詩編14:1-7 ルカ福音書22:47-65
*はじめに
アドベント前に読み進めていた「ルカによる福音書」に戻りましょう。
22章39節-46節「オリーブ山での祈り」(「ゲツセマネの祈り」)まで読み終わっています。最後の晩餐に続いて「十字架への道」が粛々と行われている中で、イエス様は、十字架の過酷さを予感され、それは出来れば無くしてほしいと御自分のお気持ちを父なる神様に祈られました。ルカ福音書によれば、その祈りが終わり、恐らく、弟子達とまだ話されている内に、イエス様を逮捕しようとする人々が来たようです。
*12人の弟子の一人「イスカリオテのユダ」の裏切り
イエス様の主要な12弟子の一人、イスカリオテのユダが、イエス様を裏切ることがここで明らかになっています。その場にいた他の人々は何が起こったのか、すぐにはわからなかったかもしれませんが、イエス様お一人だけは、事態の深刻さがお分かりになり、親しい間柄で行われる接吻の挨拶が、敵への合図に用いられたと残念に思われたのでしょう。「接吻で人の子を裏切るのか」という御言葉の「人の子」という語に注目しましょう。これは、イエス様が御自分を救い主として客観的に表現なさる時に使われた言葉です。弟子ならば、そのことを知っていたはずです。イエス様は、このユダに「あなたは救い主を裏切ろうとしている。その罪の重さをわかっているのか.。裏切りはやめなさい。」と伝えたかったのではないかと思われます。
*取り巻きの人々の反応とイエス様の姿勢
一方、取り巻きの人々は、武器を持った人々に取り囲まれて、本能的にも、この場を切り抜けたいと思い、剣を用いて、抵抗することを提案し、実際、敵方の一人を傷つけたことが記されています。この事態を受け、イエス様は暴力沙汰を止めさせ、傷ついた人の癒しをなさいました。人間の様々な思惑や暴力の中、イエス様だけが「癒し主」として、神様から与えられた使命に忠実であり続けられておられます。
*「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53節)
主の逮捕を巡って右往左往する人間達を、イエス様は決して彼らのせいだと責めておられません。なぜなら、ユダを含む逮捕に来た人々は、かつては、イエス様と共にいた人々であり、むしろ、それが本来の姿であるとイエス様は思ってくださっていて、状況が変わってしまった今は、闇と表現されるサタンが人々を「救い主」に歯向かわせている、と受け止めてくださっていることが53節から読み取れるからです。ルカ福音書では、4章13節で「悪魔(サタン)は時が来るまでイエスを離れた」とあり、その後は姿を見せず、22章3節で再びサタンが現れ、イスカリオテのユダに入ったと記されています。そこからイエス様が十字架にかかって復活なさる前まで、サタンは最後の悪あがきで暴れ回ることを許され、主に対して人間が反抗するように画策することを、イエス様はよく知っておられたのです。
私達人間は、短絡的に、サタンなんか、神様が力で負かしてくださればいいのに!と思ってしまいますが、それこそが、力で押さえつけるサタンの方法です。神様は、サタンやサタン側についた人々さえも自ら神様に従いたいと思えるように取り計らわれます。それが神様の方法です。
*「主の憐れみ」と、サタンが誘発した「ペトロの否認」と主への暴力
ユダだけはなく、一番弟子と言われたペトロもサタンに利用され、「イエス様を知らない」と3度も言う「ペトロの否認」が起こりました。これは、イエス様の預言の実現でもあります。イエス様は、それもサタンの仕業であり、その後にペトロが信仰を失わないように祈ったと語られました(ルカ22:31-34)。恐れのためにイエス様を裏切ることになったペトロに対し、罪無き主は憐れみの眼差しを向け、それによって、ペトロは自分の罪深さに気づかされ、激しく泣くことになりました。更には、弟子達だけでなく、逮捕したイエス様を見張る番人達も、サタンに利用されて、主を侮辱し、暴力などを振るいました。ここに、サタンに支配されている人間の罪深さが現れており、だからこそ、神の御子による救いが必要だと悟らされます。