2022年8月7日の説教要旨 民数記11:24-30・Ⅰコリント12:12-26

「神様からの贈り物」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

 私達が信仰を与えられた時、一人ひとりに与えられた神様の霊とはどのようなものであったのでしょうか。又、その後、私達は神様の霊との交わりはどのようになされているでしょうか。本日の旧約聖書では、神様の霊が、信じるリーダー達の上に降(くだ)ったことが記されています。

*モーセの訴え

 本日の民数記には、モーセによってエジプトから導き出された民が、旅の途中でさまざまな不満を訴えてモーセを苦しめました。モーセが、その重荷を一人で担いきれないことを神様に訴えたことから始まります。民たちは実際、神様が共にいて下さる「しるし」を見ているのです。それは、9章15節以下に記されている幕屋での雲の存在です。幕屋を建てた日に「雲」は幕屋を覆(おお)いました。夕方になると、それは朝まで燃える火のように見えました。この雲が天幕を離れて昇ると人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営しました。彼ら達はこのように神様の存在と導きを雲によって知ることになり、神様が身近にいて守って下さっていることや、神様の凄さを体験していました。それにもかかわらず民たちはエジプトでの生活を思い出し、食べることで神様につぶやき始めたのでした。神様は私達に、十分すぎるほどの恵みと愛と祝福を与えて下さっています。けれども私達は、神様からの祝福を受けて、満たされているにもかかわらず、あれも、これも、それもありません と、目に見えるもの、感じるものを、イスラエルの民と同じように、欲する気持が出てきて「不満・つぶやき」が生まれるのではないでしょうか。

*神様からの応答

 神様はモーセに、民の長老はじめリーダーになり得る人を70人選ぶように言われ、翌日、彼らが聖別して幕屋の周りに立った時、神様は雲の内にあって降り、モーセに授けられている霊の一部を取って、長老にも授けられました。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になりました。

 このような記述は、サムエル記上10章9-12節にも登場します。イスラエル王国の初代の王・サウルは、祭司であり預言者でもあるサムエルから聖別の油を注がれて、「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされた」と告げられました。そして、この後の出来事(預言者の一団に会い、サウル自身も預言する状態になる)を予告され、その予告は実現し、聖霊が降った時、彼らは預言状態になりました。(が、続くことはなく、サウルの場合、神様はサウルの心を新たにされた・・とあります。サムエル記上10:9 )。

*聖霊の働き

本日のコリント書12章では、聖霊の働きについて記されています。聖霊の賜物は、人々の意識を高め、心を強くし、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるため」(12:7)です。1節には著者パウロが「霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいて欲しい。」と告げ、神の霊によって語る人は「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と述べています(3節)。

神様から私達に与えられた霊は同じ霊であり、それぞれに与えられた霊の力により、私達はイエス様の身体の一部として働きます。

これらの働きによって教会全体の力や徳が高められていきます。霊の働きが、信じる者一人ひとりに現われる時、私達は、心の内で神様との関係を深め、それぞれが自分に与えられた場で働き、教会全体が良い方向へ進んで行くことが出来、神様の栄光を輝かせる結果となることをパウロは私達に伝えています。

*イエス様を信じた時に

旧約時代と違い、現代を生きる私達には、イエス様の十字架による死によって私達の罪が贖(あがな)われて、イエス様を信じたその時から、神様の霊が私達の心の中に与えられています。それゆえ私達は、神様の声をいつでも、どこででも、聞くことが出来ます。今週も神様との与えられた時を感謝しながら、イエス様と共に歩みを進めて参りましょう。

2022年7月24日の説教要旨  列王記上10:1-13・Ⅰテモテ3:14-16

「隠された真理」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

私たちにとって神様とはどのようなお方なのでしょうか。

神様は、遠くに感じられる時がある反面、すぐ近くにいて下さると感じる時もあるように思います。

昔、礼拝場所としての神殿がまだなかった時、ダビデの息子ソロモンは、ギデオンの地にある重要な礼拝場所であった高台に行って、千頭もの焼き尽くす献げものをささげました。これはソロモンの、神様に対する献身と感謝の表われと言えますが、この時のソロモンにとって、神様は、遠くにおられるような存在だったように思います。

何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(3:5)

ところがその夜、神様はソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい」と言われました。その言葉に対してソロモンは、次のように答えています。

わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、このしもべをお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。」 彼は、王として、日常の務めや礼拝に対する姿勢、王としての品性、民をまとめる能力が備わっていない不安を訴えたのでしょう。ソロモンは神様に、以下のように願い出たのです。

どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。

*主はソロモンのこの願いをお喜びになった。(同10節)

神様は、ソロモンが自分のために長寿や富を求めず、人々の訴えを正しく聞き分ける知恵を求めたことを喜ばれ、ソロモンに、知恵に満ちた賢明な心と、それに加えて、富と栄光、長寿をも恵みとしてお与えになる約束をされました。こうしてソロモンは、神様に出会い、神様が近くに、共におられる体験をしたのでした。そしてソロモンは、神様からいただく知恵によって正しい裁きを行い、人々は皆、王を畏れ敬うようになりました。

*シェバの女王の来訪

本日の10章では、ソロモン王の名声を聞き、難問でソロモンを試そうとやってきたシェバ(現在のイエメン)の女王が、香料や非常に多くの金や宝石をらくだに積んでエルサレムにやって来た出来事が記されています。女王は、用意してきたすべての質問にソロモンがすべて答えたその知恵や、彼の建てた宮殿を目の当たりにし、又、食卓の料理、家臣や給仕たち見て、息も止まるような思いであったこと、そして帰る時には、家臣たちが幸せであることや、ソロモンを王座に就かせた神様をほめたたえる言葉を残し、ソロモン王に多くの高価な品々を贈りました。

*神の家(=神の教会)でのあるべき生活

本日のテモテ書3章には教会の指導者や奉仕者たちの在り方について記されており、本日の箇所では「神の家」を次のように説明しています。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。

私達が毎週、礼拝で集う「神の教会」は、先ず「真理=イエス・キリストに於いて現わされた神様の啓示」を「柱とし、土台としている」神様の教会であり、この神様は今も生きて働かれている神様であり「死んだ偶像ではない」ことを伝えます。そして16節は、「キリスト賛歌」からの引用と言われていますが、「信心(信仰)の秘められた真理=神様への畏敬と、それにふさわし生活態度」は、神様を信じる者たちに力を与え、十字架の死と復活と昇天を通して義とされ、霊の領域に移されたイエス様の、地上における世界的な宣教と勝利が歌われています。

*わたしたち

神の家で、神様を信頼し、神様と関係を持つ私達は「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている(9節)」ことが求められています。ソロモンは願い通りに、知恵に満ちた賢明な心が与えられ、神様の栄光を現し、シェバの女王もソロモンを通して神様の大いなる恵みを見聞して、神をほめたたえ、ソロモンから豊かな贈り物を受けました。

その神様が今、私達を祝福するために、一つ所に集まり礼拝することを求めておられます。私達は、信仰の秘められた真理を知らされています。

神様への畏敬と、神様の恵みにふさわしい礼拝者でありたいと願います。

2022年7月17日の説教要旨  エレミヤ書23:23-32・ガラテヤ5:2-11

「自由に生きる」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

皆さんにとって、神様の言葉は、どのように聞こえますか。

本日のエレミヤ書の初めには、エレミヤに「主の言葉が臨んだ」と記されています(1:4)。エレミヤは、祭司であった父親が神様に仕える姿や、神様を第一として礼拝する日々の生活を見ることから、神様の声を身近に感じるという環境にあったのではないかと想像します。

万軍の主はこう言われる」(23:16)

神様からの呼びかけの声は、神様を信じる私たち誰にでも聞く機会が与えられています。神様の声は時に小さく、時には大きく、又、聞く前には何か温かさで包まれているような感じであるのか、逆に、雷鳴のような胸の高鳴りが沸き起こり、全身を震えさせるような力が近づいて来るようであるのか、その時、その時の違いはあっても、神様の現われには、大きな力強さを感じることがあるかと思います。エレミヤは、その神様の呼びかけの声に耳を傾けて、正しく人々に伝え、そして従い続けました。

本日のエレミヤ書では、神様は、地上の私達のそば近くにおられる神様であると同時に、天の御国から世界を見渡して、私達ひとり一人に語りかけ、全てを支配されておられる神であることが語られています(23:23-)。

*預言者と偽預言者

預言者は、神様から告げられた言葉を語る時、人々の生活に影響を与え、時には、その人の運命を左右する言葉も語らなければなりません。神様から遣わされて、真実を伝える伝達者としての役割は、私情を挟む(個人的な感情が入り込む)誘惑も退けなければなりません。

ところが、神様の言葉を取り継ぐ預言者の中には、正しく取り継がない偽預言者たちもいたのです(23:9~)。偽預言者達は「わたしは夢を見た」と言って勝手にその夢を自分で解き明かし、神の名を使って自分の考えを「主の託宣(たくせん)だ」と、言い放っていました。

「夢」は、もともと神様の意志を伝達する方法の一つでもあり、「あなたたちの間に預言者がいれば 主なるわたしは幻によって自らを示し 夢によって彼に語る」とあり(民数記12:6)ます。しかし同じ民数記でも「モーセとは口から口へ語り合う」と言われます(同8節)。エレミヤも、神様と直接的な関係にあったことが、エレミヤの告白に於いて見ることが出来ます。「主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしのこころの中 骨の中に閉じ込められて 火のよう燃え上がります。押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです・・。」(20:9)

偽預言者は、偽りと気まぐれでイスラエルの民を迷わせていたために、神様は怒りをもって、彼らに「立ち向かう」(30節~)と言われました。

*恵みの道と律法の道

 本日のガラテヤ書で、パウロはガラテヤの教会の人達が、神様を信じてイエス様の十字架による救いの恵みを受け入れ、御霊の注ぎも受けたにもかかわらず、割礼と律法遵守を要請するユダヤ人伝道者(パウロの反対者たち)の主張に耳を傾けて、割礼と律法遵守で信仰を完成させようとしていたことを警告しました。もし「割礼と律法」を守ることで「義」とされ、それが天国に入る道であるならば、イエス様の十字架は、何の意味もなくなり、イエス様が救い主であることさえ否定してしまう結果をもたらすからです。私達は、十字架による罪の赦しを信じる信仰によって「義」とされたのであり、「イエス様に結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(5:6)とのメッセージを聴きます。

*「わたしたちは、自由を得るために召し出された」(5:13)

私達は、救いによって与えられた自由を、「愛によって互いに仕え合う」形で用いることを教えられています(5:13)。偽預言者達も、パウロの反対者達も、神様の言葉でなく自分の言葉を付け加え、律法を強調しました。パウロは、「律法全体は、隣人を自分のように愛しなさいという一句によって全うされる。」(5:14)と語りました。このみ言葉が心の中に留まるように、神様の働きに励んで行きたいと願うものです。

2022年7月10日の説教要旨エステル記4:10-5:8・使徒言行録13:13-25

「御手の中に」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

エステル記は、ペルシャ帝国のクセルクセス王の治世 (BC486-465) に、捕囚以来、東部に残ったユダヤ人達がある危険にさらされた時、王妃エステルによってその危機から助け出されたことが記されています。

*モルデカイとエステル

 スサの町にモルデカイという名のユダヤ人が住んでいました。彼の伯父には一人娘がいましたが両親はすでになく、モルデカイが自分の娘として引き取り育てていました。彼女は美しく、やがて王妃エステルとなります。エステルは、モルデカイに命じられた通り、自分がユダヤ人であることを明かしませんでした。

*ハマンの策略

 一方、王宮では、大臣の中で最も高い地位についたハマンに対して、役人たちは、ひざまずいて敬礼するように命じられましたが、モルデカイは敬礼しませんでした。ハマンは自分にひざまずいて敬礼しないモルデカイに腹を立て、彼がユダヤ人であることを知り、彼一人だけでなく、国中のユダヤ人を皆、滅ぼそうと計画し、クセルクセス王を説得しました。その結果、王の名前でユダヤ人を絶滅させる勅書が出され、全国民に交付されましたので、ユダヤ人の間では苦悩に満ちた叫び声があがりました。

*モルデカイの伝言

モルデカイはこの計画を知ると、エステルに「王のもとに行き、自分の民族のために寛大な処置を求めて嘆願するように」と伝言しました。それに対してエステルは、「王の召しがないのに、王に近づく者は法によって死刑になること。但し、王が金の笏(しゃく)を差し伸べた時だけ死を免れること。自分は一か月も王からの召しがないこと」を、モルデカイに返事を送りました。モルデカイは再びエステルに伝言します。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時のためにこそ、あなたは王妃という特別の高い地位に就いたのではないか。」

 さらに、モルデカイは、「エステルがもし口を閉ざしているなら、ユダヤ人の救済は他の所から起こり、エステルの身内は滅ぼされることになるだろう」と伝えました。モルデカイは、この困難な出来事に対して、神様から助けの手が差し伸べられることを確信していたのです。

*エステルの決断

 エステルは、「スサのユダヤ人を集めて、自分の為に三日三晩、断食してほしい。自分も女官達と共に断食します。その後、法に反するけれども自分は王の前に出ます。死なねばならないのなら死ぬ覚悟です。」と伝えました。そして三日三晩の断食後、エステルが王の前に出た時、王は手にした金の笏を差し伸べました。エステルは王にすべてを告げ、王はハマンの策略を知り、ユダヤ人絶滅の勅令は取り消されたのでした。

*アンティオキアの会堂長の依頼に応えたパウロの説教

本日の使徒言行録は、伝道旅行中、「励ましのお言葉を下さい」との依頼に応えたパウロの説教が語られています。内容は神様によるイスラエル民族の選びと歩み、そして、神様はダビデとの約束に従って子孫から「救い主」を送って下さったこと、又、イエス様が来られる前にはバプテスマのヨハネが、イスラエルの民全体に「悔い改めのバプテスマ」を授けて、「わたしは、わたしの後から来られるお方(イエス様)の履物をお脱がせする値打ちもない」と証言したこと、神様は、旧約聖書の約束を成就されたことを語りました。25節以下では、「ところが人々は預言者達の言葉を理解せずイエス様を死刑で殺したこと、しかし神様はイエス様をよみがえらせて下さったこと、そしてイエス様による罪の赦しが告げ知らされ、信じる者は皆、義とされたこと」を語っています。

*わたしたち

神様を語る時、歴史を抜きにして語ることは出来ません。私達は生活の中で神様に声をかけられ、呼び止められ、イエス様に出会いました。私達はイスラエルの歴史と神様のみ業を通し、今も、このお方が変わらずに私達を導いておられること、又、神様との出会いの時には、他の方達とも出会う機会が与えられていることに感謝せずにはいられません。

6月12日・開設18周年記念感謝礼拝の説教要旨 創世記 2:10-17・Ⅱコリント書 5:16-21

神との和解」       加藤 秀久伝道師

*はじめに                                    

私達は、神様をどのような形で知ろうとしているのでしょうか。神様は私達に、「聖書」という、生きた神様の言葉を与えて下さいました。この神様の言葉は、私達に日々の生活の中で、力と励ましを与えて下さいます。

*「肉に従って知ろうとはしません」

パウロは、ある日突然、目には見えない神様の御子イエス様に出会い、神様を知り、神様を体験した人物の一人です。神様から呼び出され、その声に従いました。本日のⅡコリントの手紙5:16で、パウロは「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と言っています。「肉に従う」の、「肉」の原語では、人間的な見方や人間的な標準という意味になります。その見方で、神様や接する人達を見たり知ったとしても、それは人間の価値観や経験で見ることになり、本当の姿に出会うことは出来ません。

*「一人の方がすべての人のために死んで下さった」(14節)

「一人の方=イエス様」は、「私達すべての人間の罪の為に死んで下さった」以上は、「すべての人も死んだことになる」と、パウロは語ります。イエス様の愛がすべての人たちを包み、その愛が人々をとらえて離さず、イエス様はすべての人のために死んで下さった!このイエス様の死と共に、私達も又、生まれながらに与えられている肉の思い(=人間的な見方、人間的な照準で生きる)も死んだのです。そして死んだ私達はイエス様の復活と共に、イエス様を復活させられた神様の霊の力によって、新しく創造された者です。その目的は、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きること」(15節)にあり、今は神様の右におられて聖霊を送って下さるイエス様と共に、私達は日々生き、生かされていることを語ります。

*「新しく創造された者」(17節)

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」、さらに、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。

そして更に、「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私達をご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私達にお授けになりました(18節)。」と語っています。「生じた」は、創世記の天地創造の箇所で、神様が命じて「起る、そのようになる」出来事と同じです。人は「神にかたどって=似せて創造された(1:27)」にもかかわらず蛇の誘惑に会い、神様に背(そむ)き、人間が得ることになった知識、知恵、善悪などは神様から身を隠すという行動を起こさせ、悪がはびこる世界に入る結果を作ってしまいました。その世界に身を置く私達人間は、知らず知らずの内に、背後で操つる悪魔(サタン)の働きにより影響を受けてきました。

しかし私達は、キリストと出会い、結ばれた時、今までの古い人間的な考えや思い、価値観はすべて取り払われ、新しい人が私の中で存在し始めたことが述べられます。私達が主に出会う時、私達は神様によってすべてが新しく、まるで「違う自分と入れ替わった」ように軽く晴れやかになり、生まれ変わった気持になることをここで伝えています。

私達の罪のために死なれたイエス様は、その死を通して、私達を罪で滅んで行く者から新しく生きる者へと変えて下さった、そこには本当の生きた神様に出会い、イエス様を知る特権が与えられているのです。

*二つの世界で

私達が生きる世界に目を向ける時、一方では、素晴らしい神様が造られた世界を見ます。しかし他方で、人間の間違った解釈、知識、悪魔(サタン)の働きにより、あるべき姿から違う方向へ向かっているのも見ます。その二つの世界の中で、神様はご計画を少しずつ実行していることも事実です。それは主イエス・キリストの誕生・復活・昇天と、聖霊を送って下さっている出来事をはじめとして、この伝道所の18年間の歩みの中での出来事です。それはまるで天地創造の時と同じように山田の地域に伝道所を建てて良しとされました。それは「神様との和解のために奉仕する任務」のため、神様と出会える場所として、又、人々の安ら ぎの場所として用いられていくためです。共に祈ってまいりましょう。

2022年5月8日の説教要旨 レビ記19:9-18・Ⅰヨハネ手紙4:13-21

主の戒め」       加藤 秀久 伝道師

*はじめに

レビ記は17章始めに、「神聖法集(17-26章)」との見出しがあります。

その目的は19:2に「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」と述べられています。つまり、イスラエルの民が、聖なるお方である父なる神の、主の民となり、聖なる者、聖い者となるための掟が定められているからでしょう。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(19:18)

 この隣人愛の戒めで「自分自身を」と訳されている元の言葉では「あなたのように」と訳される言葉です。これら二つの訳は、どちらも同じような意味合いになるかと思いますが、「あなたのように」と訳すと、「あなたと同じ立場にある『人』として愛する」という、微妙な意味になります。

このことから、元の言葉で伝えようとしていることは、「あなたの隣人に対してあなたのように愛しなさい。」「あなたと同じような、もう一人、又は、複数のあなたがいると思って愛しなさい」と告げていると思います。

そして19章では、モーセが神様から与えられた十戒を通して聖なる者となることと、日々の歩みの中で具体的な戒めを記すことで、私達の生活の基盤としてこの戒めを守り、行うことを、民にはっきりと示しています。

*十戒(じっかい)

➀あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

②あなたはいかなる像も造ってはならない。

③あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

④安息日を心に留め、これを聖別せよ。

⑤あなたの父母を敬(うやま)え。

⑥殺してはならない。

⑦姦淫(かんいん)してはならない。

⑧盗んではならない。

⑨隣人に関して偽証(ぎしょう)してはならない。

⑩隣人の家を欲してはならない。

聖なる者となりなさい

元の言葉では、(わたし、まことの神が聖いのだから)「聖なる者となるであろう。」となります。神様がイスラエルの人達に、「父なる神である わたしが聖(きよ)いのだから、あなたもわたしを信じて従い続けることによって、聖い者となるであろう。」と伝えているのです。

これは、今現在もこれからも、将来必ず、あなたを聖い者としますよ」と、預言されている言葉なのです。

私達は果たして聖なる者へと変えられることができるのでしょうか。私達は、私達の力だけでは聖なる者になれないし実現は不可能でしょう。

*神様はご自分の霊を分け与えられた(1ヨハネの手紙 4:13)

 そこで神様は、私達の生活の場へとイエス様を遣わして下さり、イエス様は人として歩んで下さいました。最後は十字架刑で亡くなられましたが、これは神様のご計画によるものでした。イエス様の死は、私達人間の罪を取り除く贖(あがな)いの死(罪の赦しを与えるための、身代わりの死)であり、それによって私達は、神の御国に入る権利を与えられました。このイエス様の死がなければ、私達は神様の霊を受けることは出来ず、聖い者になる権利もありませんでした。イエス様が復活されて天に昇られた後、人々が心を一つにして祈っている時、神様の霊が降り、人々の上に留まることを通して、私達は神様を身近に感じ、神様の霊が私達の心の内に宿っていることを感じることができるようになりました。

この霊によって、私達は神様との関係作りを持ち、神様と個人的な交わり、関係性、信頼関係が深まれば深まるほど、神様からの知恵・知識や神様の御心・ご計画も知ることができると今日の聖書は伝えています。

*わたしたち

 本日のヨハネの手紙の15節では、「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」とあります。ですから私達は、聖なる神様を信じて従い続けることによって、私達の内にとどまって下さる神様からの聖霊の導きと助けのもとで「聖い者」へと変えられていくのです。

2022年4月24日の説教要旨 詩編27編・ヨハネ15:1-10

主の内にとどまる」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

一つの事を主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り(住んで・口語訳)主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを

 本日の詩編27編は、神様を信じる者たちが心を静めて、力強い主との深い関係を思い描き、主の素晴らしさに思いを巡らし、主の家に住まわせてほしいと祈り、心を神様に留めることで、神様と会話をする心での詩になっていると思います。又、この詩は、私たちが自分自身を見つめ直し、神様に造られた自分という個人が、神様との関係作りの中にあって、主の内に留まる、主の家に住むことができる、主の考えていることや主の語りかけを理解することができる場所(私と神様との隠れた祈りの場所・拠り所)を持っているかどうかを、私達に考えさせてくれる信仰告白の詩です。

主はわたしの光、わたしの救い」(1節)

この「光」とは、創世記1章の、天地創造の第一日目に、たった一つの出来事として、混沌とした闇の中から「光あれ」と、光とやみを区別され、光だけを良しとされた その光であり、私たち(神様に造られ、神様に愛された者たち)に照らされる光、救いの光です。

この詩編の作者ダビデは、神様に彼の思いを集中させ、沈黙の世界の中に神様との交わりの時を持ちたい、その場に、その空間に、留まりたいと願っていたのです。私達もダビデのように、この光、神様から照らされる場所、その場所を個人的に落ち着く場所、神様に出会い、神様と会話をする所を探し求める必要があります。そしてその主の霊に満たされることによって、主を畏れ、敬い、主の家、主の宮に住みたい、留まりたい、神様が好きで好きでたまらなくなるのです。皆さまは、神様に思いを寄せて特別に出会える場所、その隠れ家はどこにあるのでしょうか。ダビデはまだ若く、羊の世話をしていた頃、神様に選び出されて、羊に対する羊飼いのような恵みと憐れみを豊かに受けて、主の素晴らしさ、主の麗しさを体験しました。神様は、私達をも人々の中から選び出し、神様の霊を注ぎ、この世界に存在する意味を教えて下さっています

*今年度の仙台南伝道所の御言葉 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 本日の、ヨハネによる福音書15章1-10節には、「つながる」の言葉が10回も出てきます。「つながる」には、他に「とどまる、滞在する,泊まる,居続ける,住み着く,住む」という意味があります。ここには、詩編27編とのカギとなる言葉が使われています。

 イエス様は私たちに、「主の内に留まりなさい、居続けなさい、住み着きなさい、と、ここでも伝えているのです。

ダビデは、主の霊が存在する所に、神様との関係作りが作れる所に、住み続けることを望みました。そしてヨハネ福音書で、イエス様は、イエス様に繋がっていなければ、私たちは良い実を結ぶことはできないし、何もすることが出来ないと、語られています。

*わたしたち

 私達は、「イエス様を信じます」と告白し、受け入れた時に、目には見えない油という主の霊(聖霊)が注がれ、私達の内に神様というお方が住まわれました(「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(Ⅱコリ6:16)。

 このようにして、私たちがこのお方の名前を呼ぶ時に、神様は私達の内に現れて下さり、神様との関係作りが始まるのです。それは、私たちがどこかに、神様との関係作りをする特別な建物や部屋を作らなければならないということではありません。私たちが神様に一対一で祈ることのできる環境、空間があればいいのです。ただ、それだけのことです。

 もしくは、私たちが、二人でも三人でも、思いを寄せることのできる、祈りあえる仲間がいれば良いのです。私達が神様に思いを寄せることのできる仲間たちと共に、その場所で、主の御名を呼び、静まり、祈る。その中に神様の現われ、神様の存在を感じ取る空間ができるのです。

今週も、主の霊に満たされて歩んで行けますようにお祈り致します。

2022年4月17日の説教要旨 詩編114:1-8・ヨハネ20:1-18

復 活 の 日」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

イースター、おめでとうございます。イースター(復活祭)は、イエス様が十字架にかかり、死なれ、復活した日をお祝いする日です。

週の初めの日、マグダラのマリアは、朝早く、まだ暗い内にイエス様の身体が納められているお墓に行きました。

「週の初めの日」とは、ユダヤ教では安息日が金曜の日没から土曜の日没までで、イエス様が亡くなられたのは安息日の準備の日(金曜日)でした。「イエスは、ご自分が必ず多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子達に打ち明け始められた。」(マタイ16:21)とありますので、三日目は日曜日にあたります。

*週の初めの日

「週の初め」の「初め」という言葉には、ヘブライ語で「第一、一番目」という意味だけでなく「唯一、たった一つ」という意味もあります。

創世記1章1節~5節に、初めに神様は天地を創造され、地は混沌(こんとん)としていて闇(やみ)が覆っていましたが、神様は、「光あれ」と言われて、光を見て「良し」とされました。混沌としていた闇の中から、光とやみを区別されたのです。神様は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ、夕べがあり、朝がありました。それが第一の日の出来事、唯一の出来事として記されています。

ここで神様は、光は救いであること、闇は滅びであることを示そうとしたのかもしれません。神様は、神様のことを信じる者と信じない者が混ざり合って混沌としている、この世界・社会を、光と闇、救いと滅びで、はっきりと分けようとしているのだと思います。

神様は、この世界を創造された時から、そして、このお方を信じた時から、受け入れた時から、私達は 神様の照らす光の道を歩くことができるのです。神様は全てのことに計画を立て、神様の「時」に、様々な出来事を、私達の目に見えるように、分かるような形で行なって下さるのです。

*墓の入り口には大きな石を転がしておいた(マタイ27:60)

 イエス様が十字架につけられた所には園があり、そこにはまだ誰も、葬られたことのない新しいお墓があり(ヨハネ19:41)、イエス様の遺体はそこに納められました。マタイ福音書には、アリマタヤ出身のヨセフが、イエス様の遺体を受け取り、きれいな亜麻布に包んで、岩に掘った自分の新しいお墓に納めて、お墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去ったと報告されています。

マグダラのマリアが訪れた時には大きな石は取りのけてありました。朝早く、まだ暗かったのでマリアにとって何とも不思議な光景だったと思います。「お墓」の原語には、「回復する国の計画」・「国王の帰還」との意味があります。イエス様のよみがえり、復活すべき国王が帰還したとの、神様の御計画の実現を伝えています。

地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」(詩編114:7)

 さらに注目する点は、お墓の石が取り除かれていたことです。これは本日の詩編「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」とあり、「身もだえせよ」の原語では、ねじまげるとか、ゆすぶる、苦しめるという意味があり、マタイ福音書28:2には、この時、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」と記されています。神様は、神様のご計画を実行する時に、大地を揺り動かしてまでも、(大地を身もだえさせてでも)、その力を私達人間に現わし、体験させるようになさることが分かります。

*復活の日

 復活の日は、第一日目、週の初めの日に来なくてはなりません。

なぜなら、全ての出来事の中には神様の計画された日があるからです。それらは、私達にとって、唯一の日、たった一つの日になるからです。そして日曜日が、復活したイエス様の日、初めの日の出来事として私達が覚え、集まり、祈る。このことを通して、私達、神様を信じる者達が一週間、神様に導かれ、守られ、神様と共に生きる喜びを知り、イエス様が、私達一人ひとりの心の内におられることを知っていくのです。

2022年4月10日の説教要旨 ゼカリヤ書9:9-10・マルコ 11:1-11

「ホ サ ナ」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日は、「しゅろの日曜日」です。

イエス様が子ろばに乗って、エルサレムの町に入られた時、多くの人々は、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」(マルコ11:9) と叫びました。 「ホサナ」とは、ヘブライ語で「おお(どうぞ)お救い下さいいま救って下さい」という意味があります。

私達は日常生活の中で様々な出来事が起こります。中でも問題や困難に出会う時、他の人に頼ることもできず、友人に頼ることが出来たとしても心の底から真実を話せないまま解決しきれないものが残ってしまうことはないでしょうか。しかし私の全てを信頼して委ね、任せることのできる「イエス様」というお方に出会ったら、私達もエルサレムの人々と同じように「ホサナ!いま救って下さい、助けてください」と叫ぶと思います。

*子ろば

 イエス様と弟子達の一行がエルサレムの近くまで来た時、イエス様は、二人の弟子に「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」と、村へ使いに出されました。ここで注目する点は、「まだだれも乗ったことのない子ろば」です。当時のパレスチナ地方ではロバは重要な家畜で、荷物運搬や乗用、農業に用いられていました。「今まで誰も乗ったことがない子ろば」とは、聖なるものに用いられる意味があると思います。さらに本日のゼカリヤ書には、「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(9:9)とあり、「王が来る。・・雌ろばの子である ろばに乗って」は、救い主イエス様が王としてエルサレムに入ってくる 預言と聞くことが出来ます。

なぜ、そんなことをするのか

 イエス様から「つながれている ろばをほどいて連れて来るように」と使いに出された二人の弟子は、村に入るとすぐの表通りの戸口に、子ろばのつないであるのを見つけました。それをほどくと、居合わせた人々が「ほどいてどうするのか」と聞きました。二人の弟子はイエス様の言われた通り「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と話すと許してくれました。このようにして二人の弟子は、イエス様の言われた通りに行動して、神様の不思議な御業、イエス様の言われた事が現実になったことを体験したのでした。

*わたしたち

 私達が何か問題にぶつかり、現状に本当に困り、どうすることもできない時に神様に祈り、神様の導き、神様の語られる声に従って行動した時に、神様が私達をその問題から助け出して下さったこと、不思議な存在の働きがあったことを体験したことはありませんか。 

私は、家業を継いだ後、その仕事を辞めた時に、弟が中古の家を買い、リフォームの必要がありましたが、十分な蓄えがなく、自分達ですべてやることを決めて近くのホームセンターに材料を買いに行きました。

たまたま訪れたホームセンターでしたが、そこにはアウトレット品の売り場があり材料が格安で販売されて、ほとんどを格安で買った後も時には不思議な人とのつながりによって材料をタダで譲りうけたこともありました。さらに神様はリフォーム終了まで改築のあり方のアドバイスを「あぁしたら良い、こうしたらいいよ」と語って下さっているように感じ、その通り作業を続け、考えていた以上のリフォームとなりました。

*心の中に住まわれる神様

イエス様の言葉通りに行動した弟子達が不思議なみ業を体験したように、神様は信じる者達の心の中におられ、慰め、励ましの言葉を下さいます。私達もイエス様を出迎えた人々と同じように「ホサナ。

主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」(ルカ19:38)と、讃美いたしましょう!

2022年3月20日の説教要旨 イザヤ書48:・1-8、Ⅱテモテ1:8-14

信頼をおく」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

イザヤ書は大きく三つに分けられ、それぞれ書かれた年代も著者も異なり、本日の48章の著者は、仮の名前で第二イザヤと呼ばれています。

注 (第一イザヤ:1-39章、第二イザヤ:40-55章、第三イザヤ:56-66章)。

B.C.586年、南王国ユダはバビロニア帝国によって滅ぼされ、民の多くは首都バビロンの郊外に連行されていきました。そしてペルシア王キュロスによって解放されるまでの約半世紀を、人々は囚われの民としての生活を送っていたのでした。48章は、バビロン捕囚の末期からエルサレムへ帰還する頃まで活動した第二イザヤが、囚われの民として生きる人々に語った主の言葉です。前半では神様の叱責と警告、後半は祖国イスラエル・神の住む都エルサレムに帰ることができる(解放の時が近づいている)という希望と、第二の出エジプトのように、神様が守り導いて下さる救いを知らせる励ましの言葉が語られています。

ヤコブの家よ」(1節)

神様は「ヤコブの家よ、」と呼びかけられます。これは「族長ヤコブ」の12人の息子達が各々の部族の祖となったことからイスラエルの民全体をさします。呼びかけに続き「まこともなく、恵みの業をすることもないのに 主の名をもって誓い イスラエルの神の名を唱える者よ」と、人々が神様に対して、偽りのない真実な、正しい態度でかかわることをしてこなかった(正しい関係作りをしてこなかった)と指摘し、彼らは口先だけ「主に信頼している」と言い、主の名を呼んだり、誓いを立てたり、祈ったり、と見せかけだけの信仰へと変わってしまい、心は固くなり、素直に神様の言葉に耳を傾けず、他人のことを思いやることなく自己中心主義者になり、不信仰の民になってしまったと言われます。けれども神様は、神様の御栄光が汚されないために「怒りを抑え、耐えて、お前を滅ぼさないようにし(9節)」、「あなたを導いて道を行かせる。わたしの戒めに耳を傾けるなら、平和は大河のように恵みは海の波のようになる(18節)」と約束されました。

*わたしたちの時代

 ヘブライ書には「神はかつて、預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました(1:1-2」と記されています。

 かつて神様が第二イザヤを通して民に語られたように、私達の時代においても、御子イエス様を遣わして語られました。語られた言葉が必ず起こる過程においては、私達の、どこか心の奥に潜めている疑いや、隠した行い、根強い不信仰などが少しずつ明らかにされていきます。

自分が信頼している方を知る」(12節)

本日のⅡテモテへの手紙でパウロは、主を証しすることや主の囚人であることを恥じてはいないし、あなたも恥じてはならないとテモテに告げます。なぜならパウロは、自分が信頼している方を知っているからだと言います。神様を信じる私達がパウロと同じ立場に立つことは、イエス様に対して信仰を告白する者の一人になるということです。パウロと共に苦しむことは、人々に良き知らせである「福音」を伝えるための苦しみであり、たとえどんな苦しみであっても、神様の力を受けてしっかりと立ち向かう“神様の言葉に立つ”能力が与えられるということです。 

9-10節には、「神がわたし達を救い、聖なる招きによって呼び出して下さったのは、わたし達の行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。」とあります。神様は聖なる呼びかけをもって私達に救いを与えて下さいました。その救いが、もし「行い」から来るならば、その救いに与かった人は、何か問題が起きた時に心が揺れ動かされて離れてしまうことになります。しかし救いが,神様の恵みによるものなら、それは永遠に変わることはありません。確かにイエス様は私達の罪のために十字架にかかり、死なれ、三日目に復活され、天に昇られましたが、聖霊を送って下さり、今もこうして神様を信じる私達の心の中におられます。神様の呼びかけと恵みは、ただ主イエス・キリストを通してのみ与えられるものです。救いはこの世に生きるすべての者に向けられている神様の恵みであることを忘れず、今週も歩んでまいりましょう。