2021年2月7日の説教要旨 列王記下5:1-14・Ⅱコリント12:1-10

*はじめに 

 本日の旧約聖書では、アラム(シリア)の王の軍司令官、ナアマンが登場します。彼は地位も名誉もありましたが、重い皮膚病にかかっていました。レビ記には「『わたしは汚れた者です。』と呼ばわらねばならない。・・・その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」と記されていて(13:45-46)、当時は、不治の病と見なされていたようです。 ナアマンの妻の召使いで、イスラエルから捕虜として連れてこられた少女が「サマリアにいる預言者を訪ねれば、ご主人の病をいやしてもらえるでしょう」と妻に告げると、ナアマンはその話をアラムの王に伝えました。王はイスラエルの王に、「ナアマンの重い皮膚病をいやしてほしい」との手紙を書いてくれましたので、ナアマンは沢山のみやげの品々を準備して、イスラエルの王を訪ねました。

*イスラエルの王

 イスラエルの王は、アラムの王からの手紙を読むと、「私が神だとでも言うのか。彼は私に言いがかりをつけようとしている」と言って激しく怒り、衣を裂きました。それを聞いた預言者エリシャは、イスラエルの王のもとに人を遣わして「その男を私の所によこして下さい。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」と言いました。

そこでナアマンは、戦車に乗ってエリシャの家の戸口に立ちました。

*預言者エリシャとナアマンとナアマンの家来達

 ナアマンはエリシャと直接会うことで、彼の真剣な気持をエリシャに理解してもらえるだろうと思っていたに違いありません。しかしエリシャは彼の前に姿を現さず、使いの者に「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」と言わせました。ナアマンはひどく怒り、言いました。「エリシャが自ら出て来て私の前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた」と。しかも彼はヨルダン川の水よりももっと良い水の川があるのを知っていました。彼は、憤慨しながら去って行きました。ナアマンのプライドがズタズタにされた様子が伺えます。 

しかしナアマンの家来達は彼をいさめて、「あの預言者が大変なことを命じたとしても、あなたはその通りなさったに違いありません。あの預言者は『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」と言いました。ナアマンはエリシャの言われた言葉を信じて、ヨルダン川に行き、7回、身体を浸しました。すると彼の身体は元に戻り、小さい子供の体のように清くなりました。(5:14)

*信仰

 ルカ福音書に「預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかは誰も清くされなかった。」(4:27)とのイエス様の言葉が記されています。ナアマンの、「いやされたい」という真剣な気持と「預言者の言葉を信じる信仰」の持ち主が、エリシャの時代にいなかったことが分かります。信仰は、私達が心に残る神様の御言葉や、本当の神様に出会った時から始まります。

私達が苦しみや困難な状況に置かれている時、「神様は私の祈り、願いを聞いて下さらないのか。・・」と神様に呟(つぶや)き、失望したことはないでしょうか。そのような時、それは私達の側に神様が働くことの出来ない何か、私達が握りしめて手放すことの出来ないものがあるからだと思います。パウロは使徒言行録で「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(16:31)と言いました。パウロは主イエスを信じることの大切さを教えているのではないでしょうか。

本日の新約聖書でパウロは、身に「一つのとげ」が与えられたと記しています。おそらく伝道旅行中にかかった病気のことだと考えられます。パウロはこの病を通して、霊的に強められ、自分自身の弱さの中で神様の恵みに頼ることを知ることができました。そして何よりも「神様の力は弱さの中でこそ十分に発揮される」ことを体験しました。神様は私達にどんな所を歩ませようとも、必ず共におられ私達を助け出すお方です。神様は私達の祈りを知り、聞いています。落ち着いた心で神様が私達になさろうとしていることに喜んで耳を傾け、歩んでいきましょう。

2021年1月31日の説教要旨  列王記上8:22-30・Ⅰコリント3:10-17

「神の神殿」     加藤 秀久伝道師

*はじめに 

ソロモン王は、主の契約の箱(十戒の石板が入っている)を置く住まいとして主の家・エルサレム神殿を建てました。王になって4年目(紀元前966年頃)に始まり7年かけて完成しました。新しい神殿に納められた主の箱は、厳粛な儀式と共に「ダビデの町・シオン」に置かれていた天幕の中から運び出され、主の箱だけではなく臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて運びだされ、予定されていた所に移されました。

主は、神殿を建てるのは父ダビデではなく、息子ソロモンが神殿を建てると告げられていました(8:17~参照)。 本日の聖書は、その約束が実現して、ソロモン王がイスラエルの全会衆の前で主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして感謝の祈りをささげているところから始まります。

*祈る姿勢

父ダビデは、「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。命のある限り、あなたをたたえ手を高く上げ、御名によって祈ります」(詩編63編)と祈っています。このように神様に両手を上げて祈る行為は、天におられる父なる神様に向けて、私達自身がすべてを明け渡し、従うことを表していると思います。

*神様は地上にお住まいになるか?

ソロモン王は、祈りの中で、神様がこの地上の限られた空間である「神殿」に果たして住まわれるのか(8:27)と問うたことに対して、主は9:3で、「私はあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこに私の名をとこしえに置く」と仰せになっています。(申命記12:11には、礼拝の場所を、「あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所」と記され、イエス様もエルサレム神殿について、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」(マタイ21:13・イザヤ56:7)と引用されていて、神殿のその持ち主は「神様」であることが分かります。

エルサレムの語源には「シャレムの神の基礎」・「平和の基礎」のいずれかの意味があり、ここに神様に向かって礼拝する場所が出来たのです。

*コリントの教会

コリント教会は歴史が浅く、信徒達の信仰や霊的状況が未熟だったため、神様が第一ではなく、イエス様のことを伝えた伝道者に目が注がれ、「私はパウロにつく」「私はアポロにつく」など、信徒の間に分裂が起きていました(1:12)。そこでパウロは、人々の信仰を成長させて下さるのは、伝えた人ではなく神様の言葉に真理があることを述べて、

私達は神のために力を合わせて働く者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。」と伝えています(3:9)。

*教会の働き

そうです。教会は一人の力では限界があり、大きな働きは出来ません。私達は神様の畑です。神様は私達に「み言葉」という種を蒔き、育てて下さり、実り豊かな作物を生み出そうとしておられます。私達は神様のために力を合わせて働く者達の群れ、共同体です。

*教会の土台

パウロは、「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです(10節)」と記しています。パウロは、イエス様が人々の罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に甦って、すでに教会の土台に据えられているのだから変更はできないとしています。そして、12節以下で、主は火によって、私達が土台の上に建てる仕事を吟味されると教えています。

さらに、教会の信徒達は「神様の宮」であること、神様の霊が私達の心に住んでいて下さるので、そのような人々の交わりに、不和、争い、分裂を持ち込む者達は、聖霊の働きを弱め、教会を破壊し、最後には神様によって滅ぼされる(3:17)ことを告げています。

私達は罪赦されて、神の神殿とされた者達です。ですから私達はイエス様のことを告げる、生きた証人として、この世へと出ていきましょう。

2021年1月17日の説教要旨 サムエル記上3:1-10・ガラテヤ書1:11-24

「キリストの弟子」    加藤 秀久伝道師

*はじめに 

神様は私達に呼びかけています。私達の心の中にある、心に宿っている霊に向けて、呼びかけています。それはサムエルのように寝ている時かもしれません、もしくは夜明け前かもしれません、それとも私達が静まり、神様に心を向けている時かもしれません。

*主の呼びかけ

サムエルは乳離れのあと、母ハンナから離れて祭司エリに仕えるようになりました。サムエルが少年に成長した時のことです。祭司エリは年をとり、目はかすみ、「神殿」でなく自分の部屋で床に就いて休んでいました。「神の箱(十戒の石板が納められていた)」が置かれている神殿の ともし火は、消えることなく灯しておかねばならず、少年サムエルは神殿で寝ていました。すると、主はサムエルを呼ばれました。サムエルはエリに呼ばれたと思い、エリのもとに走り「お呼びになったので参りました」と言いました。

しかし、「わたしは呼んでいない。戻ってお休み」と言われたので戻って寝ました。が、この後も、主は三度もサムエルを呼ばれました。

*主の語られる言葉を聞き分ける

この当時、主の言葉がイスラエルの人々の間に臨むことは少なく、幻が示されることもまれでした。なぜ主は人々に対して語ることをやめてしまったのでしょうか。それは人々が主の前に悪を行い、主の言葉に耳を傾けず、主が何かを語ったとしても人々の心が閉じてしまっており、主のささやく言葉を無視するようになってしまったからではないでしょうか。

しかし主は、サムエルに呼びかけられたのでした。

私達はどうでしょうか。霊的にも疲れていて神様との関係がおろそかになっている時には、神様のささやかれる言葉を聞き分ける力が低下しています。私達が神様と個人的な関係を保つためには、日々の生活の中で神様の言葉である聖書に向き合い、その語られる言葉に集中し、神様が私に何を伝えようとされているのか、心を神様の方へ向けなければなりません。

*主への応答

エリは、サムエルが三度も自分のもとに来たので、主がサムエルを呼ばれていることを悟り、「又、呼びかけられたら『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」と伝えました。そのため主から再び呼ばれたサムエルは教えられた通り、「どうぞお話し下さい。僕は聞いております」と答え、主からこれから起こることを聞きました。

*パウロの伝道

本日のガラテヤ書は、ガラテヤ教会に偽りの福音が入り込んで影響を受けていたので、パウロは自分が体験した本当の神、真実の神について宣べ伝えているところから始まっています。

パウロとイエス様との出会いは、天からのまばゆい光の中から、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(サウル=パウロ・使徒言行録9:4)と、名前を呼びかけられたことから始まります。それはパウロにとっては思いもよらないイエス様との出会いであり、その時から彼の人生は変わり、伝道者へと導かれていきました。パウロの伝道は、自分が体験し受けた教えを素直に自分自身の言葉で表現して、何が正しく何が悪いかを神様からの霊によって見分け、「神様」と「イエス様」というお方がどのようなお方かを人々に伝えていく、という伝道です。

ガラテヤの人々も、パウロから、救いをもたらす神様の言葉に出会い、信じる者へと変えられていきました。それはガラテヤの人々が、パウロの中に、生きた神様を見たからではないでしょうか。

*わたしたち

私達も又、サムエルやパウロの体験と同じように、人の声ではなく、神様からの語りかけを聞くことから始まり、イエス様を受け入れて信じた時からイエス様が心の中に住んで下さるようになりました。イエス様は今日も私達の名前を呼んで、私達に必要なこと、私達がするべきことを語りかけて下さっています。私達は、聖霊の助けにより頼み、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と、主の語られる言葉を聞き分けて、神様の御心を知ることが出来るように祈り求めて参りましょう。

2021年1月10日の説教要旨 ゼファニア書3章・マタイ福音書5:12

「讃美と喜び」    佐藤由子伝道師

*はじめに 

ゼファニア書は厳しい裁きの言葉で始まりますが、この3章も又、「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。」と、主に反抗する人々への叱責の言葉から始まっています。そして人々を導く役割を担う人々さえも神様に従わず、神様を信頼せず、神様に近づこうとしない、神様への反抗の罪を繰り返していることが記されています。私達の今の世界も、神様から遠く離れたところを歩いているように思います。神様が望んでおられる世界、神様が喜ばれる道を忘れてしまったかのような選択を繰り返しています。神様を畏れ敬う姿を、どこで見ることができるのでしょうか。

*罪の根源

罪とは神様に反抗することです。なぜ人間は、神様に反抗するのでしょうか。神様が与えて下さる日々が、私達の思い描く人生と違うからなのか。神様が忍耐して待ち続けて下さることに甘えているからなのか。もはや人々は、神様の声を聞くことをやめてしまったのでしょうか。

神様は、人々が神様を畏れ、戒めを受け入れることを期待して待ち続けておられます。それにもかかわらず人々は堕落を重ね、悪事を行いました。信仰は形だけとなり、人々の心も行動も神様からは遠く離れています。

*悪を裁かれる神

それゆえ神様は裁きを実行され、「わたしの熱情の火に(地上は)焼き尽くされる。」(3:8)と言われます。神様は人々に、何度も何度も警告してきましたが、人々はその警告を聞こうとはしませんでした。私達は神様の警告を聞いているでしょうか。私達は自分に起こる出来事だけではなく、世界に起こる出来事も、神様から人間への語りかけであることを覚え、その御心を問い、祈ることを忘れずにいたいと思います。私達は自らの悔い改めだけではなく、とりなしの祈りの使命も与えられているからです。

*わたしたちの祈り

 祈りは必ず応(こた)えられます。そして祈りの先にこそ、希望があります。「その後、彼らは皆主の名を唱え、一つとなって主に仕える」(9節)とあるように、神様は再び人々を聖め、人々は再び神様を礼拝するために呼び集められます。人々が犯した過ちも罪も赦されたのです。 

私達も罪が赦されて主によって新しくされる時、大胆に神様の前に近づいて良いのです。私達は再び主に礼拝を献げる者とされ、主を讃美することが出来るのです。もはや私達を おびやかす者は誰一人いません。神様ご自身が私達を招かれているのです。

*喜び叫べ。歓呼の声をあげよ。心の底から喜び躍れ(3:14)

 この言葉は神の民への呼びかけであり、教会への呼びかけでもあります。主に連なる者たちは、全身全霊で、全力で喜びなさいと語られています。この「喜びの源」となるものは何でしょうか。それは、「王なる主である神様が、私たちと共におられる」からです(15節・17節)。 

自分の置かれている状況が良くない時さえも、主なる神様が私達と共におられることを覚える時、私達は喜ぶことができるのです。この世界を創られ、全世界を支配しておられる神様が、全ての事に勝利を与えて下さる神様が、私達のただ中にいて下さる!ということにまさる喜びはありません。

*「喜びなさい。大いに喜びなさい。」(マタイ5:12)

本日の福音書でも、喜びなさい。大いに喜びなさい。と、喜ぶことが強調されています。イエス様に従うということは必ずしも良いことだけではなく、従うがゆえの苦しみも又、あります。しかし、その苦しみや迷いの中にあっても、天に目を向けて生きる時、私達は喜ぶことができます。そして私達がイエス様に従う道を選ぶ時、私達の報いは、この地上ではなく、天に用意されます。私達は、毎週の礼拝において、この恵み、この約束の み言葉を覚えて、大いに喜び、神様を讃美し、ほめたたえたいと思います。そして、主を喜ぶことで力を受けたいと思います。主なる神、王なる神様が私と共にいてくださる。・・これは奇蹟以上のことです。 今週も、御言葉に励まされて、主の約束に期待して、大いに喜び、共に祈りつつ歩んでまいりましょう。

2020年12月20日の説教要旨     ルカによる福音書 2:8-20

クリスマス礼拝   「喜びの知らせ」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」天使ガブリエルは、羊飼い達に現れて、こう告げました。

 本日はイエス様の誕生をお祝いする礼拝を守っております。イエス様は、約2000年前、この地上にお生まれになりました。ある宿屋の家畜小屋の一角で産まれ、飼い葉おけの中に寝かされておりました。それはどの宿屋もいっぱいで泊る所がなく、やむを得ず家畜小屋に泊ったのでした。

天使ガブリエルのお告げを聞いた羊飼い達は、ユダヤの町ベツレヘムにごく近い郊外で野宿をしていました。町から離れて、羊の世話をするのが彼らの仕事でした。羊飼い達は、世間からは軽蔑されていて、おそらく存在の薄い者たちだったと考えられます。

*主の栄光が周りを照らした(9節)

 そのような羊飼い達に、主の天使が近づいて主の栄光が彼らの周りを照らして、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言いました。かつて、モーセが神の山シナイ山で神様と出会った時、厚い雲の中から突然強い光が差したような、人が立っていることが出来ないような、霊の力を伴う主の栄光の前で、羊飼い達は、強く押し迫られるような感覚に襲われて、非常な恐れを感じたと思います。

*天使ガブリエル

天使ガブリエル(神の前に立つ者の意)は、イエス様の誕生を知らせる以前にも、洗礼者ヨハネの父・祭司であったザカリアに現れています。

ザカリアが祭司の務めで香をたいていた時でした。ガブリエルは香壇の右に立ち、ザカリアに「ヨハネ誕生」という喜びの知らせを伝えました。しかし、ザカリヤはこの知らせを信じることが出来ませんでした。ザカリア夫婦は年をとっていたからです。その不信仰のためザカリヤはヨハネ誕生まで話すことが出来なかったとルカ福音書は伝えています。

*目に見える「しるし」

民全体に与えられる大きな喜び」を先に知らされたのは、存在の薄いとされる羊飼い達でした。天使は続けて冒頭の言葉(11-12節)を伝えました。メシア(油注がれた者・救い主)が生まれた知らせでした。この神様の言葉を彼らはどうやって信じることが出来たのでしょうか。羊飼いに示されたしるしは「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」でした。 ヨハネの父ザカリアは、天使の言葉を信じることができず、約束の実現まで「口がきけなくなる」しるしを与えられましたが、羊飼い達は、天使に告げられた言葉の後に、突然、この天使に天の大軍が加わり「『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』との賛美を聞きました。羊飼い達はこのことを目の当たりにし、メシア誕生が事実であることを確信することが出来たのではないかと思います。羊飼い達は天使が去った後、主が知らせて下さった出来事を見に、急いでベツレヘムへ向かい、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。そしてこの光景を見て、羊飼い達は天使が話してくれたことを人々に知らせました。

*わたしたち

この知らせを聞いた人達は不思議に思い、理解できない様子でした。しかしマリアは、これらの出来事をすべて心に納めて、いろいろ考えていました。私達もクリスマスの出来事に目を閉じて深く静かに思いを巡らす時、見過ごすことのできない何か大切なものがあること、本当の真理がここにあることに気付かなければならないと思います。羊飼い達は、ことのあまりの素晴らしさに心を踊らされて喜びに満ち、賛美しながら帰って行きました。神様が自分達に目をとめて下さり、救い主の誕生を知らせて下さった喜びこそ、私達に与えられた「クリスマスの喜び」です。この喜びの知らせを信じるか信じないかは生きる者の選択にかかっています。私達はこの喜びの知らせを聞き、イエス様の誕生を待ち望み、この場所へ導かれました。共にこの日を喜び、祝おうではありませんか。

2020年12月6日の説教要旨 イザヤ書43:16-19・フィリピ書2:12-13

<礼拝開始18周年記念感謝礼拝>

      「荒れ野に道を、砂漠に大河を」   佐藤義子牧師

*はじめに 

 教会のないところに教会が生まれる。それは人間の力の及ばない神様のみ業です。神様をこの目で見ることは出来ませんが、神様の み業(わざ)をこの目で見ることが出来ます。仙台南伝道所は2002年12月に佐藤博子姉の応接間をお借りして第一回目の礼拝が捧げられて始まった開拓伝道です。今日は、週報にありますように941回目の礼拝です。この18年間、一度も途切れることなく礼拝を守り続けられたことは、ただただ神様の大きな恵みと導きと深い憐れみがあったことを思い、心から感謝致します。

 神様の天地創造の業(わざ)は「光あれ」との言(ことば)から始まりました。そこには神様の御計画があり、すべては無から有が生み出されていきました。教会も同じです。無から有を生み出される神様は、聖霊を受けた弟子達を通して、御言葉を聞いて信じた人々の群れを生み出し、「教会」という信仰告白共同体がつくられました。

*開拓伝道

私の母教会(東京の大井バプテスト教会)も開拓伝道から始まりました。

軍国主義の時代、暴力団の人達も町をうろうろして伝道の邪魔をしたり、警察もクリスチャンを国賊扱いしていた時代でした。その様な中で牧師は町に出て行き(路傍伝道)、身体を張った命がけの伝道をされました。

説教の中心は「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)であり、又、「神が私達の味方であるならば 誰が私達に敵対できますか」(ロマ8:31)でした。さらに沢山の御言葉を聞いて育てられましたが、本日のフィリピ書「あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神である」もその一つです。これは私達が望む希望は、自らの心で考え出したのではなく、神様の御心(御意志)が私達に、そのような「こころざし」を与えておられる。しかも実現に至らせて下さると言っています。

*神様から与えられる「こころざし」と「実現への道」

 私達は、私達のこころざしが、神様の御意志でもあることを、どのようにして知ることが出来るのでしょうか。それは直前の12節後半に記されています。「従順でいて、おそれおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。「従順」はイエス様がお手本です。「おそれおののく」は、私達の生と死がすべて神様の御手の中にあることを自覚して、神様の前に身をかがめて服従すること。「自分の救いを達成する」は、神様が与えようと用意されている恵みに、すべて与(あずか)ることです。

*神様の言葉

本日のイザヤ書は39章までの著者と区別されて、第二イザヤと呼ばれる無名の預言者(40章から55章までの著者)の預言です。時代はイスラエルの民が戦争に負けて、捕虜として遠い異国の地バビロンに連行され、捕囚民としての不自由な生活を約半世紀近くも強いられていた時です。そのような状況の中で第二イザヤの預言の声が響きます。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる」(18-19)。

これは、イスラエルの民が過去の歴史を持ち出して今ある自分達の置かれた状況を憂えていることに対し、「過去の出来事に執着するのをやめよ。新しいことをわたしは行う」と語っています。予想されることも期待されることもなかった新しいこと。やがて彼らは長い道のりを経て捕囚から解放へ、エルサレム帰還と神殿再建への道へ導かれていきます。

*私達の信仰

私達の中に起こる「こころざし」が神様のお働きからくる時は、それを実現して下さるのは神様です。仙台南伝道所は開拓伝道の志が与えられた時、神様が荒れ野に道を敷き、会員が与えられ、奏楽者が与えられ、会堂が与えられ、さらに献身者も与えられ、思いをはるかに越える多くの恵みと導きが与えられました。神様は今日も「わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる」「今や それは芽生えている。」と私達を,これから起こる神様の御業(みわざ)へ目を向けさせ祈りを起されます。

2020年11月22日の説教要旨 申命記11:13-21・使徒言行録14:8-18

「喜びで満たす神」     加藤 秀久伝道師

*はじめに 

本日の申命記には、イスラエルの民が存続していくには神様の命じる戒め(=主に聞き従い、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして主に仕える)がありました。この戒めはイスラエルの民の、神様に対する忠誠を尽くす言葉にもなっていました。彼らは、時には神様に不平を言い、神様に背き、しくじり、自分達の存在意義も見失い、途方に暮れた時もありましたが、出エジプト後、 イスラエルの民は,荒れ野を40年間 さ迷いながらも、主に従い続けることによって神様からの守りと導きにより、一つの民族として存続し続けることが出来ました。それは、彼らが神様によって愛され、選ばれた民だからでした。

*カナンの地に住み続け、祝福を受ける道

モーセはカナンの地を目前にして、イスラエルの民に、カナンの地がエジプトと違ってどれほど美しく良い土地であるかを伝えています。そしてイスラエルの民が、このカナンという とても豊かな土地に住み続けるためには、主に誠実であり続けることがどれ程までに重要で、必要なことであるかを伝えています。さらに、民が心変わりして主を離れ、他の神々に仕え それにひれ伏すことのないように警告しています。 彼らの心に刻まなければならない言葉は、主の戒めを守り、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして主に仕えることでした(申命記6章)。そうすることでイスラエルの民は、神様からの沢山の祝福を受けて栄えることが出来たのでした。

*わたしたち

 私達の心の中は、主の戒めを守り、主に聞き従い、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主を愛しているでしょうか。主の語られる言葉を心に留め、魂に刻み込み、信仰の糧としているでしょうか。どこかで罪の誘惑に負けて、主から目を離してしまっていないでしょうか。

*リストラでの出来事

パウロとバルナバが伝道旅行でリストラに行った時、生まれつき足が悪く一度も歩いたことがない男の人が座っていました。彼はパウロの話すのを聞いていたので、パウロは彼を見つめて、癒されるのにふさわしい、神様を信じる信仰があるのを見定め、彼に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言いました。するとその人は躍り上がって歩きだしました。 群衆はパウロの行為を見て、「神々が人間の姿をとって私達のところにお降りになった」と、いけにえを献げようとしたのです。

この地方の伝説によれば、昔ゼウス神とヘルメス神が変装し、お忍びで地上に来た時、神々をもてなす人はどこにもいませんでした。が、ある老夫婦が神々を家に入れて手厚くもてなしたところ、その後この地方を洪水が襲った時、老夫婦は神々の守りによって救われたという話です。

*パウロとバルナバの説教

パウロとバルナバは、いけにえを捧げようとした彼らに「私達もあなた方と同じ人間にすぎません。あなた方がこのような偶像を離れて生ける神に立ち帰るように、私達は福音を告げ知らせているのです」「この世界を創られた天地創造の神様こそが恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施してリストラの人々の心を喜びで満たして下さっているのです。」と語り、いけにえの行為をやめさせました。

*収穫感謝日

日本キリスト教団では、11月の第4日曜日を収穫感謝日として礼拝を守っています。私達に与えられている全ての恵みは、この世界を創られた神様によって与えられているものです。数え切れないほどの恵みを覚えて主に感謝する。それが収穫感謝日の礼拝です。そして又、私達が覚えるべき一番の恵みであり実りであるのは、イエス様を信じることによって、罪の生活の中から解放されたことだと思います。私達は日々、自由にされて生きることが赦されています。私たちのそばには、いつも喜びで満たして下さる神様がいます。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われる言葉の中に、私達は神様の本当の愛を見つけることができると思います。 私たちが主を 愛する時、私たちは主の愛を、主の恵みを見つけることができるのです。

2020年11月15日の説教要旨 申命記18:15-22・使徒言行録3:11-26

「救いの力」       加藤 秀久伝道師

*はじめに 

本日の旧約聖書 申命記は、「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」(1:1)とあるように、モーセによってなされた訣別説教(遺言)のかたちで記されています。本日の箇所には「あなたの神、主はあなたの同胞の中からわたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」と、神様がモーセのような預言者をこれからも立てて下さるとの約束が述べられ、イスラエルの民は預言者の言葉に聞き従うように命じられており、預言者に聞き従わない民にはその責任を追及すると警告されます。他方、預言者が自分勝手の預言や他の神々の名によって語るなら、その預言者は死ななければならないと告げています。

*聖霊が降る(使徒言行録2章)

 イエス様が天に昇られ、五旬節に弟子達が心を一つにして祈っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、座っていた家中に響きました。そして炎のような舌が現れ、一人一人の上にとどまりました。すると一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに他の国々の言葉で話し出しました。そうです!弟子達は聖霊を、身体の中に宿したのでした。ペトロはイエス様と一緒にいた時よりも大胆になり、身体の中から聖霊の力を感じながら、周りに来ていた人達に話し始めました。ペトロは聖霊の力により変わりました。人々も神様の力を感じたはずです。

*「キリストの名によって」癒される

本日の新約聖書では、イエス様の「御名」に力があることが記されています。3章の初めには、ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に、神殿に上った時の出来事が記されています。生まれながら足の不自由な人が、神殿の境内に入る人達に施しを乞うため、門のそばまで運ばれて来ました。そして境内に入ろうとするペトロ達に物乞いをしました。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て「わたしたちを見なさい」と言いました。その男は何かもらえると思い、二人を見つめているとペトロは彼に言いました。

わたしには金や銀はないが持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。そして右手を取って彼を立ち上がらせました。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして躍り上がって立ち歩き出しました。そして躍ったりしながら神様を賛美し、二人と一緒に境内に入っていきました(3:1-10)。彼は、身体の中に聖霊が宿ったのを感じて神様をたたえずにはいられなかったのだと思います。民衆は皆驚き、足が治った人が ペテロとヨハネに付きまとって神様を称えているので一斉に集まって来ました。

*ペトロの説教

ペトロは「なぜこのことに驚くのですか。私達がまるで自分の力や信心によってこの人を歩かせたかのように、私達を見つめるのですか。」と言い、この癒しは、イスラエルの民が殺した「イエス・キリストの『み名』を信じる信仰」による癒しであったと証ししたのです。ペトロはさらに、かつてモーセが語った言葉「神は、わたしのような預言者をあなた方の為に立てられる。彼が語りかけることには何でも聞き従え。耳を傾けない者は皆、滅ぼし絶やされる」(3:22-23)と申命記を引用して、イエス・キリストこそ、あなた達を悪から離れさせ、祝福にあずからせるため神様が遣わして下さった方(3:26)であると証ししたのです。

*わたしたち

現代を生きる私達は、毎日、神様の力、聖霊の力を感じながら生活しているでしょうか。日々聖霊に満たされ、聖霊が私達をどのように導き、何を語ろうとしているのか敏感でなければならないと思います。

足の不自由な人が躍りながら神様を賛美したように、私達の生活の中で神様に心を震わせて、神様に感謝を捧げ、神様を称えているでしょうか。又、イエス様の御名を信じて「本当の癒し」が起こるために祈っているでしょうか。イエス様の御名には力があります。 私達の心の中で神様の力、聖霊の力を感じる時、癒された人のように、心の中から溢れるばかりの喜びが沸き起こり、神様に感謝せずにはいられないでしょう。イエス様は私達の助けを求める声を待っておられます。

2020年11月1日の説教要旨 イザヤ書44:6-17・ローマ書3:21-28

「神への信仰」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

イザヤは紀元前8世紀の後半に召命を受けて活躍した預言者です。本日の旧約聖書では、「神様はイスラエルの民にとって贖(あがな)い主である」                      

  *注 <贖い=犠牲を伴う罪の赦し・罪のつぐない・和解> 

ことが強調されています。神様はイスラエルの民を選び、贖って下さる方であるにもかかわらず、イスラエルの民が無力な役に立たない偶像を作っている、しかも偶像の材料となる木は、料理や暖房に使われて、その同じ木で偶像を作り、それにひれ伏すことの虚しさを神様は忠告し、捕囚前のイスラエルの罪が「捕囚」を招いたこと、彼ら自らが破滅の道に向かっていることを指摘します。

*不信心と不義に対する神様の怒り

本日読んだロマ書3章の前では「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(1:18)とあり、さらに、「神様の怒り」を他人事のように考え、自分だけは正しいと考える人は、神様の裁きを免れることはできないと語っています。

ユダヤ人は、神様から選ばれ、律法を与えられている者だから、異邦人とは違い神様からの怒りを受けることはないと考えていました。その考えに対してパウロは、ユダヤ人が異邦人と変わらずに人として守るべき道から離れていることを指摘し、3章前半で、「裁き」はすべての者に当てはまるのであり、とりわけ、義を熱心に追い求める者、自分自身の義を立てようとする者に向けられていることを語っています。ユダヤ人のように、律法のわざによって「自分自身の義」を立てようとすることこそ、「神様の義」を立てることに逆行してしまうからです。

*「ところが今や」(3:20)

本日の箇所は、「ところが今や」から始められ、1-2章の続きになっていて、「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」とあります。

当時の人達にとって、この考え方は、思いもよらないものだったでしょう。

神様は真実なお方で正しいお方です。そして神様は私達にもその正しさを求めます。しかし私達人間は、神様からの求めにきちんと向き合い、応えることが出来ず、神様の怒りを受けるべき存在です。私達は人生の中でどのようにしたら神様と正しい関係になれるのでしょうか。

神様は、このような負の状態にある私達に、ご自身を正しいお方として、なお、かつ、私たち罪人を義と認める道を示して下さいました。

*「不義」を「義」と変えて下さる神様の愛

このことを教えてくれるのがロマ書です。1:17では、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」と告げています。ですから私達が、神様からご覧になって正しい者になりたいというその気持が、まず初めに大事なのではないでしょうか。そして今までは「律法に従う」ことによって正しさを求められていたものが、「今や」・「ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(3:24)

*神様の義

神様はそれまでの人間の罪を忍耐深く見逃してこられましたが、イエス様を「罪の身代わり」として立て、その流された血潮により罪をつぐなう供え物・贖いの業を通して人間の罪を赦すことで、「神の義」を最後まで貫き通されました。このイエス・キリストによる贖いの業を通して、罪人であった私達が、罪の奴隷(罪の支配下)から解放されることなり、神様の恵みにより「無償で義」とされたのです。

*わたしたち

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。 私達はイエス様を知って受け入れた時から、信じた時から、その名前を呼んだ時から義(正しい)とされている者達です。私達にはいつも義なる神様、イエス様が共いて励まして下さいます。どんなことにもあきらめずにイエス様を信じて歩んでいる限り、イエス様は、私達の主であり、私達はその子供です。

2020年10月18日の説教要旨 詩編90:1-12・Ⅱコリント書5:1-10

「聖霊の守り」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

詩編90編1節に「祈り、神の人モーセの詩」とあります。モーセは、「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と告白ました。人間にとって神様は、私達を守って下さる場所、避難所であることを確認しています。そのことは、「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々変わりなく、永遠に至るまで」私達の神であられることを意味しています。そして神様は、人を、元の塵に返すことで、人は はかない存在であることを述べています。朝に花を咲かせ、夕べにはしおれて枯れていくように、私達の人生は短く、苦労に満ちた生活となっていることを告白し、神様の目からすれば、千年といえども一日が過ぎ去るようでしかなく、人生はほんの一瞬にしか過ぎないゆえに、神様の慈しみを願い祈っています。

さらに人は、神様の前に罪を犯し、その犯した罪を隠そうとしても、神様は明らかにすると告げます。私達生きる者はアダムとエバが罪を犯した時から罪の呪いの生活の中に入れられました。人は神様のかたちに造られ、永遠に生きることのできる者であったにもかかわらず、蛇の誘惑を得て、善悪を知る知識の木から実を食べ、神様に従わなかった罪の代償として「死」がこの世界に入り込みました。私達は、彼らの犯した罪を受け継ぐ結果となり、神様の怒りの中で生活していると言えると思います。

*「生涯の日を正しく数え、知恵ある心を得ることができますように」

この罪からの脱出の道は、私達の過去に犯した罪(神様から離れた生活)を告白して神様の赦しを得ることです。それは、私達が神様の前に自らを低くして、へりくだることから始まります。

このモーセの祈りは、私達も又、生かされている日々を正しく数え、キリストにある生活を歩めるように、「神様からの知恵ある心」を得ることができるように、主と共に歩み続けることができるように、と願い祈る大切さを教えてくれるのです。

*地上の住みかと天の住みか

 「私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」と、本日のコリントの手紙5章は始まります。私達の身体は、この地上において、やがて衰え朽ちていき、塵にかえります。ヨブ記では「人は塵の中に基(もとい)を置く土の家に住む者」(4:19)とあり、私達の身体が塵(土)から造られている住み家であることが分かります。

しかし天にある住みかは、永遠の住みかであることが記されています。

*保証としての“霊”

パウロは、彼の証の中で、イエス様を信じる者達には天にある住みかが用意されていることを伝え、信仰を与えられた者はその保証として、生きた神の霊が与えられていることを力強く述べました(5節)。そしてパウロにとって自分自身の霊が肉体から離れることは喜びであり(8節)、今ある身体は一時的な仮住まいの場所(地上の幕屋)であり、復活の身体においては、永遠の栄光の希望の光があることを記しています。

裁きの座の前に立つ

私達すべての人間は、必ず神様の裁きの座の前に立つことになります。地上での生活が、人を傷つけたままの状態であったり、悔い改めようとしない者が、クリスチャンの中にいるかもしれません。自分は救われているから、神様に会えるから、天国に行けるから・・と、自分の過ちや弱さから目を背ける人々に、この手紙は、「それぞれが身体、肉体によって行ったことに応じて神様からの報いを受けねばならない」と告げています。

パウロは、地上を住みかとしていても、天にある住みかであっても、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と切望しています(9節)。

 神様は、今日も真実なお方です。今日、私達の心の中に祈らなければならないこと、悔い改めなければならないことが思い浮かんだのなら、神様に赦していただけるように祈りましょう。 私達が信じて祈り求めるのなら、その答えを必ず与えて下さいます。