12月27日の説教要旨  「シメオンとアンナの証し」 牧師 平賀真理子

イザヤ5247 ルカ福音書22538

 はじめに

 日本では、12月25日が過ぎると、クリスマス気分は終わってしまい、お正月の準備がなされていきますが、教会では、1月6日の公現日までは降誕節として、神様の御子のご降誕を祝うべき期間です。

 シメオンとアンナ

 イエス様は、神様によって、ヨセフとマリアの夫婦の初めての子供として、この世に生まれることになりました。この信仰深い夫婦は、律法に従って、「初子を献げる儀式」をエルサレム神殿で行うことにしました。この時、ヨセフとマリアと幼子イエス様に出会う恵みをいただいたのが、シメオンとアンナです。聖書では、シメオンは高齢であるという記述はありませんが、「高齢の男性」と教会では伝えられています。アンナは「非常に年をとっている」と2章36節にあるとおりの高齢の女預言者です。2人とも、神様の御心をまず第一に考える信仰深い人々でした。

 聖霊に導かれて幼子イエス様に出会ったシメオン

シメオンについては、神様の御前に「正しい人であり、信仰があつく」とあり、更には「イスラエルが慰められるのを待ち望み」と説明されています(25節)。自分の救いだけに関心があるのではなく、周りの人々も救われることを望んでいる、まさしく信仰者の鑑と言えるでしょう。そして注目すべきことは、シメオンの上に聖霊がとどまっていたことです。25節から27節にまでに、聖霊について3回も言及され、強調されています。シメオンは、聖霊によるお告げをも受けて「死ぬまでに救い主に絶対会える」と確信が与えられ、聖霊の導きにより、主に出会うことができました。それだけではなく、幼子イエス様を腕に抱き、その存在を自分の感覚全部で体感することができたのです。

 シメオンの賛歌

 29節から32節までは「シメオンの賛歌」といって、待降節や降誕節に想起される3つの賛歌の一つです(ザカリアの賛歌、マリアの賛歌)。神様が自分へのお告げのとおりに救い主に出会わせてくださり、安心してこの世を去ることが出来ることへの感謝が献げられています。神様は私達人間が死んだ後でも永遠におられる確かな存在です。神様に全てを委ねてこのような絶対的な安心の下で死ぬことができるということこそ、長年信仰深い生活を続けてきた高齢者への大いなる恵みと言えるでしょう。30節で「あなたの救いを見た」と述べていますが、この「救い」こそ、イエス様のことです。そしてシメオンは、その「救い」が神様によって準備されたと証しし、32節では、「救い」であるイエス様によって、イスラエルの民と、そうでない「異邦人達」双方に光り輝くような「救い」がもたらされることを証ししています。

 「救い主」の定めを預言したシメオン

34節から35節には、シメオンが母マリアに告げた言葉が書かれています。「救い主」到来という恵みを受けるこの世の人々は、イエス様を「救い主」として「信じる」か「信じない」か、どちらかに分かれます。中間のグレーゾーンはありません。「信じる」者は、救い主の存在や御言葉によって、過酷な現実から立ち上がることができます。一方、「信じない」者は救い主の存在や真実の御言葉によって倒される時がやってきます。34節後半から35節を見る限り、多くの人々は、罪に染まった悪い思いから、イエス様を救い主と信じられずに、苦しめることが暗示されています。これは「主の十字架」に対する預言といってもよいでしょう。聖霊の恵みの下にあったとはいえ、この世で長く過ごした高齢の信仰者だからこそ、主の重要な定め=人々の罪の償いのための十字架 を告げることができたのだと思われます。

 アンナの証し

36節から37節を読むと、アンナは若い時に夫に死に別れて、長い間、孤独と貧困に苦しんだのではないかと思います。恵まれた状況とは言い難いでしょう。しかし、アンナは苦境に置かれたために神様から離れたのではなく、むしろ神殿を離れずに断食や祈りに励みました。自分の利益や快適さよりも、神様の御心に適う生活を選んだのです。恐らく、神様からの報い(ごほうび)として、アンナも幼子イエス様に出会う恵みを与えられたのでしょう。そして、その恵みを自分だけの喜びとしてしまい込まずに、周りの人々と共有したいと願い、幼子イエス様のことを「救い主」として証しする役割を感謝しつつ喜んで果たしたと思われます。私達も良き証し人として用いられるように信仰深く歩んでまいりましょう。

12月20日・クリスマス礼拝の説教要旨 「天からの贈り物」 牧師 佐藤 義子

イザヤ書9:1-6・ヨハネ3:31-36

 はじめに

今日の聖書には、「天から来られる方」という言葉と、「地に属する者」という言葉が出てきました。地に属する者とは、地上で生まれ、地上を離れては生活出来ない私達人間のことです。それに対して、聖書は、「天から来られる方」という言葉を用いて、地に属する者とは全く次元が違う「天」があることを教えています。

聖書で「天」とは、神様のおられるところを意味します。神様は、この世界と人間を創造されたお方です。創世記には、神様が、闇の中に光を与えて、昼と夜に分け、次に大空を作り、次に陸と海を分けられて、陸に植物を、空(宇宙)に太陽と月と星、海に魚を、大空に鳥を、陸には家畜や獣や這うものを造られ、最後に人間をつくられたことが記されています。

 すべてのものの上におられる神

今日の聖書に、「上から来られる方は、すべてのものの上におられる」とあります。地上に属する人間は、どんなことをしても神様のおられる天の高みにまでは行くことは出来ません。すべてのものの上にある天には、世界を創造した神様と、神様の御子イエス・キリストがおられます。 天は、時空をこえた永遠の世界であり、世界が創造される以前の永遠の昔から、父なる神様と御子イエス様がおられ、今も、そしてやがて必ず来る世界の終わり(終末)のあとも、永遠におられます。

 クリスマス

今日はクリスマス礼拝です。 クリスマスの出来事とは、天におられ、世界と私達人間を創られた神様が、今から約2000年前に、御子イエス・キリストを、天から地へと送り出した、世界が創られた以来の大事件、大きな大きな出来事なのです。話は変わりますが、20年以上も前のことです。家族5人でイギリスに一年間の予定で滞在した時、誰も知り合いはなく、住む家を決めた後も、日本と連絡をとる手段がありませんでした。電話の設置には一か月以上待たなければならなかったからです。待つ間、日本とイギリスが海を隔てた遠い国であることを実感し、それだけに一本の電話線が日本に住む家族との間をつなげてくれた日の喜びを忘れることは出来ません。クリスマスの出来事とは、人間が、決して行くことも出来ず、目にも見えない、天におられる、霊である神様とつながるための一切の手段を持っていなかった約2000年前に、神様が、人間の住む地上に、イエス・キリストという神様の御子を天から送り出して下さり、地上と天上とをつなぐ道を人間のために作って下さった、ということです。それは、人間同士の関係(横の関係)を結ぶ電話線がつながる喜びとは全く次元が違う、天上と地上(縦の関係)がつながるという奇跡の出来事でした。

クリスマスの意味

神様は、御子イエス様をなぜ地上に送ろうとされたのでしょうか。それは、神様によって造られた人間が、神様の教えから離れ、罪のために苦しんでいたからです。2000年前も、それ以前も、それ以後も、人間が罪の為に苦しんでいる状況に変わりはありません。私達人間の心の底にある罪は、テロを始めとするあらゆる形の殺人、暴力、虐待、裏切り、人間関係から起こる悲惨な事件、詐欺などを生み出していきます。

これらはすべて、神様に命を与えられ、生かされ、支えられているのに、神様のご意志をまず一番に仰ぐことをせず、自分を神様の座るべき場所に座らせて、自分の本能や欲望、あるいは自分中心の考えや意志に従って行動しているからです。神様を無視した歩み・・・これが罪です。罪は私もあなたも、すべての人がもっています。この罪のゆえに神様と断絶していた人間に対して、神様は、私達を愛するがゆえに、関係回復の為の「和解の道」を用意して下さいました。これが、御子イエス様の御誕生から十字架の死に至るまでの全生涯です。

イエス様は、私達に神様のことを伝え、罪の赦しが与えられる道となり、神様とつなげて下さいました。クリスマスは、御子イエス様を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることが出来るようになった日!です。イエス様は、神様からの素晴らしい愛の贈り物!なのです。

12月13日の説教要旨 「イエス・キリストの誕生」 牧師 平賀真理子

ミカ5:1 ルカ福音書2:1-7

 はじめに

イエス様がこの世にお生まれになった時の出来事を具体的に記して証ししているのは、4つの福音書の内の2つ、マタイによる福音書とルカによる福音書です。アドベントやクリスマスの時期にミッションスクールや教会学校で行うページェント(イエス様の降誕劇)は、この2つの福音書を基にしています。

 2つの福音書の相違点

イエス様のご降誕をめぐる記事で、2つの福音書の内容には共通点と相違点があります。相違点の方から見ると、マタイによる福音書では、天使のお告げを受けるのが父親役を担うヨセフであること、最初の礼拝者は東方の博士達であること、当時の権力者の様子としてヘロデの対応が詳細に書かれていることが特徴です。一方、ルカによる福音書では、天使のお告げを受けるのが母マリアであること、生まれたイエス様の姿を具体的に描いていること(飼い葉桶に寝かされる姿)、最初の礼拝者は羊飼い達であること、当時の権力者としてローマ皇帝やシリア総督の名を具体的に挙げていることが特徴です。

 2つの福音書の共通点

最初の礼拝が行われるまでの出来事として、2つの福音書の共通点は3つです。一つ目は天使による人間へのお告げがあったこと、二つ目は誕生地がベツレヘムであること、三つ目は両親として選ばれたヨセフとマリアが時の権力者の思惑によって安心安全な生活が出来なかったことです。一つずつ、見ていきましょう。

 天使による受胎告知

「天使による受胎告知」が示すことは、イエス様のご降誕が、神様の御計画の下に行われた「救いの御業」だということです。神様が人間に何も知らせないで一方的に行ったのではなく、天使を派遣して神様の御言葉として人間に事前に知らせてくださっているということです。ヨセフとマリアはその御言葉を人間的な葛藤の後に受け入れ、御言葉の送り主である神様だけを信頼して困難を乗り越えていったのです。

 ベツレヘムでのご誕生

イエス様ご誕生の何百年も前に、救い主に関する預言がいくつかありました。代表的な例を2つ挙げます。神様は救い主をベツレヘムに誕生させる(ミカ書5:1)という預言。もう一つは、かつて繁栄したイスラエル王国のダビデ王の子孫という血筋にあたる者の中に「救い主」を送るという預言(サムエル記下7:12-13)です。この世での父親という役割を担うヨセフがベツレヘムを本籍とするダビデ家の子孫だったと、ルカ福音書では2箇所(1:27と2:4)にあります。神様が人間との約束を果たしてヨセフを選ばれたことが示されています。

 この世での両親ヨセフとマリアの境遇

ルカによる福音書は、ユダヤ人でない人々、つまり旧約聖書にある御言葉を知らない人々に向けて書かれたので、当時のユダヤやガリラヤ地方、更に周辺の地中海地方での政治的出来事を目印として書く必要がありました。イエス様がお生まれになり、福音の宣教活動をされ、十字架にかかり、復活された後に弟子達が宣教活動を引き継いだ時代に、この地域一帯を支配していたのが、繁栄を誇った「ローマ帝国」でした。その初代皇帝だった「アウグストゥス」が、強大な武力に支えられた権力によって、属国ユダヤから税金を搾取する目的で行ったのが「住民登録」です。また、本籍地を離れた人々は、自己負担で帰省せざるを得なかったのです。更に条件が悪いことにマリアは身ごもっていました。妊娠中、しかも出産間近に旅をするなど、本当に避けたいことです。しかし、拒否する権利は全くありません。ヨセフとマリアは、強い権力者の意向に無理矢理従わざるを得ないような、弱く無力な境遇にありました。それは、そのような無力な状況の中に、神様が敢えて御自分の御子を低く置かれたことを意味します。この世では無力な者達をこそ、神様は愛し、救いたいと願われたからでしょう。

 この世での居場所がなかったイエス様

イエス様は両親の旅の途中に生まれたので、産着の準備もなく、人間のための宿屋すら与えられず、更には、柔らかいベッドにではなく、固く冷たい飼い葉桶に置かれました。この世での場所が準備されなかったのです。にもかかわらず、私達は主を信じる恵みを受けました。一人一人の心に主を迎えられるよう、自分の信仰を吟味し、「神の宮」として歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

12月6日の説教要旨 「イエス・キリストの誕生の予告」 牧師 平賀真理子

イザヤ7:14 ルカ福音書1:26-38

 はじめに

見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」とイザヤ書7:14に預言があります。神様はずっと昔から、救い主である人間をこの世に送ることを、人間達に約束してくださっていて、確かに実現してくださる御方なのです。その救い主の到来の前に、救い主を証しする重要な人物をこの世に送ることをも預言し、約束してくださっていました。その重要な人物が、「洗礼者ヨハネ」として、その誕生を父親ザカリアが天使ガブリエルから預言されたことは、今日の箇所の直前の段落に書かれています。

 ダビデ王の子孫ヨセフの婚約者マリアへの預言

ザカリアに主の御言葉を伝えた6か月目に、天使ガブリエルは再び神様から任命され、人間へ御言葉を伝えることとなりました。いよいよ、「救い主」の母となるマリアへ神様の御言葉を伝える使命です。救い主はダビデ王の子孫から生まれるという預言(サムエル記下7:12-13)があり、マリアはダビデ王の子孫ヨセフの婚約者でした。それで、マリアは預言どおりの「救い主」の母として神様に選ばれたのでしょう。

 「救い主」の母マリアへの天使の挨拶

天使の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」(28節)という言葉は、信仰者への最高の言葉のプレゼントだと思います。「おめでとう」は元々の言葉では「喜べ」という意味があります。「喜べ、あなたは神様から恵みをいただいている。神様があなたと共におられる。」天使も、救い主の母となるマリアに「言葉の献げ物」をしたのかもしれません。

 考えて、主の御言葉を受け入れようとするマリア

しかし、天使が現れて自分に語り掛けるようなことを見た場合に、人間は普通の状態でいられるでしょうか。もちろん、マリアもまず、「戸惑い」ました(29節)。これはかなり抑えた訳し方で、元々の言葉では、もっと動揺している感じ、取り乱す感じが含まれています。その混乱の後、マリアは天使の言葉を一生懸命考え込んでいます。信仰深く、慈愛に溢れた人という一般的なイメージに加えて、マリアは言われた言葉をよく考えるという思慮深い人だったと思われます。

 「聖なる者、神の御子」の誕生の預言

30節以降の天使の言葉はザカリアに対する言葉と同じく、また「詩」の形をとって書かれています。真実で美しい、主の御言葉が伝えられているのでしょう。マリアがこれから身ごもり、男の子を産む定めにあることを知らされ、その子の名前を「イエス」と名付けるよう告げられたのです。また、その子は「聖なる者、神の子」と呼ばれるようになり、先祖ダビデ以上の王として、人々を治めるようになることが伝えられました。

 「聖霊が降り、いと高き方の力がマリアを包む」

天使をとおして告げられた「主の御言葉」に対して、子供が産まれる関係をまだ結んでいないのに、自分が身ごもることはあり得ないと、マリアは人間的判断で答えました。これに対して35節の天使の答えが実に重要です。「聖霊がマリアに降り、いと高き方(神様)の力がマリアを包む、そうしてマリアは神の子を身ごもる」と説明しています。イエス様は人間としてこの世に来てくださるために、胎児として人間の歩みを始めるのですが、人間と全く同じではなくて、最初から「神の子」なのです。「神の霊」である「聖霊」は、神様の御心を実現するためにこの世に働きかけて、どんなことでも実現することがおできになります。聖書の最初に書かれている「天地創造」を思い出していただきたいのです。全くの「無」から、御言葉によってこの世をお造りになることがおできになるのが神様であり、その力を神の霊である聖霊は持っておられます。聖霊は「救い主」の母としてマリアを選び、「包む」ことにより、マリアと共に居て、守り、愛し、その結果、神の御子が産まれる奇跡が起こったと思われます。神様の「救いの御計画」を、人間は、ただ信じて受け入れるのみです。

 マリアの大いなる信仰=「お言葉どおり、この身に成りますように。」

マリアに確信を与えた「しるし」として、親類のエリサベトの妊娠が挙げられます。「不妊の女」という不名誉な呼び名から解放なさる神様を信じる決意をマリアはすぐにしたのです。マリアは、姦淫の罪を犯したと誤解されて死罪になるかもしれない使命を、敢然と受け入れる信仰を示しました。「お言葉どおり、この身に成りますように(38節)。」その信仰を手本として、待降節を過ごしましょう。

11月29日の説教要旨 「洗礼者ヨハネの誕生の予告」 牧師 平賀真理子

マラキ32324 ルカ福音書1520

 はじめに

神様は、御自分から離れた人間達との関係を取り戻すために、救い主をこの世に送り、その御方を救い主と信じる者達を救う御計画を立て、預言者に御言葉を託されました(イザヤ書7:14等)。また、救い主が来られる前に「道を備える者」をこの世に送る御計画さえも預言をとおして知らせてくださっていました(マラキ3:1、23)。神様から離れたがる罪深い人間を相手に、神様は御計画を教えてくださり、その御言葉の約束を必ず実行してくださる御方です。

 「道を備える者」の誕生の前に

「道を備える者」と預言されていたのが、「洗礼者ヨハネ」でした。それはマラキ書3:23にある「預言者エリヤ」の霊と力で、洗礼者ヨハネが主に先立つ者になると天使が言っていることからもわかります(ルカ福音書1:17)。神様は救い主の前に私達の心を準備させるために、長い時間をかけ、大いなる熱情を持って、洗礼者ヨハネを前々から準備してくださっていたのです。今日の新約聖書箇所では、「洗礼者ヨハネ」の両親の話から始まります。ザカリアと妻エリサベトは神様の御前に正しく生きていて「非の打ちどころがなかった」夫婦でした。彼らが血筋も行いも正しい人として歩み続けたのに、神様の祝福の証しと考えられていた子供に恵まれませんでした。それは、どんなに苦しいとげだったでしょうか。この苦しい状況の中でも、彼らは神様から与えられた律法に従い、神様の前に正しく生きていくことをやめずに続けました。人間の考えでは祝福されているように見えなかったザカリア夫婦は、長い忍耐の末、神様の御計画の中で重要な使命を担う子供を与えられました。自分の願いだけにとどまらず、神様を信頼して「本当の救い」を待ち続けるという、更なる信頼を神様に献げるよう、神様は願っておられるのではないでしょうか。大変過酷な運命の下に置かれても、神様を信じ続けるという忍耐をとおして、神様に用いられる信仰者の典型が示されています。

 天使ガブリエルをとおしての御言葉

ザカリアは祭司で、エルサレム神殿で大事な務めを果たしている時に、天使に出会って主の御言葉をいただきました。それは、元々の言葉では「詩」の形で書かれています。「詩」は、欧米では、尊敬されているものの一つです。それは真実で、美しい言葉として研ぎ澄まされたものだからです。ザカリアが天使の「真実で美しい、主の御言葉」を聞くことができたのは、彼がそれにふさわしく整えられていたからでしょう。本当は主の御言葉はもっと惜しみなく与えられているのかもしれません。ただ、それを受け取る私達が、神様に心を合わせようとしていないのかもしれません。私達は、主の御言葉を受け取れるように、真実で、美しく、清められたいと本当に願っているかが問われていると思います。

 3つのキーワード

天使ガブリエルの言葉は、主と呼ばれる神様が、天使に託した、神様の御言葉です。その中から、3つのキーワードについて、お伝えします。一つ目は、15節「(洗礼者ヨハネは)既に母の胎にいる時から聖霊に満たされていて」の「聖霊に満たされて」という言葉です。ルカによる福音書とその続編と言われる使徒言行録は、特に「聖霊(神の霊)に満たされ」とか「聖霊に導かれて」といった表現がよく出てきます。神様が直接この世に働きかけてくださり、神様の御心どおりに福音が広まっていくことを証ししているのです。

二つ目は、17節「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ」というところです。左欄の「『道を整える者』の前に」というところで書いたように、洗礼者ヨハネが、預言者マラキの預言の実現として、エリヤの再来としてこの世に遣わされていることを証ししています。

三つ目は、17節の最後「準備のできた民を主のために用意する」という御言葉です。救い主イエス様に導かれるために、洗礼者ヨハネが何をしたのかが、ルカ福音書の3章の初めにあります。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のです。「罪の赦し」は救い主イエス様のみの権能ですが、その前段階として、「悔い改め」が必要とされます。それを洗礼者ヨハネは、ユダヤの人々に呼びかけました。自分の欲望や利益のためだけに生きていた人々を、神様の御前で正しく生きるように方向転換するように勧めたのです。罪を悔い改めたいと願う心の準備をした者に、救い主による罪の赦しの恵みが充分にもたらされるのです。

11月22日の説教要旨 「幸せへの道」 デイビッド・マーチー先生(東北学院大学教授)

詩編1:1-6

 はじめに

人間は、幸せを得るために人生の道を選びます。幸せになるために、多くの人は、財産や所有物(車・家など)を得ようとしたり、身近な快楽を経験しようとしたりします。しかし、その望む状態になっても、今度は、それが当たり前になり、心は満たされません。また、教育を受けたり、気楽な友達を求めたり、快適な生活や老後のために蓄えるという、普通の人が行う方法でゴールにたどり着いても、虚しさや不満が残ります。待ち望んだ「幸せ」にはなれません。「本当の幸せ」は物質によっては得られません。

 詩編で示されている「幸せ」「幸せな人生」

聖書では、「幸せ」とは、人間が神様の意志の中に生きる時に見つかると教えています。神様と共にある人生こそ「幸せ」であると、困難な時にこそ、よくわかるのです。これがまさしく詩編第1編のテーマです。この1編は、精神的な困難や悩みを経験した人が書いたと思われます。この著者は、神様からの慰めを求めたのです。この詩の表現は簡単ですが、どんな人が幸せかという私達の疑問への、奥の深い答えを示しています。「本当の幸せな人生」とは、神様の思し召しと御言葉に根を下ろした人生であり、そうすれば、幸せな人生は消え去らないと告げています。

 詩編第1編から見る「幸せ」

第1節では、「神に逆らう者・罪ある者・傲慢な者」という「世」、つまり「神様を信じない空気」に支配されてはいけないと言っています。もし、そのような「世」に同調したら、今は歩けても、次第に動けなくなり、やがてあざける者の中に座らせられるようになり、神様を信じない世界に陥るのです。そのように、神様から遠ざかる者、神様を馬鹿にした呼び名で呼ぶ人を「高慢な者」とも言いますが、箴言21:24には「増長し、高慢な者、その名は不遜、高慢の限りを尽くす」とあります。詩編第1編の著者は、高慢な者達に囲まれた厳しい状況に居たのでしょう。高慢な者達は神様の御言葉を受け入れません。その本当の理由は、神様の御言葉によって私達が要求されるものよりも、神様の約束の恵みの方がずっと大きいと知らないで、「神様の要求が厳しい」と誤解しているということです。

3節では、神様の無い世界と神様の下にある生産的な人生が大きく違うとあります。神様の意志に根付いた生活こそが神様の導きに富んだ、豊かな生活であり、決して厳しくて、枠の中に捕らわれた生活ではありません。「枠」というと旧約聖書の「律法」を思い出されるかもしれませんが、それも、窮屈で面白くないものではありません。「律法」は神様の恵みにある自由な生活を送る人の羅針盤です。

 「神様の御言葉」を喜んで受け入れる

詩編第1編によれば、幸せな人は、神様の掟=神様の御言葉の恵みを喜び、昼も夜も口ずさむ人です。愛する御方の掟への服従は決して苦しくありません。私達を愛してくださる神様の御言葉は喜んで受け入れられるはずです。しかし、私達は本当に神様の御言葉を喜んでいるでしょうか。ダビデ王は、神様の御言葉を喜びとしていました(詩編19:10-11、119:92-93)し、 修道院の信仰者達の生活は神様の御言葉を毎日読むことの大切さを想起させてくれます。クリスチャンが神様の御言葉に自分自身を献げるならば、一人一人が変わり、人間関係が変わり、そして、神様と自分との関係が変わります。

 「神様と共にある人生」と「神様のいない人生」の対比

3節と4節には、「神様と共にある人生」と「神様のいない人生」という対照的な関係があります。イスラエルの民は日照りや飢饉に苦しんだので、水のありがたみを知っています。神様の御言葉を愛する人は、水の流れのほとりの木で、実を結ぶと表現されています。年をとっても、霊的な実を結ぶと保証しています。それは「永遠の幸せ」と言えます。これは、神様からだけいただけるものであり、神様からの約束の恵みであり、これこそ神様に従う本当の喜びです。決して虚しいものにはなりません。反対に、神様に逆らう者は虚しいものであることを「もみ殻」(4節)と例えています。神様のいない人生、我が道を行く悲劇を表しています。虚しく、役立たないのです。更に、詩編第1編の最後は、我が道を行く人への警告で終わります。神様から離れて自分勝手に歩む道は、当座は魅力的でも、決して神様の裁きに堪え得ません(ナホム書1:6、詩編130:3)。一方、 神様の御言葉を聞いて深く考えて従う人を神様は見守ってくださいます。聖霊に導かれるクリスチャンは、神様の御言葉と祈りに没頭する時、幸せな生活が体験できます。

11月8日の説教要旨 「死者のよみがえり」 牧師  平賀真理子

列王記上171724・ルカ福音書71117

 はじめに

イエス様と弟子達と大勢の群衆がナインという町に近づかれた時のことです。(ナインは、イエス様の宣教の拠点カファルナウムから約8㎞の町です。)ちょうど、ある家から棺が担ぎ出されるところでした。

 絶望した母親を憐れむイエス様

一人の若者の死でした。彼の母親は、夫を亡くした「やもめ」でした。母一人子一人で生きてきたのに、その一人息子が亡くなったのです。この母親は絶望して泣き叫んでいます。13節に「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」とあります。この母親の大変深い悲しみや絶望を憐れまれました。この「憐れむ」という言葉は、「腸」という言葉を語源としています。人間の情がこの「腸」から生まれ、存在すると考えられていたのです。表面的にではなくて、心の底から同情するということを言い表しています。深い悲しみや絶望に捕らわれている人々の所に、主が先ず訪れてくださり、その気持ちに寄り添ってくださることを示しています。

 「死」から若者を解放された主

主の憐れみによって、更に偉大なことが起こります。この母親の悲しみ・絶望の源が取り除かれたのです。主は「息子の死」を取り除き、この若者を生き返らせてくださいました。イエス様が、「死」から若者を解放するという御業をなさったのです。この姿はまさしく、イザヤ書で預言されていた「救い主」の姿です。「打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)この町の大勢の人々がこの母親のそばにいたとありますから、多くの慰めの言葉がかけられていたことでしょう。しかし、本当の慰めを与えることができるのは、「死」に打ち勝つ御力を持つ御方、つまり、神の御子・救い主であるイエス様しかいないことが知らされています。直前の段落では、イエス様は瀕死の病人を元気になさるという御業をなさいましたが、今回は完全に死んで棺に入っている若者をよみがえらせたということで、イエス様の御力は「命」をお与えになることのできる素晴らしいものだということが明確になっています。

 神様を讃美した人々の言葉

イエス様の御業を目撃した人々の、神様を讃美した言葉が16節に書かれています。最初の言葉は「大預言者が我々の間に現れた」です。大預言者とは、この場合、もちろんイエス様のことです。ただ、ユダヤ人達は、「大預言者」という言葉の奥に、列王記上17章以降に記されている「預言者エリヤ」を思い浮かべているのです。預言者は、神様の言葉を受け取って、人々に伝える使命を神様によって与えられた人です。また、神様の言葉だけでなく、更に神様の御力も与えられることもあります。だから、エリヤのように、死者さえもよみがえらせることもできたのです。イエス様も神様の言葉を語り、神様の御力もいただいている御方ですから、大預言者と言われれば、そういう一面もあります。けれども、それ以上の御方です。次の讃美の言葉「神はその民を心にかけてくださった」の奥には、歴史上の出来事「出エジプト」の記憶があるのです。そして、出エジプトと言えば、当時のリーダー「モーセ」が思い出されているのです。人々は、イエス様のことを、偉大なモーセのような、凄い御力を持つリーダーだと思ったのでしょう。人々は、自分達の理解や過去を通して、ナインでの出来事から、イエス様の偉大さを感じているようです。しかし、例えているのは、エリヤやモーセのような「尊敬する人間」です。しかし、イエス様は、人間としての歩みをなさいましたが、本当は全く次元の違う「神の御子」、つまり、神様です。一方、イエス様の「死者のよみがえり」の御業に対して、人間は人間の範囲でしか、理解できない、表現できないという限界が示されています。(そこに聖霊が働いてくださらない限り、神の御子については、人間の力だけでは理解できないのでしょう。)

 我が身に起こる「救い」

ナインの人々は神様の御業を讃美しましたが、イエス様をメシア=救い主とまでは言い表せませんでした。人間に対しての「救い」の出来事がその場で即座に理解されることはむずかしいことがわかります。しかし、「救い」は私達一人一人に、自分の理解を越えた所で我が身に起こります。そのことを知らされている「後の時代の者」として、主に心を向けて目を覚ましてい続けたいと願います。

11月1日の説教要旨 「百人隊長の信仰」 牧師 平賀真理子

箴言29:23・ルカ福音書7:1-10

 はじめに

百人隊長の信仰をめぐる話を読みましたが、この百人隊長は、イエス様に直接会っていません。同じ内容を記したマタイ福音書8章やヨハネ福音書4章では、イエス様に直接会って懇願しています。しかし、このルカによる福音書では、主に会わずに、重んじている部下の瀕死の病いを癒してもらっています。それが特徴です。イエス様に直接会っていないのに、心からの願いを叶えてもらいました。この百人隊長は私達と重なるところがあります。その信仰から学ぶべきところがたくさんあります。

 異邦人である百人隊長

「百人隊長」とは、ローマ帝国の軍隊組織の中での地位で、50~100人程の歩兵を統率する下士官です。その管轄する歩兵達に命令できる人であり、同時にまた、上にいる千人隊長(将校)から命令される立場にある人です。また、ローマ軍の組織をまねて、ガリラヤ地方を代官として治めていたヘロデ・アンティパスも軍隊を持っていて、「百人隊長」がいたようです。今日の話の百人隊長がどちらの軍隊の百人隊長だったかわかりませんが、重要なことは、この百人隊長が異邦人だったことです。恐らく、この百人隊長は、ユダヤ教を通して、本当の神様を信じるようになっていたようです。そして、神の選びを尊重し、神の民として選ばれたユダヤ人と、自分を含めた異邦人との間に違いがあることを自覚していました。だから、ユダヤ人であるイエス様に対し、神様から遠い異邦人の自分は直接会えないと思って、まず、ユダヤ人の長老達に願いを委託したのでしょう。

 ユダヤ人の長老達が百人隊長の願いを取り次ぐ

選民意識の強いユダヤ人の長老達が、軽蔑していた異邦人である百人隊長の願いを取り次いだ姿には、2つの驚くべきことがあります。1つは、異邦人の代わりに熱心にお願いしていることが、珍しいことだったということです。もう一つは、長老達の願いの相手が、彼らが歓迎していなかったイエス様だったということです。もちろん、この百人隊長が、ユダヤ教の教えを尊重し、それを奉じているユダヤ人達を敬愛して、ユダヤ教の会堂まで私財で建てたことが、ユダヤ人の長老達の心を動かしたのでしょう。けれども、もっと大きく考えれば、神様が、百人隊長の願いを通し、主に敵対する長老達に、イエス様を認めさせるように働きかけられたと見ることができます。

 「心の低い」百人隊長

頑ななユダヤ人の長老達さえ動かした百人隊長の願いを受けて、イエス様は彼の家に向かわれました。しかし、その到着を待たずに、再び、百人隊長は、自分の願いを友達に託したのです。自分は、本当の神様が救い主としてこの世に派遣された救い主イエス様に直接会いに行ったり、お迎えしたりする価値のない異邦人だとへりくだる思いからでした。その謙虚な思いこそが、主の祝福を受ける礎です。今日の旧約箇所でいうなら「心の低い人は誉れを受ける」ということでしょう。

 自らの職務から「主の権威」を知る百人隊長

更に、この百人隊長は、自分の職務=軍隊の命令を受けたら遂行する使命を担うことを知っていました。人間界における権威でさえ、そのように絶対的な権威を持つのであるから、天から遣わされた神の御子、救い主イエス様の権威は比べものにならない程、とてつもない大きいことを百人隊長は推測することができました。自分の仕事や役割から、神の国を思い描いているのです。この姿勢は私達も学ぶことができると思います。主の権威に服従することは当たり前、もっと言うと、喜びであると示されています。

 百人隊長の信仰と愛 

また、主から「部下は癒される」というひと言さえもらえれば、癒されると信じていることも素晴らしいことです。ユダヤ教(イザヤ書55章)で教えられている「主の御言葉は必ず実現する」ことへの絶対的な信頼=信仰が表されています。神様の前に謙虚な姿勢の百人隊長でしたが、また、同時に、ユダヤ人を愛して会堂を建てたばかりでなく、部下を重んじて、その癒しのために親身になって手を尽くした百人隊長の愛の深さも、ここに見ることができます。

 異邦人の信仰を喜ばれた主

主への絶対的な信仰を、イエス様は大変喜ばれ、百人隊長の願いを叶えてくださいました。主の救いは民族や場所や時間を越え、同じように私達にも与えられています。

10月25日の説教要旨 「わたしたちの救い」 倉松 功 先生(元 東北学院 院長)

エレミヤ書23:5-6・ルカ福音書19:1-10

 はじめに

私達の教会、プロテスタント教会が再出発したのは、1517年です。キリスト教会は礼拝を始めて500年ほどは一つでしたが、その後、ギリシア正教会、ローマ・カトリック教会に分かれていきます。一つだった元々の教会に回帰する、元々の教会の流れを受け継いで再出発する、これが宗教改革の精神です。宗教改革を最初に行ったのは、マルティン・ルターであり、1517年10月31日に、ローマ・カトリック教会が「免罪符を買うことで救われる」と教えたことなどへの95箇条の問題提起をしたのでした。

 「救い」とは何か-ザアカイの「救い」の物語

私達は教会に救いを求めて来るし、また、救いを確かなものにするために来るわけです。私達が理解している「救い」とは何か、それを大変わかりやすく記してあるのが、ザアカイの救いの物語だと思います。主イエスがエリコの町に入られました。エリコはエルサレムから東へ50キロ、エルサレムの出入り口にあります。そこに、ザアカイという徴税人がいました。エリコは通商が盛んで、徴税人は通商税を取っていたことでしょう。また、支配されていたローマ帝国への税金も集めていました。ローマ帝国のために、ザアカイは、自分と同じユダヤ人達から税金を取り立てたので、ユダヤ人からすれば、ザアカイは喜ばしい人ではなかったでしょうし、また、徴税人の頭として、手下の徴税人達の給料分や家族の生活費も上乗せして、人々からお金を取り立てていたでしょう。だから、ユダヤ人からは憎まれ、疎外された人間だったと言えるでしょう。ザアカイ自身も自分に嫌悪感があったかもしれませんし、主イエスが来られると聞いて、キリストに対して好奇心もあったと憶測いたします。ザアカイはイエス様を見ようと思ったけれども、背が低くて、見えなかったので、建材に使うような丈夫ないちじく桑の木に登ったわけです。そこへ、突然、事が起こりました。キリストの方から、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」という声がかかりました。これは、ザアカイにとって大変な驚き、大変な喜びでした。自分のような者にイエス様の方から声をかけてくださった!だから、急いで降りて来ました。そして、イエス様は、次の御言葉「今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい。泊まらなければならない!」とおっしゃり、ザアカイに更に大きな喜びを与えたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えました。

 ザアカイの感謝と懺悔(ざんげ)

そして、ザアカイは「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と言います。これは、喜び、心からの感謝の表れです。まだ、続きます。「だまし取っていたら、四倍にして返します。」これは旧約聖書で、羊を四倍にして弁償する規定から来ていたかもしれませんし、ユダヤ人のしきたりともなっていたようです。この後半の言葉は、悔い改めです。前半の感謝に対して「四倍にして返す」は、悔い改め、もしくは懺悔のしるしと言っていいでしょう。キリストがまず、ザアカイを迎え、受け容れてくださったことへの感謝のしるし、その後に悔い改めのしるしがあるのです。順番が大事です。決して、懺悔と感謝ではありません。私達人間がキリストをまず受け入れたのではなく、イエス様の方からザアカイ、即ち、神様から人間の救いへと働きかけられると、この物語は伝えます。9節の「人の子」とは主イエスご自身を指す言葉であり、「失われたものを捜して救うために」とは、キリスト以外のすべてが失われている、救われねばならないことを意味しています。救い主を通してすべてが救われなければならない、それが神様から与えられたイエス様ご自身の使命であることを示しています。

 新約聖書の「救い」

新約聖書の救いはそれだけではありません。Ⅰコリント書1章30節に「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」とあります。これは、神様の方から見た「私達の救い」です。「神の方からみて、救いが起こる」とは、キリストに結ばれることです。キリスト・イエスに結ばれるというと、洗礼を思い起こしますけれども、キリストが私達にとって、神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたわけです。神様から遣わされたキリストによって、私達人間側からは「救われる」のですが、神様側から言えば、「キリストが義と聖と贖い」となるというのです。

 神の国に入る

主イエスが最初に語られたのは、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)とという御言葉ですし、また、「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)ともおっしゃいました。「神の国」は領土や領民があるわけではありません。「神の国」はキリストが義と聖と贖いとなる、つまり、キリストが支配する国です。キリストが王となり、祭司となる国です。だから、キリストの国となるということです。だから、神の国は近づいたのです。そして、キリストのものとなった人々の集まりができる、これが教会、そこが神の国です。「救われる」とは「神の国に入る」ことです。

 ルターが発見したこと

それが宗教改革と密接に関係があります。1517年の95箇条の問題提起が掲げられる数年前に発見されたこと=「キリストを受け容れることによって、キリストが王となって、私達を支配する」という発見です。ルターは、このことを詩編31編、70編、71編の研究によって発見し、宗教改革を決意しました。これが私達につながることであります。神の国とは、キリストが王として、祭司として、私達を治めてくださるということです。信仰によって、キリストが王として私達を支配してくださるということを、ルターが、第一回目の詩編講義の時に発見したわけです。一方、当時のローマ・カトリック教会は、免罪符を売って人々に救いを保証するだけでなく、死者さえも免罪符購入で救われると教えていました。それはおかしいとして、ルターは、95箇条の問題提起をしたのです。だから、ルターが宗教改革を始めることになったのです。

 信仰=キリストに結ばれる

ザアカイのお話から、まず、キリストに受け入れられ、キリストによって与えられる信仰のことが知らされましたが、信仰は、だんだん純粋になり、キリストとの結びつきが強められます。説教や洗礼によって、キリストと更に結ばれ、また、聖餐によってキリストの御身体に与るという、様々な形でキリストに結びつくことを、私達の教会は許されています。そのことをキリストに感謝して歩みたいと存じます。

10月18日の説教要旨 <教会学校との合同礼拝> 「新しい誕生」  牧師 佐藤 義子

詩編 30:2-6・ヨハネ福音書 3:1-15

 はじめに

私達は毎週日曜日に、神様を礼拝するために教会に来ています。いつもは、子供と大人の礼拝時間は違いますが、今日は一緒に礼拝をささげます。礼拝では、神様をほめたたえるために讃美歌を歌い、お祈りをし、聖書からお話を聞きます。聖書には何が書かれていますか? そうです。神様について書いてあります。 神様を見たことはありますか? 神様に会ってお話ししたことはありますか? 誰もいませんね。なぜなら、天におられる神様は、私達の目には見えないからです。

 神様のことを知らせてくれた人

でも、目に見えない神様のことを、私達人間に知らせに来てくれた人がいます。神様のことを知らせるためには、神様のことをよく知っている人でなければなりません。神様のことを良く知っているのは、神様と一緒にいた神様の息子です。神様は、ご自分の息子を、私達が住むこの世界に、人間として生まれさせてくださいました。そう、イエス様です。イエス様は、みんなに神様のことを教えただけでなく、神様から力をいただいて沢山の病気で苦しんでいた人達を治しました。私達はイエス様を通して神様のことがとてもよくわかるようになりました。

 ニコデモさん

今日の聖書は、イエス様とニコデモさんとのお話です。ニコデモさんは、旧約聖書のことをとてもよく勉強していて、みんなに教えていましたし、又、議員もしていて人々のリーダーでもありました。このニコデモさんが、イエス様のお話を聞いたり、イエス様が病気の人を治されたりする奇跡を見て、もっとイエス様とお話したいと、ある夜、イエス様を訪ねました。

 イエス様とニコデモさんとの会話

ニコデモさんはイエス様を「先生」と呼んで、「あなたは神様のところからいらしたということが私にはわかります。なぜなら病気を治したり奇跡を行えるのは、神様が一緒でなければできません」と言いました。イエス様のお返事は、3節『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』。そして5節「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」というものでした。

イエス様のおことば

私達が、「神様を信じます。イエス様を信じます。」と、自分の心の中にある「信仰」を口で言い表すことは、とても大事なことです。しかしイエス様は、ニコデモさんが、もっと大切なことを知らなかったので、そのことを教えられました。それが、「人は、新しく生まれなければ、神様のところには行かれません」ということでした。

ニコデモさんの驚き

ニコデモさんは年をとっており、もう一度生まれるなんて無理ですし、それに、ニコデモさんは神様を信じていて神様の教えも守っていましたから、神様のおられる天の国に自分はもちろん入れると考えていました。ですから、このイエス様の言葉を聞いて、どんなに驚いたことでしょう。

新しく生まれる

「新しく生まれる」とは、「上から生まれる、天におられる神様の働きによって新しく生まれる」ということです。お母さんのお腹から生まれ直すことではありません。神様から「神様の霊」をいただいて、新しい自分に(心が)生れ変わる=神様に変えて いただくことです。

イエス様は、「霊」を風にたとえて説明されました。風は目に見えませんが、風が吹くと木の葉がゆれるのでわかります。でも私達は、風が、どこから吹いて来て、どこに向かっていくのかわかりません。神様の霊も風と同じように、私達の目には見えないけれども、いつも働いておられて、風が吹いたことが後でわかるように、神様の霊の働きを受けた人には、必ず目に見える変化がその人に生まれ、周囲の人にもわかります。神様の霊は神様の御意志によってのみ働きます。私達には祈り求めることが許されています。それと同時に、いつでも「神様の霊」を受ける心の備え(毎週の礼拝・日々の御言葉に親しみ祈る生活)もしましょう!