2022年11月20日の説教要旨 詩編11編、エペソ書5:21-33

主の変わらない祝福」        加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の詩編1節では「主を、わたしは避けどころとしている。」と信仰の表明があり、危険が迫っていることが伝わってきます。その状況が2~3節で「闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。」と説明し、「世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか。」と、友人達の言葉が聞こえてきています。本来あるべき社会秩序がくつがえされて、いつしか、しがらみや不正がはびこり闇に閉ざされてしまったような状況に現在、作者は置かれているのです。

主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。」(4節)

しかし、たとえ社会が闇に閉ざされているような状況であっても、主なる神様は人間の世界を越えた天から「御目は人の子らを見渡しそのまぶたは人の子らを調べ(4節)」られます。私達一人ひとりが何を拠り所としているか、誰を頼みとし、どこに隠れ家を置いているかを明らかにされます。

*わたしたち

私達は、神様を信じ、神様に守られているとの確信をしっかり心に刻むことが大切です。作者は「主は正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人にむけてくださる。」と告白しています。神様は正義を行い、信仰生活を正しく送っている者達にはその御顔、御姿を現して下さいます。私達は毎日、神様に目を向けて歩いているでしょうか。 私達は時々、神様によって試される時があります。私達はどんな時でも「主に従う人に御顔を確かに向けて下さる神様」を避けどころとして歩み続けましょう。

*妻と夫

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(21節)

本日のエフェソ書の御言葉は、私達がイエス様に対する畏れをもって、イエス・キリストを主と認めて信仰生活を送り、人々に仕え、支え合っているのかが問われているように感じます。この前の6節以下には、光の子として(光から善意と正義と真実が生じる(8~9節)歩み、霊に満たされ、いつも感謝しながら(18~20節)歩むように勧めています。キリストに仕える者逹がお互いに仕え合うことは、夫婦の関係と同じようなものであり、妻は夫に「主に仕えるように仕えなさい」と、神様に従うことから始まっています。イエス様が教会(信仰者の群れ)の頭(かしら)であり救い主であるように、妻も夫に仕えなさいと教えます。一方 夫には、イエス様が教会を愛し命を捨てるほど愛されたように、妻を愛することを教えています。イエス様がそうされたのは、神様の言葉と洗礼とによって教会を清めて、聖なる汚れのない、栄光に輝く教会を立たせるためです(26~27節)。夫婦も、夫は妻を自分のように愛し、妻は夫を敬うように(33節)教えています。そのことを通して私達の神様との関係も良い方向へと進み、良い実を結ぶことができることを伝えているようです。

*神様とわたしの関係

 私は先日、正教師面接で「あなたはキリストの花嫁として、教会に仕え、キリストに仕えることが神様から与えられた召命であることを信じますか」と問われました。私は、<イエス様に初めて出会い、信仰を告白した時からイエス様と共に歩んでいるのだから、今、再びこの問いに、告白(誓い)は必要なのか?>と考えていた中で、<私はイエス様のことを真剣に受け入れ、イエス様の霊をこの体に身に付けているだろうか。私は本当に神様に耳を傾け、聞いてきたのか・・。そういえば最近、神様の声、神様の霊を感じていないのでは?> <果たしてこのような私が、正教師としてキリストの花嫁として歩むことに誓いをたててよいのか?>など短い時間で思い巡らしていた時、すぅーと、私の身体の中に神様の霊が入ってだんだん大きくなるのを感じました。そして若い時に与えられた「人々に神様の言葉を伝えていきたい」との思いに立ち返り、今、その召命に従うこと、信じることだと思いました。 

今は目に見えず、不安な部分が沢山ありますが、将来、神様の計画が起こり、目で見て体験することになるだろうとも感じました。皆さんも、これから先、神様の御前で何かの誓い(約束)をする時があるかもしれません。神様がいつも共に在り、神様の深い愛と祝福をお祈り致します。

2022年11月13日の説教要旨 出エジプト33:7-11・ヘブライ8:1-13

「救いの約束」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

 私たちは、神様との関係を大事にしているでしょうか。又、私達にとってイエス様とは、どのようなお方でしょうか。

モーセによってエジプトから導き出され、旅を続けていたイスラエルの民がシナイの荒れ野に到着し、山に向かって宿営をしていた時、神様はモーセを山の頂に呼び寄せられたので(出エジプト記19章)、モーセはシナイ山(31:18・別名ホレブ山(33:6)に登り、神様から二枚の石の板(十戒)をいただきました。しかしモーセの下山が長引いたため待ちくたびれた人々は金の子牛の像を造り、その像を神としていけにえをささげ、飲み食いし、たわむれていました。山を下りて来たモーセは人々の乱れた姿を見て、神様からいただいた掟の板を投げつけて山のふもとで砕き(32:19)、この日三千人の人々が滅ぼされました(同28節)。民が犯した大きな罪による神様の怒りの前で、モーセは罪の赦しを必死に求め願いました(32:31)。

*臨在の幕屋

 本日の33章では、モーセが人々の宿営から遠く離れた所に天幕を張り「臨在の幕屋」と名付け、この幕屋を「神様と出会う聖なる場所、祈りの場」としました。それで人々は、モーセがその幕屋に向かう時、自分の天幕の入り口で見送り、モーセが臨在の幕屋に入ると、雲の柱が臨在の幕屋の入り口に立ちました。人々は雲の柱を見ると全員起立して自分の天幕の入り口で、悔い改めの時として礼拝しました。神様はモーセに、かつてイスラエルの族長(アブラハム、イサク、ヤコブ)に誓った「約束の地(カナン)」に向かって出発するように命じられましたが、神ご自身は民がかたくなな民であるがゆえに共に行かないと言われました(3~4節)。しかし12節以下には、モーセがイスラエルの民は「神の民」であることや、旅は神様ご自身がモーセを選び導かれた旅であることを伝え、同行を強く願いましたので、神様はこの願いを聞き届けられました。臨在の幕屋では「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られ(33:11)」ました。

モーセの歩みを知る時、私達はイエス様の姿と重なる部分を見ることが出来ます。

*わたしたちのイエス様

 本日のヘブライ書8章の小見出しに「新しい、優れた約束の大祭司」とあり、イエス様が私達にとって、約束された大祭司であることが語られています。イエス様は、「天におられる大いなる方(神様)の右の座に着き、真の幕屋(過ぎゆく地上の幕屋に対して、永遠に存在する天の幕屋)で仕えておられる」こと、大祭司は「供え物といけにえとを献げるために、任命されています(8:3)」が、イエス様は、ただ一度、ご自身を献げることによって、罪のためのいけにえをささげることを成し遂げられました(7:27)とあり、「わたしたちの大祭司は、(モーセより)はるかに優れた務めを得ておられます」「更にまさった契約の仲介者になられた(6節)と記されています。モーセは、神様から律法をいただき、神様の指示に従い幕屋を建て、神様と契約を結びました。しかしイエス様は、古い契約に代わって新しい契約の仲介者になられたのです。

*はるかに優れた務め

 イエス様は完全なお方で何一つの罪も見当たらないお方です。そして、一度だけの完全な罪の贖いとしてご自身を献げられました。その結果、これまでの祭司のように自分のため、又、人々のために毎日のいけにえを献げる必要は永遠になくなりました。イエス様は、私達のためにいつも側にいて下さり、神様に近づく者のためにとりなしの祈りをしておられます。そして今や、文字に刻まれた律法が私達の外側から、(守るべきもの・強制)ではなく、律法は、私達の内側(思いに置き、心に記す・神を愛して、従いたい)から起こり、小さな者から大きな者に至るまで神様を知ることが出来るようにされました(8:10~)。古い契約は律法を守るために努力しなければなりませんでしたが、私達は新しい契約の下で、大祭司イエス様の一回限りの十字架による罪の赦しによって、神様の恵みと慈しみのもとで、喜んで主に従い、近づくことが出来ます。

私達はイエス様を身に付けて今週一週間、主と共に歩んで参りましょう。

2022年10月23日の説教要旨 ヨブ記38:1-18・使徒言行録14:8-17

「創造主の力」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

ヨブは神様を敬う正しい人でした。その彼に不幸な出来事(財産を失い、息子、娘たちの死、さらにはひどい皮膚病による苦しみ)が起こり、自分が生まれたことを悲しむほどに悲惨な状況の中に置かれました。ヨブは神様の前に正しく生きてきたのになぜ神様からこのような苦しみを受けなければならないのかと訴えました。けれども、どんなに訴えても、神様からの応答はなく、そのたびに沈黙する神様の前で、ヨブの苦しみはいっそう深く激しさを増していきました。

*訴え続けたヨブへの応答

 自分自身への嘆きと、見舞いに来た友人達との議論の中でも苦しみは続き、どん底に落とされて、どうすることもできない状態の中で、それでもヨブは沈黙を続ける神様に「答えてください(31:35)」と訴え続けます。

本日のヨブ記38章の初めに、神様は長い間の沈黙を破り、突如として嵐の中からヨブに直接語りかけ、そして問いかけます。

嵐は、人々がコツコツと築いてきたものや経験・知識を一瞬にして吹き飛ばし、破壊してしまう結果をもたらします。人は大自然の力に襲われる時、初めて自分の力の弱さを自覚するかと思います。「嵐の中から」語られた神様の言葉によって、ヨブに今までにない大きな変化が訪れます。

長い苦しみを経て、ヨブの願いはついにかなえられ、神様が現れて下さったのです。たとえ神様がヨブにどんな厳しい言葉を語ろうとも、この神様の現れそのものがヨブにとってはこの上ない恵みへと変わります。

*神様の、ヨブへの語りかけ

神様は、「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたと言うなら 理解していることを言ってみよ。(3~4節)」と問い、又、命じられます。神様は、ヨブが自分の尺度で物事を考え、自分中心に見て自分に過ちが見当たらず、自分を過剰評価していることを指摘します。

神様は、ご自身が天と地を創造された「創造主」であることに目を向けさせます。ヨブが、神様というお方を知り、ヨブに心を改めさせ、へりくだる心を養い、神様との正しい関係を結ぶ信仰を持つためでした。

ヨブは、この神様との出会いによって、全知全能の神様の前に深く悔い改めることを表明します(42章)。

*創造主によるいやしの奇跡

本日の使徒言行録には、パウロとバルナバが宣教旅行中、リストラに来た時、生まれつき足が悪くまだ一度も歩いたことがない男が座っていたことが記されています(14:8)。彼はパウロの話を聞いていました。

パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言いますと、彼は躍り上がって歩きだしました。それを見ていた群衆は「神々が人間の姿をとって、お降りになった」と声を張り上げ、パウロとバルナバに神々の名を付けて、いけにえを献げようとしました。群衆に二人が語ったのは、今も生きて働かれている創造主なる神様の力と、そのわざについてでした。

*二人の宣教

あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。

神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。

*わたしたち

私達が信じる主なる神様は、目にするすべてのもの(空・天体・自然・植物・動物や私達人間)を造り、世界を造られた神様です。わたしたちは神様によって管理され、生かされているのです。今週も、恵みによって生かされている喜びと、感謝の心を持って共に歩んでいきましょう。

2022年10月16日の説教要旨 詩編146編・マタイ福音書5:1-12

「主の幸いを受ける」    加藤秀久伝道師

*はじめに

詩編146編~150編は「ハレルヤ詩集」と呼ばれ、ハレルヤから始まりハレルヤで終り、神様を讃える歌になっています。本日の146編では詩人(作者)が、「命のある限り、わたしは主を讃美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌おう(2節)」と、全生涯を通して 主をほめたたえることを決意を持って呼びかけています。「ハレルヤ。(主をほめたたえよ!)」と主に叫びかけることで、彼の思いのすべてを神様に向けているのではないでしょうか。この詩人と同じように私達も、神様に心を開いて神様を讃美するなら、神様を体験し、神様を知ることとなるでしょう。

主は見えない人の目を開き」(8節)

5節に「いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」とあります。神様を見上げ、神様を頼りにし、神様のすること(ご計画)を待ち望む人は幸いである、と、はっきり告げています。そして、「主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる」とあります。「目を開く」は、エデンの園で蛇がエバに、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる・・」と言われてエバが食べ、アダムにも渡して食べたので、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り」と、創世記に記されています(3:5・7)。 蛇の誘惑によって開かれた目は、罪の結果として開かれた目となり、霊的には「盲目」となってしまったと考えることが出来ます。サタンによって人は生まれながらに「盲目」となり、この盲目となった目を再び開けることが出来るのは神様の助け以外にありません。イザヤ書35章には、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。・・そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く』(5節)」とあります。私達は、私達の目を見えなくしている悪魔の支配から解放されて、神様からの幸いを受ける者へと変えられなければなりません。それは、イエス様の救いを受け入れることにあり、イエス様を信じて日々の歩みを生きることを意味します。

*「山上の説教」(マタイ5~7章)

 本日の新約聖書は、イエス様が神様の権威を用い、人々に教えることで、悪魔によって真実を見えなくされていたその目の覆いが取り除かれ、聞く人々は、イエス様が語る言葉によって「目が開かれた」と考えることが出来ると思います。

~人々は幸いである。

 この「~人々は幸いである」は、3~6節では、神様を待ち望む人々の幸いが示され、7~10節では、祝福された人々の幸いが語られています。

前半は、自分が「霊的において貧しい」と悟った者が、初めて神様の深い悲しみを理解する「悲しむ人々」となり、人が「悲しみ」を経験する以前に、神様が悲しんでおられることを知る者を表しています。その「神様の悲しみ」の原因は、私達の内に住む罪にあります。人が罪に支配されて、神様を知ることができず(無知)、神様の御心を行うことができない(無力)現実にあります。罪の横行のため、不条理な現実により打ち砕かれている者が「柔和な人々」となり、神様を求めるようになることが「義に飢え渇く人々」と表しています。

 後半の、「憐れみ深い人々」とは、困っている人達に寄り添うことができる者であり、神様から受けた罪の赦しを理解して、神様との関係を持っている人達です。「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」は、神様との関係作りの深さによって違いが生じてきます。私達が神様をどれだけ身近に感じているか、神様をどれだけ知っているかにより、人との接し方、信じる者たちとの接し方に違いが出てくることを告げていると思います。

*主の幸いを受ける

 それゆえに、イエス様は「私のもとに来なさい!私の幸いを受けなさい!と招いて言われているのではないしょうか。イエス様は今日も私達と共におられます。 このことに私達は心から神様に感謝し、神様との関係を大事にしながら 今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2022年10月2日の説教要旨 イザヤ書30:15-21・ロマ⒓:1-2

世界宣教の日「神に倣い,キリストに倣い,パウロに倣う。」  佐藤義子

*はじめに

 本日のロマ書12章には、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい」とあり、これこそ、私達のなすべき礼拝であると教えています。私達は毎週礼拝で、神様を讃美し、一週間守られたことを感謝し、懺悔の祈り、今日から始まる新らしい一週間の歩みが神様のみ旨に沿うように、聖書を通して神様からのメッセージを聴き、慰められ力づけられ、神様への感謝のささげものを献げて、再び社会へと送り出されていきます。この礼拝で、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげる」とは、どういうことでしょうか。

*ささげる

神様を礼拝することは「神のものは神にお返しする(マルコ12:17)」こととも言われます。神様の恵みによって与えられたもの・・私達の第一の所有物は自分の体です。礼拝に於いて自分の体をいけにえ(犠牲)としてささげることを考えると、「私は弱く、足りないものだらけで、あなたに救われた者ですが、献げるにはふさわしくありません」と答えなければならないでしょう。しかしロマ書では、もし自分の体から「犠牲の供え物」をささげるならば、それこそ生きた供え物として神様に喜ばれるなすべき礼拝であると教えます。たとえば、自分は悪くないのに攻撃を受けて「怒り」を覚えたとします。その「怒り」は神様への供え物にはなり得ません。しかし私達が誤解され自分を攻撃した人を(神様の教えに従うため)赦せるように祈り、赦せたとします。その赦しが(赦すことが出来た自分が)、神様に喜ばれる供え物になるのではないかと思います。私達が神様への積極的な服従によって礼拝がなされる時、神様の み旨(むね)がなされます。

*世界宣教の日(10月の第一日曜日)                  

教会には毎年、日本から送り出している宣教師の方々の働きを紹介する冊子が送られてきています。本日の説教題を「神に倣い、キリストに倣い、パウロに倣う」としましたのは、宣教師の方々の歩みが、以下の聖句にあるように思い至ったからです。

*あなた方は神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)。私達が神様から愛されていることは、神様が私達に独り子イエス様を送って下さったという事実を自分のこととして深く知ることでわかります。(こんな罪深い私の為に、神様は私を神様の子供とするためにイエス様を送って下さり、私の罪を赦すために十字架の犠牲という大きな代償を払って下さった)。だから、私は神様から愛されている。その神様の愛に倣う者となりたいと願うようになります。

*わたしがキリストに倣う者であるように(コリント11:1)

「倣う」は「見本にする」「模範にする」ことです。ペトロの手紙は私達を励まします。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。・・キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足あとに続くようにと、模範を残されたからです(2:21)」。

あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(コリント11:1)

フィリピ書でもパウロは、「わたしは・・・何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです(フィリピ3:12-16)」と、励ましています。宣教師の方々も、ここにおられる皆様も、私も、神様から同じように信仰を与えられた者達であり、今、信仰の種を蒔かれている方々です。信仰の種は、きれいな空気と澄んだ水、太陽の光を受けて(日毎の御言葉と祈り、礼拝を始めとする教会生活、信仰者たちとの交わり他)ぐんぐん大きく育ち、やがて鳥が来て枝に巣をつくるほどの木になります。成長に必要なすべてのものは、求めさえすれば、神様が必ず豊かに与えて下さることは多くの宣教師の方々が証言されています。福音宣教の為、困難の中、外国の地で働かれている宣教師と御家族のため祈りましょう。同時に私達の宣教の業が用いられていくように祈りましょう。

2022年9月25日の説教要旨 申命記15:1-11・Ⅱコリント書9:6-15

「従順による解放」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の旧約聖書15章の小見出しには「負債の免除」とあり、1節の「七年目ごとに負債を免除しなさい。」と言う言葉から始められています。

この負債の免除というゆるしの起源は、出エジプト記23章(安息年)と、レビ記25章(安息の年とヨベルの年)にあります。七年目ごとに農地を休ませ休閑地とすることで、土地が神様の所有であることを覚えたことにあり、特にレビ記25章では、6年間に農地をめぐって生じた負債を7年目に、その年の「仮庵の祭り」の時に免除したことが記されています。又、七を7倍にした翌年の50年目は「聖なるヨベルの年(25:12)」として、国中に角笛を吹き鳴らして、全住民に解放の宣言がなされ、人々は先祖伝来の所有地と家族のもとに帰り、債務奴隷も解放されました。

*負債免除の目的

申命記に記される負債免除の目的は、「あなたの神、主は、・・あなたに与える土地において必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる(4節)」という言葉に続き、「あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒め(5章の十戒)をすべて忠実に守りなさい。」(5節)とあります。

イスラエルの民が十戒を守り、神様を第一にして歩むならば、「あなたの神、主はあなたを祝福されるから、多くの国民に貸すようになるが、借りることはないであろう。(6節)」さらに、「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、 彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」と(7-8節)とあります。

*今を生きる私達

 今、もし私達が「貧しい人に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」と命じられたら、私達はどう応えるでしょうか。多くの場合、自分の生活で精一杯で余裕がないと答えるかもしれません。

ここで神様が私達に教えようとしていることは、神様がすべての人を造られたように、すべての人が同じ立場にあり、子供・大人・男性・女性も関係なく、年齢にも身体の状態にも関係なく、困っている人・助けを必要としている人達に対して、自分の家族に接するようにその人に寄り添うこと、相手の痛みを自分の痛みのように感じる気持が必要であることを伝えようとしているのではないでしょうか。人を思いやる気持が、神様に自由にされ、解放された者となり、神様を愛し、人を愛する者へと変えられていくのだと思います。

*献金

 本日のコリント書では、エルサレム教会の貧しい信徒たちを援助するための献金について語られています。この贈り物をささげることは他の教会の人達にも力や勇気を与え、神様に献げものをすることの大切さや喜びを知ることとなります。贈り物の献金を用意するにあたってパウロは次のように教えます。「惜しんでわずかしか種をまかない者は、借り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

*献げることの祝福から生まれるもの

私達が神様との関係を持つことが深くなるにつれて、ささげものを通して神様に感謝する大きさを気持として表わすことができます。神様にささげられた献金や贈り物は、神様から必要な人へと祝福として届けられ、祝福を受けた人は、神様を讃美する(神様を称える)者となり、「喜び」の献げものという形で表わされていきます。これは不思議なもので、私達が献げもの(自分自身・時間・祈ること・讃美すること・ただ神様の前に静まること・・)を多く持てば持つほど、神様は色々な形を通して私達にも祝福や恵みが廻っていくように働かれます。そして「奉仕の業の結果として、彼ら(受ける側)は、あなた方がキリストの福音を従順に公言していること、自分達や他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえ、あなた方の為に祈る」のです。

2022年9月18日の説教要旨 列王記上21:1-16・ガラテヤ1:1-10

「ほかに神はない」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

アハブは、北王国イスラエルの第7代の王として22年間王位にありました。彼は首都サマリアの建設を行い、宮殿は象牙で建てられ、富と力を人々に表しました。彼はシドン人の王の娘イゼベルと結婚し、戦いにおいては預言者を通して主から敵を滅ぼし去るようにと言われていたにもかかわらず経済的利益を得るために敵の王の命を助けたことで、預言者から非難を受けることとなりました。

*ナボトのぶどう畑

本日の旧約聖書は、アハブ王が宮殿のそばにあったナボトが所有するぶどう畑を自分の菜園にしたいので譲ってほしいと話を持ち掛けたことから始まります。しかしナボトは、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」(3節)と断りました。

(民数記27章には、先祖から受け継ぐ土地は子孫へと、子孫がいない時は兄弟へ、兄弟がいない場合は最も近い親族に引き継ぐことが定められています)。アハブ王は、ナボトの言葉に機嫌を損ね、腹を立て、食事もとらなかったので、妻イゼベルから理由を聞かれ、ぶどう畑のことを話しました。

*イゼベルの策略

 夫の話を聞いたイゼベルは、ナボトのブドウ畑を夫のものとするため、ナボトのいる町の長老と貴族に「ナボトが神と王とを呪った」と、偽りの(聖書には、この後、神様の言葉が預言者エリヤに臨み、アハブに告げるべき言葉を託したことが記されています。それは、神様は、アハブの悪のゆえに災いをくだすこと、子孫を滅ぼし、妻イゼベルは犬の群れの餌食になるというものでした)。

*真の福音

本日のガラテヤ書は、パウロの伝道旅行によって立てられたガラテヤ教会に宛てた手紙です。当時、教会内にパウロが伝えた「キリストの福音」を覆(くつがえ)して、ほかの福音(6節)が入り込み、信徒達は偽教師達の影響を受けていました。パウロが伝えた福音は、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる(2:16)」教えでしたが、偽教師達は信仰だけでなく割礼を受けて律法を遵守することで救われると教えていたのです。そこでパウロは「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になる」こと、キリスト者は自由を得るために召し出された(5:13)のであり、割礼の有無は問題ではなく愛の実践を伴う信仰こそ大切である(5:6)と教えました。又、偽教師達は「パウロの使徒職」についても問題視したので、パウロは、自分が使徒とされたのは人間によるのではなく、イエス・キリストと神とによることを1章1節で宣言しています。

*わたしたち

ナボトは、先祖からの嗣業の土地であるぶどう畑を、神様から与えられた法と掟に従うため、恐れずに王の申し出を断りました。私達日本社会ではイスラエルとは異なり、神様から与えられた法や掟は存在せず、神社やお寺を始めとしていろいろな宗教が存在しています。それら他宗教の土地や建物を眺める時、私達の信じる創造主・神様が、他宗教の神々と並ぶような錯覚に陥る危険性があるのではないでしょうか。

しかし私達には、真実の言葉、神の言葉があります。私達、神様を信じる者は、神様から真理を受け継いだ者達です。私達には「聖書」があり、正しい福音を伝える「礼拝」と、信仰者が共に集まる群れ「教会」というかけがえのない財産があります。私達はそれを今、受け取っているのです。キリストの言葉は、どこにでも存在し、私たちの手に取れる場所にあるのです。イザヤ書には「思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。」(46:9)とあります。私達には聖書があり、この神様を信じる信仰と、教会と、礼拝が与えられているのです。

2022年8月28日の説教要旨 ミカ書6:1-8・エフェソ書4:17-24

「神に向かう」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日のエフェソ書の17節には「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み・・」と話が進められています。 同じ4章の1節では、「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み・・」とあるように、エフェソの教会の人々に向けて優しく教え、話し方でイエス様を信じることとは、どのようなことかを伝えています。それに比べると、17節からは、強く断言した口調で、「異邦人と同じように歩むな。彼らは愚かな考えに従って歩み・・」と語っています。

*異邦人との違い

パウロはこの手紙で、「神様を知らない者達(異邦人)と、「神様を信じる者達」の歩みを明確に区別して、違いがあることを私達に教えようとしているように思えます。この教え方は、強制的な指示ではなく、神様を信じる者達が、「自分で考える」という彼らの自発性が促されているのです。このことは、現代を生きる私達にとっても、とても重要なことだと思います。それは、私達が自ら責任をもって神様に応答して、神様というお方の重要性を見出すことができるようになるからです。

*求められていること

 まず初めに、古い生き方を捨てる、やめることです。私達の古い生き方とは、神様から遠く離れている状態で生きることを意味します。それらは、「無知とその心のかたくなさ(18節)」によるもであり、「無感覚になって放縦な生活をし、・・(19節)」とあります。神様に対する無知は、無感覚になって勝手気ままな生活をしてしまい、自分の行動に歯止めがきかなくなってしまいます。そして、その人の心は、神様を知ることを拒み、神様 の言葉(聖書)に耳を傾けることを遠ざけてしまいます。

*「古い人を脱ぎ捨て(22節)」「新しい人を身に着け(24節)」

私達神様を信じる者は、イエス様の十字架の死を通してこれ迄の罪が赦されて新しく生まれ、神様の命に与(あずか)った者達です。イエス様を信じることを通して神様を知ることができました。そして、神様を知ることにより、一人ひとりの心に変化が現われ、神様のことをもっと知りたい、神様の霊の中に留まりたい、味わいたいとの願いが生まれます。それが、古い生き方と新しい生き方の違いだと思います。

ロマ書12:2に、「あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」とあります。この世のならわし、価値観、流行などの流れに流されないということです。私達の心に神様から新たにされる思いが生じなければ(すなわち何が善くて神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ知ることが出来ないなら)古い人を脱ぎ捨てることも、新しい人を身に着けることもできません。

*「何が善であり・・・かは お前に告げられている。」(6:8)

 本日のミカ書でも、新しい人を身に付けることを主は求めておられます。6章の冒頭で主は、イスラエルの民に対して容赦なく彼らの不正を告発しています。これまで、主が何度もご自分の民であるイスラエルを慈しみ、愛情を注いできたにもかかわらず、彼らはその恵みに応えず、不従順の罪を犯してきたからです。その罪の償い方に対する問いへの答が以下に記されます。それは「正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。(8節)」です。

*わたしたち

本日わたし達は、神様が私達に求めておられることは何かを、改めて学びました。私達は、イエス様を基準(人を敬い、人に仕え、人に与え、人を大事にする)として、新しい人を身に着けて歩んでいるのか、又、正義と慈しみと謙虚さをもって日々神様と共に歩んでいるのか、を考えつつ、今週一週間も、神様に信頼を置き、与えられている信仰の道、祝福の道を、神様と共に歩んで参りましょう。

2022年8月21日の説教要旨 詩編2編・ヨハネ福音書7:25-31

「真の人」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日の詩編2編1節、2節の冒頭に「なにゆえ、・・人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、・・主の油注がれた方に逆らうのか」とあります。「油注がれた方」とは「王」を指します。「油(オリーブ油)」は神の霊の象徴であり、油を注がれた王は一般の民と異なる「神聖な」身分が保証され、地上における神の主権を代表すると信じられていました。他の、地上の王達がイスラエルに向かって反乱を起こし、結託して攻撃をしてきても、何の結果も生み出せず、意味がないことが述べられます。この「なにゆえ~するのか?」は、「あなた方は、天地創造者である神を畏れないのか?神から油を注がれた王を畏れないのか?」との憤りを含む問いかけです。

*天を王座とする方は笑い

 4節からは、天上の王(神)の宣言です。地上の権力者たちに対して、神様は「わたしは自ら、王を即位させた」(6節)と語られ、ご自分の計画を遂行するとの宣言です。7節の「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」は、王が即位の際、神の子となった(契約的な意味・養子)ことで、特別の守りと祝福、力が加えられたことを表し、後のイエス・キリストの到来も告げられていると考えられています。<ヘブライ書5:5>

*油注がれた方に逆らう人々

 旧約聖書に於いて「油」は、王の他にも「祭司」と「預言者」にも注がれました。私達人間は、弱い部分、弱い気持を持っています。それゆえ、これらの人達は、人々の前に立ち、多くのことを語り、教え、助言していたことを旧約聖書は伝えています。けれども多くのイスラエルの民は、挫折して主につぶやき、主に背いた生活を送りました。彼らは本当の意味で、神様というお方を理解していませんでした。それは人々が心の中に主の霊を宿していなかったからで、神様は、彼らの行動の結果として苦しみを与えました。神様を知って欲しいがためです。その苦しみは、人々にとって闇と言えるような、暗く、明かりが見えない状態でありました。

そのような中で人々が神様に助けを求めた時、神様は一つの光を与えられたのです。その光とは、真の「王」にして「祭司」「預言者」であるメシヤ(油注がれた者)を、私達の地上に送って下さったのです。このお方・イエス様は、私達人間のために、私達の目で見える形として与えられ、神様の救いのご計画はなされました。

うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」(7:24)

 本日のヨハネ福音書は、神殿の境内に祭りのため集まった人達に、イエス様が教え始められた時のことです。イエス様の、ご自分の命がねらわれているにもかかわらず公然と話している姿を見て、議員たちが何も言わないのを不思議の思う人達がいました。彼らは、議員たちが何も言わないのは、イエス様をメシア(救い主)と認めたのではないか。しかしメシアの出身地は誰も知らないはずであるのに、自分達は出身地を知っている、と話していました。その会話を聞いたイエス様は、大声で、「あなた達はわたしのことを知っており、又、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなた達はその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」と言われました。(28~29節)

*わたしたち

イエス様の十字架は、私達地上に生きる全ての者逹のためであることを今一度、想い起こしたいと思います。このイエス様のほかに、救いも、罪の赦しもありません。私達クリスチャンは「主の霊」を注がれた者であり(Ⅰコリ2:12/12:3)、神様から祝福を受けている者達です。神様は多くの奇跡と思えるようなこと、神様にしか出来ないような不思議な出来事を私達に見させ、体験させて下さっています。それにもかかわらず私達はそれらをしっかり見たり、心に止めないまま終ることはないでしょうか。私達は、このお方に仕え、神様と共に生きる者とされています。私達は、日々、神様に祈り、求め、願い、神様中心の生活をしようではありませんか。今週も、神様と共にありますようにお祈りを致します。

2022年8月14日の説教要旨 詩編78:23-39・ヨハネ福音書6:41-59

「いのちのパン」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

 私たちにとっての命のパンとは、どのようなものなのでしょうか。本日の詩編は、旧約聖書の出エジプト記の出来事を思い起させます。イスラエルの民は、荒れ野の旅の中で、モーセに向かって飢えと渇きを訴え(民11~)激しく不満を言いました。神様は民の不平を聞いて下さり、朝には天から「マナ」を、夕べには「うずら」から肉がもたらされました。

*マナ

「マナ」は朝、宿営の周りに降りた露(つゆ)が蒸発して、薄くて壊れやすいものが大地の霜のように残ったものです。民はそれが何か知りませんでしたが、モーセは「これこそ主があなた達に食物として与えられたパンである。」と教えています(出エジプト16:13~)。マナはコエンドロ(水辺に咲く。調味料とされる)の種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味でした(出エジ16:31)。マナにはヘブル語で「何だこれは?」という意味があります。彼らは知らないもの、理解できないものを目にしたのです。

*民の欲望と不信仰

(詩編78:22~29節)。「彼らは神を信じようとせず 御救いにより頼まなかった。それでもなお、神は上から雲に命じ 天の扉を開き 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。・・神は食べ飽きるほどの糧を送られた。神は東風を・・送り 御力をもって南風を起こし 彼らの上に肉を塵のように降(ふ)らせ 翼(つばさ)ある鳥を海辺の砂のように降らし・・神は彼らの欲望を満たして」下さいました。しかしイスラエルの民は、欲望から離れることはなく、その結果、「神の怒りが・・燃えさかり、肥え太った者を殺し、・・若者達を倒したそれにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し 驚くべき御業を信じなかった。」(31~32節)のです。神様は彼らの不信仰を見て、彼らを滅ぼそうとなさいました。彼らはそれに気付くと立ち帰って神様を捜し求めました。が、彼らの心は定まらず、神様との契約(律法、守りごと)に忠実ではありませんでした。それでも神様は、彼らを滅ぼすことなく繰り返し怒りを静めらました。「神は憐れみ深く、罪を贖われる」(38節)とあり、続いて「人間は肉に過ぎず、過ぎ去って再び戻ってこない風のような 滅びゆく存在である」ことを御心に留められたことが記されています(39節)。

*「わたしは天から降(くだ)って来たパンである。」(41節)

 本日のヨハネ福音書でイエス様は、ご自分のことを「パン」と言われました。それは物質的なパンではなく、心の癒しや生きる力を与えて下さる「霊のパン」です。このパンを食べる者(イエス様を信じる者)は、永遠の命を得たものであり永遠に生きることを教えています。 

しかし「天から降って来たパン」との言葉に、ユダヤ人達はつぶやき始めました。なぜなら彼らは、イエス様の両親を知っていたからです。

 イエス様は、ご自分が天から降ったことを説明するために「(神)」を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見た」と言われ、ご自分が神から遣わされた御子であることを宣言されました。

*「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、その人を終わりの日に復活させる。(54節)」

このイエス様の言葉は、ユダヤ人達の間に大きな議論を起こし、多くの人達がこの言葉につまずきました。けれどもイエス様は十字架で肉を裂かれ、血を流し、亡くなられました。イエス様の肉を食べイエス様の血を飲むとは、イエス様の十字架の死を、自分のこととして信じ受け入れることです。十字架の死は、私達が、自分の罪のゆえに死ななければならなかったのにイエス様が代わって死んで下さった、それにより私達の罪は赦され、永遠の命が与えられた出来事です。これは丁度私達の命をイエス様の命と交換していただいたことと同じです。私達は罪の中に生き、肉体の死と共に滅びゆく存在でした。にもかかわらずイエス様が私達の罪を引き受けて下さったがゆえに、神様の恵みにより信じる信仰によって「永遠の命」と復活が約束されています。私達はイエス様が日々与えて下さる「命のパン」によって生かされ、神様との出会いと交わりが与えられていることを感謝して、今週一週間も歩んで参りましょう。