7月17日の説教要旨 「弟子たちの教育」 牧師 平賀真理子

イザヤ書53610 ルカ9:3745

 はじめに

イエス様は人々の噂をよそに、弟子達がイエス様をどういう御方かを本当に理解しているかということに心を配られました。それには、一番弟子のペトロが期待に応え、「神からのメシア(救い主)」(9:20)という信仰告白をしました。そこで初めて、イエス様は御自分の定めを、弟子達に信頼して打ち明けられました。

 「救い主」とは?

当時のユダヤ人達は、自分達の所に来る「救い主」とは、ローマ人(異邦人)の支配という苦境から自分達を解放し、ユダヤ人の国を打ち立ててくれる強い王様のような御方だと思い込んでいました。ただ一人、イエス様だけが本当の「救い主」とは、旧約聖書に預言された「苦難の僕」の定め(イザヤ52:13-53:12)の道を歩まねばならないと御存知でした。また、そのことで、多くの人々がイエス様を救い主として受け入れることにつまずくこともわかっておられました。初めて御自分の厳しい定めを弟子達に伝えた後、彼らを見ても、理解していないことは明らかでした。

彼らの理解が進むように祈られた結果、天上での出来事のような「山上の変容」(ルカ9:28-36)が3弟子の前で起こったのでしょう。天の父なる神様の声がして、3弟子達は神様が「救い主」と保証するイエス様に従うことをより一層強く決意することができたのだと推測できます。

 悪霊に取り憑かれた子の父親の報告

イエス様が神様から遣わされたことを証しする出来事「山上の変容」に呼応して、翌日、悪霊に取り憑かれた子とその父親が、山を下りたイエス様の所に助けを求めて来ました。そして、少し前に、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力を授けた(9:1)弟子達が、この子の悪霊には打ち勝てなかったことを、その子の父親から知らされました。

 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」(9:41)

弟子達に授けた御自分の力と権能がわずかな間に衰えたのか、悪霊の力が弟子達では手に負えない程だったのかわかりませんが、強力な悪霊が、まだ、人を苦しめていることをイエス様は嘆かれたのではないでしょうか。

 「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければナならないのか。」(9:41)

この「あなたがた」は弟子達を含む、その場にいた人々みんなに向けられた言葉です。イエス様は、御自分の力と権能を授けた弟子達が悪霊に打ち勝てない現実を前に、やっぱりイエス様じゃなきゃだめだという人々の思いを突き付けられています。けれども、イエス様には、この世での御自分の時がわずかだとわかっています。そして弟子達に教えても理解は進んでいない、そして人々はイエス様がずっといてくださると思って頼り切って来る、そんな期待と重圧の渦の中にイエス様はおられました。

 「神の愛」を源にした、主の御力と権能による癒し

このように、イエス様は大変な状況の中におられましたが、御自分の苦しみは脇に置いて、苦しんで御自分を頼って来る人を見ると助けずにはいられない「神の愛」に突き動かされ、悪霊を追い出して子供を癒し、心配する父親にお返しになりました。この強力な悪霊に、ただ一人打ち勝てたイエス様の力と権能は、やはり神様からのものだと人々は確信を深め、神様の偉大さに感動していました。

 2度目の受難告知

人々の感動の中、イエス様は突き付けられた課題にすぐに取り組まれました。「弟子たちの教育」です。もう一度、弟子達に御自分の定めをお告げになったのです。それは最初の受難告知より短いものです。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。(9:44後半)「人の子」とは、イエス様が救い主である御自分を指すときに用いられる言葉です。「人々の手に引き渡されようとしている」とは、後に実際に行われる「主の十字架」を預言しています。最初の受難予告の中の受難の部分だけ特に強調されています。

 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。」(44節)

神様のご計画により、弟子達は、主の御言葉を当時は理解できないように隠され、主に質問もできず、後に聖霊の助けによってわかるようになります。ただ、御言葉を「よく耳に入れておきなさい。」と教えられました。真理は人間にはすぐに理解されなくても、後に理解が深まるよう導かれます。私達も弟子として、福音の理解が徐々に深まることを祈りつつ、御言葉を覚えることに励みましょう。

7月10日の説教要旨 「山上の変容」牧師 平賀真理子

イザヤ書4219 ルカ9:2836

 はじめに

今日の新約聖書の箇所の直前には、一番弟子ペトロの信仰告白があり、イエス様が御自分の受難予告をなさる出来事が記されています。ペトロの信仰告白によって、弟子達がイエス様を「神からのメシア(救い主)」とわかっていると思われました。しかし、「イエス様が多くの苦しみを受け、人々に排斥され、殺され、しかも3日目に復活する」という受難予告の内容は、人間がすぐ理解できる範囲を超えていました。弟子達の様子をご覧になったイエス様は、祈りの中で、このことを父なる神様に報告し、弟子達がわかるようにしてくださいと祈られたのかもしれません。

 祈りをもって始められるイエス様

今日の箇所は、イエス様が最も信頼する3人の弟子、ペトロ・ヨハネ・ヤコブを連れ、祈るために山に登られたという記述から始まります。ルカによる福音書では、大事な場面で、イエス様が祈りをもって始められることを度々記しています。神の御子イエス様でさえ、このように祈っておられます。私達も主に倣い、祈りを増やしていきたいものです。

 山上の変容

祈りの後、「イエスの顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いた(29節)」とあります。イエス様が山の上で、地上とは違う御姿、即ち、天の側の御方としての輝く御姿になられたことを、「山上の変容」もしくは「山上の変貌」と言います。3人の弟子達は、更に、地上とは思えない出来事を目の当たりにします。旧約聖書や祖先の言い伝えでしか聞いたことのないモーセやエリヤがイエス様の所に来て語り合う姿を見たのです。

 イエス様と語り合うモーセとエリヤ

モーセと言えば、神の律法である「十戒」を神様からいただいた指導者、エリヤと言えば、最高・最大の預言者です。この2人で、律法と預言者を象徴します。旧約聖書を別の言い方で「律法と預言者」と言うので、旧約聖書を体現する2人がイエス様と語り合うとは、イエス様が旧約聖書(における神の救い)を引き継ぐと示されていると言えるでしょう。

 エルサレムで遂げようとしておられる最期=十字架

また、ルカ福音書だけに記されている「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(31節)」とは「主の十字架」を意味しています。神の御子・救い主であるイエス様が御自分の命を犠牲にすることによって、人間の罪をすべて肩代わりしてくださることです。このイエス様を「救い主」と信じる者が、その救いの恵みをいただくことができるようになることを意味します。

 眠気に襲われる弟子達

天の出来事が地上で起こっているとしか思えないような、この「山上の変容」において、3弟子達は「ひどく眠かったが、じっとこらえて」とあります。彼らが天に心を向けず、この世の出来事ばかりに捕らわれているゆえの眠気であるという説があります。それでも彼らは眠気を必死にこらえ、続きを見ることができました。ルカ福音書でのテーマの一つである、「この世での試練を忍耐していると、栄光の救いを受けられるようになる」という意味が見て取れます。

 「雲」の中からの御声

続いて、イエス様とモーセとエリヤは、神様の臨在を示す「雲」に覆われ、3弟子から隔離されます。そして、雲の中からの御声がするのを3弟子は聞くのです。イエス様の父なる神様からの御言葉です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」(35節)「これ」とは、イエス様のことです。「選ばれた者」というのが、ルカ福音書での特徴です。父なる神様が「人間の救いのために選んだ者」という意味です。「これに聞け」とは、神様の選んだ、御子イエス様に聞き従いなさいという意味です。「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた(36節)」のですから、雲の中に覆われた3人のうち、神様の救いの御業を完成するために選ばれたのは、イエス様だけだと示されています。

 聖霊によって真理をことごとく悟るようになった弟子達

「山上の変容」を、直後に3弟子が他言しなかったのは、真意を理解できなかったからでしょう。十字架と復活の後、主の預言どおりに「聖霊を受けて」初めて、3弟子は、主の救いの御業と与えられる恵みについて目を開かれたのです(参照:ヨハネ16:13)。そして、彼らは福音書に記し、後代の信仰者である私達に神様がなさった出来事として伝える働きをしたのです。私達も忍耐強く信仰生活を続け、主の恵みを更に理解できるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

7月3日の説教要旨 「主との信頼関係」 牧師 平賀真理子

詩編116 ルカ9:1827

 はじめに

イエス様は、御自分には この世での時が多く残されていないことを思い、御自分の福音宣教と癒しの業を使徒達が引き継げるよう、御力と権能をお授けになりました。使徒達は派遣された所で、実際に福音宣教でき、癒しの業を行うことができました(9:6)。イエス様からの恵みが使徒達に有り余るほど豊かに注がれていたからでしょう。使徒達にとり、大きな喜びだったことでしょう。また、「五千人の給食」のような奇蹟によっても様々なことを学べて、充実した日々だったことでしょう。

 神の御子・救い主「イエス・キリスト」だけに課せられる使命

しかし、神の御子・救い主イエス様だけの使命が課せられる日が近づいていました。人々の罪を贖うために十字架にかかることです。その前に、イエス様は御自分のことを本当の意味で理解している人間と信頼関係を作りたいと願われていたのです。それこそが、本当の意味で、この世で神の国を作ることの礎となるからです。

 群衆ではなく、弟子達への信頼

イエス様の周りには、「群衆」がいつもいました。イエス様は、まず、群衆は御自分のことを何者だと言っているかを弟子達に問い、その後、弟子達自身の答えを求められました。イエス様からの恵みだけを求める群衆と、自分の持っているものを捨ててイエス様に従った弟子達の、それぞれの答えは違っているはずだと願われたのだと思います。

 一番弟子ペトロの信仰告白

ここで、一番弟子のペトロが弟子としての使命を果たします。イエス様のことを「神からのメシアです。」と答えました(9:20)。マタイ福音書16章には、このペトロの信仰告白をイエス様は大変祝福されたことが記されています。これで、主との信頼関係を結べる相手としてペトロが立てられることを天地に宣言することになりました。神の御子・救い主イエス様が、この世で神の国を作るための人間側の基盤ができていることの証しです。ペトロの信仰告白の功績に感謝です!

 弟子達への受難予告

しかし、ルカ福音書では、ペトロの信仰告白の後は、この正しい答えを弟子達の外には話さないようにイエス様が話されたと続きます。イエス様の定めは、人間の考えではとても受け入れがたいと言えるでしょう。「救い主」なのに、「多くの苦しみを受け、権力者達から排斥されて殺される」ということも、「三日目に復活する」ということも普通の人間の理解の範囲を超えています。たとえ、理解できた弟子がいたとしても、ただただびっくりし、イエス様と従っている自分達の運命がどうなっていくのかを心配することしかできなかったでしょう。

 弟子達の取るべき姿勢

イエス様は、動揺する弟子達に配慮してくださり、今度どうすべきかを教えてくださいました。23節以降です。23節では「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とおっしゃいました。イエス様は、御自分の厳しい定めを打ち明けた上で、弟子達に、まず、御自分に従いたいと思っているかを問いかけておられます。というのは、御自分に従う者は、主と同じ厳しい定めが待ち受けていることを教えなければならなかったのです。主が命を捨てられたように、主に従う者は自分の欲望を捨てることを要求されます。主が十字架を背負って歩まれたように、主に従う者も自分の十字架を背負うことが求められます。ルカ福音書で特徴的なのは、「日々」という言葉です(マタイ・マルコ福音書の同じ内容の記事には無い言葉です。)それぞれの日常生活において、神の民としてふさわしくない自分の罪を滅ぼすように努める姿勢が求められるのです。洗礼を受けて一度救われたのだから、後の生活は変えなくてもいいと誤解する信仰者もいるように思いますが、そうではないと示されています。もちろん、イエス様は人間の弱さをよく御存じで、人間が常に思ったとおりに行動できないと御存じですが、それでも、主に従いたいと願う者は、イエス様の定めと同じものを背負うだけの覚悟を求められています。

 最高の恵みである「永遠の命」

そんな高い基準の信仰は、自分には無理かも?と不安に思う方もおられるでしょう。しかし、十字架の先に、最高の恵み「永遠の命」をいただけると24節以降に記されています。それは「復活の主」だからこその恵みです。私達も主との信頼関係を結ぶ者として選ばれました!主の期待に応えて歩みたいものです。

6月26日の説教要旨 「主の限りなき恵み」牧師 平賀真理子

列王記 44244 ルカ9:1017

 はじめに

 イエス様は数々の奇蹟をなさいました。その奇跡は、人間の力を越えていたので、その奇跡を見た人々は「神の偉大な業」を賛美したと福音書に度々記されています。今日の新約聖書箇所は、「5千人の給食」と呼ばれて、4つの福音書にすべて書かれています。

 弟子に伝えたい御姿

ルカによる福音書では、イエス様が12人の使徒達を福音伝道に派遣されて、その報告を受けた後で、「5千人の給食」の話が書かれています。そして、この後には、一番弟子のペトロの信仰告白という大事な証しがなされます。

この文脈から、ルカによる福音書では、「5千人の給食」は弟子教育の意味を含んでいるとも読み取ることもできると思われます。使徒達は、自分達の前に起こった、この世での限界に対して、この世の方法でしか解決できないと信じ切っていましたが、イエス様は神様に絶対的な信頼を寄せることで、自分達は神様の御力をいただけることを弟子達にも示されていると思えます。神様の限りない恵みが、この世の限界に制約されるものではないことを示す奇蹟です。神様の御力は、この世を悠かに超えることを心から信じつつ、神の御業を続ける御姿を、イエス様は使徒達に見せることによって、教えられたのだと思います。

 自分への危険よりも、救いを求める人々への愛

今日の箇所の直前で、時の権力者ヘロデがイエス様に興味を持っていたことが書かれています。自分以上に人気のあるイエス様を、恐らく良くは思えなかったでしょう。

しかし、使徒達の福音伝道の報告の後、イエス様は、もうしばらく弟子達と共に過ごし、大事なことを伝える時が必要でした。一方、イエス様の力と権能によって救われたい人々は、いつもイエス様を追いかけてきました。そのように目立ってしまえば、ヘロデの不興を買い、危険なことでした。にもかかわらず、イエス様は、救いを求める人々を深く憐れむ御方です。御自分の危険よりも、救いを求める人々への愛の方が勝ります。彼らを歓迎し、神の国の希望を告げ知らせ、癒しの御業をなさいました。

 「状況が厳しい」「○○しかない」「○○かぎり」⇒「自分達にはできない」

具体的に「5千人の給食」を見てみましょう。使徒達は日暮れになったので、少なくとも5千人集まっている人々への食糧や宿泊のことを気にし始めます。人里離れた町なので、近くに店や宿屋があるようには思えず、使徒達が調達することは無理だと思える状況です。しかも、手元には、5つのパンと2匹の魚しかないのです。「自分達が調達しないかぎり、この大勢の人々をお世話できない」と、使徒達は、この世の制約の中で「できない言い訳」を主に訴えるのです。

 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)

しかし、イエス様はそんな状況は百も承知の上で、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」とおっしゃったのです。言い訳を続ける使徒達に、イエス様は、御自分の方法を示されました。イエス様は、使徒達に対して、この世を恐れず、自分達ができる方法を肯定的に考え出す姿勢を求めておられると思います。

 イエス様の示してくださった方法

この世では困難と思える状況で、神の愛を実現するというイエス様の方法は次のようなものでした。少なくとも5千人という膨大な数に恐れず、できる範囲で小分けにしていく方法を弟子達に指示なさり、50人くらいの小グループに分けられました。そして、イエス様は神様に賛美の祈りをささげて、僅かな手元の食糧を細かく裂いて、弟子達に人々へ分配するよう、教えられました。神様の御心に従った働きをする者を、神様は常に愛してくださり、神様の助けを受けられることへの絶対的な信頼をこの世に示す、これがイエス様の方法でした。使徒達は主の御姿を見て、実際に手伝うことで、この世への恐れを捨てて神様を信頼する姿勢、そして、自分達ができる方法を考えて実行しながら、人々を愛することを追い求めるという信仰者としての姿勢を学んだのだと思います。

 残ったパン屑が十二籠分

この奇蹟で、人々は満腹し、残りが出ました。イエス様の愛による御業で、人々は満ち足りたのです。その残りのパン屑が12籠分になりました。12籠は12使徒の象徴です。イエス様の限りない恵みは、12使徒達を通して、救いを求める人々へ与えられ続けます。時と場所を越えて、私達へも与えられたのです。

恵み豊かな主に感謝し、神様への絶対的な信頼と人々への愛を追求しましょう。

今日の箇所に示された主の方御姿から私達も後に続く方々にとをでした。がイエス様が信頼を寄せる神様の力が、この世をしのぐことが明らかになりました。救いを求めてくる人々をできる方法を考えながらい神様を信頼してどこまでも従う学ぶことで、様に連なる者として、同じように神様が助けてくださる、それを、使徒達が体験して学ぶ必要を、イエス様は感じておられたのではないでしょうか。

6月19日の説教要旨 「この世へ派遣される」 牧師 平賀真理子

詩編183246 ルカ9:19

 はじめに

 イエス様が12人を呼び集めたことから、今日の箇所は始まっています。この12人とは、ルカ福音書6章12-16節にあるように、イエス様が祈りの後で選んだ「使徒達」のことです。

 「悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能」

使徒達は「悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能」をイエス様から授けられました。悪霊に打ち勝ち、病気を癒すことは、イエス様御自身がなさっていました。イエス様は十字架で死ぬという御自分の定めを予めおわかりになり、「使徒達」に御自分の力と権能を与え、大事な御業の一部を引き継がせるために、弟子教育を始めようとされたと思われます。

ここで「権能」という、なじみの薄い言葉について、説明が必要でしょう。日頃の言葉で言うなら「権威」ということです。「権能」の語源には「合法的である」という意味が含まれています。決まりに従って、正しいことであるという権威が与えられているということです。その決まりとは、全く正しい権威の下にある決まりです。それは、神様から与えられた権威しかありえません。イエス様が使徒達にお授けになった「力と権能」とは、父なる神様から授けられたのだと理解できます。

 「神の国を宣べ伝えるため」「病人を癒すため」

また、次の2節には、使徒達が各地へ派遣されるのは、「神の国を宣べ伝えること」「病人を癒すこと」であるとも書かれています。「病人の癒し」では、人々は神様の力を目の当たりにできます。ルカ福音書4章18節以降に「救い主に期待されていた御業」が書かれており、病人の癒しも勿論ですが、何かに捕らわれている人や圧迫されている人を解放することも救い主に期待されています。使徒達が神の国を宣べ伝え、それを聞いた人々は、イエス様の教え(神様が自分を愛してくださり、救おうとされていること)を知り、この世での苦しみから本当の意味で解放されるのです。

 福音伝道の旅に派遣されるにあたっての3つの教え

使徒達を派遣するにあたり、主は3つの具体的な教えを語られました。

1つ目では、「必需品さえ、余分に持って行かない」ということでした。使徒達には、この世への依存をやめ、イエス様と同じように、神様のために働く者に必ず与えられる「神様からの助け」に絶対の信頼を置くよう、求められたのです。2つ目では、神様が備えてくださる人々ときちんと信頼関係を築くことを勧めておられます。この姿勢は、イエス様亡き後の使徒達の伝道の姿勢につながっていくのです。3つ目では、使徒達を拒絶する人々には、「足の埃を払い落す」というユダヤ人の風習を敢えて許されました。神様の方から「救い」を与えようとされているのに、それを拒絶する人々は、神様とは何の関係もないことが明示されるのです。私達は神様からの恵みを理解して受け取れたことに感謝しましょう。

 イエス様の御命令に従った使徒達

6節で、使徒達はイエス様の御命令に従った結果、福音宣教ができ、病人も癒すことに成功したことが記されています。それは、使徒達が、神様の力と権能を授けられたからであり、また、イエス様の祈りのお支えがあったからでしょう。使徒達はそれまでのイエス様と一緒の旅から、自分達だけの旅になり、大変心細かったでしょう。それでも、彼らはイエス様の御言葉に従いました。そして、頼りない我が身に、神様の力と権能が託される喜びを体験したと思われます。

 この世の権力者ヘロデの姿

一方、7節から9節には、この世の権力者として、ガリラヤ地方の領主ヘロデの姿が書かれています。この人はヘロデ大王の息子ですが、使徒達を派遣していたイエス様についての噂が相当気になっていたようです。その中で、ヘロデを戸惑わせたのは、イエス様は過去の偉大な預言者達の生まれ変わりだという噂、特に、自分が殺す命令を出した洗礼者ヨハネの生まれ変わりだという噂でした。自分の罪におびえる人間としてヘロデの姿を見ることができるかもしれません。また、この世の人々が、イエス様に対して、興味を持ち続けつつも、なかなか信じるところまで至らない象徴として受け取ることもできるでしょう。

 神様がイエス様を信じる人々を興(おこ)し、この世に派遣される

そんな この世から、全知全能の神様は、イエス様を信じる人々を興し、「神の国」を拡げることがおできになる御方です。使徒達に連なる私達も、神様から信じる者として興されたのです!その大きな恵みを思い起こし、「使徒達のように、今度は私達をこの世に派遣してください。」と祈れるようになりたいものです。

5月8日の説教要旨 「主の御力④」 牧師 平賀真理子

詩編13:2-6・ルカ福音書8:42b-48

 はじめに

イエス様は大きな御力で「救い主」としての様々な御業をなさいました。

今日の箇所では、人の力では癒せない、長年の病いを癒してくださる御力です。新共同訳聖書では、「イエスの服に触れる女」とありますが、一時代前は「長血の女」と呼ばれていた、この女性の上に起こった出来事が、主の御力を証ししています。この女性は12年間も出血が止まらない病いにかかっていました。恐らく、婦人科系の病いだろうと想像されています。

 「出血が止まらない」病いによって

まず、私達は、出血が続けば、ふらふらして元気が出ないことを経験しています。この女性も日常生活を送るのがとても辛かったでしょう。次に、今日の箇所の43節にあるように、この女性は病いが治りたいと願っては医者にかかったので、治療代を払い、全財産を使い果たしたことが書かれています。この女性は経済的にも困窮していたわけです。

それだけではありません。更に、別の理由がこの女性を悩ませました。ユダヤ人社会における考え方です。ユダヤ人達は、旧約聖書のレビ記の「生き物の命は血の中にある(17:11)」の教えに基づき、血を神様からいただく大事なものと考えたのです。そのような大事な血が外に出て行く病いは、「神の民」ユダヤ民族の中にあってはならない病いと思われ、そんな病いにかかる人は、個人的に神様に背いたために神様から罰を受けた人、つまり、神様から見放された「汚れた」人と見なされ、社会から疎外されていたのです。この「長血の女」は、長い間、身体的苦悩・経済的苦悩・社会的苦悩という三重苦の中で打ちひしがれていた人間と言えます。

 後ろからイエス様の服の房に触れた女性

そんな状況の女性が、多くの人が集まるイエス様の所に来たこと自体、勇気のいることだったでしょう。更に、彼女は、自分の限界を超えた勇気を振り絞って、イエス様の服の房に触れました。女性が男性に触れるのは礼儀上失礼とされていましたし、「汚れた女」と人に蔑まれている自分が「神の御子・救い主」と呼ばれているイエス様の、その服の中で最も神聖な房に触れることも、宗教上よくないと思っていたでしょう。だから、この女性は遠慮して、イエス様の後ろからいただくわずかな御力でもいいからいただきたいと願ったのでしょう。

 イエス様の御力は心から救いを求める人間を救う

イエス様によって癒された人の多くは、イエス様に面と向かって懇願し、イエス様もその人の心をご覧になって、癒されました。しかし、この女性は、イエス様の知らない間に、イエス様の後ろからその服の房に触れたのです。相手はわからないものの、御自分から御力が出て行ったことを知ったイエス様は、神様からの御力がどんなものかよくご存じでした。イエス様を心から信頼して救われたいと手を指し伸ばした人間には、その御力が流れ出て、救いの御業が必ず起こることを確信しておられました!

 イエス様に促され、救いの御業を証しした女性

御自分に触れた人間を捜したイエス様の御言葉に促され、この「長血の女」は触れた理由と癒された次第を多くの群衆の前で証ししました。長年の病いが癒されたことも大きな恵みですが、更に、イエス様の「救い主」としての御力を群衆の前で証しするという働きをも、主によって与えられたと見ることができます。三重苦で打ちひしがれていた人間が180度変えられました。主の御力をいただくことで、癒されて元気になりました。更に、その救いの恵みを証しする役割を与えられ、社会から除け者にされていた人間が、喜びを持って神様を賛美する人間として、新たに生まれ変わらせていただいたのです。

 「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(48節)

実は、この女性を救ったのは、主の御力です。「へりくだり」の特性をお持ちの主は、御自分の「人間を救いたい」と思う真剣さと同じように、神様からの救いを真剣に受けたいと願う人間の信仰を、御自分の御力と同じものとして喜んで受け取る御方であると示されています。そして、救いを受けた人間に対して、神様に繋がって得られる平安の中で生き続けるよう、主は励ましておられるのです。

5月1日の説教要旨 「主の御力③」 牧師 平賀真理子

詩編30:2-6・ルカ福音書8:40-42a、49-56

 はじめに

イエス様は大きな御力で「救い主」としての様々な御業をなさいました。今日の箇所では、少女を死の世界から呼び戻した御力について語られています。その出来事の直前に、ガリラヤ湖東岸の異邦人の地方で、悪霊に取りつかれて苦しんでいた男に対して、イエス様は、その御力により、悪霊を追い出すという救いの御業をなされました。このことは、大変な噂となって、ガリラヤ湖周辺の町々を駆け巡ったことでしょう。

 ヤイロの願いを聞いてくださったイエス様

その出来事の後、イエス様はガリラヤ湖を船で渡り、対岸に戻って来られました。偉大な御力をお持ちであるというイエス様を一目見たいと群衆が集まったのでしょう。その中に、危機的状況で、本当に救いを求めていたヤイロという男がいました。ヤイロの12歳の一人娘が、瀕死の状態になっていて、娘がふせっている自宅へ来てくださるよう、ヤイロはひれ伏して懇願し、イエス様はヤイロの家へ向かいました。

 ヤイロの娘の死の知らせに際して

その途中で(別の女性が癒しの恵みを受けますが、それは次週お話しします)、 瀕死の娘がとうとう亡くなったという知らせが来ました。周りの人々は、イエス様の御力によっても、その娘は「死」の世界から生き返らないと思っていましたし、もしかするとヤイロさえも、希望を失いかけていたかもしれません。せっかく、イエス様の御力で助けていただけると希望を持ったのに、娘の死の知らせは、ヤイロを絶望に突き落としたことでしょう。ところが、イエス様御自身だけは、神様からいただいている御力を絶対的に信じておられました。そして、御自分と同じように、神様を信じることを求めて「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(50節)とおっしゃったのです。人間は、「死の恐怖」「愛する者の死による絶望」にいとも簡単に捕らわれます。けれども、イエス様と共に居る者は、「死や絶望に捕らわれる心を、主なる神への信頼へ向けなさい!そうすれば、主があなたを救い出す」と主御自身が宣言されているのです。

 イエス様を信じたヤイロに起こった「救い」

そして、ヤイロとその妻(娘の母)は、イエス様の御言葉に従って、イエス様を信じる方を選ぶことにしたのでしょう。それは51節からわかります。人々がもう死んでしまったという娘のいるところに、イエス様はお入りになり、命を呼び戻す御業をなさいました。それは、主の御業の中でも、一番大変な御業の一つだったと思われます。神様の御力を最もいただかなくてはならない時に、一番重要なのは、「ただ信じること」のできる人々と共に、神様の御業が必ず実現することを待ち望むことです。だから、弟子達の中でも、主が一番信頼された3人、ペトロ、ヨハネ、ヤコブしか同席を許されませんでした。そして「娘の父母」であるヤイロとその妻も同席を許されました。この夫婦は、共に「娘の死」という絶望を目前にして、主を信じたいという気持ちしかなかったでしょう。そして、生き返りの御業がなされ、娘は生き返りました!

 この世だけでなく、陰府(よみ)をも治める権威をお持ちのイエス様

「娘よ、起きなさい。」(54節)という主の御言葉によって、娘は「霊が戻って、すぐに起き上がった」(55節)とあります。「死から生へ」という実現不可能なことが 実現しました。人間の言葉は実現できない場合がほとんどですが、神様の御言葉は必ず実現します。ここにも、イエス様が神様の御子であることが証しされています。そして、食べ物を与えるように指図されたのは、生き返った娘が幻ではなく、肉体もこの世に確かに戻ったことを意味します。イエス様は、死んだ人間を よみがえらせることがおできになる、つまり、この世だけでなく、陰府(よみ)(死者が集められる場所)をも治める権威をお持ちだということも証しされています。

 イエス様の御言葉に従い、御力を信じる

イエス様は、心から救いを求め、主にすがったヤイロとその家族を救われました。私達もヤイロと同じように、様々な困難に出会い、主の救いを信じて求める者達です。「ただ信じなさい。」イエス様の御言葉を素直に信頼して歩みましょう

4月24日の説教要旨 「主の御力②」 牧師 平賀真理子

詩編36213・ルカ福音書82639

 はじめに

イエス様は大きな御力で「救い主」としての様々な御業をなさいました。今日の箇所では、悪霊を追い出す御力について語られています。福音宣教の本拠地のガリラヤ湖東岸から、イエス様一行は船に乗って、反対側の岸の近くにある町、異邦人であるゲラサ人の住む地方に着き、一人の男に取りついていた悪霊どもを追い出し、イエス様はこの男を救われました。

 「悪霊に取りつかれている」?

「悪霊に取りつかれている」というと、大昔の合理的でない人々の感覚で、現代人の自分達とは関係ないと思う人もいるかもしれません。しかし、現代でも、悪い考え方に取り憑かれたようになり、抜け出せずに、身の破滅に突き進む人を見聞きします。最も顕著な例が麻薬やギャンブルに溺れる人の話です。わずかな興味や自己過信から、悪いと言われる物を一度だけ試してみる…。ところが、その魔力に溺れ、自分の地位や社会的信用を失う…。それまでの努力は水の泡となり、破滅する…。悪の力は、自分一人だけの力では決して抗えない、強い力です。「普通の市民」である私達でも、悪に引きずられる面があります。善いことをすべきとわかっていても、その通りにできない…。使徒と呼ばれたパウロでさえも、自分のことをこう嘆きました。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっている。(ロマ書7:19)」

 神様でないものに入られる人間

聖書の最初の「創世記」には、天地すべて、もちろん、人間も神様が造られたとあります。殊に、人間は形作られた最後に、神様から「命の息」を吹き入れられて、「生きる者となった」とあります。人は、神様から命の息を吹き入れられるはずなのに、本当の神様でないものに入られる危険性があります。

 男に取りついていた多くの悪霊ども

この男に取りついていた悪霊は複数いて、ローマ帝国軍隊の単位「レギオン」くらい(約6000人)だったことが示されています。この多数の悪霊どもが、男を操り、イエス様に会いにきましたが、彼らは、イエス様の御力について、4つのことを既に知っていて、その御力の偉大さを恐れていました。1つ目は、イエス様を「いと高き神の子(29節)」と呼びかけ、イエス様の本当の御姿を証ししています。2番目に、「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでくれ。」と言っています。イエス様の御力が自分達よりも上回っていることを、悪霊どもは知っていたのです。3番目に、「底なしの淵へ行けと言わないでくれ。」と懇願しています。「底なしの淵」とは、世の終わりの時、悪霊どもが神様から裁きを受けて永遠に繋がれる牢屋のことです。十字架と復活によって、悪霊どもやその頭サタンをも永遠に閉じ込める権威を、イエス様は父なる神様から与えられるようになります。そのような御業を、悪霊どもが先に察知し、牢獄に永遠に繋がれることを恐れたのです。また、同時に、イエス様の御言葉が必ず実現するという「神様の御言葉」であることも証しています。そして、最後の4番目に、徹底的に滅ぼされる前に、悪霊どもはイエス様に延命願いをしました。「豚に入ることを許してほしい(32節)」と。イエス様がそれを許す権威をお持ちのことも悪霊どもは知っていたのです。動物愛護の精神に満ちた方は、不思議に思うかもしれません。しかし、イエス様は、悪霊どもに取りつかれて本当に助けを待ち望んでいた、この男を憐れみ、一人の人間の救いを最優先されたのでしょう。

 この地方の人々からの拒絶

この出来事について、様々な意見があったなか、悪霊に乗り移られた豚が溺れ死んで大損害を受けた「豚飼いたち」をはじめ、この地方の人々は、総意として、イエス様に出て行くように求めました。御力の大きさを恐れた上に、そんな大きな御力を持つ主と共に生きる恵みを願うよりも、「自分達の今の生活」、つまり、自分達が享受している利益を最優先したかったのでしょう。

 神様の救いの御業の恵みを宣べ伝える者として用いられる

この町の中でただ一人、悪霊を追い出していただいた男だけが、イエス様と共に歩みたいと願いました。彼は心から救いを求めていたので、イエス様の救いの恵みがよくわかったからです。しかし、イエス様は、同行することよりも、更なる恵みへと彼を導かれました。以前の悪い状態を知る家族や地域の人々に、神様の救いの御業の偉大さを伝える証し人として生きるように命じられ、彼は御命令に従いました。私達も主の救いの御業の恵みを我が身に受けたことをよく知っています。家族や周りの人々に証しできるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

4月17日の説教要旨 「主の御力①」 牧師 平賀真理子

詩編46:2-12・ルカ福音書8:22-25

 はじめに

今日の話は、マタイ福音書にもマルコ福音書にも記されている、有名な話の一つです。内容をまとめると以下のようになります。「イエス様と弟子達一行が湖を船で渡ることになったが、イエス様は船で眠り込んでしまわれた。そこへ突風が吹き、船が沈みそうになって弟子達がイエス様を起こした。イエス様が風と荒波を叱ると静まって、凪になり、弟子達は、イエス様の御力の素晴らしさと御業の偉大さに驚いた。」

 ガリラヤ湖と突風

ここで言われている「湖」とは「ガリラヤ湖」です。ガリラヤ湖は海面より200mほど下にあるという特徴があります。夏には湖の水面が太陽の光で熱せられて水蒸気が上昇します。その熱せられた水蒸気の塊は、横に移動できずに、真上に上がり、上空の冷気の塊と衝突し、その温度差によって、激しい風が湖面に吹き下ろす現象が、ガリラヤ湖ではよく起こるそうです。

 ガリラヤ湖の突風を良く知っていた弟子達

弟子達の中にはガリラヤ湖の漁師出身の者が複数いました。12弟子のうち、4人はガリラヤ湖の出身だったと福音書から読み取れます。彼らは、ガリラヤ湖特有の突風について良く知っていたでしょう。自分達の知識と経験からその恐ろしさに脅えてしまったのではないでしょうか。突風が起こった時に船の上に居たら、波に襲いかかられて自分達は溺れて破滅すること間違い無しと恐ろしくなったことでしょう。

 イエス様に助けを求めた弟子達

弟子達は、危機に瀕して、やっとイエス様の存在を思い出し、助けを求めました。恐ろしさに右往左往するだけの弟子達とは異なり、イエス様は、起き掛けにもかかわらず、危機の原因を見極め、突風とそれにつられた荒波を叱り、御言葉と御力により、この危機を収めてくださいました。

 「天地」を従わせることができる御力

弟子達はそれまで、イエス様が病気の人々を癒す現場に共に居て、その素晴らしい御力を「癒し」の面で数多く見てきました。その上、人間以外の自然、つまり、神様が創られた「天地」にまで命令を出して従わせることがおできになるイエス様の御力を、弟子達は再び経験することになったわけです。

一番弟子のシモン・ペトロは、イエス様から弟子として召し出された時に同じような経験をしました。自分達の知識と経験を基に漁を夜通し行っていても魚が全く捕れなかったのに、イエス様の「漁をしなさい。」という命令に従ったところ、魚が大量に取れた出来事がありました(ルカ5:4-7)。この時、ペトロは、イエス様の命令を実行する前には、「先生」と呼びかけました(今回のルカ8:24と同じ言葉)が、命令を実行してイエス様の御力を知った後は、「主よ」という呼びかけに変わりました。海の中の魚を大量に集めてくださったイエス様の御力を知り、「主よ」と信仰告白し、「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)のです。

 危機に瀕して初めて「主の臨在」を思い起こす弟子達

弟子達は、イエス様から教えを受けましたし、癒しの場に立ち会ったりしたのですが、その御力をまだ切実に感じていなかったのかもしれません。自分達に関わる出来事、しかも自分が危機的状況になって初めて、主が共に居てくださること(主の臨在)を思い出し、主に助けを求めました。そのような経過を通して、イエス様を「先生」と言うよりも「『主』と呼ばれる本当の神様である」と仰ぎ見るようになる姿、弟子達のこの姿に、自分の姿を重ねる方も多いのではないでしょうか。

 「神はわれらの避け所また力である」(詩編462「口語訳」)

「このままで生きていては溺れそうだ」という危機的状況に陥り、神様の助けを求めて、教会に来られる方がおられます。そして、御言葉との出会いや聖霊が働いてくださったと思われる出来事を通して、イエス様を「救い主」とする信仰に導かれます。しかし、信仰者として歩むうちに、「神様が共に居てくださる」恵みが平常のことになり、それがいかに素晴らしいかを忘れてしまっていないか、また、主の存在を思い出さずに、自分の知識と経験を基に生きるという、信仰生活以前に戻ってしまっていないか、自分の歩みを吟味する必要があります。特に、「平常時」は要注意です。「平常時」こそ、主の臨在の恵みを数え、感謝する訓練を重ねましょう。そうして初めて、危機的な「非常時」に、本当の助け主をいち早く想起し、その御力に全幅の信頼を寄せることができます。苦難の時に神様を避け所として、また、乗り越えさせてくださる力の源として全面的に信頼を寄せるのが、詩編46編に謳われた「神様への信仰」であり、私達が継承している信仰です。

3月6日の説教要旨 「主の母、兄弟」 牧師  平賀真理子

詩編112:1-10 ルカ福音書8:19-21

 はじめに

イエス様の周りには、いつも多くの人がいました。そのお話が、それまでのユダや教の教師達とは全く異なって、権威があり、かつ、素晴らしかったのです。それだけでなく、病人等の癒しの御業によって、イエス様は神様の力がこの世の力をしのぐものであると、明らかに示してくださいました。イエス様の御許に来た人々は、イエス様に出会い、神様の素晴らしさを実感し、神様を讃美する者に変えられました。逆の見方をすると、それまでに権威を持っていたユダヤ教では救われない人が多くいたと言えると思います。

 当時のユダヤ教の問題点とイエス様の新しい教え

当時の社会で大事にされていたのは、ユダヤ教の教えと血縁(血のつながり)でした。当時のユダヤ教は、律法を守ることが第一でした。最も大事にすべき神様のことを伝えようとは努めていなかったし、困っている人を助けようともしない状態でした。神様によって自分達は神の民として選ばれたのだから、その血筋を受け継いで、律法を守っていれば、神様に喜ばれると慢心していました。一方、イエス様の教えは、「あなたの神である主を愛しなさい。自分と同じように隣人を愛しなさい。」に代表されるように、悔い改めて自ら神様を求める心と、周りの人を助けて生きる喜びを人々に思い起こさせ、当時のユダヤ教の形式重視で表面的な教えを革新するものでした。だから、多くの人が引き付けられました。

 「群衆」と「主の母、兄弟たち」

当時の常識としては、大事にされるべき、イエス様の血縁の「家族」が、今日の箇所では、イエス様との間を群衆に阻まれ、遠くに置かれ、直接話すことができませんでした。間に人が入って伝言がなされ、「家族」が近くに居ることを知ったものの、イエス様は会いにいくことはせず、まず、自分に従っている群衆の方を大事にしている旨の答えをなさっています。イエス様の新しい教え、神の国の福音では、当時大事にされていた血縁の家族が最優先ではなく、「キリストに結ばれて、新しく創造された者」(Ⅱコリント5:17)達からなる「神の家族」が最優先されるのです。

 主の母マリアと主の兄弟ヤコブ

主の母マリアも兄弟たちも、神様によって血縁の家族として選ばれた人々でしょう。しかし、「神の御子・救い主」イエス様にとって、それは最大の価値ではありません。「御言葉を聞いて従う」ということにおいて、改めて「神の家族」とされることが必要です。母マリアは、イエス様が生まれる前の受胎告知で「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)という模範的な信仰を示した人です。「種を蒔く人」のたとえの表現を借りるなら、信仰において「良い土地」の状態だと言えるでしょう。その上で、イエス様の宣教活動の場に来て、初めて「神の御子・救い主」としてのイエス様の御言葉を聞き、「神の言葉」の種が母マリアの心にきっと根づいたと思われます。自分の息子という価値から「神の御子・救い主」という価値に置き換えられたのです。主の兄弟たちの心にも同じことが起こったと思われます。特に、その一人は「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれて、イエス様亡き後に初代教会のリーダーとして活躍しました。ヤコブも、肉親の兄としてではなくて「神の御子・救い主」としてのイエス様に、この時出会い、御言葉を心に蒔かれ、信仰者となるように導かれたのでしょう。他の福音書によれば、主の母と兄弟たちは、この時は、イエス様の福音活動に反対していたようです。けれども、ルカによる福音書の続編というべき「使徒言行録」1章には、全く逆に、イエス様を信じる群れの中に名前が挙がっています。主の肉親も、神の言葉を聞いて行う人に変えられて「神の家族」となる恵みを受けたのです。

 「神の言葉を聞いて行う」

ルカによる福音書には「種を蒔く人のたとえ」「ともし火のたとえ」「イエスの母と兄弟たち」が続けて書かれています。神の言葉をよく聞き、それに従って行動することは忍耐が必要だが、その忍耐に勝る、神様からの豊かな祝福を得られると述べられています。イエス様と家族としてつながるために重要なのは、神の言葉に聞き従うことだとはっきり示されています。同じ内容を記した、他の福音書では「主の母、兄弟たちとは、神の御心を行う人である」とあります。「神の御心を知る」には、特別な霊的な能力が必要だと錯覚しがちですが、そうではありません。イエス様は「神の言葉を聞いて行う」のが大事だと語りかけてくださっています。私達は神の言葉を聞くことを最優先し、学び、行動していきましょう。