、祈りの目標がここにあります。聖霊は、父なる神と子なる神(キリスト)と並んで永遠の神です。この聖霊が慰め主であり、真理の霊としてイエス様がご自分の代わりに送って下さった霊です。聖霊の働き無くしては教会の存続も信仰者の誕生もありません。使徒言行録時代に豊かに注がれた聖霊が、私達の伝道所にも、そして私達一人一人にも豊かに与えられるよう、祈り求めましょう。

「天からの光」 佐藤義子 牧師

/n[ヨエル書]3章1-5節 1 見よ、ユダとエルサレムの繁栄を回復するその日、その時。 2 わたしは諸国の民を皆集め/ヨシャファト(主の裁き)の谷に連れて行き/そこで、わたしは彼らを裁く。わたしの民、わたしの所有であるイスラエルを/彼らは諸国の民の中に散らし/わたしの土地を自分たちの間に分配したからだ。 3 彼らはわたしの民の運命をくじで定め/遊女を買うために少年を売り渡し/酒を買うために少女を売った。 4 ティルスとシドンよ、ペリシテの全土よ/お前たちはわたしにとって何であろうか/わたしに復讐しようというのか。もし、お前たちがわたしに復讐するなら/わたしは直ちにお前たちの頭上に復讐を返す。 5 お前たちは、わたしの銀と金を奪い/貴重な宝をお前たちの神殿に運び去った。 /n[使徒言行録] 9章1-19a節 1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、 2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。 3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」 7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。 8 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。 9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。 11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。 12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」 13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。 14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」 15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」 17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」 18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、 19a 食事をして元気を取り戻した。 /nはじめに  今日の聖書は、パウロがキリスト教徒を迫害する人生からキリスト教の大伝道者へと人生が180度回転する「パウロの回心」といわれる箇所です。 /n迫害者パウロ  パウロがキリスト教徒迫害の道を選んだのは、彼が熱心で厳格なユダヤ教徒であったからです。パウロはこう述べています。「私はタルソスで生まれ、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、熱心に神に仕えていました。私は、この道(キリスト教)を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。」(22:3)。 ガマリエルはユダヤ教の中でも特に厳格なファリサイ派の学者でした。彼らの関心事は、ユダヤ人の全生活の中に律法を完全に徹底させることでした。律法は「神を愛し、隣人を愛すること」との教えや、イエスこそメシア(救い主)であるとの信仰は異端であり、根絶すべきものでした。 /nダマスコ途上で・・   パウロは、ユダヤ教大祭司から「ユダヤ人の会堂でキリスト教徒を見つけ次第、男女を問わず逮捕する」許可書を持ってダマスコに向かいました。ダマスコに近づいた時、突然天からの光の輝きによって彼は地面に投げ出されました。そして、「サウル、サウル(アラム語)、なぜ、私を迫害するのか」と声だけが聞こえました。「あなたはどなたですか」と声の主を尋ねますと、「私はあなたが迫害するイエスである」と天から声が聞こえました。この瞬間に、「十字架で殺されたあのイエスは復活され生きておられる。イエスは主であられた!」と、パウロはこれまで考えていた「正義」が間違っていたことを知らされました。起き上がって目を開けたパウロには何も見えず、人々に手を引かれる状態でした。 /n回心  彼は三日間、目が見えない状態が続き、食べも飲みもしませんでした。パウロは断食して祈り続け、「なすべきことが知らされる」のをひたすら待ちました。自分の考える正義は時に間違い、神様の前に打ち砕かれます。その時、神様の前にへりくだり、なすべきことを示されるまでは祈りつつ待ち、示された時には、直ちに従うことが大切です。神様は、ダマスコに住むキリスト者アナニアをパウロのもとに遣わし、アナニアの祈りを通して再び見えるようにして下さいました。パウロは直ちに洗礼を受けました。クリスチャンへと変えられたのです。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。」それは「あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るように」(ヨハネ15:16)なるためです。神様に従う道には困難も伴いますが必ず平安があります。今週も又、神様の恵みと平安の中で歩まれるよう祈るものです。

「追いかけて、行け」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 53章7-8節 7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。 8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。 /n[使徒言行録] 8章26-40節 26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。 27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、 28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。 29 すると、““霊””がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。 30 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。 31 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。 32 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。 33 卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」 34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」 35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。 36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」 37 フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。 38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。 39 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。 40 フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。 /nはじめに  今日の聖書は、初めてアフリカ人にキリスト教の信仰が与えられた時のことが記されています。私達はここから、一人の人が救われるプロセスと、またその為に用いられたフィリポの行動を、ご一緒に学びたいと思います。 /n御声によるフィリポと宦官との出会い  フィリポは、天使から「エルサレムからガザへ下る道に行け」と告げられます。すぐ出かけて行きますと、再び神様の霊が「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と告げられます。この馬車に乗っていた人物とは、エチオピアの女王カンダケ(女王の称号)の高官で、財産管理をしていた宦官(女王に側近として仕える去勢された男性)でした。 /n宦官は熱心に求めていた  驚くべきことは、彼がエルサレムに礼拝に行った帰りであったことです。つまり彼は自分の国の宗教ではなく、天と地を創造した唯一の神様のこと、そしてモーセの十戒などの律法について触れ、信じる者とされていたのです。更に彼は、エチオピア(今のスーダン)から遠いエルサレムまで礼拝に行くほど熱心でした。ここに、救いに至る一つのプロセスを見ます。それは、どんな環境に生まれても真剣に熱心に宗教と向き合う時に、真実へと導かれるということです。宗教は人間の生きる意味・生き方・価値観・死の問題等に深く関わり、その人の人生を決定します。 宦官は礼拝からの帰途、イザヤ53章を朗読していましたが、理解出来ませんでした。そして彼はその意味を知りたいと願っていたところでした。 /nイザヤ53章  救いへの第二のプロセスは、神様は求める者に必要な助け手を送ってくださる、ということです。フィリポは神様の「あの馬車と一緒に行け」という声を聞きました。そして、乞われるまま、宦官にイザヤ書53章「苦難のしもべ」のメシア預言を解き明かしました。それはイエス・キリストのことを指しています。フィリポは宦官に、「十字架で殺された主イエスこそ神様から遣わされた神の子・メシアであり、十字架の死は私達人間が神に背いた罪の為であり、私達人間は、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じることによって救われる」という福音を語りました。この福音は、全世界の教会で、今も毎週、語り伝えられています。 /n聞いて、信じる。そして・・  宦官は、フィリポを通して聞いたイエス・キリストを信じました。信仰の確信が与えられたのです。ここに第三のプロセスを見ます。 /n救いに至る最後のプロセス  宦官はフィリポに「ここに水があります。バプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」(36節)とバプテスマを志願しました。それに対する返答が(本文にはありませんが)使徒言行録の最後に(37節)記されています。「フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた」。ロマ書にはこのように記されています。「口でイエスは主であるとおおやけに言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。実に、人は心で信じて義とされ、口でおおやけに言い表して救われるのです」(10:9-10)。宦官は、イエス・キリストの知識はまだほんの少しだけでしたが、信じて告白し、バプテスマを受け、救われました。宦官は喜びにあふれて旅を続けた、とあります。この喜びこそ、まさに聖霊の働きです。 /n「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」(29節)  キリスト者の使命は、救われた喜びを伝えることです。「行け」との神様の言葉をキャッチし、いつでも御言葉に従う用意があることです。

「四種類の種のたとえ」 平賀真理子 伝道師

/n[ エレミヤ書] 4章3-4節 3 まことに、主はユダの人、エルサレムの人に/向かって、こう言われる。「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。 4 ユダの人、エルサレムに住む人々よ/割礼を受けて主のものとなり/あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに/わたしの怒りは火のように発して燃え広がり/消す者はないであろう。」 /n[マルコによる福音書] 4章1-20節 1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。 2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。 3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。 10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。 11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。 12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」 13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。 16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。 18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、 19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。 20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」 /nはじめに  「良く聞きなさい」との言葉で始められ、「聞く耳のある者は聞きなさい」で終わるイエス様の御言葉は、聞く人々に対して真剣な姿勢を求めておられます。神の国に入れるかどうか、神様の目は一人一人に注がれています。理解して、実際の生活の中で御言葉が生かされるよう願っておられます。今朝は「種を蒔く人」のたとえを学びますが、イエス様は「種を蒔く人」としても、この世に来られ、神の国を建てるために努められました。  種は神様の御言葉です(13節)。天から降ってくる御言葉を、地上で人間が心の中・人生の中で受け入れ、その種を芽生えさせ、育くみ、守り、神の国にふさわしい実を結び、神の国を広めていくことを期待されています。 人間は「神の似姿」(創世記1:27)として、本来は神様の本質や神の国の素晴らしさを理解し、喜こんで受け止め、讃美するように創られています。しかしサタンは、神様と人間の祝福された関係を破壊し、神様に属するものを素早く察知して攻撃し、亡きものにしようと常に働きかけてきます /n最初の種  このたとえでも、真っ先に「鳥が食べた」という表現で、サタンは御言葉が人の心に入ることを妨害するとしています。先日の祈祷会で「人の怒りは神の義を実現しない。」(ヤコブ書5:20)という御言葉を学んだ私は、日頃の家族への「怒りの態度」を悔い改めようと決心して帰宅した直後、いつも頼んでいたはずの家事が忘れられていたことに激怒してしまいました。後で考えてみると、そんなに怒ることではありませんでした。しかしサタンは、祈祷会直後の私の決意を帰宅後には取り上げようと、小さな機会をも狙っていたことを思わされました。 /n二番目の種  二つ目の種は、「土の少ない石の上で、芽生えはしたが、根が張れずに、日の熱で枯れてしまった」と、根を張ることの重要性を教え ています。落ちた場所が悪く、根を張れず、必要な水分「命の水」を得られずに生きられなかったのです。根を張れないとは、御言葉 が心に深く入っていけないということでしょう。 私自身、自己中心的な感性と行動、悪い感情に支配される粗暴さ、一時的安楽に流れる怠慢さや愚かさなどの、自分自身の罪悪を見つめることが何度かありましたが、それらの罪悪をもあがなって、私を神様につなげようとして下さるイエス様の愛と働きを、聖書から学ぶことを通して、私は形式的なクリスチャンから少しずつ変えられてきたように思います。が、まだ「根」は充分に張っていない・・と危機感があります。「根」を深く伸ばすには礼拝に出席することだけで満足せず、祈り、聖書を学び、「命の水」を常に得る神様中心の生活を送ることです。 /n三番目の種  三つ目の「茨に覆われてふさがれて実を結ばない」種については、エレミヤ書4:3-4に学びたいと思います。「茨に覆われる」とは、「主を神として従わない人々の中で生活し、心身ともにそれに染まってしまって、主への信仰を失い、救いから遠ざかること」です。そのような状況では、主の霊に導かれて「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22)の実を結ぶことができなくなります。偶像礼拝をする異教には、怒り、利己心、不和、仲間争い、好色など(同19)を克服できる力が何もないからです。イエス様を主と仰ぐ信仰生活を始めた者は、一つ一つの考え方、習慣、行動が主を中心にしているのかを日々確認し、主に従おうとする心が生きていけるように悪いものの影響が取り除かれるよう祈ることです。 /n四番目の種  最後の、「実を結ぶまでに到った種」は、良い土地に落ちました。御言葉が成長するにふさわしい心を持つ人とは、御言葉を受け入れ、更に、三つの悪条件から守られた人です。これは神様の恵みとしかいいようがありません。詩編一編の一節から三節にこのように書かれています「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」さらに、エフェソ書4:13にも成長の祝福があります。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」神様の愛と与えられた恵みに感謝し、この一週間も歩めるよう祈ってまいりましょう。

「世界伝道の始まり」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 40編9-12節 9 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。 10 恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。 11 主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく/慈しみとまことによって/いつもわたしをお守りください。 12 悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。 /n[使徒言行録] 8章4-25節 4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。 5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。 6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。 7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。 8 町の人々は大変喜んだ。 9 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。 10 それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。 11 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。 12 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。 13 シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。 14 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。 15 二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。 16 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。 17 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。 18 シモンは、使徒たちが手を置くことで、““霊””が与えられるのを見、金を持って来て、 19 言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」 20 すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。 21 お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。 22 この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。 23 お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」 24 シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」 25 このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。 /nはじめに  今日の聖書には四つのことが記されています。一つは、迫害されてエルサレムから逃げたキリスト教徒達のこと。二つには、フィリポの伝道。三つには、ペテロとヨハネがサマリアに遣わされたこと、四つには、サマリアの町にいた魔術師シモンのことです。 以上から、イエス・キリストの福音が世界に広がっていった、その始まりを見ていきたいと思います。 /n第一のこと  ステファノの殉教後、教会に対して大迫害が起こり多くのクリスチャンが投獄されました。そのような状況下で、エルサレムから逃げていった人々が行く先々で伝道し、その結果、福音が広められていきました。ある聖書学者はこのことを「ヨセフの原則」という言葉を用いています。エジプトに奴隷として売られたヨセフが、最後にはエジプトの高官としてイスラエルの民を飢饉から救い、次のように兄達に語りました。「あなた方は私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世紀50:20)。これは「神様は万事を益として下さる」(ロマ書8:28)に共通する信仰です。 /n第二のこと  二つめには、フィリポが、当時ユダヤ人と交際の全くなかったサマリア人の住むサマリアの町に入ったことです。サマリア人は、ユダヤ人と同じようにアブラハムの子孫でありながら、他宗教と妥協し、又、雑婚によってその純粋性を失い、ユダヤ人から軽蔑されていて、当時、口も利かない間柄でした。それにもかかわらず、フィリポは、自分達ユダヤ人が殺したイエスはメシア(救い主)であると宣教しました。フィリポの語るイエス・キリストの教えや十字架の死と復活の出来事、そして神の国の到来や神様の支配が行われているという証しは、癒しや悪霊の追放という出来事と共に、多くの人々に受け入れられました。12節には、「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」とあります。 /n第三のこと  エルサレムに残った使徒達は、サマリアの人々が福音を信じたことを聞いて、エルサレムからペトロとヨハネをサマリアに送りました。彼らは、サマリアの人々が洗礼を受けたものの、聖霊を与えられていないことを知り、信じた人々が聖霊を受けるように手を置いて祈りました。すると「彼らは聖霊を受けた」と聖書は伝えています。 /n第四のこと  洗礼を受けた中に魔術師シモンがおりました。ペトロとヨハネの按手によって聖霊が降るのを見たシモンは、「その力を下さい」とお金を差し出しました。シモンは、聖霊という神様からの賜物を、魔術の延長と考えて、人間の思い通りに使おうと考えたのです。彼の信仰と洗礼は本物でなかったことが明らかになりました。ペトロは彼に「この金は、お前と一緒に滅びてしまうが良い。」「お前には、まだ苦い胆汁があり、不義の縄目がからみついている」(口語訳)と厳しく叱責しました。「苦い胆汁」とは有毒な胆汁という意味で、毒を流す危険を持っているということです。「不義の縄目がからみつく」とは悪魔が人間を自分の勢力下に縛りつけておくことで、悪魔の道具になっているという意味です。 現代でも、占い、魔術、霊媒、迷信やたたりからのお祓い、お札やお守り等、多くの人間がそれに縛られています。しかしこれらは(シモンが退けられたように)私達の信仰とは決して共存し得ないものです。 /nおわりに  福音が全世界に宣べ伝えられることはイエス・キリストのご命令です。全ての人が神様を信じ、御子イエス・キリストを救い主と信じて、神様に栄光を帰することこそ、被造物である人間の「究極の生きる目的」です。私達はその為に命が与えられ、生かされています。神様がイエス様をこの世に送られたのは、この世を愛されたからであり、信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る為です。すべての方がこの福音のもとに招かれ、この福音を伝える者として歩めますように祈るものです。