2023年4月16日の説教要旨 詩編16編・ルカ福音書24:13-35

「晴れやかな報告」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

先週、私達は、イエス様の復活の出来事を見てきました。イエス様と一緒にガリラヤから来て奉仕していた婦人逹が、お墓に行って見ると、墓の中に納めたはず(23:53)のイエス様の遺体は見当たらず、空でした。その為、婦人達が途方に暮れていると、御使いが現れて、イエス様は復活され生きておられること、かつて語られたイエス様の言葉を思い出すようにと言われます。それで婦人達は思い出して、墓から帰り、弟子達にこの出来事を知らせましたが、弟子達は、婦人達を信じませんでした。

*イエス様を「イエス様」とわからない

三日目のこの日、二人の弟子がエルサレムから約11キロ位離れたエマオという村へ向かって歩きながら この一切の出来事について話し合っていました。そこへ、(復活された)イエス様ご自身が近づいて来て、弟子達と一緒に歩き始めました。しかし、弟子達の目は遮(さえぎ)られていて、イエス様だと気付くことは出来ませんでした。

私達の生活の中でも同じような出来事が起こっているように感じられます。たとえば水の中に顔を付けて目を開くと、どこかぼやけて周りが良く見えず、何か覆いのようなものが掛かっているような状況です。この時、弟子達と一緒に歩いて下さる旅人は見えていても、はっきりとは見えていなかったのでしょう。けれど、イエス様の十字架の出来事や、今起こっている出来事を共感できる仲間として、一緒に歩くことが出来たのではないかと考えられます。ヨハネ福音書20章でも、マリアに現れた復活したイエス様を、彼女は園丁(えんてい・管理人)だと思い込み、会話している様子が記されています。このことから、復活されたイエスの姿は、どこか別の姿・違う様子になっていたと想像できます。

*「二人の目は遮られていて」(24:16)

二人の弟子達が「イエスだとは分からなかった(16節)」とありますが、目の前に何か、覆(おお)いがかけられたような状態については、パウロがコリント書Ⅱ・4:3~4で、次のように記しています。

わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。

パウロは、悪魔の霊的な力が私達人間に働き、イエス様の存在を知ることが出来ないように覆いをかけることがあることを伝えています。その為、私達が暮らす地上での生活には、私達を神様から離れさせようと、誘惑や苦しみ、悩み・悲しみを通して悪の霊的な力が働いています。

*二人の目は開かれた

この二人の弟子達も又、婦人達が、イエス様の遺体を見つけられず、そこで天使達から「イエスは生きておられる」と言われたことを聞いたにもかかわらず、この出来事を、「イエス様の復活」の預言の成就として理解して受けとめることが出来ませんでした。

イエス様は二人の弟子に、次のように言っています。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。(25~26節)」そして、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明しました。この時、二人の弟子にかかっていた覆いは取り除かれ、「私達の心は燃えていた!と、あとで振り返っています。

*わたしたちの信仰

イエス様は、彼らと一緒の食事の席に着き、賛美の祈りを唱えパンを裂いて渡すと、弟子達の目が開かれてイエス様だと分かりました。

本日の詩編16編は、私達を神様から離れさせようする悪の霊の働きによる覆いが取り除かれた私たち信仰者の告白です。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしに命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます(8~11)。」

2023年4月9日・イースターの説教要旨 詩編30編・ルカ福音書24:1-12

「イエス様はどこですか?」   加藤 秀久牧師     

*はじめに

私たちの日々の歩みには様々な事が起こります。心が晴れやかな日もあれば落ち込む日もあります。本日の詩編30編に、私達の心の様々な変化の中にあっても神様は共におられ、私達を見ていて下さる、見守っていて下さることが語られ、特に12節では「主は、わたしの嘆きを踊りに変え粗布(あらぬの)を脱がせ、喜びを帯として下さいました。」とあります。

 神様は、私達の嘆き、悲しみ、苦しみ、重荷を取り去って、私達の魂が喜びに満たされて神様をほめ称える者となり、心から神様の前で踊るものと変えて下さることが述べられています。このことは、本日のルカ福音書で伝えられる、天使からイエス様の復活を聞いて、神様をほめ称えて喜ぶ婦人逹の晴れやかな気持を表現している詩編のようにも感じられます。*ガリラヤから来た婦人たち

 本日のルカ福音書の婦人達については、直前の聖書箇所23:55~56に記されています。そこにはイエス様と一緒にガリラヤから来た婦人たちが、イエス様の、亜麻布で包まれた遺体が納められる様子とお墓を見届けたことや、帰宅後、香料と香油を準備したこと、又、安息日の掟に従って休んだことが記されています。そして本日の箇所には、(三日目の)週の初めの日の明け方早く、婦人たちが準備しておいた香料を持ってお墓に行ったことが記されています。10節には婦人達の名前・・「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」が記されていて、同じルカ書の8:2~3には、この婦人たちが、イエス様のガリラヤでの神様の言葉を宣べ伝えた始めの頃からイエス様に従い、「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と、伝えています。

この婦人たちは、イエス様と共にエルサレムにまで来て、イエス様が捕えられた時にも、十字架につけられた時にも、イエス様から離れることなく、これらのことを見ていた(23:49)のです。彼女たちは、ずっと、イエス様のことを見守ってきた人達なのでした。

*「あの方は、ここにはおられない」

 週の初めの日の明け方早く、婦人たちがお墓に行ってみると、お墓の入り口に大きな石が置いてあったにもかかわらず、その石がお墓のわきに転がしてあり、中に入って見ても遺体は見当たりませんでした(3節)。途方に暮れていると、「輝く衣を着た二人の人がそばに現れ」ました。

恐れて地に顔を伏せた婦人たちに、二人の御使いは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と言いました。そうです!御使い逹はガリラヤでイエス様の言われたこと・・『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』ことを、思い出すようにと言われたのです。そう言われて婦人たちは、イエス様の言葉を思い出しました(8節)。

*復活の知らせは、先ず、婦人たちに告げ知らされた

 本来であれば、この出来事・・「天使から、イエス様の復活の知らせを受け取ること」は、先ず、使徒たちに起こることではなかったのかと思われます。けれどもこの出来事は、イエス様のそばにずっと寄り添い、従い続けてきたガリラヤから来た婦人たちに起こりました。当時の男性中心の社会では有り得ない順序です。ですからこの知らせを聞いた弟子達は、伝えられた内容を受けとめることが出来ず、婦人たちをも信じることが出来ませんでした。ただ一人ペトロは、「立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞき、亜麻布しかなかったので、驚きながら家に帰り」ました。

*死の闇の世界からよみがえられたイエス様

私達が思い悩み、途方に暮れて呆然(ぼうぜん)としている時、神様は救いの御手をのばして私達をそこから救い出して下さいます。イエス様を愛し、寄り添い、真剣に従っていた婦人達と同じように、今日も私達に呼びかけておられる御声に、今週も聴き従って歩んでまいりましょう。

2023年4月2日の説教要旨 ゼカリヤ書9:9-10・ルカ書19:28-44

             「いと高き方」       加藤 秀久牧師     

*はじめに

  本日のルカ福音書の28節に「イエスはこのように話してから」とあり、その内容を見ると、「ムナ」のたとえ話が記されています。「ムナのたとえ話」は、王の位を受ける為に主人が遠い国へ旅立つことになり、10人の僕に1ムナずつお金を渡して、留守中、それで商売をするように言って出かけます。主人が帰ってきた時、そのお金で利益を上げた僕と、布に包んで何もしなかった僕に対して、主人からの裁きが下ったという内容です。

又、たとえ話の初めに、「人々がこれらのことに聞き入っている時」とあり、「これらのこと」をさかのぼって見ると、「ザアカイ」が救われた出来事が記されています。徴税人ザアカイ(税金を徴収する仕事をする人、嫌われ者だった)は、エリコの町に入られたイエス様を一目見ようと、いちじく桑の木に登りました。木の下まで来られたイエス様は、ザアカイの名前を呼び「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたので、ザアカイは喜んでイエス様を彼の家に迎え、イエス様と同じ時を過ごし話をすることで、ザアカイの心に変化が起こりました。ザアカイに救いがもたらされたのです。この出来事に続いて「ムナ」のたとえ話が語られます。

*イエス様の決意と子ろば

ルカによる福音書の9:51には「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と記されています。

その日以来、イエス様は、ご自分の目的、使命をはっきりと意識されて、本日の19章28節に「イエスは、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と、イエス様が弟子達より先を歩かれたことを伝えています。

そして、エルサレムまでの距離 約三キロ離れた所のオリーブ畑と呼ばれる山のふもとにあるベタニアとベトファゲに近づいた時イエス様は二人の弟子に「まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて引いて来なさい理由を聞かれたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」と使いに出しました。 誰も乗ったことのない子ろばは、まだ軛(くびき:首に木の枠をはめて、馬車や荷車をつないで引かせる)を負ったことがなく、ゼカリヤ書9:9には「娘エルサレムよ、・・見よ、あなたの王が来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」と預言されています。<くびき:(マタイ11:29-30)イエス様は「わたしのくびき」を負いなさい。イエス様のくびきは軽くて負いやすく、私達の重荷(悩み苦しみ)を生涯、一緒に背負い、担って下さると約束されています。> 

*託宣

ゼカリヤ書9章1節には「託宣」とあります。「託宣」とは、預言者を通して、特に重要な大切な神様の言葉を語る時、声を大にして叫ばざるを得なかった神様からのメッセージを叫ぶような声で語られた言葉で、その内容の重要性を表わしています。この言葉が使われる時は必ず、神様の裁きが語られ、特にゼカリヤ書9:1-8にはイスラエルの人達を取り巻く町々に対して、神様の裁きが語られています。

*イエス様の死と復活の予告

二人の弟子をはじめ他の弟子達も、イエス様がなぜ「誰も乗ったことのない子ろば」を必要とされたのかを理解することは出来ず、おそらくイエス様を歓迎した群衆逹も本当のところは分からずにいたのでした。

イエス様は弟子達にこれまで「人の子は必ず多くの苦しみを受け、指導者達から捨てられ、殺され、三日後によみがえる」ことを述べてきました(ルカ18:31~他)。しかし弟子達がイエス様の言葉を理解することが出来たのは、イエス様が天に昇られ神様の栄光を受けられた後です。

*今日は棕櫚(しゅろ)の日曜日

大勢の群衆はイエス様を出迎えて「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と声高らかに賛美し始めました。私達がザアカイのようにイエス様を迎え入れ、たとえ話の1ムナをふやした僕のように再び来られるイエス様をしっかりと待ち、諦めずに希望を持ち続け信じ続けることが出来る人になることを、イエス様は私達に望んでおられます。神様が計画された私達の歩みには、必ず喜びがあることを信じて、今週の歩みを始めて参りましょう。

2023年3月19日の説教要旨 詩編29編1-16・ルカ書9:28-36

「栄光に輝く主」     加藤 秀久牧師

*はじめに

先週、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とのイエス様の問いに、ペトロは、「神からのメシアです」と信仰告白したことを学びました。このあとイエス様は、これからご自身が受けようとされる受難(私たちの罪・過ち・負い目を赦すために十字架にかかること)と、復活の予告をされて、さらに、イエス様についていきたい者は、先ず自分を捨てて、日々の生活の中で自分の背負うべき十字架を背負い、イエス様を信じて従がうようにと弟子達におしえられたことを学びました。

本日のルカ福音書には、それから八日後の出来事が記されています。

*イエス様と、モーセとエリヤ

イエス様は、弟子のペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて祈るために山に登られました。イエス様が祈っておられるうち、イエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きました(29節)。そこに、イエス様と語り合う二人の人物 、モーセとエリヤが現れました。

モーセはイスラエルの人々をエジプトから導き出し、神様から「律法」を与えられた人であり、エリヤは、列王記(上)17章から、(下)2章までに登場する預言者です。旧約聖書最後のマラキ書3:19以下には、「来るべき主の日」の預言の中に、モーセとエリヤの名前を見ることが出来ます。

イエス様と語り合うモーセとエリヤは、「栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた(31節)」とあります。この「栄光に包まれて現れ」という表現から、モーセとエリヤが天にいる存在、神様の国にいることを示し、イエス様がこれから十字架にかかり、その死を乗り越えて復活し、天に昇られる旅立ちの予告をしているように考えられます。

これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け

 栄光に輝くイエス様と語り合っていた二人が、イエス様から離れようとした時、ペトロは「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです(33節)」と言いました。ペトロは自分でも何を言っているのか分からず、おそらく、天にいる存在の現れを見て、この地上でもとどまっていて欲しいという想いから、その可能性を願ってのことでしょう。

やがて雲が現われ、彼らが雲の中に包まれていき、雲の中から声が聞こえます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と。その声がした時、そこにはイエス様だけがおられました。神様はこうしてイエス様の栄光に満ちた不思議な光景を弟子達に見せられました。イエス様だけが天と地との間を取り持つ存在であることを現わしています。

*神様の栄光

 本日の詩編29編は、神様の栄光を称えています。「主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主の御声は力を持って響き 主の御声は輝きを持って響く(3-4)」。「主の御声は杉の木を砕き 主はレバノンの杉の木を砕き・・(5-6)」

この詩編作者は、天上における神様の栄光と力が地上に現われる時には、神様の声は雷鳴として響き、恐るべき威力をもたらし、名高いレバノン杉が落雷によって引き裂かれるほどであると称えます。神様の御声は聖なる輝きを伴って響く、と、神様の力強さに打たれて神様の栄光を称えています。神様の栄光は、昔も今もこれからも私達の生活する世界の至る所にまでおよびます。 

本日のルカ9:32では、ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると「栄光に輝くイエス」とそばに立っていた二人を見たと記しています。山上で語られたイエス様の、エルサレムで遂げようとしておられる最期が、「受難」の死で終るのではなく、「復活」の出来事へとつながることを、このあとの51節「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」でも知らされます。

すべての創造主であり支配者であられる神様から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言われた御子イエス様を信じて、私達は 今週も、イエス様についていく道を歩んで参りましょう。

2023年2月26日の説教要旨 詩編66編・ルカ福音書4:1-13

「誘惑からの脱出」     加藤 秀久牧師

*はじめに

私たちは、なぜ誘惑を受けるのでしょうか。私達が正しいこと(神様の教え・聖書の教え)をしようとすればするほど、その事から私達を引き離そうとする力が働いてしまう出来事が起こることがあります。

 本日のルカ福音書4章のすぐ前にはイエス様の系図が記され、その系図は、(マタイ福音書のアブラハムからの系図と違い)イエス様から始まってアダムへとさかのぼります。アダムは、エデンの園で罪を犯して園から追放されましたが、その後も人間は絶えず悪魔の誘惑にさらされることになりました。悪魔の誘惑にそそのかされて罪を重ねていく私達のために、神様は、アダムに代わる第二のアダムとして御子イエス様を、私達の生活する地上へ遣わし、悪魔の誘惑を受ける荒れ野へと導き出されました。

*悪魔の最初の誘惑・・神の子なら、石をパンに

 2節で、イエス様が荒れ野で何も食べずに40日間を過ごしたあと空腹を覚えられた時、悪魔の誘惑を受けられます。具体的な内容が3~12節に記されています。悪魔は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」と言いますが、イエス様は、「『人はパンだけで生きるものではないと書いてある」と答えられました。これは、旧約聖書の申命記8章2~3節にあり、以下の言葉が記されています。

あなたの神、主が導かれたこの40年の旅を思い起しなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めをまもるかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった

*二つ目の誘惑・・わたしを拝むなら、一切の権力と繁栄を与えよう

 6節で悪魔は、「国々の一切の権力と繁栄は私に任されているから私を拝むならあなたに与える」と言って誘惑します。この誘惑は一見、全てのものが悪魔の力によって治められているような錯覚を受けますが、マタイ福音書28:18でイエス様は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と言われています。悪魔を拝むなら権力と繁栄を与えるとの誘惑に対してイエス様は申命記6:13「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、御名によって誓いなさい」と答えられました。

*三つ目の誘惑・・神が天使に命じて守らせるから、飛び降りてみよ

悪魔は、さらにイエス様を神殿の屋根の端に立たせて、そこから飛び降りるようにと言いました。けれどもイエス様は、再び申命記の言葉を引用して「あなたの神である主を試してはならない」(6:16)と答えられました。この後悪魔は、13節にあるように、「時が来るまでイエス様を離れ」ますが、やがてイエス様が十字架の死を迎えられたあと復活してイエス様が死に勝利される、その時が必ず来ることをここで暗示しているようです。

*「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ」(詩編66:1~2)

イスラエルの人達がバビロン捕囚で体験した屈辱的なことは、神様への信頼と悔い改めの心をもたらし、新しい決断(誓い)へと導かれていきました。神様への礼拝は、エルサレムに帰ってきた全ての者達のするべきことであり、同時にこのことは、私達、信じる者が地上で生活する時も同じです。

*わたしたち

 イエス様が悪魔に勝利されたのは、自分の必要を満たすために奇跡などを用いることなく、父なる神様に対する無条件の信頼と悪魔に対して、完全に神様に従う態度を示すことにありました。私たちの日々の生活の中でも、荒野でイエス様が会われたような試練と誘惑が存在し、困難や、いろいろなしがらみもあります。そのような中で私たちは、本当の光である神様を信頼して従い、詩編作者のように神様に向って喜び、ほめ歌い、讃美し、生涯、神様を礼拝して仕えていくことを『最高のささげもの』としていく道を歩み続けていきましょう(66:13~20)。

2023年2月19日の説教要旨 詩編46編1-12・ルカ福音書9:10-17

「奇跡の中にある真実」     加藤 秀久牧師

*はじめに

イエス様の弟子達は、イエス様のそばにいて、イエス様の教えを聞き、イエス様の力ある御業を見てきました。本日のルカ福音書9章の初めにはイエス様が12人の弟子達を呼び集めて、「あらゆる悪霊に打ち勝つ力、病気を癒す力と権能(それをする資格)をお授けになった」こと、そして神様の国のことや、神様からの喜ばしい知らせを伝えるため、又、病人をいやすために弟子達を村々に送り出したことが記されています。弟子達はイエス様がお命じになったように福音宣教と病気のいやしのために働き、その後イエス様の所に戻って活動の報告をしました。イエス様はその報告を聞いてから弟子達だけを連れてベトサイダという町に退かれました。

*ベトサイダに退く

ベトサイダは、弟子のペトロとその兄弟アンデレ、およびフィリポの出身地でもありました(ヨハネ1:43)。聖書は、イエス様が「ベトサイダに退かれた」と表現しているので、おそらく群衆から離れて祈りや瞑想など、すべての働きの源となる力を神様から受けるために静かな落ち着いた、人里離れた場所を求めて移動したと思われます。

*弟子達の心配と、イエス様による奇跡の出来事

ところが群衆は、そのことを聞きつけてイエス様と弟子達を追いかけてきました。そこでイエス様は再び群衆を迎え入れて、神の国について語り、病をいやされました。しかし日も傾いてきたため、弟子達は今いる場所が人里離れているので群衆の食事や宿のことを心配し、イエス様に、群衆を解散させるように頼みました。しかしイエス様は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。弟子達は、ここには5つのパンと2匹の魚しかなく、自分達が5千人ほどの人の食べ物を買いにいかなければならないと言いますと、イエス様は群衆を、50人位ずつ組みにして座らせ、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ」ました(16節)。

イエス様が、5つのパンを「裂いて」とありますから、祝福されたパンと魚を小さく裂き弟子達に渡される段階で次々と増えて、集まった群衆に十分過ぎるほどで、すべての人が食べて満足して、残ったパン屑が12籠もあったと記されています。このように、神様の国においては、神様からの祝福はすべての人々に必要な分が十分に満たされるほど、完全に与えられることを私たちは知ることが出来ます。

*詩編の「セラ」

 4節・8節・12節の下に、カッコで「セラ」とありますが、これは音楽に関する術語で、「休息、安息、休止」の意味の他、「上げる」という動詞から来た言葉とも言われています。1節で「指揮者に合わせて」とあり「」とありますから、それぞれの節を歌った後、休止して今、言い表された言葉の内容を、十分心に留める(味わう・吟味する)時を持ったとも考えられます。

 11節には「力を捨てよ、知れ わたしは神。」とあります。これは、静まること、一人になること、沈黙すること、止まること」です。神様の祝福や恵みは、神様がおられる聖所にあり、そこには十分すぎるほどの霊の満たしがあります。私達は、神様のためにセラ(休み、リセット)の時間をとって、「手を留めて働くことから離れ、完全に休み、休息を取り、心を落ち着かせる」ことが必要です。それが生活の一部になり、生活習慣としての広い意味での安息、休息を得ることができるのです。

*わたしたち

 最近は、様々な情報がインターネット上で飛び交う社会になり、技術発達により、生活環境は大きく変化し、本当の真実は何か、誰を信じ、どの方向に目を向ければいいのかなど、社会状況は混乱しています。

私達に必要なのは、神様との時間を作るセラ(安息の日、休みを取る日、神様に献げる日、信仰を告白する日)の時です。イエス様の祈りと祝福は、群衆すべての空腹を満たしました。私達は忙しい毎日の生活から離れて、日曜日に、神様のおられる場所で神様との時間を作り、(困難な時はそれに代わる時間を定めて:マタイ6:6)、一週間の歩みを始めましょう。

2023年2月5日の説教要旨 詩編147編1-11・ルカ福音書8:4-15

「主イエスの種まき」     加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日のルカ福音書には、大勢の群衆が「神の国の言葉」を聞くためにイエス様のそばに集まってきたので、イエス様は群衆に向かってたとえを用いて語られたことが記され、そのたとえ話を終えられたイエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた、と記されています。

 イエス様はなぜ、大声で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言ったのでしょうか。大声で言われるとは、呼びかける、繰り返し叫び続ける、訴え続ける、と言う意味が含まれます。

*イエス様は、誰に? 何を? (聞きなさいと言われたのか)

誰に?とは、直接には、「方々の町から集まって来た群衆」に、ですが、イエス様は、神様を信じる人々に、そして今、生きている私達に、繰り返し「聞くように」と、叫び続け、訴え続けておられます。

何を?とは「神様の言葉」です。「神様の、喜ばしい知らせ」、「神様が私達と共にいて下さること」「神様の想い」「神様の熱いメッセージ」を、イエス様は、聖書を通して私達のもとへ、今も送り届けて下さっています。

では、イエス様の声は、私達の心の中でどのように響いているでしょうか。

私にとっては、こだま(山びこ)のように絶えず心の中で鳴り響く声、騒ぐ心を落ち着かせる安定剤、弱っている心を力強くさせてくれるもの、心や体、霊の部分に栄養を与えて下さる薬のような栄養源、となっています。

*イエス様の弟子達は?

神様の子とされた弟子達は、聞いた話の意味をイエス様に質問し、尋ねています(9節)。「聞く耳のある者が聞く」とは、熱心に、納得いくまで何度も繰り返し尋ね、聞き続ける、質問し続けることだと思います。問い続け、求め続けることをあきらめずにするなら、きっとイエス様の語った言葉を理解することが出来て、イエス様が私達に伝えようとしているその真理を見つけ出し、たとえの本当の意味を悟り、理解することが出来るようになると思います。

あなた方には神の国の秘密を悟ることが許されている

 弟子達はイエス様から、「あなた方には神の国の秘密を悟ることが許されている」と言われました。神様とイエス様を信じる私たち全ての者は、弟子達と同じように、神の国の秘密を悟るという素晴らしい特権が与えられています。信じる者には、神様の奥義、神様を知ることが出来る扉が開かれているのです。ですから神様の言葉を正しくが理解できるように聖霊の助けを求めていく必要があるのです。私達が弟子達のようにイエス様の言葉を聞いて、その意味を問い、「教えて下さい。分かるように説明して下さい」と、心の中にある想いや疑問をイエス様に向かって求め続けていくならば、本日の「種まきのたとえ」の中の「良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」種となっていくでしょう。

*詩編147編

 本日の詩編の作者は、1節で「ハレルヤ。私たちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく 神への賛美はいかに美しく快いことか」と、神様を讃美する喜びを歌い、続いて、バビロン捕囚の中にある神の民イスラエルの人々に、主は打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んで下さる。(2~3節)」と、エルサレム再建の希望を伝え、主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え 山々に草を芽生えさせられる。獣や、からすのたぐいが求めて鳴けば 食べ物をお与えになる。(8~9節)」と、自然や生き物にも神様の配慮があることに目を向けさせ、11節で「主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。」と歌います。

*神様を信じるわたしたち

 神様は、天の星、空の雲、雨や水、地上の草木、獣、鳥、農作物など、地球上を取り巻くそれら全てを支配し、生きるもの全てに命を与えられました。神様を信じるイスラエルの人達や私達は、神様にとってとても特別な大切な存在です。それだからこそ生きる全ての人達が神様の民になることは、神様にとって喜ばしい大切な出来事です。私達は、良い土地にまかれた種として歩み、この詩編作者と同じように、どんな時にも神様に聞きつつ、神様への讃美の歌声を響かせて参りましょう。

2023年1月22日の説教要旨 詩編111編・ルカ福音書4:16-30

「主を尋ね求めよう!」     加藤 秀久牧師

*はじめに

本日のルカ福音書の前には、イエス様がヨルダン川で洗礼を授けられて祈っておられると聖霊が降り(3:22)、その後40日の間、悪魔から誘惑を受けられましが、その間、何も食べず断食されたことが記されています。断食を通してイエス様の霊的感覚は優れたものとなり、神様の霊をもって悪魔に勝利しました(4:1~13)。

 本日の4章16節以下には、イエス様が育った故郷ナザレにおいて起こった最初の出来事が記されています。

*ユダヤ教の会堂にて

安息日にイエス様は、ナザレの会堂を訪れました。イエス様が敬虔なユダヤ教徒の一人として安息日には規則正しく、ユダヤ教の会堂で礼拝を守られていたことが証言されています。当時の会堂での礼拝順序は(明確でない部分もありますが)、シェマ一「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:4~」から始められ、祈りに続いて聖書朗読 (旧約の律法と預言書の箇所)、祈り、説教、そして祈りがなされていたと考えられています。又、ユダヤ人男性なら誰でも、礼拝で聖書 の言葉を朗読することが許されていたそうです。そこでイエス様は、聖書を  朗読するために立ち上がりました。

*イエス様が読まれた聖書箇所

立たれたイエス様に、係の者は、預言書のイザヤの巻物(当時、各書は一巻ずつ巻き物として存在)を渡しました。イエス様は、お開きになると、「次のように書いてある個所が目に留まり」朗読されました(17~19節)。

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

 そしてイエス様は巻物を閉じて係の者に返して腰を下ろすと会堂にいる全ての人々の目がイエス様に注がれました。イエス様は、人々が注目している中、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました。今日とは、過去のその日のことではなく「耳にした時、その日、聞くことによって」実現したと語りました。

*会衆の反応

人々のイエス様に対する最初の反応は好意的であり、その恵み深い言葉に驚きを覚えています。ところが、22節の後半で、「この人はヨセフの子ではないか。」と、イエス様のこの世に於ける家族的背景に目を向けて、自分達と同じ故郷の出身者でありながら、イエス様の恵み深い言葉との思いもつかない違いに、戸惑いから生じた言葉と考えられます。

イエス様の姿を幼い時から見ていたことが、かえって現在のイエス様の本当の姿や語られる言葉を理解することを妨げてしまったのでしょう。イエス様は彼らの反応を見て、「旧約時代(エリヤやエリシャの時代)でも、神様から選ばれて救われた人は、預言者の出身地以外の人達(やもめとシリア人ナアマンの例をあげて)だった」と語られたことにより、会衆は憤慨して、イエス様を山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしました。

*主の御業を愛する人は皆、それを尋ね求める。

私達は神様に選ばれ信じる者達です。本日の詩編「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげる。主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。」(1~2節)にあるように、いつもどんな時にも神様に心を向け、神様を尋ね求めて日々を歩んで行こうではありませんか。心を尽くすとは、自発的な思いであり心の奥底から100パーセント、全ての想いを神様に向け、感謝の言葉をささげ、神様に信頼し、神様を愛し通し、信じ続けていく、主を尋ね求めていくことです。主に 贖われた(救われた)私達の生活は、いつでもどこでも、いかなる状況の中でも、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして私達の主に感謝する、主を礼拝することにあると思います。私達はこの神様の言葉を携えて、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年1月15日の説教要旨 詩編101編・ルカ福音書5:1-11

「神様、いらっしゃい!」     加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の詩編101編はダビデの賛歌で、2節には 「完全な道について解き明かします。」とあります。「完全な道」とは、道徳的、倫理的、知識的な意味での「完全」ではなく、かつて主がアブラハムに「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。(創世記17:1)」と言われ、又、「いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。(詩編119:1)」とあるように、「まったき道を踏む」ことと「主の律法に歩むこと」は同じであり、神様への信頼の道、神様とのかかわりの道、共に歩む道です。「解き明かす」を他の訳では「心を留める」と訳しています。ダビデは王として、神様への信頼の道、神様と共に歩む道に心を留めつつ、与えられた使命に生きていきました。

しかし、お言葉ですから、

本日のルカ福音書には、イエス様がガリラヤ湖畔に立っておられると、神様の言葉を聞こうとして群衆が押し寄せて来たことが記されています。イエス様が多くの病人を癒された奇跡を見たからです。イエス様が語る神様の言葉や奇跡は人々の心に留まり、人々を惹きつける力がありました。

イエス様は、二そうの舟が岸にあるのをご覧になると、漁師逹が舟から上がって網を洗っていたので、そのうちの一そうの所有者であるペトロの舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになりました。そして、腰を下ろして舟から群衆に神様の言葉を教え始められました。話し終えた時、ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ペトロは、夜通し働いても小さい魚一匹も取ることができなかったので、その働きは骨を折るだけで無駄になると思ったことでしょう。しかも網には多くの不要物が付着していますから、それらを取り除くためには、その後も又、網を洗う作業をしなければなりません。けれどもペトロは、次のように答えています。「先生、私達は、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。

ペトロは、疲れていたはずです。心の中では疑いの思いもあったことでしょう。しかしペトロはイエス様の言葉に従いました。そして舟を沖に漕ぎ出し、網を下すと驚くことが起こります。網にはおびただしい魚が入り、そのために網が破れそうになったため、もう一そうの仲間に合図をして手を貸してくれるように頼み、2そうの船は魚でいっぱいになり、舟が沈みそうになったと記されています。

恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる

ペトロはイエス様の言葉に従い、神様の奇跡を目の当たりにしました。ペトロはイエス様の足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。ペトロも一緒にいた者達も皆驚きました。ペトロは神様のあまりの凄さに恐れを感じたことでしょう。私達も起こるはずのないこと、起こりえないことが起きてしまったり、見たり触れたりした時、神様に恐れを感じてしまうと思います。けれどもイエス様はペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と告げたのでした。

人間をとる漁師になる」

漁師は本来、売るため、食べるために魚を捕りますが、この「人間を捕る漁師」とは、多くの人達に永遠の命であるイエス様を与えて、生かす者になる、イエス様のことを伝える者になる、そのような者に変えられる、変わっていく、ということです。このことをイエス様は私達にも伝えようとしています。そして神様の言葉の中には命がある、道がある、真理があるということを教えようとしています。神様は一方的に神様の方から私達人間に近づいて来られ、私達に神様の言葉を語りかけて下さっています。その言葉はすべての地上にいる者達、世界の人達に語りかけられていて、語りかけられた私達には、その言葉を聞いて、受け入れるか、受け入れないか、の選択権が与えられています。

私達は今週も、心の中にイエス様が来て下さることに期待して神様に向かって心から「ようこそ来て下さいました。私をようこそ捕らえて下さいました。」「神様、いらっしゃい!」と、歩みを始めて参りましょう。

2023年1月8日の説教要旨 イザヤ書52:7-10・使徒言行録10:34-48

「全ての人の主」       加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の使徒言行録10章の始めでは、カイサリアにコルネリウスという人がいて「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長でしたが、ユダヤ人ではありませんでした。しかし彼は、ユダヤ人の信じている神様を信じていました。ある日、彼に天使が現れて、ペトロという使徒を招くように、と、お告げを受けました。それで彼は、召使と兵士の3人をペトロの所に送り出しました。翌日、ペトロのところにも、神様は幻を通して語りかけられました。天から大きな布が四方を吊るされて下りてきて、その中にあらゆる獣や、地を這うものや、空の鳥が入っており、「これを屠(ほふ)って食べなさい」と、言われる幻でした。

神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない

ユダヤ人は、神の民として自分達を清く保つために律法を守っていて、ペトロが見たその布の中には、汚れていて食べてはならないと言われている生き物が沢山入っていました。ペトロは、神様から食べなさいとの命令に、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」とこたえました。ペトロにとって律法を守ることは当然のことでした。しかしペトロに神様は、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と三度もくり返され、布は天に引き上げられました。

*聖霊の導きによる異邦人伝道

ペトロが今見た幻のことを考えていると、コルネリウスの使いがペトロの家を捜し当ててやってきました。すると聖霊がペトロに、「ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」と、コルネリウスのところへ行くように促しました。ペトロは使いの者達から、コルネリウスも天使からお告げを受けたことを聞いて、彼らと一緒に出発してカイサリアに到着し、ペトロの話を聞くために大勢の人が集まっていたところで福音を語りました。これまでペトロは、同胞のユダヤ人たちに、「イエス・キリストこそ我々が待ち望み、聖書に預言されていた救い主である」ことを語ってきましたが、今度は、接触(交わり)を拒んできた異邦人(ユダヤ人以外の外国人)に対して初めて福音を伝えたのです。イエス様のことを伝える言葉には力があり、命があり、愛が伴います。そこで聞いていた人達の上に聖霊が降りました。ペトロと一緒に来た人は、聖霊の賜物が異邦人にも注がれるのを見て大いに驚きました(45節)。

 わたしたちもペトロと同じように、このことのためにな自分が用いられる、あるいは遣わされていると感じたことはないでしょうか。特に、新年を迎えたこの時期、多くの人々が神様を求めて神社やお寺にお参りに行く姿を目にしましたが、その人達がある日、何かのきっかけにより、真実の霊、神様の霊に触れる時、彼らは神様の霊に出会い、神様の所へ、神様を礼拝するために、教会へと足を運ぶことになることを私達は知っています。そのことを神様に期待し、信じていきたいと思います。

いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。」イザヤ52:7

神の御子イエス様が人のかたちを取られてこの地上に来られたことは、私達にとって、とても素晴らしい出来事です。そのイエス様の語る神様の言葉や、不思議な業や、奇跡などは多くの人々に大きな影響を与え、それらはイエス様が亡くなられた後では、イエス様の行いや神様の出来事を伝えることになったのが弟子たちであり、ペトロであり、私たち神様を信じる者たちに委ねられています。ですから私達は、神様の言葉に目を向け、神様の霊の中で憩い、歩み、私達に委ねられている福音、神様のこと、イエス様のことをさらに知る必要があると思います。

このことは、わたしたちの心に平和をもたらし、幸福をもたらし、救いをもたらすことを本日の聖書は伝えています。私達は、このイエス様の霊、神様の言葉に胸を弾ませながら、2023年の歩みが祝福されるように祈り、期待をしながら今週一週間の歩みを始めて参りましょう。