12月4日の説教要旨 「主は来られる」  平賀真理子牧師

イザヤ書591220マタイ福音書135358

 はじめに

先週の説教で「救い主を迎えるのに、ふさわしい心を用意しましょう。」と話しました。それは、具体的には、どういう心なのでしょうか。実は、「待降節」または「アドベント」の時に、特に大事なこととして勧められていることは、「悔い改め」です。

 「悔い改め」

 悔い改めとは、自己中心というこの世の価値観に基づいた生き方から、神様の御心を第一とした生き方に180度方向転換して生き始めることです。「悔い改め」の重要性について、今日の旧約聖書箇所にも書かれています。イザヤ書59章の小見出しは「救いを妨げるもの」とあります。人間が救われていない理由について、神様の力不足ではなく(1節)、人間の悪が神様と人間を隔てているから(2節)と確かに示されています。「人間の悪」が原因です。自分の本来の造り主である神様のことを考えずに、自分を中心に生きる習性=人間の悪が、神様からの救いを妨げ、神様と人間を隔てるために、人間は神様の許に帰れず、救われないのです。だから、そこから立ち帰る=悔い改めが必要です。

 「主に対しての『偽り』『背き』」

聖書で証しされている神様「主」は愛することを喜ばれる神様であり、正義を愛する神様です。だから、主を知らされた人間も、主に倣って生きるべきだと知っています。でも、現実はいつもそうできるわけではない、自分の日常生活を顧みれば明らかです。その時、私達はどのようにしてしまいがちでしょうか。本当は素直に謝ればいいのに、できません。そこで、イザヤ書59章13節にあるように、主に対する「偽り」「背き」へと傾いていきます。私達はまず、自己正当化しようとして言い訳を考えがちです。私達は、その言い訳を更に自分の都合いいように思ってもらおうと躍起になり、話を大きくしてしまい、最後には「偽り」にまで発展してしまいます。しかし、「偽り」を抱えた心の闇が神様にふさわしくないことだけは自分でわかります。だから、神様の目を恐れるようになります。神様の目をごまかそうとして、愚かにも、自分から神様に背を向けるようになります。それが「背き」です。そんなことを繰り返すことにより、私達は永遠に神様から離れ去ってしまいます。そのような人間達が集まって造る社会だから、中心にいるべき正義もまかり通らなくなります(14節-15節a)。

 「主は贖う者として」

しかし、そんな人間達を主は裁くのではなくて、贖う者として、私達の所に来てくださるということがイザヤ書59章20節にはっきり書かれています。「主が贖う」とは、自分から神様に背いた人間の罪を、主が代わりに背負ってくださるという意味です。「主」は、まず人間の罪を贖う御方であるということを、是非、覚えていただきたいです。

 「ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに(主は)来る」

次に20節に書かれている御言葉は「ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに(主は)来る」ということです。「ヤコブ」とは、創世記32章23節以降を読んでいただくとわかるのですが、主(の使い)と真剣に格闘した人です。主の祝福をいただくまで離さないと言って主(の使い)にしがみつき、とうとう「主の祝福」をいただき、主から「イスラエル」という新たな名前をもらった人です。つまり、神様なんてわからないとか信じられないとか言って斜に構える人ではなく、神様と真正面から向き合おうとする人のことです。そういった姿勢で生きる人で、しかも「罪を悔いる者」のもとに「主は来られる」のです。この世で生きる私達には、この世の常識や自己中心の思いに染まり、主がお嫌いになる「偽り」「背き」をしてしまうことがあるかもしれません。しかし、その時、素直に主の方に真正面に向き直り、謝り、次の機会には聖霊を送って助けてくださいと祈って、その都度、自分を主の御心に従わせる(悔い改める)ことが必要だと思われます。

 イエス様の故郷(ナザレ)の人々と私達の共通点

今日の新約聖書箇所では、ナザレの人々が、イエス様を人間としてだけ捉え、「救い主」として受け入れなかったと記されています。彼らは出来事を表面的に捉える目だけしか持っていませんでした。神様の預言を知らされていたユダヤ人ですから、神様の御言葉を信じて、人間的な見方にだけに縛られず、神様からの目をもっていたら、イエス様が実は「救い主」なのかもしれないと思えたかもしれません。主を知らされた人間は、自分の体験の奥に主の御心があるはずだという目を持たなければなりません。さて、私達の仙台南伝道所も福音伝道という主の御業のために立てられ、14周年を迎えました。私達は、主の御業を体験しているという点でナザレの人々と同じです。「教会」に招かれた体験を主の御業として受け入れ、「主が来られる」と言われた再臨の時を待ち望みましょう。

11月27日の説教要旨 「主を待ち望む」  平賀真理子牧師

イザヤ書215 マタイ福音書243644

 はじめに

今日から、キリスト教の暦では「待降節」または「アドベント」という、特別な期間に入りました。この期間、キリスト教会では、神様がこの世に救い主イエス様を送ってくださった恵みを感謝し、主が再びこの世に来てくださることを待ち望みつつ過ごします。本当のクリスマスの意味を知る私達は、主の御降誕を祝う「クリスマス」の前に、「アドベント」という期間を設け、救い主を迎えるのにふさわしい心を用意するのです。

 「終わりの時」

今日の新約聖書の箇所は、1ページ前の24章3節の弟子達の質問にお答えになったイエス様の御言葉です。36節の冒頭の「その日、その時」とは「主が来られて世が終わる時」(3節)を指します。聖書を奉じてきた民は神様が始められた「この世」には「終わりの時」があると考え、それが、いつ来てもいいように、その時の神様の裁きに堪え得る生き方をしたいと緊張感をもって生きてきました。だから、弟子達もイエス様なら「終わりの時」を御存じで教えてもらえると期待し、質問したのでしょう。ところが、イエス様は、それは天使も知らないし、神の御子の御自分も知らない、ただ、天に居られる神様=イエス様の父なる神様だけが御存じだと語られました。

 大きな出来事を突然受けるだけの人間

とすると、人間は大きな出来事である「終わりの時」を突然迎えることになります。そんなこと、実際にあるのでしょうか。しかし、イエス様は、人間の歴史の中で、突然「終わりの時」に襲われて、多くの人が滅んだ出来事が本当にあったことを想起させようとされました。「ノアの時の洪水」です。

 神に従う人「ノア」だけに訪れた救い

「ノア」と言えば、「ノアの箱舟」で知られている「ノア」です。創世記6章から9章までに「ノアの物語」が記されています。大きな洪水が起こったのは、人間が悪を思ったり行ったりすることが増え、神様が人間をお造りになったことを後悔され、人間を滅ぼそうとお考えになったからでした。しかし、ノアだけは「神に従う無垢な人」(6:9)だったので、神様がノアとその家族だけはお救いになりました。ノアの周りの人々は、この世での肉なる者として欲望中心に生きていたために、神様からの知らせを聞くことなく、何にも気づかずに突然「終わりの時」を迎えて滅びました。ノアは神様から知らせを受けていたために、突然でもなく、「終わりの時」に備えて、困難を乗り越える方法(箱舟を造って乗り込む)を神様に教えていただきながら、家族と共に滅びから救われました。この両者の違いを私達は認識すべきです!

 「神様の御心に従う心を眠らせてはならない」

だから、イエス様は「目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)と教えてくださいました。もちろん、肉体的に眠ってはならないのではありません。「神様の御心に従う心」を眠らせてはいけないということです。神様の御心は福音の中に、また、神様の御言葉の中に表れています。また、マタイ福音書24章44節には、主は「用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と語られていますが、何を用意するのでしょうか。それは「神様に向き合うのにふさわしい心、神様に素直に従う心」です。

 「再臨の時」に備えて

救い主イエス様は約2000年前に既にこの世に来てくださいました。そして、私達の罪を贖ってくださるために十字架で亡くなった後、復活され、そして昇天される前に「再びこの世に来てくださる」と約束されています。(使徒1:11) それを「再臨の時」と言いますし、世の終わりにその再臨の時が来ると伝えられています。先にも述べたように、それがいつなのか、当のイエス様さえ御存じないのだとすると、その重大な出来事を受けるだけの私達人間は、いつも「神様に従う心を大事にしていき、『終わりの時』がいつ来てもいいように歩むべきでしょう。

 「救い主」については預言されていた!

実は、ノアの時と同様、神様の御心に従う人々には、「救い」について何千年も前から預言され、旧約聖書に記されています。今日の旧約聖書の箇所もその一つで、「終わりの日」について預言されています。主の教え・御言葉が「ヤコブの神(天地を造り、「ヤコブ」を選んで人間を救おうと働く神)の家」から出て、全世界の民が従うようになり、本当の平和が訪れる希望が述べられています。

 「終わりの時」=「完成の時」

人間から見たら突然来る「終わりの時」は、実は、神様が御計画されてきた「救いの完成の時」です。イエス様の御降誕は救いの「完成の始まりの時」で、主の再臨の時が「完成の終わりの時」です。私達は、神様が人間を救おうとされる御業の完成の始まりと終わりの間の時に生きています。神様の御言葉を聞き続け、完成の終わりの時を待ち望みつつ、神の民としてふさわしい心を用意しましょう。

11月20日の説教要旨 「どこから来て、どこへ行くのか」 佐々木勝彦先生 (東北学院大学名誉教授)

マルコ福音書4192629

 はじめに

本日の収穫感謝礼拝の説教を依頼された時に、若い人達は収穫の経験があるのかと疑問に思いました。しかし、収穫の経験がなくても、今日の聖書箇所は、収穫のことだけを語っているのではないとわかります。このマルコ福音書4章を読んでいくと、人間の心の問題や人間の生き方の問題を例えているということがわかります。「収穫」とは勿論、自然の恵みのことを言っていると同時に、私自身の収穫について語られている、つまり、「私がどんな実を結ぶのか」ということが語られています。

 聞くための聖書

私達にとって聖書を読んでいるかが問題になりますが、元々、聖書は聞くものでした。聞くためには語ってくれる人が必要です。礼拝でも、聖書朗読が一番大事です。聖書を聞くことについて最近聞いたのですが、間もなく、新しい聖書が出るそうです。今の新共同訳聖書は、朗読されても、心に響かないと感じます。聞くに堪える聖書が求められています。私達は「聞く喜び」を求めています。人々は聞くことに飢えているのです。

 「種を蒔く人のたとえ」⇒「蒔かれた種」

マルコ福音書4章1節―9節は「種を蒔く人のたとえ」という小見出しがついていますけれども、なぜ、道端や石地や茨の中に落ちるように種を蒔くのでしょう。日本では、土を耕して種を蒔きます。しかし、イエス様が生きた地域「パレスチナ地方」の農法では逆に「種を蒔いて、土をかける」順番で種が蒔かれていたのです。この「種を蒔く人のたとえ」の話では、4章13節からイエス様の説明があるのですが、蒔かれた種が鳥に食べられる、その鳥とはサタンであると言われています。種を蒔く人の話から、蒔かれた種の方に話が移っています。更に読み進むと、石地だらけの土地に種が蒔かれたという表現があります。石地だらけとは「人の心」の状態の例えでしょう。石地だらけの土地に落ちた種が苦労するように「人間は苦しむ」ということを問題にしていると思われます。

 「サタンによって人間は苦しめられる」

人間の苦しみについて、サタンの仕業と考える場合が多いのですが、その「サタン」とは、私達人間を苦しめるものであり、人間の力を超える力を持っており、しかも人間を破滅させる力があり、人間から見たら「悪い」としか思えない存在と言えるでしょう。例えばパチンコにはまってしまう場合、それを聖書では「サタンが働いている」という訳です。人間の意志を越えて悪に引きずりこむ力を持つのがサタンと言われています。例にしたパチンコに最初にはまってしまう時、パチンコはその人にとって大変魅力的だったのです。「サタンは笑顔で来る」と言われています。

 苦しみに襲われる人間⇒「私はどこから来て、どこへ行くのか」

私事ですが、半年ほど前に、私達夫婦は住み慣れた仙台から広島へ行きました。仙台への未練を断つために仕事を辞め、家を売って広島へ行きました。私は信仰によって故郷を旅立った「アブラハム」になったつもりでした。ところが、広島で病気になって痛むために歩くのが困難になりました。新しい土地に来たのに、5か月間も外出できませんでした。そこで私の苦しみが始まりました。「自分は何をやっているのか?何かの罰か?」という疑問に襲われ、苦しみの原因を考え、「私はどこから来て、どこへ行くのか」をしみじみ考えるようになりました。

 「どこから来て、どこへ行くのか」を指し示すのが教会

外出できなくなる少し前に、広島のクリスチャンの会合に呼ばれて話をするように頼まれたので、来年迎える宗教改革500年記念に関する話をしようと提案しました。しかし、そこで拒絶に遭いました。今すぐにできる実践的な話をしてほしいと言われたのです。クリスチャンは、良い話を知っていて口で言うばかりで、実行しないという批判をよく聞きます。それで何か実践したいと思いがちです。それは正しいことです。しかし、もっと本質的な話、クリスチャンは「どこから来て、どこへ行くのか」という本筋を押さえた上で行う方が良いと切実に思いました。具体的に言えば、教会は福祉施設でしょうか?そうではありません。教会は、教会でなければできないことを大事にすべきです。私達は「どこから来て、どこへ行くのか」、その根っこを確認すべきです。「人間はどこから来て、どこへ行くのか」ということを、教会は指し示す役割があります。

 苦しみの中でも、神様の目で見つめる

今日の聖書箇所に戻ってみると、人間の苦しみについて、具体的に書かれています。人生とは思い煩いとの戦いであり、人間はお金(富)や権力、欲望との戦いに明け暮れます(仏教用語で「煩悩」と言い変えられるものです)。人間は思い煩いに負けてしまう時、良い土地にならねばならない!土地改良すべき!という目標を立ててしまいがちです。しかし、私はこう考えています。「自分は時には道端、時には石地、時には茨」と自分の状態をわかりながらも、「そんなことに目を止めなくてよい」と。それは今日の聖書箇所として挙げた2つ目の箇所「『成長する種』のたとえ」(マルコ福音書4章26節-29節)から わかります。土がひとりでに芽を出させるのです。人間は自分がどうかを見つめる傾向にあります。「隣人を愛しなさい」と言われるけれども、できない自分を見つめます。内側向きです。しかし、敢えて思い切って内側に向いている目を放し、外側から見る、つまり、私をお造りになった神の目で見ることをお勧めします。内側と外側が交差するところに人間が見える、それが「信仰」です。私が見ているのであり、同時に見られているのです。「信仰」とは複眼で見ることとも言えます。それがクリスチャンとクリスチャンでない人との違いです。クリスチャンは、自分の目と神様の目で見ることができます。「神様の目で見る」のは大変なことです。それを教会では、「聖書に聞く」、つまり、「神様の言葉を聞く」ことで行ってきました。別の言い方では、「私が読むことでもあり、読まれること」でもあります。見ることと見られること、これを合わせて、英語でhappening(出来事という意味)と言います。happeningが起こる、これが神様に出会うことと言えます。私が、聖書を、神様の御言葉を読んでいるうちに、実は、神様に読まれているとも言えます。

 「一粒の麦」

さて、聖書でもう一か所「種」と「麦」が出てくる話として忘れられないのが「一粒の麦」の話(ヨハネ福音書12章24節-26節)です。「一粒の麦」は死なねばならないと記されています。「一粒の麦」に例えられる私達は死なねばならないのです。「何のためにどのように死ぬのか」を考えなければならないでしょう。最初に述べたように、私達の人生は麦の収穫に例えられ、「実を結ぶ」ように求められています。先述した、私的な体験で、「私達は、このままでは実を結べない」と考え、「実を結ぶ」ために、自分達の年齢から推測して、働ける年数を「あと10年」と予想し、仙台に帰ってきました。「終わりの時」を考え始めたのです。「終わりの時」を考える時、人間は自分に何が出来るか、出来ないかを真剣に考え始めるのではないでしょうか。今まで話してきたとおり、信仰者は、土地は神様のものだと知らされています。土地が種を成長させてくれる、つまり、神様が私達「種」を成長させてくださると信じて感謝しつつ歩みましょう。以上

 

 

 

11月13日の説教要旨 「悪霊を追い出す力」 平賀真理子牧師

ダニエル書52228 ルカ111423

 はじめに

今日の箇所ではまず、イエス様が悪霊を追い出したことによって、口が利けなかった人が、口が利けるようになった奇跡が記されています。そして、群衆、その背後にいる反対勢力からの中傷と要求に対してのイエス様の御言葉が語られています。

 「ベルゼブル」

イエス様の御力がどこから来るかを反対勢力の人々は問題にし、その源は「ベルゼブル」と中傷しました。私達には耳慣れない「ベルゼブル」は、元々はユダヤ人に敵対してきたペリシテ人の町で崇められていた神々の一つだったようです。ユダヤ人の間では、いつの間にか、「異教の神」から変化し、「悪霊の頭」の名前として認識されていたようです。私達は、悪霊の頭と言えば「サタン」という名が思い浮かびますが、ここでは、私達は15節にあるとおり、「悪霊の頭」と受け取ればよいでしょう。

 預言されていた「救い主」の御業への中傷と要求

イエス様が悪霊から苦しめられている人から悪霊を追い出すことをたくさんしてくださったことが、福音書には書かれています。これこそまさに、イザヤ書61章1節に預言されている「救い主の御業」の一つ「捕らわれている人には自由を」の実現です。だから、口の利けない人が、イエス様の御業ゆえに口が利けるようになったことは、その事実だけでなく、それが「救い主」の証しだと多くの人が思い至り、驚嘆しました。それ以上に危機感を持ったのが、ファリサイ派という反対勢力の人々です。イエス様の御力は「悪霊の頭」から来ていると中傷し、また、試すために「天からのしるし」と見せてほしいと要求したのです。

 悪霊と「悪霊の頭」は正反対の働きはしない

反対勢力の心根を見抜かれたイエス様は、彼らの中傷の矛盾点を指摘なさいました(17節以降)。ある悪霊が頑張って一人の人間を思いどおりにしているのに、そのボスの「悪霊の頭」が全く逆の働き(悪霊を追い出す)をして、悪霊の努力を無駄にするはずがありません。イエス様は、悪霊やその頭が、神様に対抗して人間を支配して悪の国を作ろうと働いていることをよくご存じです。この世の出来事(最近の世界情勢)をみても、一つの国が正反対の働きをする派閥の抗争によって、勢力を失います。悪霊の国「悪の国」も同じことが言えると、イエス様は教えておられます。

 ベルゼブルの力で悪霊を追い出すという論理は、仲間からも訴えられる 

おまけに、ファリサイ派の人々の中には、悪霊払いをしている者達もいたのです。イエス様ほど完璧ではなかったのでしょうけれども、いささか実績があったことが、イエス様の御言葉の御言葉からも読み取れます(19節後半)。同じように悪霊を追い出していて、それがすべて「ベルゼブル」からの力なら、イエス様を中傷するファリサイ派の仲間達も「ベルゼブル」の力をいただいていることになります。「そんなことを言われた仲間は納得しないでしょう。それなら、わたしの力もベルゼブルからの力ではない」とイエス様は論理的に結論付けました。

 「イエス様の御力は神様から来ている」⇒「神の国はあなたたちのところに来ている」(20節)

イエス様はファリサイ派の中傷が非論理的で、誤りであることを指摘なさいました。更に発展させれば、「イエス様の御力は神様から来ている」という結論になります!悪霊を追い出す御力は、「悪霊の頭」からではなく、「悪霊の頭」を悠かに凌ぐ「神様」からいただいている御力です。御自分の憐れみによって神の御力をいただける、これこそ、神様から遣わされた「救い主」にしかできないことです。その救い主イエス様が「神の国はあなたたちのところに来ている」と宣言してくださいました!そして、この世は、22節にある「強い人」としての「悪霊の頭」の支配から、23節にある「もっと強い者」としてのイエス様の支配へとすでに移っていることが宣言されています!

 「神の指」

ルカ福音書では、イエス様は「神の指で悪霊を追い出している」と言われたとあります。「神の指」とは、人間の手やその指のように神様が働かれる譬えです。恵みとしては、天地創造の御業(詩編8:4)、十戒を石版に記した御業(申命記9:10)等が挙げられます。一方、神様の御心に従わない人々への災いとして「神の指」が働かれたと言われることもあります。出エジプト記8:15、ダニエル書5章全体がその例です。神様の御心に従えば恵み、従わなければ災いを賜わるのです。

 イエス様に味方し、一緒に集めるとは?

福音を信じる者がすべきことは、イエス様に味方し、主を信じる者を集めること、即ち、信徒が一同に会し、主に礼拝を献げることです!神様が大変喜ばれるのです!私達は勝利者イエス様を信じ、勇気を出し、信仰生活を続けましょう。

11月6日の説教要旨 「神の愛に捉えられた者」 平賀真理子牧師

イザヤ書5049 ローマ書831b39

 はじめに

「ローマの信徒への手紙」には何が書いてあるかというと、この手紙の冒頭(1:1)からこう言えます。「キリスト・イエス」についてです。次に、この手紙の筆者と宛先をお知らせしたいと思います。筆者は「パウロ」という人です。パウロは「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった(1:1)人です。また、宛先は、ローマにいる「キリスト・イエス」を信じる者達です。これも説明があります。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ(1:7)」です。神様が救い主をこの世に送ってくださることすら知らなかった異邦人であるローマ人の中で、イエス様が救い主であると知らされ、信仰を与えられた人々に、「救い主イエス様の恵み」を豊かに語っているのが、ローマの信徒への手紙です。特に、8章31節からは見出しのとおり「神の愛」について書かれています。

 神がわたしたちの味方である

8章31節-35節は、パウロが自問自答する形を取りながら、ローマの信仰者達に、「神の愛の恵み」を伝えています。31節bは信仰者達に敵対できる者がいるかを質問していますが、これは反語です。だれも敵対できる人はいないということです。32節はその説明です。人々の罪を肩代わりするため、イエス様は十字架にかかりました。それは、イエス様の「父なる神様」のご計画でした。神様は愛する御子を十字架で犠牲になさるほど、人々を愛してくださっています。神様が私達信仰者を本当に愛してくださる、大いなる味方である以上、敵対できる者がいるはずはありません。

 わたしたちを訴える者はいない

パウロは33節で、私達信仰者は神様に選ばれた者であると言っています。私達が神様に選ばれているなら、私達を悪者として訴えられるものはいません。人を「良し」として認めてくださるのは神様ですから、その神様が最初に選んだ者達=私達信仰者を訴えることのできる者はいません。

 わたしたちを罪に定める者はいない

私達信仰者の罪を糾弾する者もいないとパウロは言おうとしています。その説明がその直後に書かれています。キリスト・イエスについて、4つの説明があります。①死んだ方②復活させられた方③神の右に座っている方④私達のために執り成してくださる方です。①「死んだ方」とは、十字架で私達の罪を肩代わりするために命を犠牲にされた方という意味です。②「復活させられた方」とは、救い主としての定め=「十字架にかかって死ぬ」役割をイエス様が果たしたことに対して、父なる神様が栄誉として授けた復活を受けた方という意味です。③「神の右に座っている方」とは、2000年前にはこの世で人間として歩まれたイエス様も、今や、人間ではなく「神様」となられているという意味です。④「執り成してくださる方」こそ、イエス様の特徴です。イエス様は人間として歩まれたので、人間の弱さ・愚かさもよくご存知です。もし、私達信仰者を非情な裁判官のように裁く者がいても、主は人情ある弁護士のように執り成すのに充分な御力をお持ちである、安心しなさいと語られています。

 キリストの愛からわたしたちを引き離す者はいない

私達信仰者が信仰を失う原因となるものが、現実にはいろいろ考えられます。35節にあるとおり「艱難・苦しみ・迫害・飢え・裸・剣」など、つまり、権力者や社会からの圧迫や現実生活の厳しさによって、人間は次第に、もしくは一気に信仰を失ってしまいます。36節は詩編44編からの引用ですが、旧約聖書のある昔から、信仰故に苦しみを受けることを信仰者が神様に訴えている箇所です。しかし、です。その苦しみの数々、人間を信仰から遠ざける困難さに対して、私達信仰者は、もう既に勝利を収めているのです!イエス様の恵みによる勝利は、ギリギリの勝利ではありません。勝って余りある勝利、大いなる凱旋です。

 キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離す者はいない

38節-39節では、もう一度、信仰者を脅かすものが具体的に挙げられています。それらは、イエス様が人間として歩まれた頃、当時の人間達が、神様以外に恐れたものです。パウロは、当時の人々の恐れを知った上で、神様から選ばれて、その大いなる愛を受けている信仰者に対して、神様の愛の偉大さを思い起こし、何事も恐れず、キリスト・イエスの福音を信じるように勧めているのです。

 「神の愛に捉えられた者達」

本日は召天者記念礼拝です。私達の教会員で、先に召天された、平野武夫兄、石川進兄、佐藤博子姉を覚えます。この3人の方々は、「神の愛に捉えられた者達」であり、信仰を貫かれました。死の床にあっても、他の人々と違う、その姿で、私達の主キリストを証しされました。私達は、その信仰を継承したいものです。

10月30日の説教要旨 「わたしたちの立ち所」 倉松 功 先生(元東北学院院長)

ヨハネ福音書65263

 はじめに

私達の教会はプロテスタントですが、決して「新教」(新しい宗教)ではありません。日本では、カトリックは「旧教」、プロテスタントは「新教」と表しますが、カトリックが古代(4~5世紀)の教会から離脱していたのを、そこへ帰って行こうとするがプロテスタント、「新教」ではありません。

 宗教改革→プロテスタントの発足

プロテスタントは、今から499年前の1517年10月31日に発足しました。この日、ヴィッテンベルクのお城の付属教会の扉に、マルティン・ルターが95箇条の質問(問題提起)を打ち付けたことにより、宗教改革が始まったのです。それは、ローマ・カトリック教会(以下、ルターの使った「ローマ教会」と記す)の誤りを正そうとするものでした。それはローマ教会が販売していた贖宥券(通称「免罪符」)についてです。元々、「贖宥券制度」とは罪の償いの軽減のため、中世のローマ教会が案出したものでした。しかし、ルターの時代には、死後の煉獄での苦しみの軽減に及び、自分のためだけでなく、既に死んだ者のために販売されました。ルターが直接非難したのは免罪符販売の口実です。神父テッツェルは「免罪符を買った人の代金が箱に入れられ、チャリンという音がするや否や、罪赦されて魂は天国に行く」と宣伝しました。私達日本人は、神社やお寺でお賽銭を箱に入れてお参りするという光景を現代でも見かけます。似たような状況が、ルターが95箇条の問題提起をした時にあったのです。

 ルターが抗議した相手

更に、ルターの宗教改革は、カトリックが使命と考えてきた「宗教と政治を一つにする」ことに対する批判、抗議でもありました。カトリックは「救済の歴史を、政治においても信仰においても担うこと」が自分達の使命と考えていたのです。ルターの宗教改革は、このことへの抗議でもありました。カトリックの司教は、教会の監督であると同時にこの世の「領主」でもありました。だから、ルターの宗教改革は、カトリックの司教でもある領主達という、大変困難な相手に対する批判でもあったのです。

 ルターの宗教改革の遺産=「信仰のみ」「聖書のみ」

ルターの宗教改革の遺産は何といっても「(キリストを信じる)信仰のみによって救われる」ということと「権威の拠り所は聖書のみ」ということです。これに対して、カトリックは「聖書と伝統」、「信仰と伝統」、「信仰と行為」を根拠とし、大きく異なります。その「行為」とは、カトリック教会が当時決めていた行為、例えば、特定の教会への訪問や、秘蹟(サクラメント)のことだったりします。

 プロテスタントのサクラメントは2

サクラメントと言えば、カトリックは7つの秘蹟ですが、プロテスタントでは、その定義は「それ自体がキリストによって設定され、恵みを伝達するもの」、つまり、「聖礼典」のことであり、具体的には「洗礼」と「聖餐」の2つです。特に、「聖餐」についてはプロテスタントの幾つかの教派で、解釈の違いはありますが、私達の教会では、聖書の言葉を根拠に聖餐を行っています。聖餐について、聖書で語られている箇所は幾つかあります。今日の聖書箇所(ヨハネ福音書6:52-63)もその一つです。私達は、聖書の御言葉「これ(パン)はわたし(キリスト)の体であり、これ(葡萄酒)はわたし(キリスト)の契約の血である」を根拠に、聖餐を行っています。(参照:Ⅰコリント書11:23-26、ルカ福音書22:19-20等)

 ルターの宗教改革で特筆すべきこと

ルターの宗教改革で、他に特筆すべきことが幾つかあります。一つは「万人祭司」、つまり、すべてのキリスト者は、信者でも牧師でも同じように、祭司としての権威が与えられているということです。このことを、神学者のティリッヒや文学者のトーマス・マンは「宗教的民主主義」と言いました。また、「万人祭司」に対応して、ルターはこう主張しています。「領主は領民への奉仕者である。」

二つ目として、「信仰告白は、福音の伝道である」とも言われていることが挙げられます。このことは、今日の教会の伝道への励ましと受け取れます。

三つ目に、ルターのキリスト論「キリストは神であると同時に人である」「キリストは神性と人性を共有している」ということをお伝えします。これは、他の宗教改革者達(カルバン=「キリストの神性は人性の外にある。」ツヴィングリ=「キリストの神性と人性は交替する」)と異なっていますが、ルターは聖書そのものを根拠にそう説きました。私達は、ルターの遺産として「神学の根拠は聖書のみ」「信仰によってのみ救われる」ことを再び思い起こし、継承していきたいものです。

10月23日の説教要旨 「祈るときには ②」 牧師 平賀真理子

 歴代誌 1517 ルカ福音書11513

 はじめに

イエス様は、祈りを教えてほしいと願う弟子達に、まず、「主の祈り」を教えてくださり、御言葉として一つの形を示されました。その一つ一つの意味について、前回お話ししました(前週の週報の裏面をご参照ください。)。「主の祈り」には、イエス様の父なる神様への思いと、人間への憐れみが貫かれており、「主の祈り」は、その意味を理解して祈る必要があるし、また、そのように祈れることは大きな喜びです。

 「主の祈り」を献げる相手

「主の祈り」を献げる相手はイエス様の「天の父なる神様」です。その御方は、私達の祈りを確かに聞いてくださり、私達に必要な物を確かにくださる御方であることを、主は弟子達に更に教えようとされました。

 友人のためにパンをしつように頼む者の例え話

「主の祈り」の御言葉を教えてくださった後、イエス様は例え話をなさいました。「旅行中の友人に挙げるためにパンをください」と別の友人宅を夜中に訪れる人についての話です。

友人宅を訪ねる人をAさん、訪問された人をBさん、旅行中の人をCさんとしましょう。Aさんは、Cさんに一泊してもらうことになったのでしょう。急なことで、翌朝のCさんのパンがないことにAさんは夜中に気づき、願いを聞いてくれると予想した友人Bさん宅を訪ね、Cさん用のパンをくださいと願います。

しかし、Bさんの方では、たやすくAさんの願いを叶えてあげる余裕はありませんでした。それでも「しつように」頼んだ結果、やっと願いを聞いてもらえて必要な物を入手できたという話です。

 例え話からわかる「祈るときの真実」

この例え話から、父なる神様に献げる祈りに必要とされる2つのことがわかります。一つは「しつように頼めば」です。思い起こしていただきたいことは、ここは「祈るときには」の話です。Aさんは祈る人間の例えです。Aさんが頼ったBさんは、あまり親切でないように感じます。そんなBさんでさえ、「しつように頼んだ」Aさんの願いを叶えてくれたのですから、祈りにおいて「しつように頼む」ことが大切だということです。Aさんも「友人とはいえ、夜中にBさんを訪ねることが非常識だ。」とわかっていたはずです。それでも、自分でなく、友人Cさんをもてなすために、恥ずかしさを捨て、何度も熱心に訴えたのでしょう。祈る時には、その「しつようさ」が必要とされていると示されています。

もう一つは、願いをする相手のことです。例え話では、Bさんという、限界のある人間でした。そのBさんはAさんの「しつようさ」=「熱意」で動かされました。そうならば、愛情豊かで、限界のない、全知全能の天の父なる神様は尚更、人間の熱意ある祈りを叶えるように、実際に働いてくださる御方であるとイエス様は弟子達に教えてくださっています!私達日本人の多くは、祈ることはしますが、その相手が誰なのか、どういう方かは全く意識しません。実力のない相手、心の冷たい相手に頼んでも叶えられないことは、社会経験上、よく知っているのに、大事な祈りにおいて、相手に無頓着なのは不可解なことです。

 天の父なる神様の人間に対する愛

今日の箇所の後半部分(9節以降)は、天の父なる神様が人間にどんなに愛情を感じているかを主が伝えようとされておられる所です。人間の父親さえ、子供の欲しがる物、いや、それ以上の物を与える愛情を持っています。愛情の源である神様なら、尚更、主を求める者には、良いものを与えようと待ち構えておられると教えておられます。主を求め、熱心に祈る者に神様が与える最良のものが「聖霊」です。それは、神様の御心に自分の心を従わせようとする者だけが受け取れる「神様の霊」です。神様の周波数にアンテナを合わせなければ、神様の御心を知ることはできません。9節・10節は良く知られた御言葉ですが、対象が何かが問題です。「神様の御心」または「神様とのつながり」です。人間が、神様の御心やそのつながりを求め、探し、門をたたくことを神様は待っておられます。

 「祈りが聞かれるために」

自分では祈っているつもりでも、祈りが聞かれていないと感じる時があります。原因は幾つかあります。①自分中心の欲望が捨てきれていない=神様の周波数に合わせ切れていない場合、②いまだ「神の定めた時」でない場合、③神様がその人とのつながりを強めるために鍛錬している場合です。だから、私達は「主の祈り」を熱心に忍耐強く祈り続けて、主の弟子としての成長を願いましょう。

10月16日の説教要旨 「祈るときには ①」 牧師 平賀真理子

エゼキエル書204144 ルカ福音書1114

 はじめに

今日の新約聖書の箇所の中心は「主の祈り」です。私達が礼拝の度に共に祈る「主の祈り」は、マタイ福音書6章9節からの御言葉の方が、より近い形です。マタイの方では、イエス様は、それまでのユダヤ教指導者達の祈りは間違った祈りであると語られ、新しい祈りとして「主の祈り」を教えられたとあります。一方、ルカの方では、イエス様の弟子達が、自発的に祈りを教わりたいと申し出たとなっています。

 「主の祈り」についての2つの起源

「主の祈り」で、ルカ福音書とマタイ福音書で、言葉の上で相違があることについて、聖書の研究によると、それぞれに起源があるそうです。主の祈りを教わった弟子達が、その精神を確かに押さえながらも、御言葉はそれぞれに記憶し、それぞれが導いた教会に伝えたようです。イエス様は、ユダヤ教指導者達が律法を形式重視で教えていたことを正そうとされたので、御自分も同じ方針を取られるはずはありません。祈りの言葉を間違わずに言うという形式よりも、「祈りの精神」を弟子達は理解して尊重する姿勢が求められるでしょう。それは、当時の弟子達だけでなく、使徒の教えを継承している私達にも当てはまります。

 「主の祈り」の大きな特徴

「主の祈り」は、前半は神様に関する祈り、後半は人間に関する祈りが示されています。イエス様は、神様の御心が実現されることを第一のこととして歩まれました。十字架につくことが父なる神様の御心と知り、「苦しみは避けたい」という御自分の思いを脇に置き、命を犠牲にされました。その精神が「主の祈り」にも貫かれ、まず、「神様の栄光」を願い、次に、「神の民」としての願望に添った祈りが許されることを教えておられます。

 「父よ」

ルカ福音書に記されている「主の祈り」では、いきなり、「父よ」という呼びかけから始まっています。神様を「父よ」と呼べることこそ、イエス様が「神の御子」たるゆえんです。そう呼ぶことが、イエス様御自身と、イエス様を救い主と信じる者達だけに許されているというのが凄いことです!

 「御名が崇められますように。」

「御名」とは「神様の名前」に敬意を示したものです。聖書を奉じる世界では「名前」とは単なる呼び名ではなく、その方の全人格(本質)を意味します。聖書で証しされる神様がどういう御方か、その本質的な中身=御心を知って、それを第一のこととして尊重するというのが「御名が崇められますように」の意味です。聖書の神様はこの世の全てを造った御方であり、中でも人間を愛してくださる御方です。人間は自ら罪の世界に落ちたのですが、人間の苦しむ姿に、憐れみ深い神様は根本的に助けたいと思い、働きかけてくださる御方です。そのために救い主を送ってくださいました。救われた人間は、救ってくださった神様を賛美して祈ることが、その人間のまず行うべきことであると教えておられます。

 「御国が来ますように。」

「御国」とは「神の国」の尊敬語です。「国」は元々の言葉で「支配」という意味があります。但し、「支配」というと、人間の世界では権力者が力で強引に人々を押さえつけるイメージが強いでしょう。しかし、「神の支配」は違います。そこに入ることを許された「神の民」は、神様を全面的に信じ、神様の掟に喜んで従い、神様の愛に倣って隣人を愛することができる世界です。

 「必要な糧を毎日与えてください。」

この世で、人間として歩まれたイエス様だからこそ、人間が食料をはじめ、衣食住の充足が人間にとって、どんなに切実なことかを良く知っておられ、そのことをまず願うことを許してくださっていることに大きな感謝を覚えます。

 「罪を赦してください。」

「罪の赦し」こそ、神様だけがおできになり、人間は赦しをただ請うのみですが、全知全能の神様でも、人間の罪を支障なく赦せるわけではないことを私達は思い起こすべきです。自分に害を及ぼした人を許す時のような負担を、自分の罪の赦しで神様におかけしていることを思い知って、悔い改める必要があります。

 「誘惑に遭わせないでください。」

信仰者の全人格に挑戦するような出来事=「誘惑」が起こることがあります。人間の弱さを御存じのイエス様は、そうならないように神様に祈れると教えてくださいました。私達は「主の祈り」を祈れる幸いを想起し、益々祈りましょう。

10月9日 教会学校と合同礼拝の説教要旨 「聞いて行う人」 牧師 佐藤 義子

ヨシュア記241415 マタイ福音書7:24-27

 はじめに

 今日は神学校日です。毎年10月の第二日曜日は、神学校(牧師になるために聖書を勉強している神学生と教師)のためにお祈りする日です。 私達の伝道所の牧師である真理子先生も私も、聖書の勉強をして牧師になりました。私は高校生の時、いろいろ苦しいことがありましたが、そういう時はいつでも「神様、助けて下さい」とお祈りしました。すると神様は、私が困らないように助けて下さいました。何度もそのように神様が助けて下さるので、神様は私を本当に愛して下さっている、守っていて下さっていることがよくわかりました。それで私は、いつか神様の為に働きたいと思いました。その後、「神学校に行って聖書を勉強したい」と強く思いました。神様を知らない人達に、いっぱい神様のことを伝えたいと思ったからです。

 仙台南伝道所から

 私達の仙台南伝道所から神学校に行った人に遠藤先生がいます。遠藤先生は、この伝道所に通うようになって一年位した頃、神様を信じてクリスチャンになりました。その後、大学を卒業して会社に勤めていましたが、ある時、神学校に行く決心をしました。それは、遠藤先生のお父さんもお母さんも神様のことを知らないので、家族にも神様のことを伝えたいと強く思ったからです。そこで遠藤先生は会社を辞めて神学校に行き、今は群馬県の教会の牧師として、毎週日曜日の礼拝で神様のお話をしています。

 今も、私達の伝道所から神学校に行っているお兄さんがいます。加藤のお兄さんです。加藤のお兄さんは高校生の時、初めて聖書の神様のことを聞き、神様を信じてクリスチャンになりました。そして将来は神様の為に働きたいと考えたそうです。でも、長い間、社会に出て働いていました。五年前の大震災の時、加藤のお兄さんは、津波に遭った人達の家の修復のために、大工さんとして、又、通訳として働きました。その時、遠いアメリカやカナダから来たクリスチャンの大工さん達と一緒に仕事をするうち、外国の大工さん達が、神様のことを日本人に一生懸命伝えている姿を見て、昔、高校生の時、神様のことを伝えたいという気持が再び強く起こり、神学校に行く決心をしたそうです。

 又、今日、一緒に礼拝をしている由子お姉さんも、今、大学で聖書を学び、将来、神様のことを伝えるために準備しています。

 それから今日は、自分の生涯を神様に献げる人達が、多く与えられるように祈る日でもあります。神様のお仕事で一番大切なことは、神様を知らない人達に神様のことを伝えることです。たとえば、家族やお友達を教会に誘うことは、とても大事な仕事の一つです。

  神様はここにおられるすべての方の働きを必要とされています。

  賢い人と愚かな人

  今日の聖書では、賢い人と愚かな人が登場します。二人とも同じような家を建てました。ある時、雨が降ってきました。そのうち大雨になり、風も吹いて暴風となりました。そして川の水が危険水域をこえて溢れてきました。二人の建てた家はどうなったでしょうか。

 愚かな人の家は、雨と風と川の氾濫にあって、倒れてしまいました。けれども、賢い人の家は、雨にも暴風にも川の氾濫にも流されずに、しっかり建ち続けていました。

何が違っていたのでしょうか。見た目は 同じようでしたが「土台」が違っていたのです。倒れた家は砂の上に建ててありました。倒れなかった家は、岩の上に建ててありました。

  このたとえの意味

  この「家」とは、私達が毎日過ごしている私達の人生、私達の毎日の生活の積み重ねです。大雨、暴風、川の氾濫とは、私達が生きていく中で、出会う苦しい出来事、たとえば病気やケガや、失敗や、むつかしい人間関係や、試練とよべるさまざまな出来事のことだと考えられます。最終的には私達が自分の人生を終える時のことも考えられるでしょう。

 このお話でイエス様は、私達が建てている家の土台のことを考えるように教えておられます。あなたの毎日の生活は、土台が「砂」ですか。それとも「岩」ですか。「砂」を土台にしている人とは、イエス様の言葉を聞いても、何もしない人=愚かな人 ですと言っています。

右の耳から聞いて左の耳に抜けて、心には何も残らない人です。それとは反対に「岩」を土台にしている人とは、イエス様の教えを聞いて行う人=賢い人 と言われました。

 私達はみんな、愚かな人ではなく、賢い人になりたいですね。

ところが、私達は時々、イエス様の教えられたことを聞いても実行せず、行なうことはむつかしいと言います。そしてイエス様の教えを守れないのは、みんなもそうだし、人間は弱いから「仕方がない」とよく言います。

 「仕方がある」

 今から40年前に宣教師として盛岡に来たシュレーヤ先生が、盛岡の新聞に、「仕方がある」という題の文を書いています。引用しますと、「多くの方々は『仕方がない』という言葉をよく使います。今から60年前、私がまだ日本に来る前、私の叔父クックは、宣教師として山形に住んでいましたが、彼は日本に来て『仕方がない』という言葉を何度も聞きました。つまり、『体が弱いから仕方がない』『借金があるので仕方がない。』『仕事があんまり難しいので仕方がない』・・・叔父は、こういう言葉を何度も聞かされるので、大変憤慨(ふんがい)して、ある時『仕方がある!』と大きな声で答えたところ、聞いていた方々はみんな大笑いをしました。『仕方がある』という言葉は日本では使われませんが、叔父は、『もし、ほかの方法でやってみたら・・』『あきらめないでやってみたら・・』『必ずできる。心配ない』と、いつもそう思っていました。

 シュレーヤ先生も、クック宣教師と同じような体験をして、おなじように考えていました。どんなことにも理由があると言っています。たとえば、火事で友人宅が燃えた出来事がありました。延焼して古い立派な家はみな燃えてしまいました。でもコンクリートのお店は焼けなかった。火事が延焼したのには「理由があった」と書いています。

 イエス様の教えを聞いて行う人

 イエス様の教えは、高い理想が掲げられているような、それを行うのは無理。出来ないのは仕方がない。と、簡単にあきらめてしまいがちです。「裁いてはいけない」「赦しなさい」とイエス様の教えを聞きながら、私達は出来ない理由や、しようとしない理由をあげて、「仕方がない」「しょうがない」と、自己弁護や自己正当化していないでしょうか。時には、まともに自分のしたことを見つめる勇気がなく、「仕方がない」という言葉に逃げてしまうこともあるように思います。

  行う人になるには・・・

  イエス様は、イエス様の教えを「聞いて行う人」になるように言われます。初めから無理なこと、出来ないことをイエス様は命じられません。必ずできる道が備えられています(開かれています)。

  もしも「本気」で、岩を土台とした家を建てたい、イエス様に従っていきたい、と願い、実践していこうとするならば、その過程(プロセス)の中で、自分が全く、イエス様の教えに従うことが出来ない人間であることを、改めて知らされます。「裁いてはいけません」というイエス様の教えの前に、それを守れない自分を発見します。本気で従おうとやってみるのです。すると自分が考えていた以上に、自分がだめな人間で、御言葉に従い得ない人間であることを発見(心の底から実感)するのです。その時初めて、自分がどんなに神様から遠く離れて生きてきたかを思い知らされます。そこで初めて、神様に自分の心のすべてを明け渡して、い改めの祈りをささげることができるようになるでしょう。

 神様から送られてくる力

 本当の自分の姿を知らされることから、土台作りは始まります。砂ではなく、土を掘っていき、土台とすべき硬い岩盤にぶつかります。その岩こそ、イエス様です。私達は、自分の本当の姿を知らされて、神様に悔い改めの祈りをささげる時、神様から赦されて、今度は、自分の中に自分の力ではない、神様から送られてくる力が働き始めます。すると、今まで許せなかったことを許すことができるようになり、今まで無理だ、仕方がない!と思ってきたことも、宣教師の先生たちのように「仕方がある」という生き方に変えられていくのです。ここにいるすべての人が、岩の上に家を建てる賢い人になれるよう、ご一緒に祈りましょう。

10月2日の説教要旨 「必要なこと」 牧師 平賀真理子

詩編274  ルカ福音書103842

 はじめに

今日の新約聖書の話に出てくるマルタ・マリア姉妹については、ヨハネ福音書11章から12章前半に、別の話が記されています。この姉妹にラザロという兄弟がいて、イエス様が一度死んだラザロをよみがえらせるという奇跡をなさったという内容です。その中で、この姉妹の出身地はベタニアだとあり、その村はエルサレムから15スタディオン(約3㎞)という近さにあると記されています。

 十字架が間近であるという大前提

今日の箇所の少し前(9:51)に書かれているように、イエス様は「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」のです。つまり「十字架にかかる」日が近いということです。この世に存在する日々の終わりが見えてきた中で、イエス様の言動は大事なことに集中しています。それは、福音を一人でも多くの人々に伝え、神様の御心を知って行う「神の国の民」を増やすことです。

 イエス様一行をお迎えしたマルタとマリアの対照的な様子

ベタニア村のマルタという女性が、イエス様一行を迎え入れました。(マルタが姉、マリアが妹と推測されています。)マリアは、姉の決断の恩恵を受け、イエス様のそばでお話を聞くチャンスに恵まれました。

一方、姉のマルタはイエス様だけでなく、弟子達の分までという大勢の人々の接待のためにすることがたくさんありました。旅人の手足を洗うための水の用意、飲み物の用意、調理用の食材や水や火の調達・準備等、一人でも多くの助けを借りたかったでしょう。マルタが、そばにいても手伝わないマリアを見て、苛立ちを感じたのには同情を禁じ得ません。

 マルタの言動の問題点

それでも、マルタの言動には問題点が無いとは言えません。

一つは、大事なお客様であるイエス様に、自分の不満を訴えている点です。マリアに手伝いを直接頼むか、または、お客様が帰った後、注意する行動をとってもよかったのではないでしょうか。マルタは自分でイエス様を迎える決断をしたのに、周りから評価されたくて、もてなしを頑張りすぎていたのでしょう。助けを素直に求めればよかったのに、そうできず、イエス様の権威を借りて、妹を自分の意のままに動かそうとしたのかもしれません。

マルタはイエス様に呼びかけた時、「主よ」と言っています。これは、イエス様を「救い主」と理解していることを表しています。にもかかわらず、畏れ多いことに、イエス様の態度に対しても責めているというのが第2の問題点です。妹が話に聞き入っていることについて、自分の窮状に気づかないように見えたイエス様をも責めています。マルタは、自分で背負い込んだ、目の前の苦労の中で自分を見失い、本当に価値のあるもの=救い主との出会いを与えられたことへの感謝を忘れています。自分の窮状に捕らわれ、神様の恵みを見失い、「自分を助けてくれない」と神様を責めています。罪深い人間の一つの姿と言えます。

第3の問題点は、救い主を第一として行動していないことです。マリアだけでなく、マルタも、実はイエス様のそばに近寄ったのですが、他の用事のついでに、立ったまま、イエス様を見下ろし、自分の言葉を主に押し付けているように読み取れます。十字架に向かう主を理解し、敬愛しているようには思えません。

 良い方を選んだマリア

一方、マリアは、主の十字架への決意を感じ取ったのでしょう。イエス様を仰ぎ、主の御言葉を今後の人生でも守って生きる掟として、心の中に据えようと聞いています。それこそが、十字架を目前にしたイエス様が人々に望まれた働き、「奉仕」です。42節「マリアは良い方を選んだ」の「選んだ」は多くの選択肢から、本人が選び出したという意味です。他のどんなことを差し置いても「主の御言葉を聞く」のを選ぶことこそ、主が信仰者に求めている第一のことです。

 「主の御言葉を聞く」=「全身全霊で神様を愛すること」

この話の直前には「善いサマリア人」の話が置かれています。イエス様のこの例話が素晴らしいので、「自分が隣人となるために、助けの必要な人のところへ行く」ことを信仰者は目指すと思います。しかし、その段落の最初にもあるとおり、信仰者の大前提は「全身全霊で神様を愛すること」です。その具体的な行動として、他のことに惑わされず、「掟として、主の御言葉を聞くこと」を第一のこととすべきであると示されています。礼拝で御言葉を聞き、聖書を読んで御言葉を求める、これこそが、全身全霊で神様を愛することの証しなのです。