「神の前に正しく生きる」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 146:1-10 1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。 2 命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。 3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。 4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。 5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人 6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は 7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち 8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し 9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。 10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。 /n[使徒言行録] 4章1ー22節 1 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。 2 二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、 3 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。 4 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。 5 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。 6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。 7 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。 8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、 9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。 11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。 12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。 14 しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。 15 そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、 16 言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。 17 しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」 18 そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。 19 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。 20 わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」 21 議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。 22 このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。 /nはじめに  今日の聖書は大きく三つに分けられます。一つは、ペトロとヨハネが神殿で説教していた時に捕まって牢に入れられたこと。二つ目はペトロとヨハネが議会に引き出されて尋問され、それに対する二人の弁明、そして最後に議会側の脅迫と、それに対するペトロとヨハネの抗議です。 /n背景  エルサレム神殿の「美しい門」のそばで、足の不自由な40歳過ぎの男が毎日物乞いをしていました。ある日祈る為に神殿を訪れたペトロとヤコブはこの男から施しを乞われました。その時二人は「金銀は私にはないが持っているものをあげよう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」と命じました。その結果それ迄一度も歩いたことのないこの男の人が立って歩き出し、ペトロ達と一緒に神殿に入ったのです。この人が喜び、歩き廻り、神様を賛美する姿を見て、彼が物乞いをしていた男だとわかった民衆は我を忘れるほど驚き、集まってきました。 /nペトロの説教とその結果  ペトロは「この人がいやされたのは、あなた方が十字架につけて殺してしまった、しかし神が死者の中から復活させて下さった、あの、イエス・キリストの名によってなされた神の業である。だから自分の罪が赦されるように悔い改めて神のもとに立ち帰りなさい」と、語りました。 説教がまだ終らない中、神殿の管理監督をしていた祭司や神殿守衛長、サドカイ派の人達が駆けつけてきました。彼らは現状の平和が乱されることを嫌い、人だかりに神経をとがらせ、又、既に死んだ「イエス・キリストの名によるいやし」と、「イエス・キリストの復活について語っている」ことに、特にサドカイ派(復活も天使も認めない)の人々はいらだち、<彼らの言動を議会で審議をする>として、二人を牢に拘束しました。その一方で、多くの民衆は奇跡の出来事とペトロの説教が心の中にまで入り、イエスに向かって悔い改めよう!イエスこそメシア・救い主であったのだ!との確信が与えられ「二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数は5千人ほどに」なりました(4節)。 /n最高議会での尋問と弁明  ペトロとヨハネが引き出されたのは、71人の議員が囲む形の最高法院でした。ここには宗教上の権威だけでなく行政権、裁判権もありました。尋問は、二人が何の権威によって誰の名によって足の不自由な男の人をいやしたのか、が問われました。ペトロは、「この人がいやされたのは、あなた方が殺し、神が死者の中から復活させられたあのイエス・キリストの名によるものです。他の誰によっても救いは得られません。私達が救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(10・12節)と、自信と確信をもって堂々と語りました。 この弁明は、今日もなお宣教の中心であり、今朝の私共の伝道所での礼拝メッセージでもあります。救いはイエス・キリストにあります。この方を除いて他に救い主はおられません。この方が私達に罪の赦しを与える為に十字架の死を引き受けて下り、神様と私達の間にあった隔てを取り除き、和解の道を開かれました。救いはここにあります。 /n議会側の脅迫と、ペトロとヨハネの抗議  ペトロとヨハネの大胆な弁明、そして彼らが無学な普通の人であり、かつて自分達が死刑を決めた、あのイエスの仲間であることも知り、更にいやされた証人を目の前にして、議会は一言も言い返せず、結果として、これ以上伝道活動をしてはならないと脅し、禁止命令を出しました。    この判決に二人は抗議します。「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか考えて下さい。私達は見た事や聞いた事を話さないではいられないのです」(19節)。パウロも、「こんなことを言って今、私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも神に取り入ろうとしているのでしょうか。或いは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら私はキリストの僕ではありません。」(ガラテヤ1:10)と語ります。 私達も「神の前に正しく生きる道」を歩む者とされたいと願うものです。

「死者の中からの復活」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 116篇1-11節 1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。 3 死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして 4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」 5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。 6 哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。 7 わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。 8 あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。 9 命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。 10 わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 11 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。 /n[コリントの信徒への手紙二] 4章7-15節 7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。 13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。 14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。 /nはじめに  今日はイエス・キリストの復活を記念してお祝いする日です。キリスト教大事典によると、復活日はギリシャ語ではパスカとよばれ、このパスカの礼拝は、はじめ土曜日の夕方から日曜日の明け方にかけて守られ、その中で洗礼式が行われていました。私達は復活節(復活祭)又はイースターと言っていますが、イースターという呼び方は事典によれば、ゲルマンの春の女神に由来する呼び方だといわれるが、確実なことはわかっていないということでした。キリスト教が全世界に広がっていく時、土着の宗教と混合することは十分あり得ることで、テレビで(世界遺産などで)紹介されるキリスト教が、聖書からかけ離れたお祭りになっているのを見ることがあります。私達は聖書を正しく理解し、継承していくべきものと、そうでないものとを見極めていく目を養っていかなければならないと思います。 /n復活  「霊魂不滅」という考え方があります。霊魂は体の中に閉じ込められているが、死によって霊魂は自由にされて永遠の世界に帰るという考え方です。しかし聖書はこの考え方を全く否定します。霊魂と肉体は一体であり「私の霊」とか「私の魂」という時、自分の全存在をさします。キリスト教において「死」は霊魂の解放ではなく、全存在の死を意味するのです。その全存在として死なれたイエス・キリストが復活された。これが新約聖書の根本です。使徒言行録のペテロの説教では「しかし神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」(2:24)「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」(同32)と語っています。パウロも「そして、キリストが復活しなかったのなら、私達の宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です」(コリント15:14)と語り、さらに「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人達の初穂となられました。」(同20節)と語ります。 /n神様の働きとしての復活  イエス・キリストが「よみがえられた」「復活された」という信仰は、神様がイエス・キリストの誕生と共に私達の住む歴史に入ってこられたことを信じる信仰から信じることができます。天地万物を創造し、命を支配なさる神様がイエス・キリストをこの地上に送って下さり、そして「イエスは、私達の罪のために死に渡され、私達が義とされるために復活させられたのです。」(ロマ4:25)。すなわち、キリストの十字架の死を通して私達の罪が赦され義とされる、神様の働きとしての復活です。 /n「私達はこのような宝を土の器に納めています」(7節)  土の器とは、土のちりから造られたといわれるこの体です。宝とは「福音」あるいはすぐ前の「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」のことです。土と宝とは全く対立するもので、相容れないものです。宝石をそのまま土に埋める人はいないでしょう。しかし神様は土に等しい私達人間を、宝石を入れる器として下さいました。この宝石は「神のものである、並はずれて偉大な力」(7節)即ち「私達は四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8節)力です。パウロは、自分は土のように弱いが、宝として与えられている神の力によって彼を襲う絶望と破滅から常に守られていると証言します。それは宣教者としての召命と伝道が、人間の力によらずに神様の力から出るものだからです。「私達は、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(10節)。パウロが受ける死の危険は、イエス・キリストの苦難が、自分の体において継続したものであり、それはパウロがキリストと苦難を共にし、苦難の中にあってキリストとの交わりの中に置かれており、この苦難は克服と勝利を力強く約束しています。パウロという弱い土の器の中で、復活したキリストの命が現れているのです。

「ペトロの説教」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 44章21-23節 21 思い起こせ、ヤコブよ/イスラエルよ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。 22 わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。 23 天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びをあげよ。山々も、森とその木々も歓声をあげよ。主はヤコブを贖い/イスラエルによって輝きを現された。 /n[使徒言行録] 3章11-26節 11 さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。 12 これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。 13 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。 14 聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。 15 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。 16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。 17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。 18 しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。 19 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。 20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。 21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。 22 モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。 23 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』 24 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。 25 あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。 26 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」 /nはじめに  本日は、しゅろの日曜日(パームサンデー)です。ヨハネ福音書12章にはイエス様がエルサレムに来られると聞いて、大勢の群衆がなつめやし(しゅろのこと・英語では、date-palm)の枝をもって迎えに出たことが記されています。しゅろの日曜日から始まる一週間を、受難週(Passion Week又はHoly Week)と呼んでいます。私共の伝道所では受難週の月曜日から金曜日まで毎日30分間を黙想会として持ちます。約2000年前のイエス様の最後の一週間の足跡をたどり、受難と死の意味(自分が罪赦された者とされ、あがなわれたこと)を黙想するひとときです。 /nペトロの説教  今日の聖書は、祈る為にエルサレム神殿の中に入ってきたペトロとヨハネにつきまとっている男が、エルサレム神殿の「美しい門」のそばで施しを乞うていた生まれつき足の不自由な男だと知って、人々が驚きをもってペトロとヨハネのもとに集まって来ました。そこでペトロは話し始めます。 ペトロは、まず彼らの誤解を解くことから始めました。民衆は、立つことも歩くことも出来なかった男が今、目の前に立って歩いているのはペトロとヨハネがいやしたからだと考え、こんな奇跡を行うペトロとヨハネに対して驚きのまなざしで見つめています。しかしそのように見る限りこの出来事を説明することはできません。ペトロはまず「これは私達の力や信仰によるのではなくイエス・キリストによるものである」と宣言しました。男を癒したのは「イエス・キリスト」であり弟子ではないのです。イエス・キリストは神から遣わされたお方です。奇跡は神のみが行う業であり、神の御名が崇められることに、奇跡の業の根拠と目的があります。歩けるようになった男は、神様がイエス・キリストの名によって、神のみ業をなされた、そのあかしでもあります。 /nイエス・キリストの現臨  このいやしは、イエス・キリストに対する信仰が呼び起したものです。弟子達の信仰はイエス・キリストの言葉と行為を通して植えつけられた信仰であり、今弟子達はその信仰によってイエス・キリストに呼びかけ、イエス・キリストからいやしを受け取ることによってイエス・キリストの栄光が現わされることに奉仕をしています。使徒言行録では「イエス・キリストの名によって」罪が赦され,救いが起こされ,悪霊が追放されます。「名による」とは、そこにイエス・キリストが現臨することです。 /n預言の実現  ペトロは民衆に、このいやしの奇跡を起こされたイエス・キリストを、あなたがたは殺してしまったが、それは無知のためだった。しかしイエス・キリストのご受難は、あらかじめ旧約聖書で予告されていた神様の救いのご計画の中にあったこと、イエス・キリストの死は結果としてイスラエルの不信仰と罪によって、神の救いのご計画を実現することになったことを語りました。それゆえにユダヤ人達は、「その罪を離れ、回心して、自分達が殺してしまったイエス・キリストを救い主メシアとして信じる」道が用意されているのです。 /n悔い改めは罪の赦しの第一歩  ペトロは、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(19節)と迫りました。ユダヤ人のみならず全ての人は、悔い改めて神のもとに立ち帰るならば、神の赦しを受け取ることができ、その罪から解放されるのです。第二に終末と再臨の約束が語られます。ペトロはこの時を「主のもとから慰めの時が訪れる」と表現します。今、私達にはさまざまな苦痛があり、悲しみがあります。しかしその時には、神様の栄光が現れ、歴史の苦痛に満ちた歩みは、終りを告げます。 この時を迎えるために私達がなすべきことは、旧約聖書の言葉に従うことであり(22節以下)、それはイエス・キリストに聞き従うことです。

「新しい民として」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 58章3-7節 3 何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。 4 見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。 5 そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。 6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。 /n[マルコによる福音書] 2章18-22節 18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。 21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」 /nはじめに  今日は受難節第5主日です。この受難節に入ってから、週報の報告欄にいつも「克己・修養・悔い改めの期間として過ごしましょう。」とあります。「克己」は文字通り己に克つことです。罪に引きづられてしまう自分の弱い部分の克服に努めること、食欲・性欲・怠惰など欲望に引きづられる悪い習慣を直すように努めて生活しましょう、ということです。「修養」は、聖書の御言葉や信条などを学んで体得すること・・「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、また、徳や称賛に値すること」(フィリピ4:8-)、修養によって、これらの徳目が備わるようにと神様から期待され、愛され、導かれています。ガラテヤ書に「キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(3:27)とあります。「悔い改め」は、自分中心の考え方・生き方から神様中心の考え方・生き方に完全に方向転換することです。 /n受難節と洗礼  受難節と洗礼は、歴史的に密接な関係がありました。古代教会において、洗礼は一年に一度、復活日(イースター)のみに行われてきました。福音を知らずに死の世界にいた罪人が、イエス様の贖いを通して神様のもとに新たに生きるようになり、神様中心の教会をつくるという図式は、まさに「復活」であり、サタンの支配する死の世界を神様が打ち滅ぼし勝利したということです。ですから、そのイースターの前に置かれたこの受難節は、洗礼志願者にとっての準備の時として「克己・修養・悔い改め」が最重要課題でした。過去の悪癖を断つ決意と努力、御言葉や主の祈りや使徒信条など仲間内でしか明らかにされない極秘の大事な御教えを伝授され、深い懺悔と罪への悲しみをあらわす「灰をかぶっての祈り」を献げイエス様の十字架上での御苦しみに思いを馳せながら断食する期間でもありました。  克己・修養・悔い改めをしっかり実行していこうとすれば、罪の大きさ、罪との断ち切り難さ、逃れ難さを深く探っていくことができます。その恐ろしさ・重圧を知り、体験し尽くさなければ、逆に神様の側へと解放された喜びを味わうことが難しく、中途半端な信仰になるでしょう。罪の恐ろしさの認識を経て始めて、罪の縄目を解いて下さった主イエスの十字架の贖いへの感謝が生まれ、揺るがぬ信仰を持つことができ、自由にされた真の喜びにあずかることができます。そのような人こそ「自分の体を聖なるいけにえとして献げる」ことができ、真の礼拝の喜びにあずかれるのです(ロマ書12:1)。 /n「断食」  今日の聖書では、バプテスマのヨハネの弟子達と律法遵守の形式主義者ファリサイ派のグループが断食しているのに、断食を表立ってしていないイエス様の弟子達の行動の根拠を、人々が指導者イエス様に質問する形で「決められた形を守らないのは間違っている!あなた達のやり方は正しくない!」と非難しています。彼らは神様の御心よりも「断食」を守ることを第一と考え「あの人達は律法をちゃんと守って偉い、凄い」と人々からの評価を期待し、見えるところだけを考えて生きている人々として描かれています。神様を第一に考えるべき宗教界にあってさえ、人間の評価や人間の思惑を第一に考える、当時のユダヤ教の限界を示しています。神様第一ではなく、人間の目・第一主義を「罪」といいます。 /n新しい民として  イエス様は断食しない理由を、御自身を婚礼の「花婿」に、弟子達を「婚礼の客」に譬えました。そしてイエス様が奪い去られる日が来ること(受難の預言)、その時には「断食することになる」と預言されました。  今日の箇所は、イエス様が、古いユダヤ教の形式的な束縛から人々を新しい福音という自由へと解放して下さった宣言と聞きます。イエス様を信じる私達は、神様から新しい民とされ「胸の中に主の律法を授けられ心にそれを記し、心の中にしっかりと主を神として立て、小さい者も大きい者も『主を知っている』状態にある」(エレミヤ31:33)とされています。私達はイエス様という福音を新しく授けられた民です。(後略)

「イエス・キリストの名によって」 佐藤義子 牧師

/n[ダニエル書] 6章1-11節 1 さて、王国を継いだのは、メディア人ダレイオスであった。彼は既に六十二歳であった。 2 ダレイオスは、王国に百二十人の総督を置いて全国を治めさせることにし、 3 また、王に損失がないようにするため、これらの総督から報告を受ける大臣を三人、その上に置いた。ダニエルはそのひとりであった。 4 ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた。王は彼に王国全体を治めさせようとした。 5 大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探した。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった。 6 それで彼らは、「ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関してなんらかの言いがかりをつけるほかはあるまい」と話し合い、 7 王のもとに集まってこう言った。「ダレイオス王様がとこしえまでも生き永らえられますように。 8 王国の大臣、執政官、総督、地方長官、側近ら一同相談いたしまして、王様に次のような、勅令による禁止事項をお定めいただこうということになりました。すなわち、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる、と。 9 王様、どうぞこの禁令を出し、その書面に御署名ください。そうすれば、これはメディアとペルシアの法律として変更不可能なものとなり、廃止することはできなくなります。」 10 ダレイオス王は、その書面に署名して禁令を発布した。 11 ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。 /n[使徒言行録] 3章1-10節 1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。 2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。 3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。 4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、 6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。 9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。 10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。 /nはじめに  捕虜として連行されたダニエルは、捕囚の地・バビロンでも毎日三度、祈りと賛美の時をもっていました。今日の聖書には、ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時に神殿に上って行ったとあります。ペンテコステの日、弟子達が一つに集まっていた時に聖霊が降りましたが、それは朝9時のことでした(2:15)。更に10章にはペトロが祈る為に屋上に上がったのが昼の12時頃と記されています。イエス様の時代、ダニエルと同じように初代のクリスチャン達も、一日三回、決まった時間に祈りを捧げていたということを、私達は心に覚えたいと思います。 /n祈り  一日三回祈るということは、一日最低三回は神様を仰ぎ見る時間を持つということです。社会で働いておられる方々は、朝起きた時から夜寝るまで追われるように次から次へと休みなく体を動かしておられることでしょう。しかし忙しくしているといつしか神様が自分と共におられるということを忘れ、自分だけで働いている気持になる、という誘惑があります。又クリスチャンは、信仰的に霊的に、御言葉から切り離された生活に陥る誘惑が毎日、いつもあります。先週の説教でも、信仰生活にブレーキをかける重荷や、からみつく罪のとりこになる誘惑について語られましたが、毎日決まった時間に祈るということは、これらの誘惑を断ち切り、神様の守りから離れずに一日を終えることが出来る恵みの時となるでしょう。  一日三回、何を祈るのでしょうか。私達人間にとって最も大切なことは、自分の創り主を正しく知ることです。イエス様を通して神様を知ることにより、私達は何を祈るべきかを学んでいきます。私達人間が生きる目的は、自分の生涯を通して神様の栄光をたたえることである、と学んだ時、私達の口は、それにふさわしい人間としてつくり上げて下さい、と祈るのです。 /n「美しい門」で。  午後3時、ペトロとヨハネは祈る為にエルサレム神殿に上っていきました。二人が神殿の境内に入ろうとした時、お金を恵んでほしいと、憐れみを乞う男の声を聞きました。ペトロとヨハネは男の顔をじっと見て、「私達をみなさい」と命じました。男は何かもらえる、と期待して二人を見つめていますと、次の命令が与えられました。 「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」 /n「イエス・キリストの名によって」  「イエス・キリストの名前で」ということは、名前の中に神様の人格的な力があって、名前を呼ぶことによりその力が引き出されるのです。弟子達がイエス・キリストの名前で行動する時、イエス・キリストがそこにおられるのです。洗礼も又、イエス・キリストの名において授けられます。ペトロは彼の右手をとって彼を立ち上がらせた、その時、彼の足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだしたのです。 /n大きな賜物  男が求めたものはささやかな施しでしたが、目を合わせて見つめた後に与えられたものは施しよりもっともっと大きな、彼にとって一番必要とする「命令」でした。「歩きなさい」という命令そのものが大きな賜物だったのです。ペトロが、イエス・キリストの全権をもって語り行動し、この男に「イエス・キリストの名によって」と言った時、男はイエス様に自分の意識を向け、自分の全信頼を置きました。右手を取ろうとするペトロに右手をゆだね、神様の力が自分の身に起ころうとすることに身をゆだねました。これが信仰の従順です。彼はいやされました。いやされた彼の喜びは、歩き回り踊ったりして神様を賛美し、二人と一緒に祈るために境内に入って行ったことに表わされています。 /n人々の驚き  10節には、これを見た人々が「我を忘れるほど驚いた」とあります。神様の業はまさに驚きの連続です。私達人間のなしえないことを私達の創り主であられる神様はなさることがおできになります。この信仰が、ここにおられる私達すべてのものに与えられることを祈りましょう! /n私へのメッセージ  私達すべてのものは霊的な意味で、生まれながら歩けない足を持ったようなものではないか。そして本当に願うべきことは「歩く」ことなのに、いつしか歩くことを願わずに、ささやかな施しで満足してしまうような、この男の人と同じような状況にあるのではないか。聖書は、「私達が必要としているもの・求めるべきものは、今あなたが望んでいるものではなくて、もっともっと根本的なことである」ことを教えているのではないか。そして聖書は、イエス・キリストの名によって願う時に、必ずそれは与えられる、と教えているのではないか。今日の聖書を通して、そのように語りかけているようにも思えます。聖書はいつも、他人にではなく、あの人にではなく、この私自身にメッセージを語る神の言葉です。お一人お一人が、今日、この聖書から自分に語る神様の言葉を聞きとることが出来るように祈るものです。

「今日がチャンス」  温井節子(角田教会伝道師)

/n[創世記] 28章15節 15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 /n[ローマの信徒への手紙] 13章11-14節 11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。 /nはじめに  ある本にこんな記事がありました。一人の青年がふしだらな生活にピリオドをうって、神様を信じて新しい人生に入りたいと思いました。ところがそのことを知った悪魔たちが集まり、そのことを阻止しようと作戦会議を開きました。悪魔の手下Aは、「罪の快楽をどっさりこの青年に見せたら、誘惑に負けて神様から遠ざかるだろう」と提案しました。手下Bは、「神様を信じて従っていくことは堅苦しくて楽しくない毎日が待っている、と教えたら神様を信じることを断念するだろう」と提案しました。手下Cは、「神様に従っていくのは良いことだ。素晴らしいことだよ、と大いにほめる。しかし急がなくても良い。今でなくても良い。又の機会でも良いことを教える」ことを提案しました。ボスの悪魔はこれら三つの提案を検討しました。青年が神様を信じて新しい生活に入るのを妨害する最も効果的な提案は、A「快楽の喜びを示す」、B「神様の道は無味乾燥である」、C「決断は今でなくても良い、延期せよ」のどれでしょうか。  ボスの悪魔が採用したのは、決断を延期するCでした。私達も何か良いことを決断する時に「今日でなくて明日」ということがしばしばあるのではないでしょうか。ダイエットにしても勉強にしても、今日はやめて明日からにしようとします。しかしこの延期方式はうまくいかないことが多いことを私達は経験しています。 /nロマ書13章11節の「今」  今日の聖書でも「今」が大切だといっています。「あなたがたは 今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私達が信仰に入った頃よりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。」救いが近づいたのはキリストの再臨が近づいたということです。この世はキリストの再臨をもって終るのです。この世の終わりが近づいたというのです。イエス様のおいでが近づいたというのです。世の終りがいつくるかは誰もわかりません。しかし来ることがはっきりわかっているものがあります。それは自分の人生の最後です。キリストの再臨が来る前に自分の人生の終ってしまうことが多いです。この世に終りがあるように、私達の人生にも終りがあります。キリストの再臨に確信がない人も、自分の人生の終りがくることは、いやでも認めなければなりません。 /n眠りから覚めよ  今はどのような時でしょうか。パウロは「眠りから覚めよ」といいます。ということは、私達は今、現在、眠っていることを意味しています。私達が勉強したりテレビを見ていると目が重くなる時があります。使徒言行録20章9節には、エウティコという青年がパウロの説教中、窓に腰かけていたけれども眠って3階から落ちたという記録もあります。私達がうつらうつらする時、周囲は眠っていると見ますが、本人は「起きている」ように思っています。私達も信仰的に、同じようなものではないでしょうか。信仰的に、霊的に、「眠ってなんかいない。起きている」と思っても、パウロのような信仰の達人からみれば眠っているようにも見え、あるいは本当に、信仰的に眠っているのかもしれません。私達が眠い時に起こされると「もう少し眠らせて」といいます。なかなか起きようとしません。本人は気持がよいので眠っていたいのですが、今、起きなければ大問題が起きる可能性があります。起きるべき時があります。パウロは「今が大切。明日はないかもしれない。だから今起きなさい。今、今日、起きよ。時が迫っている。」と起すのです。私達はもっと眠っていたくても起きなくてはなりません。起きるべき時がきているからです。それは明日ではなく、今日、今なのです。 /n闇の行いを脱ぎ捨てる  それでは起きてどうするのでしょうか。12節を見ると、「だから闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」というのです。まるで私達が闇の行ないにかかわっているような言い方をしています。私達クリスチャンは闇の行ないなど関係ない。これは神様を信じていない人達へのメッセージであって、信じている私達にではない、と思うのは私だけでしょうか。しかしこの手紙は12章の初めに「兄弟たち」と呼び掛けていますから、この13章はその続きでクリスチャンへのメッセージです。未信者は、霊的に死んでいるといわれます。クリスチャンはキリストと聖霊の力で罪が赦されて霊的に生きています。しかし霊的に生きているクリスチャンでも闇の行ないと無関係ではありません。  闇の行ないを捨てよといっていますが、この闇の行ないとはどんなことを指すのでしょうか。13節に「酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、妬み」の6つがあげられています。リビングバイブル訳では「どんちゃん騒ぎをしたり、よっぱらったり、姦淫したり、肉欲にふけったり、争ったり、妬んだりして、時間を浪費してはなりません。」と訳されています。自分に関係する項目はない、という人もいるでしょう。これは一世紀のローマ市におけるクリスチャンの生き方に関係しています。パウロが当時の闇の行ないをあげたら数えきれなかったと思います。コリント市における闇の行いについては、第一コリント6章9節-10節にあります。(みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者)。それぞれの都市における警戒する闇の行ないは違ったのです。闇の行ないとは肉の行ないです。神様に逆らう行ないです。パウロが今生きていたら、どんな闇の行いをあげるでしょうか。  「争い」、「妬み」はクリスチャンと無関係とはいえないでしょう。党派、分裂、分派・・は教会の中にもあるのではないでしょうか。パウロのいう闇のわざはクリスチャンに無関係ではないのです。 /n夜は更け  どうしてクリスチャンの世界、生活に闇の行ないが入ってくるのでしょうか。12節に「夜は更け、日は近づいた。」とあります。パウロの時代判断ではクリスチャンは今、夜の時代に生きています。クリスチャンは世の光、光の子供です。光が弱くなると、闇はクリスチャンの生活に入ってきます。今、夜の9時だとしましょう。停電になりました。闇は遠慮なく部屋に入ってきます。家の中はローソクで少し明るくなりましたが、外には闇が取り巻いていますから、油断すれば闇は遠慮なく中に入りこんできます。犯罪も大抵、暗闇の中で起こります。暗闇の中に何が待っているかは誰にも見えません。しかし暗闇の中には悪しき行ないを起こす者が動めいています。光がなくなると暗闇の力が家の中に入り、体の中に入ってきます。そしてクリスチャンを眠らせたり、不道徳なことに誘惑するのではないでしょうか。一ペテロ5:8に「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。」とありますから、クリスチャンは目を覚まし、起きて、「闇の行ないを脱ぎ捨てよ」とパウロは叫びます。ヘブル書12:1でも「すべての重荷や、からみつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と勧めています。クリスチャンには信仰生活にブレーキをかける[重荷]や[からみつく罪]があるのです。 /n重荷と罪  信仰生活にブレーキをかける重荷とは何でしょうか。毎日聖書を読む、ということが重荷という人もいるかもしれません。又、教会やクリスチャンを取り巻く外の世界は闇の世界です。クリスチャンも知らず知らず、だんだんこの世的になってきます。少しずつ闇の世界が浸透してきます。カエルは外の世界と同じ体温を保つので、気温が上がると自分も同じ体温になります。ですから外の温度の上昇には気付きません。「いい湯だな、気持良い」と喜んでいるうちにお湯の中で死んでしまいます。少しずつの変化に気付かないことが多く、気付いた時にはもう遅いのです。クリスチャンも、教会も、知らない間にまわりの世界に似てきます。ですからパウロは、ロマ書12章2節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」と警告しました。 /nそれから?  闇の世界から侵入してくる「闇の行ない」を脱ぎ捨てました。それからどうするのでしょう。これでは禁欲主義になってしまいます。「あれをするな、これをするな」では、面倒な消極的な宗教になってしまいます。14節では「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」といわれています。 /nイエス・キリストを身にまとう  キリスト教は消極的な宗教ではありません。捨てるだけではなくてイエス・キリストを着ていきたいと思います。クリスチャンは天国の市民です。天国にふさわしい服を着たいと思います。私達が結婚式に行く時、それにふさわしい服を着ます。天皇陛下のお茶会に招かれた人は、それにふさわしい服装をします。エプロン姿や作業服で出席する人はいません。  天国の市民にも天国にふさわしい服装があります。それがキリストの衣、キリストが与えて下さる衣です。キリストの衣とはキリストにふさわしい生活のことです。暗闇の世界の影響を受けた私達の衣は、少しずつあちこちにしみがついたりほころびたり、破れたりしているかもしれません。イエス様から新しい衣をいただく必要があります。ヨハネ黙示録3:18でラオディキアの教会の人達は、自分達は豊かで満ち足りていると考えていましたが、神様の診断は違っていました。「あなた方は裸だ。裸の恥をさらさないように、身につける白い衣を買いなさい」と忠告されました。  「白い衣」とは清い生活のことです。又、ヨハネ黙示録6:11では、天国で殉教者に「白い衣」が与えられました。キリストを着る。キリストの衣を着る。それは清い生活のことです。イエス様が下さる白い衣は、闇の中では光の武具となるのです。光の武具を身につけるとは、「キリストを身にまとう」と同じことです。フィリピ書2:15-16に「よこしまな曲った時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」とあります。イエス様の下さる衣は、内に対しては霊的命を守り、外に対しては輝くのです。 /nアウグスチヌスとフェリクス総督  4-5世紀にかけて活躍したクリスチャンの指導者にオーガスチン(アウグスチヌス)がいます。彼は若くしてローマの大学の教師になりましたが、一方、放蕩の不道徳の若者でもありました。母モニカは、彼の為に祈りに祈りました。彼女は「涙の子は滅びない」という言葉で有名になった人です。アウグスチヌスは自分の悪い生き方を反省しているようですが、なかなか足を洗うことができません。競輪競馬が好きな人はやめようと思ってもやめられないそうですが、アウグスチヌスも同じように、いつまでこのような悪い生き方を続けるのだろうか、と自分でも情けないと嘆いていました。「神様、いつまでですか」とうめくように祈りました。その時です。急に「取りて読め、取りて読め」と子供の声が聞こえてきました。これは「聖書を開け」ということだな、と聖書を開きました。その時、このロマ書13章の11節から14節が目に入ってきました。  今日の聖書の箇所です。これを読んだ時、彼の眼が開かれました。彼は勇気と力が与えられ、その時、その場で、彼の放蕩の生活に終止符を打つことが出来ました。明日からとは言いません、今日、今からキリストを着ます、キリストにある新しい生活を始めます、と決着をつけたのです。その足で母の所に駆けつけ決心を話しました。勿論母は大変喜びました。まもなく母は召天しました。アウグスチヌスの決心がもし遅ければ、母を喜ばすことは出来なかったでしょう。今がチャンスなのです。アウグスチヌスは母の死後、北アフリカのヒッポという町の司祭となり、40年以上奉仕し、76歳で母のいる天国に凱旋しました。対照的なのは、使徒言行録24:25にあるフェリクス総督です。  「パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った。」とあります。フェリクス総督は、今、今日、決心出来ませんでした。「明日」「今度」と伸ばして、二年後には後任のフェストゥスと交代したのです。救いの機会は永遠に失われました。 /n今日がチャンス  私達も、今日、今、という時を逃してはなりません。闇の行いを脱ぎ捨てて主イエス・キリストを着ようではありませんか! 光の衣を着ようではありませんか! 光の武具を身に着けようではありませんか!キリストにふさわしい清い生活を始めたいと思います。 >> 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗した時のように、心をかたくなにしてはならない。」(へブライ書3:19) <<

「存続する信仰」 佐藤義子 牧師

/n[申命記] 32章1-6節 1 天よ、耳を傾けよ、わたしは語ろう。地よ、聞け、わたしの語る言葉を。 2 わたしの教えは雨のように降り注ぎ/わたしの言葉は露のように滴る。若草の上に降る小雨のように/青草の上に降り注ぐ夕立のように。 3 わたしは主の御名を唱える。御力をわたしたちの神に帰せよ。 4 主は岩、その御業は完全で/その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく/正しくてまっすぐな方。 5 不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ/その傷ゆえに、もはや神の子らではない。 6 愚かで知恵のない民よ/これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父/あなたを造り、堅く立てられた方。 /n[使徒言行録] 2章37-47節 37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。 /nはじめに  「聖霊降臨」(ペンテコステ)の日、ペトロは集まった人々に、直前に起こった不思議なしるしは聖霊が降(くだ)ったしるしであったこと、このことは旧約聖書に書かれている預言が実現したのだ、とペンテコステの出来事を解き明かしました。さらに、十字架で殺されたイエスこそ神から遣わされた方であること、そしてこのイエスが私達の主、メシア(救い主)であることを伝えました。それまで聖霊は、預言者といわれる人々などごく限られた人々にしか与えられませんでしたが、この日この時から信じる者すべてに賜物として与えられるようになったのです。聖霊についてはイエス・キリストご自身も生前より弟子達に約束されていたものであり(ヨハネ14:15-)、聖霊降臨はその約束の実現でもありました。 /nイエス・キリストを遣わした「神」  ペトロが語った「イエスこそ神から遣わされた方」という神は霊であり、目に見えません。その神を証しするために来られたのがイエス・キリストです。イエス・キリストが神から遣わされてこの地上に人間として生きられたゆえに、私達は目に見えない神様のことを正しく知ることが出来るようになりました。イエス・キリストの十字架刑は、同じユダヤ人がローマ総督ピラトに訴え出たことによって執行されましたが、神様はそうなることをあらかじめご存じであったこと、しかし神様はイエス・キリストを死の支配下に置かれたままにされるわけはなく復活させられたこと、弟子達はこの復活の証人であること、そして「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神はメシア(救い主)とされた」と、説教を語り終えたのです。 /n「私達はどうしたら良いのですか」  ユダヤ人は神の民として旧約聖書を中心に生きてきました。神を信じ、律法を守り、救い主メシアを待ち望んできました。今、ペトロから「神から遣わされた方を、あなた方は十字架につけて殺した!しかもその方こそあなた方が待ち望んでいたメシアなのです!」と告発されたのです。神の子メシアを殺してしまった・・。ペトロの言葉を受け入れた人々は後悔と不安の中で、「私達はどうしたら良いのですか」と質問しました。 /nペトロの明快な答  ペトロの答えは「悔い改める」ことと「洗礼を受ける」でした。悔い改めとは、それまで生きてきた生き方の向きを変えて新しく生きる。神のいない世界から神のいる世界に生きるようになる。自分の中にある「主人の座」を神様に明け渡すということです。そして「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける」とは、イエス・キリストを自分の主として受け入れ、イエス・キリストの救いの力に身をゆだねることです。「キリストの名」に結びついているのが罪の赦しです。悔い改めて洗礼を受ける者には罪の赦しが宣言され、賜物として聖霊が与えられる(38節)のです。  今の時代にあっても、聖書の言葉を聞いた者が「私達はどうしたら良いのですか」と素直に問うならば、ペトロの明快な答えが聖書を通して返ってくることでしょう。罪の赦しの宣言と、聖霊の賜物の約束と共に。 /n神が招く者すべてに与えられる約束  この約束は、時と場所を超えて、悔い改めて洗礼を受けるすべての人、「神様が招いて下さる者(主の名を呼び求める者・21節)」なら誰にでも与えられています。さらにペトロは「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧告しました。救われなさいとは罪と悪から分離し、離れなさいということです。このペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、3000人が仲間に加わりました(41節)。これが教会の始まりといわれています。 /n教会の四つの仕事  彼らは、使徒の教えを学び(キリストを通してあらわされた驚くべき神様のわざについて学び)、信仰による交わり、「パン裂き」(聖餐式と愛餐会)そして熱心に祈りました。これこそ、私達教会の群れのするべきことです。

「主イエスこそ、神から遣わされた方」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 16章7-11節 7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。 /n[使徒言行録] 2章14-36節 14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。 18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。 21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。 26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。 28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 31 そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。 32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』 36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 /nはじめに  今日の聖書の見出しには「ペトロの説教」とありますが、この説教は、ユダヤ教の五旬祭(ごじゅんさい)の祭りに集まっていたユダヤ人に向けて語られた、聖霊降臨(せいれいこうりん)後の[世界最初のキリスト教] 説教です。 「聖霊降臨」という神様の約束の実現を目の当たりにした人達の反応は、しかし、二つに分かれました。一つの反応は、驚きとまどいながらも、なぜこのようなことが起こっているのか、と、その意味を知ろうとした人々です。そしてもう一方の反応は、外国語で話す弟子達を「酒に酔っている」とあざけり、それで片づけようとした人達でした。理性を重んじる人達にとって理性で理解できないことは、自分の側にではなく相手の側に問題があると考えます。聖霊を受けた弟子達の状況を見た時、彼らはそのことが理解できないゆえに、弟子達を酒に酔っていると判断したのです。 /nしるしの解き明かし   そこでそれまで座って語っていた弟子の一人ペトロは、他の11人の弟子達と一緒に立ち上がり、そこにいたすべての人々に声を張り上げて話し始めます。ペトロは、今が朝の9時であることに注目させました。敬虔なユダヤ人は朝の祈りの前には飲食をしないからです。  ペトロは「聖霊降臨」という不思議なしるしについて解き明かしました。14節で「ユダヤの方々、又エルサレムに住むすべての人達、知っていただきたい」と呼びかけ、22節でも「イスラエルの人達、これから話すことを聞いてください。」と呼びかけ、最後に29節で「兄弟達」と、この説教の結論を語っています。三回にわたる呼びかけによってペトロが語り伝えたことは、一つには、弟子達が外国語で語ったのは神様の霊が注がれたしるしであり、今、ここで聖書の預言が成就したこと、二つには、イエスこそ神から遣わされた方であること、三つには、十字架で殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったこと、です。 /n聖霊降臨は預言の成就  神様の霊が注がれることについては、旧約聖書のヨエル書3章で預言されています。この出来事はその実現だったのです。17節に「<span style="font-weight:bold;">終りの時に、私の霊を・・注ぐ</span>」とあります。この時、終末の時代に入ったということです。(今も終末の時代・ヨハネ?2:18参照)。終末は裁きの時です。救いに招かれる者と滅びに至る者が分けられる時です。21節には「<span style="font-weight:bold;">主の名を呼び求める者は、みな救われる</span>」とあります。聖霊は私達にイエス・キリストの名を知らせ、その御名によって神様に祈り求める教会(信仰告白共同体)を形成します。教会は祈ることができ、終末の為に備えます。 /n「<span style="font-weight:bold;">ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。</span>」(22節)  第二に語られたこの「イエスこそ、神から遣わされた方」は、説教の中心でもあります。これこそキリスト者の信仰です。続いてペトロは、「<span style="font-weight:bold;">神は、イエスを通してあなた方の間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなた方に証明なさいました。あなた方自身が既に知っているとおりです。</span>」と語りました。ここにいたユダヤ人はイエス・キリストがどのように生き、何をなさったかを見聞きしてきた人達でもあります。イエス・キリストの十字架の死と三日目に復活してその後40日にわたって弟子達に現れたことも、うわさとして広まっていたことでしょう。この日はイエス様が殺されて、わずか50日後のことでした。 /n主イエスは復活された。イエスこそ主・メシア(救い主)です。  最後にペトロは、詩編を引用してイエス様の復活を語りました。神様は、御子イエス様の魂を死の中に留めておくようなことはなさらない(27節/詩篇16:10)とあるように、「<span style="font-weight:bold;">神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。</span>」(32節)そして、「<span style="font-weight:bold;">だから、・・・はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。</span>」(36節)。  世界最初のこのキリスト教メッセージは、2000年後の今日も、全世界のキリスト教教会で、力強く宣べ伝えられています!

「罪人を招くために」  平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 53章11-12節 11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。 12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。 /n[マルコによる福音書] 2章13-17節 13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 /nはじめに  今日の聖書には、「群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」(13節b)とあります。群衆と呼ばれる人々はイエス様の話を聞いて、「今迄とは違う権威ある教え」であることに気付き、「汚れた霊の追放」「多くの病人の癒し」などを見ることによって神様の力の偉大さを実感し、神様を素直に賛美できたのでしょう(12節)。神様をまっすぐに求める人々にイエス様は教えられました。人間社会の傲慢さや みにくさや ゆがみに打ちひしがれて、砕かれた魂で、神様の御言葉や救いにのみ必死に頼る人々・・。その前でこそ、神様の憐れみが豊かに注がれて、そういう人々だからこそ、その恵みを 恵みとして受け止めることができるのでしょう。 /n当時のイスラエル社会の階層  当時、社会は大きく三つの階層に分れていました。「聖」・「俗」・「汚れ」です。「聖」は祭司階級、「俗」は一般民衆、「汚れ」は律法で汚れているとされる病気の人・規則を破った者(犯罪人)・汚れた人々と接触して清めの儀式を経ていない者・真の神を崇めない異邦人(外国人)・・などです。イスラエルは「神の選民」を誇りとし、身も心も、そして社会も、「聖」でありたかったのでしょう。しかしこれが差別する側とされる側の分裂を引き起こし、差別する側には傲慢さや冷淡さが、差別される側には疎外感や諦めや無気力が生まれ、愛のない硬直した社会となりました。神様とはまるで逆の、サタンの特性がはびこるようになります。 /nレビ  今日登場するレビは「徴税人(取税人)」で「汚れ」のグループに入れられ、忌み嫌われて社会から除け者にされていた一人でした。徴税人とは人々から税金を取り立て、それを支配者であるローマ(異邦人)やヘロデ王に納め、更に、税金に上乗せしてより多くのお金をむしり取る「お金」に魂を売ったような生き方を選んだ「宗教的に汚れた」人々です。 /n召命  イエス様が収税所の前を通られた時、レビは、(イエス様の霊の力で何かを見抜かれて)「<span style="font-weight:bold;">私に従いなさい</span>」という召命を受けたのでした。社会で一番下に置かれた「汚れた徴税人」が、恵みの輪の外にいたにもかかわらず、突然、神様側からの呼びかけという恵みの中に引き入れられたのです。人間側の評価やその人の立場は、神様には全然関係がありません。神様はそんな枠を簡単に超えられます。召命は人間側から見れば突然です。私達人間は罪にひきずられて、神様の声を聞かずに済まそうとする傾向があります。しかしこの世の富・名声・楽しみなどに心を奪われずに神様の呼びかけにすべてを捨てて、この世から立ち上がって従っていけるようになっているか、自分自身を吟味したいと思います。 /n食事の席で・・  この後イエス様はレビの家で食事の席につかれました。同席していたのはレビと同じ徴税人や罪人でした。「汚れた人々」と食事を共にしているイエス様に対し、ファリサイ派の学者は(無頓着であると)非難しました。イエス様は、人間を分断する彼らの生き方が本来の神様の愛や本質から如何にかけ離れたものであるかを瞬時に把握されます。愛にあふれるイエス様にとって、人々がファリサイ派の教えなどにより打ちひしがれた状態に置かれたままであることに対して悲しみを覚え、そういう人々に憐れみを覚えられたことでしょう。イエス様は「<span style="font-weight:bold;">医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。</span>」(17節)と言われました。 /n「<span style="font-weight:bold;">正しい者はいない、一人もいない。」</span>(ロマ書3:10)  私達すべての者が持つ罪や汚れは、イエス様がそのまま請け負い、身代わりになって十字架上で贖い、それによって私達は聖(きよ)さの源の神様に連なることが許されるようになりました。御子イエス様は人間としてその苦渋の務めを果たされ、神様の救いが完成されたのです。神様からの招きを受けて、神様に向かって方向転換をし(=悔い改め)て、神様に心を向けて生きていきたいと思います。

「神に仕える者」 倉松 功先生(元東北学院院長)

/n[詩篇] 98:1-9 1 新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。 2 主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し 3 イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。 4 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。 5 琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。 6 ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。 7 とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。 8 潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え 9 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。 /n[ローマの信徒への手紙] 13章1-7節 1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。 4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。 6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。 /nはじめに  今日の聖書は「支配者への従順」について書かれております。「支配者」とは、国家や県や市など人間の集まり(集団)の支配者ということになります。支配者には、政治や社会全体の平和・福祉・公平・正義などを保持し、促進していく働き(役割)があります。私達キリスト者は国家(集団の、政治的、経済的、法律的な面で責任を負っている)などの機関に対して、どういう態度をとるべきか、又、服従ということに対してどのように考えるべきかがここに記されており、この箇所は私達の日常生活において大変重要な意味をもっていると言えます。この箇所は歴史的にも大変重要な個所でありました。 /n人は、上に立つ権威に従うべき(1-2節)  今日の箇所は三つに分かれます。1-2節は「上に立つ権威に従うべきである。」ということと、その理由が二つ記されています。一つには「国家は神によって立てられているから」(当局者はそのように考えていない。彼らは選挙で選ばれたと考えている)であり、二つには、「国家は神によって治められた秩序・神の定めであって、神の定めに従わなくてはならない」と支配者への忠誠が二重に勧められています。 /n神によって立てられた機関は何をなすべきか(3-4節) <良いことをしなければなりません。> 国家は、善を行うように勧め、悪をこらしめるために神に立てられた機関です。(善を行なわせる為に神に仕える者)。しかし、その善・正義・真理・美など思想やものの考え方の価値などについて国家が定める(決める)とは、ここに書いていないように思います。善とは何か。正義とは、真理とは何か。どのような判断をするのか、どのようにかかわるのかについては書いていない・・。 /n聖書では・・  このことに関連した聖書の重要な個所は、ピラトの前で主イエス・キリストが話されたこと、ピラトと主イエスとの問答です。(ヨハネ18:37-38)。主イエス・キリストがピラトの前に立たされて尋問を受け、主イエスは、「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言っています。ピラトは「真理とは何か」と問います。問いはしますが、ピラトは「主イエスは犯罪人か。平和や公共の福祉を阻害する人物かどうか」という点に関心がありました。真理についてはわからなかったでしょうし判断をしていません。まさにここに聖書が捕えている国家の役割の限界が出ています。国家は善を勧めるけれども、善がどういうものであるかについては決めていません。国家が関心があるのは、全体の平和・福祉・公平などが保たれているかどうかです。ピラトは主イエスがどういう形で、どういう内容の宗教的真理を語っているかについては判断していません。これは大変重要なことです。主イエスが「真理について証しをする。」「真理を示す」という言葉に対して、ピラトは理解せず、判断をしなかったのです。 /n国家は・・  国家は、思想のもっている社会的な意味とか政治的なことについて、それが社会の平和や秩序をみだすものであるかどうかを判断するけれども、そのことの内容に立ち入って(善悪とか、その美が普遍的な美かどうかについて)判断しません。もし国家が自分の役割を限定しないで(せばめないで)真理、善悪、美というものについて判断したり奨励したりすると、軍国主義の日本や、ヒットラー、スターリン、アメリカの極右政党などのように宗教と政治が一緒になり、国や市町村全体が大変な混乱に陥ります(国家が原理主義に陥る)。ここでの「善を勧め、悪をこらしめる」という事柄は、大変漠然としているようですが大変重要です。国家(県や市など)の正義の力の限界(役目の限界)を明らかにしたともいえます。 /n神に仕える者  パウロの時代は「ローマの平和」といわれる時代ですが、キリスト教にとっては友好的な時代ではなく苦難の時代でもありました。そういう中でパウロは、「国家は善を勧め、悪をこらしめる為に神によって定められた神の秩序である。」と言っています。それに付け加えて、国家はそういう形で「神に仕える者」(4節・6節)と二回も言っております。これはとても重要です。 /n国家の位置づけ  はじめに司会者に読んでいただいた詩篇98編は大変重要なことを言っています。「<span style="font-weight:bold;">右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた</span>」(1節)。救いの御業とは主イエス・キリストのことです。右の御手に対して、左の御手では神は何をなさるのか。それは家族や国家など神の定めた秩序によって、平和・公正・正義などを実現されると理解されています。ルターは、神の二つの世界支配の方法として、一つが救いのみわざ、二つ目が家族・家庭、労働、国家(人間創造、家族の構成、次に社会から国家。これが創造の順序であり、聖書の価値観の順序です)をあげます。キリスト教諸国では、社会生活の中でそのような理解をしているのではないかと思います。 /n良心を傾けて従いなさい(5節-7節)  国家は神に仕える者、奉仕をする者、ということですが、神に奉仕をする、とは「礼拝する」(サーヴィス)ということです。  神が私達にどういうふうに奉仕をしてくれたか、仕えてくれたか、といえば、神は、私達に主イエスを送って下さって、遣わして下さって、この主イエスによって救いをもたらして下さった。これが神の私達に対する奉仕です。それに対して、国家の奉仕は礼拝をする人々を保護する、守る、という形の奉仕です。直接礼拝に関与してメッセージ(真理について)までは国家は判断しないし、わかりません。主イエスはピラトの前で「<span style="font-weight:bold;">私の国はこの世には属していない。</span>」(ヨハネ18:36)と言われました。  しかしそれと同時に、国家は神によって立てられ、神によって定められた秩序に基づいておりますから、「良心を傾けて従いなさい」と5節から7節で言っています。「<span style="font-weight:bold;">良心のためにも、これに従うべき</span>」(5節)とは、「徹底的に良心によって」ということです。それだけ国家は重い使命を神によって与えられていると理解する以外にないでしょう。カルヴァンは、「国家が、人類公共の敵と自ら公言しない限り従いなさい」と言います。しかし同時に、カルヴァンやルターにおいては、「国家の連帯」ということを明確に理解していたように思います。使徒言行録に「<span style="font-weight:bold;">人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません</span>」(5:29)とあるように、「国家に従うのには限界がある」ということをきちんと語っています。 /n現実の世界で・・  特に第二次大戦において、ヒットラーに対して抵抗したグループは、このことが大変重要なことでした。主イエス御自身「<span style="font-weight:bold;">皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい</span>」(マタイ22:21)と言っています。これも、服従の一つの限界をいっているのではないかと思います。国家が神の領域に入ってくるということについて、主イエスは反対されました。  国家に対して私達は服従しなければならない。その理由は、神が立てられた、神の秩序であるから、ということです。しかし国家が善を勧めず、悪をこらしめない。むしろ悪を奨励するようなことがあれば、「人間に従うよりは神に従うべき」との聖書の言葉を拠り所に歩むしかありません。しかし、その判断は非常にむつかしく、ジャーナリズムが報道することを通して国家に反対するとか、行政に対して革命を恐れるとかいうのではなく、国家が神に立てられた機関として、秩序としてどうあるべきか、ということに対しては、教会としてではなく一人の市民として、あるいは市民グループの声として発言していくということになるでしょう。 /nキリスト者市民として  今日、私共が共通に知っている「基本的な人権」、「一人一人が神によって造られたということから始まる人権」がどのように守られているか、守られていないか、ということは、キリスト者市民として大切なことだと思います。人間の尊厳と、尊厳を守る基本的人権ということが少しでも進展するということが、パウロにとっても重要なことではなかったかと思います。(文責:佐藤義子)